横浜刑務所
日本の神奈川県横浜市港南区にある刑務所 ウィキペディアから
横浜刑務所(よこはまけいむしょ)は、法務省矯正局の東京矯正管区に属する刑務所。下部機関として横須賀刑務支所・横浜拘置支所・小田原拘置支所・相模原拘置支所の4か所の支所を持つ。
主として26歳以上の犯罪傾向の進んだ男性受刑者を収容する施設。高齢化が深刻で、80代も数人いる[1][2]。
全国的にも類を見ない「笑う刑務所」を推進している。
所在地
収容分類級
→「収容分類級」も参照
- B級
- F級
- 横須賀刑務支所には在日アメリカ軍関係者も収容している。
収容定員
- 1,200人(2020年2月約880人収容中)
沿革
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本刑務所は、幕末の開国と同時に、伊豆国下田に作られた奉行所管轄の囚獄をルーツとする。
- 1855年(安政2年) - 日本の開国に伴い、伊豆国賀茂郡下田(現・静岡県下田市)に囚獄開設。→「黒船来航 § 嘉永7年(1854年)の来航」、および「開国 § 日本の開国」も参照
- 1859年(安政6年) - 横浜港開港により、武蔵国久良岐郡戸部村字宮ノ前(現・横浜市西区伊勢町3丁目・公務員伊勢町公舎)に移転。神奈川奉行の下に置かれ、戸部牢屋敷と改称。→「横浜港 § 黒船来航と横浜開港」、および「神奈川奉行 § 概要」も参照
- 1868年(明治元年) - 神奈川奉行を廃して横浜裁判所(現在の横浜地方裁判所とは似て非なる)を置く。
- 1871年(明治4年) - 神奈川県設置に伴い、神奈川県に移管。
- 1893年(明治26年) - 狭隘・老朽化のため、県議会に新築案が提案される。
- 1899年(明治32年)2月 - 神奈川県久良岐郡根岸村字広地(現・横浜市磯子区丸山二丁目)に移転。敷地面積約2万2千坪、建築面積約6,600坪。
- 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により、建物50棟中24棟倒壊、16棟半壊。職員3名・収容者35名が圧死し、ほかに職員数名と収容者50名が重傷を負った。
- 1924年(大正13年)3月11日 - 震災被害と、周囲の都市化が進んだため、市会で再移転が提案され、同年12月に事業計画が決定した。
- 1936年(昭和11年)5月 - 横浜市中区笹下町(現・港南区港南四丁目)の現在地に竣工。
- 1939年(昭和14年) - 赤誠隊と名付けられた囚人部隊1280名を送りハゴイ飛行場建設を荷った。
- 1945年(昭和20年) - アメリカ軍が横浜刑務所を接収して戦犯収容所を開設[8]。
組織
所長の下に4部2室を持つ6部室制である。
- 総務部(庶務課、会計課、用度課)
- 処遇部(処遇部門、作業部門)
- 教育部
- 医務部(保健課、医務課)
- 分類審議室
- 国際対策室
外観・設備
特記事項
- 刑務作業の一環として製麺作業が1999年(平成11年)より全国の刑務所で唯一行われている[9]。
- 当刑務所の改築工事までは、ブランド石鹸類「ハマローズ」を製造して全国の刑務所等で使用されていたが、石鹸製造は横須賀刑務支所へ移転した[9]。
- 金属工場では中華鍋の製造を実施している[10]。
- 刑務所敷地内を通る道路は夜間を除き交通開放されており、敷地内に矯正協会が運営する刑務所作業製品(CAPIC製品)の展示場(土日祝休)[11]や笹下稲荷神社などが所在する。また最寄り駅である港南中央駅売店でも、一部の刑務所作業製品が委託販売されている。
- 11月の第1土日曜日に、横浜矯正展を開催する。初日は刑務所内見学や鑑別所内見学も行う。横浜の乾麺を使ったうどんの販売、横須賀刑務所のブースで石鹸作り体験など。YouTubeで動画も公開している[12][13]。
脚注
参照資料
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