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1909-1994, 劇作家、演出家、小説家 ウィキペディアから
飯沢 匡(いいざわ ただす、1909年7月23日 - 1994年10月9日)は、日本の劇作家、演出家、小説家。
父の転勤先の和歌山市で生まれ、愛媛県松山市を経て東京小石川原町や巣鴨に育つ[2]。本名は伊澤 紀(いざわ[3] ただす)で、警視総監・貴族院議員・台湾総督を歴任した官僚政治家・伊澤多喜男の次男[4]。母は色川武大の親戚の色川家の人で、飯沢と色川は「高祖父が兄弟」の関係になる[5]。
1922年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。在学中は算術が苦手で家庭教師をつけられたが成績不良であった[6]。同年、武蔵高等学校 (旧制)尋常科に第1期生として入学[6]。やはり数学が苦手で落第を経験[6]。落第後の同級生に黒金泰美がいた[6]。1925年、尋常科3年のとき発病しサナトリウムに入院、1926年までを過ごす[6]。
1928年、学校嫌いのため、高等科1年のとき武蔵高等学校を退学[6]。同年、文化学院美術科に入学[6]。1932年、文化学院美術科を卒業し[1]、専修科(美術)に進む[6]。
1933年、東京朝日新聞社(現:朝日新聞東京本社)入社[6]。在学中から長岡輝子・森雅之・金杉惇郎らのテアトル・コメディに参加、1932年に劇「藤原閣下の燕尾服」で劇作家デビュー。飯沢匡という筆名は、朝日新聞社在職中、上司に隠れてNHKラジオのために台本を書いた際、アルバイトが露見しないようNHKの担当者に「印刷しては別人に見え、アナウンサーが発音すると本名のように聞こえるという名を考えてください」と頼んだところ勝手に命名されたものである[7]。戦後『婦人朝日』『アサヒグラフ』編集長を務める。1954年退社。
文学座のために書いた『北京の幽霊』で長編戯曲デビュー。1943年「再会」でNHKラジオ賞、1944年「鳥獣合戦」を初演、1954年、文学座初演の「二号」で第一回岸田演劇賞、『ヘンゼルとグレーテル』でサンケイ児童出版文化賞、1957年NHK放送文化賞、1968年『五人のモヨノ』で読売文学賞、1969年「みんなのカーリ」で斎田喬戯曲賞、1970年「もう一人のヒト」で小野宮吉戯曲平和賞、1973年紀伊国屋演劇賞受賞、1979年「夜の笑い」の脚本・演出で毎日芸術賞、1983年日本芸術院会員。
『飯沢匡喜劇全集』全6巻がある。政治風刺劇のほか、NHKの子供番組の脚本で知られた。
いわさきちひろ絵本美術館(現・ちひろ美術館・東京)初代館長でもある。黒柳徹子とは「ヤン坊ニン坊トン坊」以来師弟関係にあり、ラジオ・テレビ・舞台と多くの作品で共演し、極めて親密な関係であった。飯沢が亡くなって久しい今でも、黒柳は飯沢の事を話す際は常に敬語で思慕の念を込めて話している。
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