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日本の作曲家 ウィキペディアから
弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)6月30日 - 1952年(昭和27年)11月17日)は、日本の作曲家。
1892年(明治25年)高知県安芸市に生まれる。一絃琴の名手であった母親から、音楽的才能を受け継いだと言われている。
父の転任に従って3歳の時高知を離れ、千葉師範学校附属小学校、三重県立第一中学校(現:三重県立津高等学校)を経て、1910年(明治43年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学する[1]。東京音楽学校では本居長世に師事。在学中に歌曲『昼』を発表した[1]。文部省唱歌の『鯉のぼり』は作者不詳とされてきたが、弘田龍太郎が在学中に作曲したものと言われている[2]。1914年(大正3年)に東京音楽学校を卒業して助手となるが、1917年(大正6年)に設置された作曲部に再入学した[1]。
1917年(大正5年)同研究科卒業後も同校授業補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱される。やがて宮城道雄や本居長世らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。
1918年(大正7年)鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、やがて「赤い鳥運動」に参加、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲した。
1928年(昭和3年)文部省在外研究生としてドイツに留学、ベルリン大学で作曲とピアノを研究する。帰国後、東京音楽学校教授となるも作曲活動専念のため辞任。以後作曲活動のかたわら、NHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指導、指揮にあたる。1946年(昭和21年)日本音楽著作権協会監事に就任。晩年は、長女夫妻が創設した幼稚園の園長となり、音楽を幼児教育に積極的にとり入れ、放送講習会、リズム遊びの指導などにあたった。1952年(昭和27年)60歳で死去。
妻は高安月郊の娘。
在学していた三重県立第一中学校(現・県立津高校)の中庭に記念碑があり、『浜千鳥』の楽譜が刻まれている。
代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『金魚の昼寝』『雨』『雀の学校』『春よ来い』『靴が鳴る』など多数。他に歌曲『千曲川旅情のうた』、オペラ『西浦の神』、仏教音楽『仏陀三部作』、映画音楽『くもとちゅうりっぷ』など。また、戦時歌謡では例として1943年(昭和18年)年発表の「富士は微笑む」を作曲した。
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