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江戸時代後期の蘭癖大名・学者大名。加治木島津家5代、島津氏25代。薩摩鹿児島藩主8代藩主。島津久門の長男。従三位、左近衛権中将、薩摩守、上総介 ウィキペディアから
島津 重豪(しまづ しげひで)は、江戸時代後期の大名。島津氏の第25代当主。薩摩藩の第8代藩主。江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の正室(御台所)である広大院の父。将軍の岳父として高輪下馬将軍と称されるほど権勢を振るう一方で、学問・ヨーロッパ文化に強い関心を寄せ、蘭癖大名・学者大名としても名を馳せた。
島津重豪肖像画(玉里島津家蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 延享2年11月7日(1745年11月29日) |
死没 | 天保4年1月15日(1833年3月6日) |
改名 | 善次郎(幼名)→久方(初名)→忠洪、重豪 |
別名 |
通称:兵庫、又三郎 号:栄翁 高輪下馬将軍 |
神号 | 斉栄遐齢彦命 |
戒名 | 大信院殿栄翁如証大居士 |
墓所 | 鹿児島県鹿児島市池之上町の島津家墓地(福昌寺跡) |
官位 | 従三位、左近衛権中将、薩摩守、上総介 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治→家斉 |
藩 | 薩摩鹿児島藩主 |
氏族 | 島津氏 |
父母 |
父:島津重年 母:島津都美 |
妻 |
正室:保姫 継室:甘露寺規長の娘・綾姫 側室:慈光院、春光院、牧野千佐 |
子 |
敬姫、広大院、斉宣、奥平昌高、忠厚、有馬一純、孝姫、黒田長溥、親姫、南部信順、淑姫、桃令院 養女:雅姫、立姫、壽姫 |
延享2年(1745年)11月、分家の加治木島津家当主・島津久門(後の重年)の長男として生まれた。幼名は善次郎。母の都美は善次郎を出産したその日のうちに19歳で死去する。父が本家に復して薩摩藩主になると、加治木島津家を継ぎ、宝暦3年(1753年)12月、諱を久方(ひさかた、通称は兵庫)とする。父の病弱に加え、翌年2月2日に父の継室・於村が死去し宗家で嗣子誕生が望めなくなったため、同8月に重年の嗣子として本家に迎えられ、忠洪(ただひろ、通称は又三郎)に改名。宝暦5年(1755年)6月、父・重年が死去したため、11歳で家督を継いだ。加治木島津家はこの後、知覧島津家(佐多氏嫡家)当主・島津久峰の長男で重豪の従弟にあたる久徴が名跡継承するまでの19年間、当主不在となる[注釈 1]。
宝暦8年(1758年)6月、元服し父と同じく9代将軍・徳川家重の偏諱を賜って重豪に改名、従四位下・左近衛権少将兼薩摩守に叙任される。年少のために祖父の島津継豊が藩政を担った。宝暦10年(1760年)に継豊が死去すると、継豊の弟で重豪の外祖父にあたる島津貴儔に3年間藩政の実権が委ねられた後、重豪が親政を開始し藩政改革に取り組んだ。重豪は蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。
明和元年(1764年)11月、従四位上・左近衛権中将に叙任される。安永元年(1771年)には藩校・造士館を設立し、儒学者の山本正誼を教授とした。また、武芸稽古場として演武館を設立し、教育の普及に努めた。安永2年(1773年)には、明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている。同年、造士館・演武館以外の場における武術教授や、下級武士による郷中における集団的活動(兵児二才制度における行事など)は禁止された[2]。医療技術の養成にも尽力し、安永3年(1774年)に医学院を設立する。そして、これらの設立した学問所に通えるのは武士階級だけにとどめず、百姓・町人などにも教育の機会を与えている。安永9年(1780年)、外城衆中を郷士に改め、より近世的な支配秩序の形成を図った。
天明7年(1787年)1月、家督を長男の斉宣に譲って隠居し[注釈 2]、上総介に遷任されたが、なおも実権は握り続けた。
文化6年(1809年)、斉宣が樺山主税、秩父太郎ら近思録派を登用して緊縮財政政策を行なおうとしたが、華美な生活を好む重豪はその政策に反対して斉宣を隠居させ、樺山らには死を命じた(近思録崩れ)。そして重豪は孫の斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握った。しかし晩年に下級武士出身の調所広郷を重用し、薩摩藩の天保改革に取り組んだ。調所の財政再建は斉興の親政時に成果を見ている。さらに、新田開発も行なっている。
老いてますます盛んな重豪は、曾孫の斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど可愛がった。斉彬の才能を高く評価した重豪は、斉彬と共に蘭館医フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたと言われている重豪と会見したシーボルトは、「重豪公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。
天保3年(1832年)夏から病に倒れ、天保4年(1833年)1月、江戸高輪邸大奥寝所にて89歳という長寿をもって大往生を遂げた。
重豪は学問に深く興味を示し、藩校の造士館など学術施設の開設を進めた。また、学者の曽占春らに命じて、南西諸島の植物についての本草書『質問本草』[4]、中国語学書『南山俗語考』、百科事典的な農書『成形図説』、鳥飼い趣味に基づく鳥名辞典『鳥名便覧』[5]、『島津国史』などの書物を編纂させた。晩年には、それらの学問的業績をまとめた伝記『仰望節録』を曽占春に書かせた。そのような重豪の向学心は、曽孫の斉彬に受け継がれた。
それまで島津家は将軍家や有力大名との婚姻を避ける傾向があった。しかし、重豪は積極的に政略結婚を進める政略に転じ、将軍・家斉に娘を娶わせ、中津藩や福岡藩などの有力譜代大名や外様の大藩に息子たちを養嗣子として送り込んだ。これによって江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持ち、「高輪下馬将軍」と称された。
一方で、これらの政策実行による莫大な出費は、最後には大名貸しから資金調達を拒絶され、遂に市井の高利貸しからも借金する(500万両、現代の価値で約5000億円)羽目となり、後世の史料では「薩摩藩が天文学的な借金を抱える原因を作った殿様」として家臣に糾弾されている。
10代で死去した母や20代で死去した父とは対照的に重豪は非常に頑健な人物であった。80歳を越えても鹿児島から江戸、長崎と各地を東奔西走し、当時の侍医は「80歳だがなおも壮健。書を書くとき、読むときも眼鏡を必要とせず」とまで記している。
また大変という表現すら不足なほどの恐るべき酒豪であり、酒の相手をするのも一苦労であるため、諸家では重豪がやってくるのを(酒の相手をしなくてはならないのを)嫌ったとされる。この重豪を唯一飲み負かすことができたのが牧野千佐であり、彼女は後に重豪の側室となって十三男の黒田長溥を生んでいる。重豪69歳の時の話である。
※日付は旧暦
※上記については
を参考としたが、重豪の家族関係は史料によって大同小異が多く、諸書によって記述もまちまちで、確定していない関係も多い。
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