山内 明(、1921年〈大正10年〉7月11日[5][6][7][注釈 2] - 1993年〈平成5年〉10月29日[5][7])は、日本の俳優。早稲田大学文学部卒業[2][4]。
概要 やまのうち あきら 山内 明, 生年月日 ...
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山野一郎の子として東京市麻布区[注釈 1]に誕生[5][2]。
1940年[4]、早稲田大学演劇研究会で演劇集団「若い仲間」を結成[6]。
1942年、松竹に入社[5][2]。映画『鳥居強右衛門』でデビュー[2][6]。
1943年に『海軍』に主演し、人気を得る[2]。同年10月に召集を受け、満洲に渡り、中国へ転戦[5]。
1945年5月、日本に帰国[5]。
1946年、松竹京都撮影所に入社[5]。
1947年、松竹大船撮影所に移る[5]。
1950年、宇野重吉らとともに劇団民藝を創立。
1973年、民藝を退団[5]。
1975年、演劇集団「どらまん・はっと」を結成[5]。
『病院で死ぬということ』が遺作となった。1993年10月29日、死去。72歳没。
映画
- 鳥居強右衛門(1942年、松竹)[2]
- 海軍(1943年、松竹) - 谷真人
- 女性航路(1944年、松竹)
- 粋な風来坊(1946年、松竹京都) - 山本清太郎
- 処女は真珠の如く(1947年、松竹大船) - 哲夫
- 若き日の血は燃えて(1947年、松竹大船) - 南
- たそがれの密会(1948年、松竹大船) - 野中泰介
- 銀座新地図(1948年、松竹大船) - 伸吉
- 限りなき情熱(1951年、東映東京) - 中島清七
- 長崎の歌は忘れじ(1952年、大映東京) - 佐伯道信
- 浅草四人姉妹(1952年、新東宝)- 外科医・田中
- 原爆の子(1952年、近代映画協会=民芸)
- モンテンルパの夜は更けて(1952年、新東宝) - 井野圭介
- 嫁ぐ今宵に(1953年、新映プロ) - 長谷川信夫
- 縮図(1953年、近代映画協会) - 倉持
- 悲恋椿(1953年、大映京都) - 杉浦稔
- 夜明け前(1953年、新東宝) - 宗太
- 女の一生(1953年、新東宝) - 山崎真太郎
- 泥だらけの青春(1954年、日活) - 里村東介
- 忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1954年、松竹) - 片岡源五右衛門
- 生きとし生けるもの(1955年、日活) - 曽根夏樹
- 四人の誓い(1956年、シネマプロデュース・サークル) - 岡部
- 夜あけ朝あけ(1956年、民芸) - 中杉万作
- 顔(1957年、松竹) - 飯島哲次
- 体の中を風が吹く(1957年、松竹) - 立田数馬
- 侍ニッポン(1957年、松竹) - 松平左兵衛督
- 朱の花粉(1960年、松竹大船) - 浜名準吉
- 海を渡る波止場の風(1960年、日活) - 塚越大作
- 豚と軍艦(1961年、日活) - 崎山
- 人間の條件 第五部・第六部(1961年、松竹) - 吉良上等兵
- 銀座旋風児 嵐が俺を呼んでいる(1961年、日活) - 中村捜査課長
- スパイ・ゾルゲ / 真珠湾前夜(1961年、日本(松竹)&フランス合作) - 尾崎秀美
- 風の視線(1963年、松竹) - 竜崎重隆
- 俺の背中に陽が当る(1963年、日活)
- 花と怒涛 (1964年、日活)
- 駆逐艦雪風(1964年、佐野芸術プロ/松竹)
- 刺青一代(1965年、日活) - 木下勇造
- 愛の渇き(1967年、日活) - 謙輔
- 雌が雄を喰い殺す かまきり (1967年、松竹)
- わが命の唄 艶歌(1968年)
- 黒部の太陽(1968年、日活=三船プロ=石原プロ) - 塚本
- 大幹部 無頼(1968年、日活) - 和泉竜作
- ある少女の告白 禁断の果実(1968年、日活) - 北沢雅樹
- 人斬り(1969年、大映=勝プロ) - 勝海舟
- 戦争と人間 第一部・第二部(1970年 - 1971年、日活) - 石原莞爾
- 喧嘩屋一代 どでかい奴(1970年、大映京都) - 関口哲夫
- 激動の昭和史 沖縄決戦(1971年、東宝) - 宮崎中将[8]
- ゴジラ対ヘドラ(1971年、東宝) - 矢野徹[2][3][7]
- 子連れ狼 冥府魔道(1973年、東宝) - 心の字洗蔵
- わが道(1974年、近代映画協会) - 海名
- 新幹線大爆破(1975年、東映東京) - 官房長官
- 死の棘(1990年、松竹)
- 病院で死ぬということ(1993年) - 川村健二
出典
「新劇俳優名鑑」『新劇便覧』テアトロ、1965年、326頁。