徳川家斉

日本の江戸時代の武将、江戸幕府の第11代将軍 ウィキペディアから

徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり、旧字体:德川家齊)は江戸幕府の第11代将軍(在任:天明7年(1787年) - 天保8年(1837年))。第8代将軍吉宗の曾孫。第10代将軍家治従伯父(実父の従兄)かつ養父。

概要 凡例徳川 家斉, 時代 ...
 
徳川 家斉
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徳川家斉像(徳川記念財団蔵)
時代 江戸時代後期(大御所時代)
生誕 安永2年10月5日1773年11月18日
死没 天保12年1月7日1841年2月27日)(67歳没)
改名 豊千代(幼名)→家斉
諡号 文恭院
墓所 東叡山寛永寺
官位 従二位権大納言正二位内大臣
右近衛大将右大臣
従一位左大臣左近衛大将太政大臣
正一位
幕府 江戸幕府 第11代征夷大将軍
(在任:天明7年(1787年) - 天保8年(1837年))
氏族 一橋徳川家徳川将軍家
父母 父:徳川治済
母:岩本富子
養父:徳川家治
兄弟 家斉治国黒田斉隆雄之助斉匡斉敦松平義居久之助本之丞
正室近衛寔子
側室:多数
家慶敦之助斉順虎千代斉明斉荘池田斉衆松平斉民斉温松平斉良斉彊松平斉善蜂須賀斉裕松平斉省松平斉宣他多数
猶子:尊超入道親王
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生涯

要約
視点

第11代将軍就任

安永2年(1773年)10月5日、一橋家当主・一橋治済の長男として生まれる。母は旗本の岩本正利の娘・富子。

安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣・家基の急死後、家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も子供がいなかったことから、将軍継嗣問題が発生する。家治は安永10年(1781年)2月に家基の3回忌法要を済ませた後、4月に将軍継嗣となるべき養子の人選係を老中の田沼意次、若年寄酒井忠休留守居依田政次の3名に命じた。この結果、閏5月18日に御三卿一橋徳川家徳川治済の嫡子である豊千代に決定し、11月2日に豊千代は家斉と改名し、天明2年(1782年)4月2日に従二位権大納言に叙任された。この際に家斉を将軍継嗣とした立役者は田沼意次であり、天明元年(1781年)7月15日に将軍養子人選の労を家治に賞されて、1万石の加増を受けている[1]竹内誠はこの継嗣決定に何か裏があり、意次の弟・意誠やその子・意致らが家老として一橋徳川家と通じていたことから、意次と治済が必然的に将軍継嗣を出す素地を作り出していたとしている[2]

天明6年(1786年)、家治が50歳で病死したため、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任した。

寛政の改革

将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。

寛政元年(1789年)、近衛寔子島津重豪の娘、近衛経熙の養女)と結婚している。

寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こり、さらに尊号一件なども重なって、次第に家斉と定信は対立するようになった。寛政5年(1793年)7月、家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わった。

ただし、松平定信の失脚はただちに幕政が根本から転換したことを示すわけではない。家斉は定信の下で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命した。これを戸田氏教本多忠籌ら定信が登用した老中たちが支える形で定信の政策を継続していくことになる。このため彼らは寛政の遺老と呼ばれた。

大御所時代

文化14年(1817年)に松平信明は病死した。他の寛政の遺老たちからも、老齢などの理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため文政元年(1818年)から、家斉は側用人水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老たちがいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。

文政10年(1827年)、太政在院年数が40年になったため自分から朝廷に働きかけるようになり、太政大臣に任じられる。

天保5年(1834年)に忠成が死去すると、寺社奉行京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる。しかし実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治はなおも続いた。この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が起こり、さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった。

天保8年(1837年)4月、次男・家慶に将軍職を譲っても大御所として幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。

最晩年と最期

最晩年は老中の間部詮勝堀田正睦田沼意正(意次の四男)を重用している。

天保12年(1841年)閏1月7日に死去した。享年69(満67歳没)。栄華を極めた家斉であったが、最期は誰にも看取られぬまま息を引き取ったと伝えられ、侍医長・吉田成方院は責任を問われ処罰された(『井関隆子日記』)。なお、死亡日は『井関隆子日記』には閏1月7日と記されているが、『続徳川実紀』は「閏1月30日」としており、幕府が死を秘匿したと考えられている。

家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定され、旗本若年寄ら数人が罷免・左遷される。そして間部詮勝堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。

官歴

※日付=旧暦

内大臣右大臣左大臣太政大臣を順番に歴任した武家は家斉だけであり、かつ生涯で一度も上洛したことがないまま太政大臣に就任した武家も家斉だけである。また、征夷大将軍と太政大臣の両職に就任した人物は足利義満徳川家康徳川秀忠もいるが、いずれも将軍職を息子に譲った後に太政大臣となっており、両職を現職で兼務したのは家斉だけである(太政大臣就任の1827年から将軍を退任する1837年まで10年間両職を兼務。太政大臣は1841年の死去まで在職)。

家斉の子女・妻妾

要約
視点
  • 少なくとも16人の妻妾を持ち、53人の子女(息子26人・娘27人)を儲けたが、成人したのは約半分(28人)と言われる(儲けた子女数は歴代15代徳川将軍の中でも圧倒的に一番)。また、第12代将軍家慶を除く長命の男子は他家の養子となったが、養子先に選ばれた諸国の大名家の中にはすでに実子が誕生していた例もあった(播磨明石藩など)。
  • 子女の多くは大藩の大名に関係することから、血縁関係による大名統制をとったとも考えられる。また、将軍の子を迎える大名に、それに伴う儀礼などによる経済的負担を課していたとも考えられる。一橋宗尹以来の一橋家の養子戦略の延長でもある。
  • 成人した家斉の子の多くは子供(家斉にとっての孫)がなく、あるいは早世して血筋が途絶えることが多かった。現代まで血筋を残しているのは、斉民斉裕溶姫の3人だけで、このうち男系は斉民の系統だけである。
  • 家斉の子を養子もしくは正室として迎えた(続柄)大名家に対しては特別な待遇が与えられた。文化8年(1821年)に禁じられた幕府から大名への拝借金が、続柄の大名家に対しては家斉の子女のためという口実で下された。さらに津山藩には5万石、明石藩には2万石、福井藩には2万石の加増が行われ、尾張藩には知行替と称して経済上の要地(表高より実収入がはるかに多い)近江八幡が与えられた。官位の面でも便宜を受け、将軍の子や娘婿として本来の家格よりも上位の官位が授けられた。従って家斉と姻戚関係にある大名家は、それまで同格とされてきた他家に対しても優位となった。そして天保7年(1836年)・同11年(1840年)の2度にわたって三方領知替えが行われた。最初は竹島事件における浜田藩の処分に乗じて、館林藩を浜田に移封させた。しかし、2度目の川越藩庄内藩への移封計画は、庄内藩領民の激しい抵抗に遭遇した上、家斉と姻戚関係にある大名家への厚遇に対する諸大名の不満をも噴出させた。このため、家斉が死去した天保12年(1841年)7月には庄内藩などの三方領知替えの中止が決定され、12月には家斉時代の官位の上昇は以後の先例とはならないと宣言せざるを得なくなった[3][4]
子女と生母
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生母
順番 名前 生年 没年 享年 備考 名前 備考
五男 敦之助 1796年 1799年 3 清水徳川家当主・徳川重好の養子 正室 近衛寔子(広大院 島津重豪の娘、近衛経熙の養女
男子流産 清雲院 1798年 1798年 0
長女 淑姫 1789年 1817年 28 尾張徳川家当主・徳川斉朝に嫁ぐ 側室 お万の方(勢真院 平塚為喜の娘
次女 瓊岸院 1790年 1790年 0
長男 竹千代 1792年 1793年 1
三女 綾姫 1795年 1797年 2 仙台藩主・伊達周宗と婚約
次男 家慶 1793年 1853年 60 第12代将軍 お楽の方(香琳院 押田勝敏の娘
三男 端正院 1794年 1794年 0 お梅の方(真性院 水野忠芳の娘
四男 敬之助 1795年 1797年 2 尾張徳川家当主徳川宗睦の養子 お歌の方(宝池院 水野忠直の娘
六男 豊三郎 1798年 1798年 0
六女 五百姫 1799年 1800年 1
九女 舒姫 1802年 1803年 1
四女 総姫 1796年 1797年 1 お志賀の方(慧明院 能勢頼能の娘
男子流産 即幻院 1798年 1798年 0
五女 格姫 1798年 1799年 1 お里尾の方(超操院 朝比奈矩春の娘
七女 峰姫 1800年 1853年 53 水戸徳川家当主・徳川斉脩に嫁ぐ お登勢の方(妙操院 梶勝俊の娘
七男 斉順 1801年 1846年 45 清水徳川家、後に紀伊徳川家当主・徳川治宝の養嗣子として相続。
流産 真空院 1803年 1803年 0
十女 寿姫 1803年 1804年 1
十二女 晴姫 1805年 1807年 2
八女 亨姫 1801年 1802年 1 お蝶の方(速成院 曽根重辰の娘
八男 時之助 1803年 1805年 2
九男 虎千代 1806年 1810年 4 紀伊徳川家徳川治宝の養嗣子。治宝長女の鍇姫(信恭院)婚約者。
十男 友松 1809年 1813年 4
十二男 斉荘 1810年 1845年 35 田安徳川家徳川斉匡の養子、後に尾張徳川家当主・徳川斉温の養子
十九女 和姫 1813年 1830年 17 長州藩主・毛利斉広に嫁ぐ
十六男 久五郎 1815年 1817年 2
流産 法如院 1802年 1802年 0 お美尾の方(芳心院 木村重勇の娘。名は八十、筆などとも。
十一女 浅姫 1803年 1857年 54 福井藩松平斉承に嫁ぐ
十三女 高姫 1806年 1806年 0 お屋知の方(清昇院 大岩盛英の娘、諸星信邦の養女
十五女 元姫 1808年 1821年 13 会津藩松平容衆に嫁ぐ
十四女 岸姫 1807年 1811年 4 お袖の方(本性院 吉江政福の娘
十六女 文姫 1809年 1837年 28 高松藩主・松平頼胤に嫁ぐ
十七女 艶姫 1811年 1811年 0
二十女 孝姫 1813年 1814年 1
十八男 陽七郎 1818年 1821年 3
二十一男 斉彊 1820年 1849年 29 清水徳川家、後に異母兄(八兄)で紀伊徳川家当主・徳川斉順の養嗣子として相続。
二十四男 富八郎 1822年 1823年 1
十一男 斉明 1809年 1827年 18 清水徳川家の養子 お八重の方(皆春院 牧野忠克の娘、土屋知光の養女
十八女 盛姫 1811年 1846年 35 佐賀藩主・鍋島直正に嫁ぐ。法名は孝盛院。
十三男 斉衆 1812年 1826年 14 鳥取藩主・池田斉稷の養子
十五男 斉民 1814年 1891年 77 津山藩主・松平斉孝の養子(現在まで残っている家斉の男系子孫は、斉民の子孫のみである)
十七男 信之進 1817年 1817年 0
二十五女 喜代姫 1818年 1868年 50 姫路藩主・酒井忠学に嫁ぐ
二十男 斉良 1819年 1839年 20 浜田藩主・松平斉厚の養子
二十三男 斉裕 1821年 1868年 47 徳島藩主・蜂須賀斉昌の養子
二十一女 溶姫 1813年 1868年 55 加賀藩主・前田斉泰に嫁ぐ お美代の方(専行院 中野碩翁の養女(実父は諸説あり不明)
二十三女 仲姫 1815年 1817年 2
二十四女 末姫 1817年 1872年 55 広島藩主・浅野斉粛に嫁ぐ
十四男 奥五郎 1813年 1814年 1 お八百の方(智照院 安部正芳の娘
二十二女 琴姫 1815年 1816年 1 お以登の方(本輪院 大岩盛英の娘、諸星信邦の養女
二十六女 永姫 1819年 1875年 56 一橋徳川家当主・徳川斉位に嫁ぐ
二十二男 斉善 1820年 1838年 18 福井藩主・松平斉承の養子
二十五男 斉省 1823年 1841年 18 川越藩主・松平斉典の養子
二十六男 斉宣 1825年 1844年 19 明石藩主・松平斉韶の養子
十九男 斉温 1819年 1839年 20 尾張徳川家当主・徳川斉朝養子 お瑠璃の方(青蓮院 戸田政方の娘
二十七女 泰姫 1827年 1843年 16 鳥取藩主池田斉訓に嫁ぐ
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子孫

家慶:12代将軍

斉順:清水徳川家第3代当主、和歌山藩第11代藩主

斉民:津山藩8代藩主

斉裕:徳島藩13代藩主

溶姫:加賀前田藩第12代藩主 前田斉泰の正室

人物・逸話

  • 在職期間50年は、江戸幕府将軍だけでなく歴代の征夷大将軍の中でも最長記録であるが、その生涯で一度も日光社参はしなかった。
  • 頼山陽の『日本外史』では、家斉の治世50年間は「武門天下を平治する。ここに至って、その盛りを極む」とあり、家斉の治世は将軍が政務に無関心であっても世は平穏で幕府の権勢が絶頂期にあったとしている。
  • 家斉の将軍職就任を祝賀して派遣された朝鮮通信使が、江戸時代最後の朝鮮通信使となった。ただし対馬での応接にとどめ、江戸へ招かなかった。
  • 大樹寺にある位牌から推定すると、身長は156.6センチである。徳川将軍15人の中で5番目の長身であり、後期の将軍の中では大柄である。
  • 「俗物将軍」と渾名されたが、これは幕政をほとんど主導せずに松平定信松平信明らの幕閣に任せ、自分は大奥に入り浸っていたことに由来すると言われる。また多くの子女を儲け、彼らを多くの大名家に縁組させたことは、幕府財政を大きく揺るがせることとなった。
  • 次男の家慶とは不仲であったと言われる。家斉が日蓮宗を信仰していたのに対し、家慶は浄土宗を信仰していたこと、家斉が大御所となってからも権力を握り続けたことなどからも、2人の関係性が窺える。
  • 多くの子を作ったのは、15歳で将軍職を継ぐ際に、子女を多く儲けるように実家・一橋徳川家より訓戒を受けたためであり、徳川家の天下を一橋家の系統で押さえるためでもあった。このため、水戸徳川家を除く御三家御三卿には家斉の弟や甥、もしくは実子が養子入りしている(ただし家斉の出身・一橋家は徳川昌丸で家斉の血は絶え、水戸徳川家から徳川慶喜が養子入りし、後に将軍となっている)。
  • 毎晩のように晩酌をし、浴びるように飲んでも酒乱にはならなかったとされるが、晩年になると節酒に転じた。
  • 最晩年(1841年)に疝癪(原因不明の腹痛)を患うまでは、在職した50年間の中で病臥したのは数回の感冒のみであった。死因は疝癪が元の急性の胃腸炎腹膜炎と考えられている[5]
  • 晩年になっても先代・家治の息子・家基の命日に自ら参詣するか、若年寄を代参させていた。養子に入った先の先代の子供にここまで敬意を払うのは異例であり、家基が変死していることもあり、北島正元は家斉が家基は自分を将軍の座に就けようとしていた治済に暗殺されたと疑っていた可能性が高いとしている。また上記の通りほとんど病臥することはなかったものの、生涯頭痛に悩まされていた。これは家基の祟りを恐れていたためと言われている。
  • 「白牛酪(はくぎゅうらく)」という今日で言うチーズのような高タンパク乳製品を大変好んだ。医者に『白牛酪考』といった本まで書かせている。
  • 生姜も大好物で、一年中毎日欠かさず食べていたという。これが並外れた精力増強に作用していたとも言われる。息子の家慶も生姜好きであった。また、精力増強のためオットセイ陰茎を粉末にしたものを飲んでいたので「オットセイ将軍」とも呼ばれた。
  • 家斉の在職期間は「化政文化」といわれた江戸文化の絶頂期でもあった。『風雲児たち』の作者みなもと太郎は、寛政の改革を若い頃に経験した家斉が「改革なんか上下ともに迷惑、あのようなことはやるものではない」と放任政策をとったことが結果的に町人文化の発展に貢献した、としている。
  • 父・治済の存命中は言いなりであったと言われる。
  • 従一位太政大臣にまで昇任しているが、徳川将軍としての従一位への昇任は第3代将軍徳川家光以来、太政大臣への昇任は第2代将軍徳川秀忠以来である。明治期の文献には「藤原氏にあらずして位人臣を極めた者といえば足利義満豊臣秀吉・徳川家斉・伊藤博文」という趣旨の記載もある[6]
  • 絹織物の御召縮緬を好んだ。家斉が好んで御止め柄(お納戸色に白の細格子縞)を定めた桐生産が御召の発祥という。
  • 京都の方広寺大仏(京の大仏)は日本一の高さを誇っていたが、寛政10年(1798年)に落雷のため焼失してしまった。方広寺を管理下に置いていた妙法院の時の門主真仁法親王より大仏再建を求める嘆願書が江戸幕府へ提出されたが[7]、家斉が方広寺大仏再建に手を貸すことはなかった。

家斉が偏諱を与えた人物

要約
視点

(凡例:◆…家斉の息子、◇…家斉の近親者(弟や甥など)、☆…家斉の娘婿(詳しくは前項を参照)、「斉」は本来、旧字体で「」と表記するのが正式だが、ここでは前者に統一する。)

●徳川・松平家一門
●公家(二条家)と外様大名

関連作品

小説

映画

テレビドラマ

漫画

脚注

参考文献

外部リンク

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