徳川治国

江戸時代中期の一橋徳川家の世嗣。従三位・左近衛権中将。徳川治済の次男 ウィキペディアから

徳川 治国(とくがわ はるくに)は、江戸時代中期の御三卿一橋徳川家世子

概要 凡例徳川 治国, 時代 ...
 
徳川 治国
時代 江戸時代中期
生誕 安永5年5月11日1776年6月26日
死没 寛政5年4月8日1793年5月17日
改名 力之助、治国
別名 一橋治国
戒名 敬宗院
官位 刑部卿従三位左近衛権中将
幕府 江戸幕府
氏族 一橋徳川家
父母 父:徳川治済、母:丸山氏
兄弟 家斉治国黒田斉隆、雄之助、斉匡斉敦松平義居、女子(細川斉樹室)、久之助、本之丞ほか
隆子二条治孝娘)
斉朝
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略歴

安永5年(1776年)5月11日、徳川治済の次男として誕生[1]。母は丸山氏[1]幼名は力之助[1]天明元年(1781年)5月18日、兄・豊千代(のち11代将軍・徳川家斉)が10代将軍・徳川家治養子となったため、同年7月18日、治国が一橋徳川家の世子となる[1][2]

天明6年(1786年5月15日元服し、将軍・家治から偏諱を受けて治国と名乗り、刑部卿に任じられる[1][3]

天明7年(1787年3月9日従三位左近衛権中将に叙任される[3]。同年4月15日、兄・家斉が将軍となった[2]寛政3年(1791年12月15日二条治孝の娘・隆子を正室とした[1][3]

寛政5年(1793年)4月8日、18歳で死去した[1][3]。法号は敬宗院[4][3]

同年8月23日、長男・斉朝が誕生した[4]。母は隆子[4]。斉朝は、はじめ伯父・一橋斉敦の養子、のち、徳川宗睦の養子となり[4]尾張藩藩主を継いだ[5]

寛政11年(1799年)1月27日、弟・斉敦が一橋家を継いだ[4]

脚注

参考文献

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