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日本の俳優、タレント、エッセイスト ウィキペディアから
秋野 太作(あきの たいさく、1943年2月14日[2] - )は、日本の俳優、タレント、エッセイスト、瞑想者である。本名および旧芸名は津坂 匡章[2](つさか まさあき)。一時は津坂まさあきの名も使用していた[2]。グランパパプロダクション所属。身長170cm、体重65kg。
あきの たいさく 秋野 太作 | |
---|---|
本名 | 津坂 匡章(つさか まさあき) |
別名義 | 津坂 まさあき |
生年月日 | 1943年2月14日(81歳) |
出生地 | 日本・東京市台東区[1] |
身長 | 170 cm |
血液型 | O型 |
職業 | 俳優、タレント、エッセイスト |
ジャンル | テレビドラマ、舞台、映画 |
活動期間 | 1967年 - |
活動内容 |
1963年:俳優座養成所入所 1966年:俳優座入団 1967年:『徳川の夫人たち』でデビュー 1968年:『男はつらいよ』 1969年:上記の劇場版 1971年:『天下御免』 1972年:『必殺仕掛人』 1975年:『江戸の旋風』、『俺たちの旅』 1977年:『気まぐれ本格派』 1980年:『熱中時代』 1986年:『ザ・ハングマンV』 1987年:『おもいっきり探偵団 覇悪怒組』 1999年:『サラリーマン金太郎』 |
配偶者 |
太地喜和子(1974年) 温碧蓮(1975年 - ) |
著名な家族 |
津坂浩史(実弟) つさかたくじ(長男) 奥本有里(長女) 津坂早紀(次女) |
事務所 | グランパパプロダクション |
公式サイト | 所属事務所公式プロフィール |
主な作品 | |
テレビドラマ 『男はつらいよ』 『天下御免』 『必殺仕掛人』 『必殺仕置人』 『助け人走る』 『暗闇仕留人』 『江戸の旋風』シリーズ 『俺たちの旅』 『熱中時代』 『ザ・ハングマンV』 『おもいっきり探偵団 覇悪怒組』 『五稜郭』 『サラリーマン金太郎』<TBS版> 映画 『男はつらいよ』シリーズ | |
備考 | |
デビューから1976年までは本名を名乗っていた。 |
東京市深川区(現・東京都江東区深川)で生まれ(「台東区上野生まれ」とする媒体もある[3])、生後間もなく大分県杵築市の母の実家に移り[1]、4歳のとき東京に戻り、以降は文京区で育った[1]。文京区立第六中学校卒、東京都立文京高等学校卒、日本大学法学部中退[1]。文京区立第六中学校の同級生には小沢一郎と西川太一郎がいた。
日大法学部在学中の1963年[3]に俳優座養成所第15期生として入所[2]。俳優座座員[2]を経て、現在はグランパパプロダクション所属。俳優座時代、一時太地喜和子と結婚していたが短期間で離婚し、その後、元タカラジェンヌでNHK『ステージ101』のヤング101の第一期生としてNHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』に出演した女優・歌手の温碧蓮と再婚している。息子は振付家・農業経済学者のつさかたくじ、長女は政治家の奥本有里[4]、次女は元女優・ファッションモデルの津坂早紀[2]。また、実弟・津坂 浩史(つさか ひろし)も俳優デビューしたが、引退した。
1967年、木下恵介劇場『記念樹』(TBS)で俳優デビュー[3]。
1975年から一年間放送されたテレビドラマ『俺たちの旅』(日本テレビ系)での、女性からモテモテの"グズ六"役でよく知られるが、俳優座時代から女性ファンが多く[5]、テレビドラマ『男はつらいよ』でレギュラーだった秋野に、女性ファンからの「映画でも出してくれ」との要望が多く[5]、映画『男はつらいよ』にも出演することになった[5]。
芸名を「秋野太作」にしたきっかけは、秋野が妻を持ち子供もできて家庭を築き、人生の転換期の中で精神的にも内向きだった頃、何事もゲンを担ぐ秋野の父親が「津坂匡章の名前のままだと、いずれ交通事故死する」と誰かに言われ、秋野曰く実際に二度死にかけた経験もあり、父親がその誰かに「三度目には死ぬ」と言われて酷く心配していたことと、人生の転期にあったことがシンクロし、改名を決めた。その1976年当時演じていた日本テレビのドラマ『俺たちの朝』での役名を芸名にしたという[6]。ちなみに、その番組が「秋の大作」という触れ込みでの新作発表であったため、それもヒントになっているという。
秋野の独特のキャラクターが話題になり、バラエティ番組にも積極的に出演している。特に、日本テレビ『踊る!さんま御殿!!』は明石家さんまを驚愕させるほどのキャラクターで人気を得ており、バラエティ番組進出のきっかけとなった。また、テレビ東京の『いい旅・夢気分』『土曜スペシャル』など旅番組にも出演、娘の早紀と共演することが多い。
家族は少々複雑で、父は戦争で前夫を亡くして息子が2人いる女性と結婚して秋野と弟が生まれ、幼くして母(実母)を亡くしたあと父が娘を持つ女性と再婚(秋野にとって継母)した[7]。このためきょうだいは4歳下の実弟、血の繋がらない異父兄が2人と、異母妹が1人いる[7]。
父は第二次世界大戦前に第一銀行(現・みずほ銀行)の行員をしており、戦後は根津(文京区)で第一銀行専門の印刷会社の経営を始め[7]、休みの日に剣舞を披露する芸人でもあった[8]。戦時中(2歳頃)、母の実家がある大分に母と疎開したが、後日母が結核に罹ってサナトリウムに入所することになったため、前夫の自宅で異父兄と育てられた[7]。2年後死期を悟った母は、「最期は東京にいる家族のもとで」との思いから、4歳の秋野を連れて巣鴨(豊島区)に戻って約1か月後に亡くなった[7]。
父子家庭となったが平日は父が多忙なため、巣鴨の長屋に住む知人宅にあちこち預けられ、時間に余裕がある土日に父のもとで一緒に過ごしては、長屋に戻るという生活だった[7]。また、子供の頃は芸人である父から剣舞を仕込まれ、日曜日に全国を巡る父に連れられて秋野も時々舞台で剣舞を披露していた[9]。小学生の頃は宿題をほとんどしなかったこともあり、テストでよく0点を取っていたという[7]。秋野が10歳の頃、それまで大分に預けられていた実弟が小学校入学を期に上京して一緒に暮らし始めた[注釈 1]。
(時期は不明だが)父が再婚すると継母から時々顔を叩かれる生活となったため、正面から対立せず何を言われても聞き流すようになった[8][注釈 2]。
大学入学後は、学生運動により講義がろくに行われず将来に向けてどう過ごすか悩んだが、その後演劇に興味が生まれて20歳頃に俳優座養成所に入所[9]。この入所を父からは喜ばれたが、同時期に継母から家を出るよう言われたため自宅を出た[8]。当時大卒の初任給が2万5000円の時代に、父から3年間月3万円を送ってくれたため、演劇の勉強に集中することができたという[8]。その後父は72歳で亡くなった[8]。
父は若い頃から剣舞の達人で実母は生前薩摩琵琶の名人だった[9]。父は戦争中、兵隊にならずに従軍慰問団として戦地を回って剣舞を披露し、戦後は仕事が休みの日に地方の学校や公民館などから招かれて剣舞を披露していた[8]。
父は根っからの優しい性格で、普段は無口で多くを語らなかった[8]。ある時父から「人生で気をつけることが3つある。女、カネ、健康だ」と言われ、以来人生の教訓のように心に刻んでいる[8]。
長年渥美清の大ファンで[9]、2017年にはエッセイ「私が愛した渥美清」も執筆している[3]。
趣味は読書[3]。若い頃は酒とタバコを嗜んでいたが、30代半ばに健康を考えてどちらも止めた[3]。また、(いつ頃からかは不明だが)舞台で動けるようにスポーツジムで筋トレをしたり、軽いジョギング、ヨガなども行っている(2020年現在)[3]。
「舞台俳優はスポーツ選手のようなところがあるから、普段から精神と身体のバランスを整えることが大事」との考えを持つ[3]。このため、30代から瞑想を朝夕20分ずつからやり始めてその後時間を伸ばし、現在(2020年時点)は朝夕1時間ずつ毎日欠かさず行っている[3]。
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