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日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者 (1932-2016) ウィキペディアから
冨田 勲(とみた いさお、1932年〈昭和7年〉4月22日[1][2] - 2016年〈平成28年〉5月5日[1])は、日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー・アーティスト(シンセサイザー音楽作家、シンセサイザー奏者)。
1950年代、慶應義塾大学文学部在学中に作曲家として活動を始め、NHKや民放のラジオ番組、テレビ番組、映画、虫プロダクション関連のアニメーション等々、映像作品の音楽を数多く担当した。これらの作品は後年のシンセサイザー・サウンドとの連続性は少なく、むしろ親しみやすいオリジナルメロディ、時にジャズ調も交えた華麗なオーケストレーションなどで高く評価された。現在も多くの作品がCD等で愛聴されている。#主な作品を参照。
やがて古典的な「アコースティック楽器のオーケストラ」の音に飽きたらなくなり、当時新たに登場してきた電子機器と古典的楽器の音を融合させるなど、様々な音楽の可能性を追求するようになった。1969年に電子楽器モーグ・シンセサイザーに出会ったことを転機に、以降は古典的名曲を現代的な解釈を加えて編曲し、自宅スタジオでシンセサイザーを演奏・多重録音することが活動の中心となる。1974年発表のアルバム『月の光』がビルボード・クラシカルチャートで2位を記録し、続く『展覧会の絵』が同チャート1位となり世界的に名が知られた[注 1]。#ディスコグラフィー、#ノミネートおよび受賞・栄典を参照。
1980 - 1990年代は、シンセサイザー音楽のスタジオ内での制作やアルバム発表にとどまらず、「サウンドクラウド(音の雲)」と銘打って、屋外で大観衆に向かって立体的に聞かせる壮大なライブ・イベントをヨーロッパ、米国、日本、オーストラリアなどで開催した。#コンサート/イベントを参照。
戦国時代の武将の柴田勝家の子孫は、江戸幕府に旗本として仕えた。三河国本宿にあった柴田氏の領地の代官を代々務めたのが、冨田家であった。明治維新後に一旦家が傾いたが、家業を医者に転換し回復した。
東京府豊多摩郡(現:東京都杉並区)で生誕した[3][2]。祖父は1906年(明治36年)に愛知県額田郡本宿村で病院を開業した冨田丈次郎[4][5]であった。勲の父は2代目院長の冨田清、弟は3代目院長の冨田稔(医学博士、慶應義塾大学客員教授)[注 2]である。
父の清は当時紡績会社(鐘紡)の嘱託医を勤めており、そのため東京府で生まれた勲は4歳から父の転勤に伴い中華民国青島、山口県防府市、中華民国北京で育った[3][2]。この時期に父に連れられて天壇公園に行き「回音壁」の音を聞いたことが、後に音楽家になる原点となった[6][2]。
1939年(昭和14年)に帰国し、父親の故郷の本宿村にある実家の旧代官屋敷[9]に居住して[2]、本宿村立本宿尋常小学校に入学した。竹を使って手作りの笛を作り、授業で覚えさせられたモールス信号を吹いて遊んだ[10]。戦時下で灯火管制された田舎で見上げていた星空、この頃読んだ『銀河鉄道の夜』などが、その後の天文・宇宙への憧れに繋がったとされる。また、終戦間際に自作でラジオを作ったが、そこから流れてきたジャズやクラシックなどの未だ知らぬ音楽が、勲の音楽への興味を一層駆り立てた。またこの頃、アメリカ軍の無差別都市空襲により近隣に相当な被害が出ており、さらに1945年1月13日に三河地震が発生し、勲の住んでいた三河地域は大きな被害を受けた。多数の犠牲者が出たことに勲は強い衝撃を受け、家業の医者を継ぐべきか、自分はどう生きるべきか、を真摯に考えたとされる[要出典]。
1945年(昭和20年)に愛知県岡崎中学校へ入学した。戦争末期は男川地区の軍需工場に学徒動員で駆り出された[11]。1948年(昭和23年)に愛知県立岡崎高等学校へ入学した[12][2]。
岡崎高校2年生の1949年(昭和24年)、両親の命により慶應義塾高等学校の編入試験を受け合格し上京した[2]。慶應高校時代は進駐軍のラジオ放送であったWVTR東京の放送を夢中になって聴いていたという[12]。作曲家小森昭宏と同期。作曲は当初、全くの独学ではあったが、平尾貴四男、小船幸次郎にも師事[2]。作曲家の小林亜星、フルート演奏家の峰岸壮一も高校で同じクラス、作曲家の林光は隣りのクラスであった[13]。高校時代既に、のちに歌手・女優となった本間千代子も所属していた「みすず児童合唱団」で指導もしていた[注 3]。
慶應義塾大学文学部に進学し、美学美術史を専攻した。その傍らで弘田龍太郎について音楽理論を学ぶ。大学2年で、朝日新聞社主催、全日本合唱連盟のコンクールの課題曲に応募した作品、合唱曲「風車(ふうしゃ)」が1位となった[2]。これにより作曲家への道を歩む決意を固め、在学中からNHKの音楽番組の仕事を始め、作曲活動に入った[2]。大学在学中から既にひばり児童合唱団でも演奏、指導、作曲などをしていた[14][注 4]。
1955年(昭和30年)、慶應義塾大学文学部を卒業した。
1956年メルボルンオリンピックに参加した日本女子体操選手のための伴奏音楽の作曲や、日本コロムビアでの学校教材用のレコード制作、森永製菓などコマーシャル音楽の編曲を手掛け、プロの音楽家として活動を始めた。NHKのラジオ番組『立体音楽堂』や、NHKのテレビ番組『新日本紀行』、『きょうの料理』などのテーマ音楽の作曲、NHK大河ドラマ(池辺晋一郎と並んで現在最多の5作品を担当)の音楽の作曲、東映動画の劇場用作品、手塚治虫原作のTVアニメ『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』、『どろろ』、円谷プロダクションや東映の特撮番組など、テレビ番組・ラジオ番組・映画・アニメ・ドキュメンタリー・イベント・舞台・学校教材・コマーシャルソングなど、多くの仕事を並行して進め膨大な数の作品を世に送り出した[注 5]。
1969年(昭和44年)に、大阪万博で東芝IHIパビリオンの音楽を録音するため、大阪に3か月間滞在した。訪れた輸入レコード店で、モーグ・シンセサイザー (MOOG III-C) を全面的に用いて作成されたウォルター・カーロス(現在はウェンディ・カーロス)の『スウィッチト・オン・バッハ (Switched-On Bach)』と出会った。「このアルバムは、せっかくモーグシンセサイザーを使っていながら音色に趣向をこらしていない」というのが正直な感想であったが、シンセサイザーこそ求めていたものだと直感した[15]。
1971年(昭和46年)秋頃、モジュラー式のモーグ・シンセサイザー(モーグIII-P 画像)を日本で初めて個人輸入した。非常に高額な楽器であり、金銭面で苦労した。
当時は日本でシンセサイザーがほとんど認知されておらず、楽器として輸入を目論んだが、税関から軍事機器のアナログコンピュータそのものであろうと疑われて「精密機器」として扱われそうになり[要出典][16]、楽器であることの証明を求められた。発送元へシンセサイザー演奏写真の送付を依頼するも到着まで相当の日数を費やし、税関で1か月以上保税され[17]、キース・エマーソンの演奏写真を税関へ提出した。
モーグには説明書が付属していなかったので使い方が全く分からずに苦戦し、当初は「高いだけの鉄くずを買ってしまった」と後悔した[18]。その後、自宅にマルチトラックレコーダーも備える「電子音楽スタジオ」を構築し、電子音による管弦楽曲の再現を試行錯誤しながら数々の作品を作曲・編曲した。この時期から映像音楽作品にもシンセサウンドを多く用い始めた。
シンセサイザーを用いた習作として、TBSブリタニカ発行の世界子供百科付録の2枚組ピクチャーLPアルバム『音楽ってたのしいな』(1972年)の中で発表した「銀河鉄道の夜」が上げられる。「銀河鉄道の夜」はシンセサイザーを入手してから3か月で製作されたものであるという。1972年にMOOG IIIを使用した『スイッチト・オン・ヒット&ロック』がCBSソニーからSQ-4方式4chステレオ作品として既に出ていた。
シンセサイザーの導入から1年4か月を費やし[注 6]、シンセサイザー音楽作品として『月の光』のマスターテープを制作。
当時このアルバムを日本の各レコード会社に持ち込んだところ、「クラシックでもポピュラーミュージックでもなく、レコード店の棚に置く場所がない」などの営業的な理由ですべて断られたとされる。そののち当時の日本RCA東京出張所長(後にワーナーパイオニアレコードの社長)山本徳源に頼んで米国RCAのニューヨーク本社にテレックスを打ってもらったところ、直ちに「会おう」という回答を貰った。ハンス・ウールマンによるシンセサイザー音楽作品『革命のエチュード』などをリリースした経験があったRCAレコードに持ち込み、レコード発売の契約締結に成功。
1974年4月、アルバム『Snowflakes Are Dancing』がアメリカで発売[19][2]。1975年1月18日付けのビルボード全米クラシカル・チャートで第2位にランキングされた。日本ではジャケットを替え、『月の光』のタイトルで1974年8月25日に発売された[20][2]。
1975年3月開催の第17回グラミー賞で日本人として初めてノミネートされた[注 7]。NHKなど国内のマスコミも報じ、米国RCAレーベルのレコードが、『月の光 - ドビッシーによるメルヘンの世界』として日本へ逆輸入されるなど、作品が知られるようになった。NARM(National Association Of Record Merchandiserers 全米レコード販売者協会)の1974年最優秀クラシカル・レコードに選ばれた[22]。
1975年2月発表の『展覧会の絵』[23] は、1975年8月16日付けのビルボード・キャッシュボックスの全米クラシックチャートの第1位を獲得し、1975年NARM同部門最優秀レコード2年連続受賞、1975年度日本レコード大賞・企画賞を受賞した。
同年9月発表の『火の鳥』[24] は1976年3月20日付けのビルボード全米クラシックチャート第5位を記録した。
1976年12月20日発表の『惑星』[25] では国産シンセサイザーのローランド・System700を使用し[26]、1978年2月19日付けのビルボード全米クラシック部門で第1位にランキングされた[27]。『バミューダ・トライアングル』では発売翌年のグラミー賞で “Best Engineered Recording” に2回目のノミネートを受けた。1983年のアルバム『大峡谷』では3回目のグラミー賞のノミネートを受けた。
この後も、1984年発表の『ドーン・コーラス』まで通算9作のスタジオ制作作品および、1984年と1986年それぞれの大規模な野外コンサートを収録した2作のライブ作品、またそれらの音源を基にしたコンピレーション作品がRCAから国際的にリリースされ、いずれも世界的なヒットを記録している。
1979年に米コンテンポラリー・キーボード誌の読者投票により “ベスト・スタジオ・シンセシスト” に選ばれた。冨田のシンセサイザー作品群は、全ての音色作りはもちろん、全パートの演奏、録音、編集までを含めて冨田自身の一人の手による制作であり、現在のパーソナルスタジオによる音楽制作の先駆けであったといえる。
ここで教えを受けながら助手として働いた松武秀樹は、後にイエロー・マジック・オーケストラのシンセサイザー・マニピュレーターとして役割に就き、「4人目のYMO」と呼ばれた。海外では、スティービー・ワンダーが、来日した際に最も尊敬している音楽家として冨田の名前を挙げている。後に長良川のサウンドクラウドに登場している。マイケル・ジャクソンも、1987年9月24日に来日の際に冨田のスタジオを訪問した[28]。『惑星』の立体音響に深く感銘したフランシス・フォード・コッポラ監督は、映画『地獄の黙示録』の音楽を冨田に要請したが、レコード会社との専属契約の関係で実現には至らなかったとされる。
1979年、日本武道館でピラミッド・サウンドによる立体音響ライブ「エレクトロ・オペラ in 武道館」を小松左京のプロデュースで開催した。1980年にジャパンレコードの社長に就任したが、アーティストとしてはRVC所属のままであった。その後も徳間ジャパンからの作品のリリースはなかった。
1984年、オーストリアのリンツでドナウ川両岸の地上・川面・上空一帯を使って超立体音響を構成し、8万人の聴衆を音宇宙に包み込む壮大な野外イベント「トミタ・サウンドクラウド(音の雲)」と銘打ったコンサートを催す。以後、サウンドクラウドを世界各地で公演してきた。ドナウ川では「宇宙讃歌」、続いて1986年ニューヨークのハドソン川では「地球讃歌」、1988年日本の長良川では「人間讃歌」を成功させ、共感するミュージシャンと共に音楽を通じた世界平和を訴え続けてきた。1990年から1992年まで3回にわたりBunkamuraオーチャード・ホール(東京都渋谷区道玄坂)で「トミタ・サウンドクラウド・オペラ “ヘンゼルとグレーテル”」を上演。1998年、日本の伝統楽器と西洋オーケストラとシンセサイザーによる『源氏物語幻想交響絵巻』を作曲。東京、ロサンゼルス、ロンドンで初演、自ら指揮棒を振った。1999年、メディア・アーティスト協会創設に参加した。
RCAとのインターナショナル契約終了後の純粋なシンセサイザー制作のアルバムとしては、1996年に『バッハ・ファンタジー』を日本のみでリリースしている。
2001年、東映50周年記念作品映画『千年の恋 ひかる源氏物語』の音楽を作曲し、日本アカデミー優秀音楽賞を受賞[29]。また、東京ディズニーシー・アクアスフィアのための3面立体音響シンフォニーを手掛ける[30]。2002年、作曲活動50周年、シンセサイザーでの音楽制作30周年の節目の年を迎えた。2005年3月開催の愛・地球博(愛知万博)の公式催事である前夜祭セレモニーをプロデュースした[31]。
晩年は過去にRCAから発表していたシンセサイザー作品の音源などを改めてサラウンドで再製作・再編集し、日本コロムビアを通じてDVD-Audio, SA-CDでリリースした[注 8]。
映画は『風の又三郎 〜ガラスのマント』、手塚治虫原作の『ブラック・ジャック ふたりの黒い医者』、山田洋次監督による『学校』シリーズ、『たそがれ清兵衛』、『隠し剣 鬼の爪』、『武士の一分』、『母べえ』、『ジャングル大帝 劇場版』、『千年の恋 ひかる源氏物語』、『おとうと』、『おかえり、はやぶさ』の音楽を手がけた。
2004年から2008年まで『NHK映像ファイル あの人に会いたい』のテーマ曲を手掛け、2006年10月に奥三河の霊山である鳳来寺山の鏡岩の反射音を利用した立体音響による『仏法僧に捧げるシンフォニー』を発表し、2007年5月に電子楽器演奏および音楽制作における先駆的貢献と電子音楽分野の確立に貢献した功績で第1回エレクトロニクス・アーツ浜松賞を受賞した。2007年6月と7月に、NHKの『みんなのうた』で「鳳来寺山のブッポウソウ」として放送された。
後進の育成に特に注力し、尚美学園大学で2000年から4年間を音楽メディアコースの主任教授を務めた後も芸術情報学部の大学院教授として「
2012年11月23日、ボーカル音声を合成するヤマハの合成音声技術「VOCALOID」とクリプトン・フューチャー・メディアの開発した音声ライブラリを用いたシンセサイザーであり、そのシンセサイザーのキャラクターでもあるバーチャルシンガーの初音ミクを起用して作曲された『イーハトーヴ交響曲』を東京で初演した。
2016年5月5日14時51分、慢性心不全のために東京都立広尾病院で死去した[訃報 1][訃報 2][訃報 3][訃報 4]。享年84歳。
2021年5月5日、娘の妹尾理恵が主催する「冨田勲研究会」のウェブサイトが開設された[32]。
同年7月23日に行われた東京オリンピック開会式で、冨田の没後に発表された「日の出 / Rise of The Planet 9」[注 9]が使用された。同年8月8日に行われた閉会式では、聖火台の火が消えていくフィナーレに、アルバム『月の光』収録の「月の光」が使用された[34][35][36]。
妻は歌手、本間千代子の姉・明子(立教女学院卒)。長男の冨田勝(慶應工学部卒)は慶應義塾大学医学部および慶應義塾大学環境情報学部の教授。孫はサッカー指導者の冨田賢。はとこに、元東北大学総長で半導体素子の研究者の西澤潤一がいる[37]。
以下のテレビドラマの情報は多くの場合に書籍「テレビドラマ全史 1953 - 1994 テレビガイド増刊」(東京ニュース通信社、1994年5月発行)に典拠がある。地域によっては放送がされていなかったり、放送日等が異なっていることがありうる。
他にも、パイロットフィルム等。
※カッコ内に記した時刻は番組の放送時刻。
以下の劇場用の映画音楽のリストは、概ね一般社団法人日本映画製作者連盟の「映連データベース」[データ 1]を基に作成した。日本映画データベース[データ 2]も参照。
以下のリスト中の多くは、公益社団法人映像文化製作者連盟(映文連)の「作品登録」データベースから採録[データ 3]。
発売の月や日が不明な場合は、不明なものを前側に置くことにする。
サウンドクラウドは、トミタ立体サウンド・ライブ『エレクトロ・オペラ in 武道館』(1979年)の屋外への発展形であるといえる。
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