Remove ads
日本の映画作品、『ゴジラシリーズ』第17作 ウィキペディアから
『ゴジラvsビオランテ』(ゴジラたいビオランテ)は1989年(平成元年)12月16日に公開された日本映画で[12]、「ゴジラシリーズ」の第17作である[出典 7]とともに、平成ゴジラシリーズ(平成VSシリーズ)の第1弾でもある[出典 8][注釈 2]。カラー、ビスタビジョン、ドルビーステレオ[出典 9]。観客動員数は200万人[出典 10][注釈 3]。略称は『ビオランテ[38]』『VSビオランテ[出典 11]』『vsB[41]』。
キャッチコピーは「超ゴジラ それはゴジラ細胞から生まれた![出典 12]」「'90年正月映画日本代表[42]」「勝った方が人類最大の敵になる」など[注釈 4]。
平成ゴジラシリーズの原点となる前作『ゴジラ』(1984年)の直接の続編であり[出典 13]、復活したゴジラが新たに出現したバイオ怪獣ビオランテと対決する。
本作品では原案が一般公募されたほか、特技監督には前作まで担当していた中野昭慶に代わって川北紘一、脚本と監督には『ヒポクラテスたち』などの大森一樹、音楽に「ドラゴンクエストシリーズ」などのすぎやまこういちを起用するという、それまでの怪獣映画にない新たな息吹を取り入れようとした意欲作でもある[出典 14][注釈 5]。
ゴジラやビオランテに襲撃される主な舞台として芦ノ湖のほか、伊豆大島、大阪市、若狭湾が登場する[49]。
本作品は、以降の平成VSシリーズでメインキャラクターとなる超能力者・三枝未希の初登場作品でもある[50][51]。また、本作品はミニチュアセットですべての市街地を再現した最後のシリーズ作品でもあり、次作『ゴジラvsキングギドラ』以降はCGによる描画が増えていくこととなる[52]。
物語の展開はいわゆる昭和の児童向け怪獣映画とは一線を画しており[注釈 6]、ゴジラとビオランテの対決よりも「ゴジラ対自衛隊」のそれに主軸を置いている[出典 16]。ゴジラ(略して「G」と呼称)は「特殊災害」と規定され、4段階の警戒態勢が設けられている。放射熱線を反射して対抗できる「スーパーX2」や、ゴジラのエネルギー源である核物質を食べるバクテリアから作られた「抗核エネルギーバクテリア」 (ANEB) など、先端技術を投入して開発された対G用の超兵器に加え、未希の超能力も自衛隊の戦力として運用されている。
本作品にはゴジラ細胞(G細胞)の設定も初めて盛り込まれており、1994年公開の『ゴジラvsスペースゴジラ』は敵怪獣・スペースゴジラの誕生の理由にビオランテが可能性の1つとして挙げられるうえ、権藤一佐の妹や親友が登場するなど、本作品との関連が高い。また、G細胞またはそれの持つ性質から新怪獣が誕生するという要素は『vsスペースゴジラ』だけで終わらず、後年の『ゴジラ2000 ミレニアム』や『シン・ゴジラ』などの作品にも、細かな設定の違いを見せながら継承される形となっている[注釈 7]。
なお、劇場では入場者にゴジラスタンプ(全4種)がプレゼントされていた[58]。
1985年、ゴジラ襲撃から一夜明けた新宿では、自衛隊が廃墟内の残留放射能検査やスーパーXの回収を進める一方、ゴジラの体組織であるG細胞の破片を回収する作業が行なわれていた[59]。その最中、アメリカ合衆国の大手企業群の共同機構・バイオメジャーもG細胞の採取に成功したところを自衛隊に発見され、銃撃戦となる。バイオメジャーは辛くも逃げ切るが、中近東の国家・サラジア共和国の情報機関「サラジア・シークレット・サービス」工作員のSSS9によって全員とも射殺され、G細胞を奪取される[41]。サラジアへ運ばれたG細胞は、遺伝子工学の世界的権威・白神源壱郎博士の研究室にて小麦などの作物と融合させ、砂漠でも育つ植物・スーパープラントを生む実験に使用されていた。サラジアはポスト石油戦略として、スーパープラントを利用して自国の砂漠地帯を豊かな穀倉地帯に変えようとしていたのである。しかし、G細胞の争奪戦に敗れたバイオメジャーの策略で研究室は爆破されてしまい、源壱郎はG細胞とともに最愛の娘・英理加を失ったことで、科学に失望し研究を完成させる前に帰国すると、芦ノ湖の研究所で隠遁生活を送っていた[出典 17]。
それから5年後の1990年、三原山火口内にて再び生命活動を開始したゴジラに備え、国土庁は大河内財団が保管するG細胞に含まれる核物質を食べる遺伝子を利用した対ゴジラ用生物兵器・抗核エネルギーバクテリア (ANEB) の必要性を強く認識するが、科学者の桐島一人はそれが核兵器を無力化する兵器として世界の軍事バランスを崩すのでは、と危惧していた。しかし、日々活動を活発化させるゴジラに対抗し得るものとして、自衛隊の黒木翔特佐はその開発のために源壱郎の協力要請を仰ぐ。源壱郎は一度は断るが、三原山噴火による地震でその気持ちを変え、G細胞を1週間借り受けることを条件にANEB開発への協力を承諾する[59][60]。
数日後、芦ノ湖に巨大なバラのような姿の怪獣が現れる。それは、源壱郎が枯れかかっていた英理加の遺伝子を融合させたバラを救うために組み込んだG細胞の影響により、急激な異常進化を遂げた怪獣ビオランテであった[41][59]。同じころ、ANEBの引き渡しを求めるバイオメジャーからの脅迫文が首相官邸に届く[59][60]。応じない場合は三原山を爆破してゴジラを復活させるというその内容に、桐島と自衛官の権藤吾郎一佐が引き渡しに応じた結果、ANEBのボンベはSSS9に奪われたうえ、脅迫用の爆弾によって爆破された三原山火口からはゴジラが復活する[59][60]。
ゴジラは浦賀水道にて迎撃に当たる海上自衛隊護衛艦やスーパーX2を撃退すると小田原へ上陸し、芦ノ湖にてビオランテと交戦する[出典 18]。ビオランテのさまざまな攻撃に苦しめられながらもゴジラは放射熱線でビオランテを倒し[59]、駿河湾へ消える。
対G作戦の指揮を任された黒木は、ゴジラが核物質補給のために若狭湾の原子力発電所群へ向かうと予想し、最短経路の名古屋を通ると踏んで伊勢湾に総力を結集させるが、ゴジラは紀伊水道から大阪湾へ向かっていた[41][60]。裏をかかれた黒木は反対を押し切ってスーパーX2のみを大阪へ、残りの戦力を若狭湾へそれぞれ向かわせる。一方、桐島と権藤はサラジアのアジトが大阪にあることを知り、ANEBの奪回に向かう。刻一刻とゴジラの上陸が迫る中、ANEBの奪回に成功した権藤はそのままANEB弾をゴジラに撃ち込む準備に入り、ゴジラはついに大阪市へ上陸する。
スーパーX2と権藤という大きな代償を払いながらもANEB弾の撃ち込みは成功するが[59]、14時間近くを経過してもその効果は現れず、ゴジラは若狭湾を目指す。桐島の唱えた仮説「ゴジラの体温が極めて低いためにANEBの活性化が抑えられているのではないか」を受け、黒木は若狭にマイクロウェーブ6000サンダーコントロールシステム(M6000TCシステム)を設置し、人為的な落雷によってゴジラの体温を上げてANEBの活動を促す作戦に出る[41][59]。その結果、ようやくANEBは効力を発揮し始めるが、ゴジラの進行は止まらない。高浜原発に緊急態勢が発令されて緊張が高まる中、ゴジラの前に成長してさらなる進化を遂げたビオランテが出現する[59][60]。ゴジラはビオランテを撃退するが、そこでANEBの抑制効果が現れて海中に沈み、ビオランテは光の粒子と化して宇宙へ舞い上がっていく[59][60]。戦いの終わりに人々が安堵する中、SSS9によって源壱郎が射殺される[59]。SSS9は桐島に追い詰められた末、黒木が作動させたM6000TCシステムによって消滅する[59]。ゴジラは海水で体温が下がり、ANEBの効果が切れて覚醒するが、戦意を喪失して海へ去っていった。
前作『ゴジラ (1984年の映画)』(1984年)は、配給収入17億円のヒットとなり、1985年3月には続編制作へ向けてゴジラ委員会が発足された[212][213]。しかし、東宝が当初目標としていた20億円には届かなかったことや、中高生の動員が伸び悩んだこと、ゴジラ復活の後押しとなったファン層からの評価が芳しくなかったことなど反省点も多く、それらを踏まえた上でシリーズ化し正月映画として定着させるために検討事項も多かった[212][55]。
製作の田中友幸は、観客の反応を特に重視していたとされ、エンターテイメント性を持たせつつ、前作の「ゴジラ復活」と同等のイベント性を保つため、ストーリーの一般公募を実施した[214][213]。1985年4月に原案を一般公募した結果[注釈 35]、応募総数5,025本から[注釈 36]、特撮テレビドラマ『帰ってきたウルトラマン』の第34話「許されざるいのち」の原案(原案時点でのタイトルは「狂った生命」)を手掛けた歯科医・小林晋一郎の作品が採用された[出典 107][注釈 37]。なお、入選した候補のもう1つ「ゴジラ対巨大ロボット軍団」[55][216]は、ゴジラが巨大コンピュータと戦い、それが戦車もどきのメカになるという案であり、本作品の制作が決定した後もその続編として検討されていたが[出典 109][注釈 38]、1989年公開の特撮ロボット映画『ガンヘッド』が興行的に不振だったことが影響し、却下されている[222]。このほか、佳作・準佳作には、後に江戸川乱歩賞を受賞する坂本光一やサイエンスライターとして活動していた飛鳥昭雄らの作品もあった[215][216]。授賞式は1985年11月9日に行われた[218][85]。小林を交えたシノプシス制作は、授賞式直後から翌1986年1月にかけて行われた[116][85]。この段階では、1986年12月公開(1987年正月興行)が予定されていた[82][212]。
監督・脚本の大森一樹は、ゴジラシリーズ初の東宝外部監督である[出典 110]。田中は、シナリオコンクールで城戸賞を受賞した大森の脚本を高く評価していたことから直接面会して脚本を依頼し、それに納得したことで監督も依頼したという[出典 111]。しかし、脚本作りが難航したため、プロデューサーの富山省吾はその間に『恋する女たち』『トットチャンネル』などの監督に大森を起用している[出典 112]。大森は、外様の監督がゴジラを撮ることへの反発は少なからずあり、これらの作品を手掛けたことで東宝からの信頼を得られたのではないかと述べている[76]。
企画自体は前作の直後より動き出していたが、脚本やビオランテのデザインなどが難航し、準備期間は長期に渡った[出典 113]。富山は、シリーズの方向性を模索していたことと、制作費のかかる作品であるため東宝上層部が慎重であったことなどを理由に挙げている[226][注釈 39]。また、小林は「花がゴジラと戦う」というイメージが多くの理解を得るのに時間がかかったと証言している[82]。正式にゴーサインが出たのは1989年5月に入ってからである[228][注釈 40]。前年に制作されていた企画書では、夏興行と想定していたが、ここへは『ガンヘッド』が当てられた[229]。しかしこの時点でもビオランテのデザインは保留となっており、決定に至ったのは特撮班クランクイン後の同年8月下旬であった[217](ビオランテ#デザイン参照)。
大森は、幼少期に鑑賞した『モスラ対ゴジラ』(1964年)に感銘を受け、本作品も女性的なイメージの怪獣、戦闘シーンの多さなどに影響を受けているといい、三枝未希も小美人に通ずるキャラクターであるとしている[230]。また、リアリティのバランスや自衛隊の動かし方などは『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966年)を参考にしている[231][76]。
大阪市にゴジラが出現するのは、『ゴジラの逆襲』(1955年)以来34年ぶりである[49][168]。大森は、大阪を舞台の1つとした理由について前作が東京であったことの差別化であったとしているが、結果的に第1作『ゴジラ』(1954年)と『逆襲』との関係と同じになってしまったと述べている[76][注釈 41]。『逆襲』と同じく中之島周辺が登場しているが[168]、大阪城は背景として数回映るに留まった[233]。主要な舞台となった大阪ビジネスパークは、1980年代後半に高層ビルの建設が相次いでいた新興地域であった[233]。田中によれば、TWIN21を破壊することには反対意見も多かったが、運営に関わる松下電器は喜んで許可したと証言している[53]。当時造成工事中であった関西国際空港の建設基地が登場しているのも特徴である[40]。
当初の仮題は『ゴジラ2』[212][55](『G-2』[217])。小林晋一郎による原作は『ゴジラ対ビオランテ』であったが、従来のゴジラ映画と変えるため『VS』になったとされる[234]。東宝宣伝部による案では『ゴジラ2 バイオウォーズ』『ゴジラ2 赤いDNA』『G細胞の奇跡』などが挙がっていた[234]。
富山省吾によれば、このほかに川北紘一による改訂脚本もあったとされるが、田中友幸は「円谷英二にもやらせなかったことは川北にやらせない」として、特撮監督が脚本を書くことを受け入れなかったという[234]。大森も、自身が予算を考慮して撮りたかったシーンを泣く泣く削っていたのに、川北が特撮の見せ場を増やした脚本を出してきたことには憤りを感じていたことを述懐している[76]。
メカニックデザインには、版権申請で関わりのあり前作でも伊豆大島ロケやキャンペーンなどに参加していたSF専門店ゼネラルプロダクツ代表の岡田斗司夫を介し、宮武一貴・河森正治・横山宏ら当時のアニメや模型業界などで活躍していたデザイナーが集められ、スーパーX2のコンペが行われた[251]。最終的に横山の案が選ばれたが、その後横山が独自にデザインしたメーサー戦車の扱いを巡りトラブルが生じ、横山は正式なスタッフからは外されるに至った[251]。
岡田の名はクレジットになく、本作品への関わりは書籍『ゴジラVSビオランテ コンプリーション』(2015年)で初めて明らかにされた[251]。岡田は、横山の件に責任を持たずに済んだことに安堵したが、仲介料を請求できる状況ではなかったと述懐している[251]。
ビオランテのデザインが難航し作業は長期に及んだため、デザイナーも多くの人物が参加していた。最終的なデザインを手掛けた西川伸司は、本作品以降も怪獣などのデザインを手掛け、シリーズを代表するデザイナーの1人となった[252]。『帰ってきたウルトラマン』第34話に登場するレオゴンのデザインを手掛けた米谷佳晃も初期に参加していたが、米谷は以前よりゴジラシリーズと関わりがあり、本作品の原作が『帰ってきた』第34話と同じ小林だとは知らなかったという[253]。米谷は、本作品の制作が正式に決定し、決定稿の台本を受け取った時点で自身の役割は終わったものと認識しデザイン画の返却を求め身を引いたが、実際にはこの時点でもデザインは決定しておらず米谷の名もクレジットされていない[253]。原作者の小林もビオランテのデザインを描いていたほか、ロボットデザイナーとして知られた園山隆輔、マーブリング・ファインアーツの松原裕志、ビルドアップの品田冬樹、『ガンヘッド』から引き続き参加のスタジオOXなどが携わっていた[254]。
ビオランテの造形は、1989年に設立されたばかりのビルドアップが手掛けた[255]。同社代表の岡部淳也が前年に手掛けた『帝都物語』での造形が評価されての参加であった[256]。スーパーX2の造形を担当したビーグルは、『さよならジュピター』から東宝特美に参加していた萩原晶が本作品のために設立した[257]。
外部スタッフが多くなったため、富山や製作担当の森知貴秀らの意向により、本作品以降エンドクレジットに可能な限り多くのスタッフを掲載している[222]。
1989年5月の制作決定から8月のクランクインまで短い期間でブッキングを行わなければならず、富山省吾は豪華キャスティングが実現したことについてキャスティングプロデューサーの田中忠雄の手腕を評価している[234]。
当初、大森のイメージキャストでは、権藤役に原田芳雄、黒木役に古尾谷雅人、白神博士役に仲代達矢と想定していた[258][76]。最終的にはスケジュール優先での決定となったが、イメージと同様の本格的なキャスティングを目指し、高橋幸治や金田龍之介ら東宝特撮色の薄い豪華キャストとなった[258]。特に高橋は怪獣映画への出演はこれまでなかったが、面白がって参加していたという[234]。
1989年に『黒い雨』で各賞を総ナメした田中好子の出演交渉の際、大森は「(ゴジラ映画も『黒い雨』も)どちらも原爆に関することですから」と語ったという[76]。
三枝未希役の小高恵美は、前作の沢口靖子に続き東宝シンデレラから起用された[258][234]。沢口も別役で続投している[258]。沢口が演じる英理加が冒頭に死亡して小高の場面に移るという展開は、第1回から第2回への女優のバトンタッチを意識した演出となっている[259]。沢口の撮影は1日だけであった[76]。
黒木役の高嶋政伸は、プロデューサーの富山からの推薦により起用された[258]。髙嶋も東宝芸能に所属していたためキャスティングはスムーズにいったという[234]。高嶋は、兄である髙嶋政宏の付き人として大森が監督した『トットチャンネル』(1987年)の現場に参加しており、大森に対して憧れを抱いていたと述べている[78]。
山地統幕議長役の上田耕一は、本作品以降『ゴジラ FINAL WARS』までの平成・ミレニアムゴジラシリーズ全作品に出演することになる[258][183]。
大和田圭子官房長官役の久我美子は、劇場公開当時の現実世界における官房長官が初の女性である森山眞弓だったことや、久我の夫・平田昭彦(1984年死去)の実母から受けた「息子が好きな映画だったので、あなたも出演しておきなさい」という助言に従い出演した[260][76]。
SSS9役のマンジョット・ベディは、自身も俳優として活動する傍ら、外国人俳優のキャスティングも行っており、大森が監督した『花の降る午後』(1989年)に出演した際に大森から本作品のシノプシスを渡され、キャスティングを担当するものと思っていたところ自身が出演する話であったという[93]。ベディは、外国人キャストの通訳として来ていたが、大森がムードがあるから採用したという[67]。採用した大森は、オーディオコメンタリーで「外国人キャストはもう少しキチンとキャスティングすればよかった」と語っている[261]。その他の外国人俳優は稲川素子事務所から起用されたが、日本語を喋れない者が多く、大森は撮影後に吹き替えを行わなければならなかったのが嫌であったといい、次作では日本語を話せる外国人が集められることとなった[232]。
レポーター役には室井滋が予定されていたがスケジュールが合わず、相楽晴子に改められた[76]。
無名時代の鈴木京香が出演したことでも知られる[258][76]。鈴木は当時大学生で、プロデューサーの富山省吾が鈴木の所属事務所と繋がりがあったことからの出演であった[258]。当時、撮影現場では鈴木の美貌がスタッフの間で噂になっていたといい[258]、主演の三田村邦彦や共演した高島、スタッフとして参加していた白石雅彦らは鈴木は当時からオーラを放っていたと証言している[出典 116]。脚本ではスーパーX2のオペレーターは1人であったが、男女2名に改められた[77]。
大阪のシーンでは、大森が主演映画を監督していたつながりから斉藤由貴が声のみカメオ出演している[205][76][注釈 45]。ゴジラが大阪湾に出現した際には大阪城ホールにおける斉藤の「夢の中へ」のイントロが流され、それに続く大阪の人々が避難するシーンで権藤が「夢の中へ」の歌い出しを口ずさんでいる[205]。セリフの録音も大森が行った[76]。
超能力開発センターの子供の1人や芦ノ湖のエキストラとして、原作者の小林晋一郎の実子も出演している[82]。
防衛庁が全面協力しており[17][31]、東宝特撮史上最大規模の協力体制が敷かれた[262][17][注釈 46]。富山によれば、広報担当が最初から好意的な対応であったといい、自衛隊を表にアピールしようという時期に合致したのであろうと述べている[234]。
劇中に登場する自衛官は役者(エキストラ)だが、登場する自衛隊車両(ジープ・73式大型トラック・自走砲・戦車など)はすべて現役の自衛官が操縦していた[注釈 47]。大森によれば、各自の担当車両を持ち寄ってもらったが、撮影への参加は任意であったため事前にどのぐらいの数になるかわからず、最終的に100台ぐらいが集まりありがたかったが、いつカメラを止められるかわからなかったと述懐している[76]。
桐島と明日香とゴジラとのスリーショットは、戦車が映り込むカットがあるため、自衛隊の富士の演習場で若狭に見立てて撮影され、ラストのエージェントとの立ち回りも同所で撮影された[67]。
大阪ビジネスパークにヘリコプターが着陸するシーンは、第1ヘリコプター団が所属する陸上自衛隊木更津駐屯地で撮影された[146]。浦賀水道の戦闘シーンでは、海上自衛隊のPR映画『海、翼、そして明日』から映像を流用している[264]。
黒木をはじめとする「特殊戦略作戦室」と階級の「特佐」は現実の自衛隊には存在しないものであり、自衛隊の広報より「特殊戦略作戦室なんて組織はありません。特佐なんて階級もありません」と言われ、これを大森が「映画ですから」となだめ、自衛隊側は「今回だけですよ。次回からは自衛隊にある組織と階級で作ってください」と言われたという[265][266]。ただし、これは結果的に成功した設定でもあり、作中で佐官の黒木が中心となってゴジラ攻撃の指揮を執ったり、自衛官の最上位である統幕議長の決定を独断で無視したりする[注釈 48]シーンを「実際の自衛隊では絶対にありえないが、東宝の方で架空の設定を作って頂いて幸いだった」と防衛庁(当時)の広報官が語っている[267]。
黒木と山地が飲んでいる缶コーヒーは、実在する防衛庁共済組合のコーヒー飲料「G・S・D・F珈琲」である[60]。
本編班は、1989年8月28日にクランク・イン[出典 117]、11月2日にクランクアップした[出典 118]。脚本の完成が遅れていたことからずれ込み、タイトなスケジュールでの撮影となった[271]。大森は、スタジオでのセットをあまり使わず、ロケーションを多くしたことが新しいゴジラ映画のスタイルになったのではないかとしている[76]。
三原山噴火の映像は、1986年11月19日に発生した実際の噴火の様子を映したものである[225]。まだ本作品の準備段階であったが、スタッフは翌日に伊豆大島へ上陸して撮影を行った[225]。この映像は、その後も多くの作品でライブラリーフィルムとして用いられている[225]。
冒頭で、前作の物語直後の様子が描かれるのは、映画『キングコング2』(1986年)を踏襲している[272]。営団地下鉄丸ノ内線新宿駅は、再現セットを組んで撮影している[40]。タイトルバックでのビルのミニチュアは、スケジュールの都合により特撮班ではなく本編班が撮影を行った[273]。
首相官邸や国土庁の外観は、正式な許可を得ず、正面に停めた車両から隠し撮りしたものである[56]。
サラジアへ向かう船上のSSS9のシーンは、東京湾フェリーの船上で撮影された[77]。ANEBの引き渡しシーンは、脚本では立川基地跡となっていたが、撮影は江戸川区臨海球技場周辺で行われた[168]。
スーパーX2整備長役の武野功雄は、脚本でも説明セリフが多かったが、さらに現場でセリフが追加され苦労した旨を述懐している[274]。
芦ノ湖でのロケは、箱根ロープウェイ桃源台駅周辺で行われ、駐車場、桟橋、レストラン「樹の館」などが撮影に使用された[166]。TNNテレビのレポーターが白神にインタビューを行うシーンは、東宝スタジオの大プールで撮影された[210]。
未希がゴジラの絵を描くシーンでは、ソニーの「My First Sony グラフィックコンピューター」を用いている[275]。これは、企画会社勤務の鈴木律子が新商品宣伝のため持ち込んだもので、撮影現場にアポイントなしで乗り込んできた鈴木にスタッフらは戸惑ったが、富山はその熱意に押されタイアップを受け入れた[275]。その後、鈴木は正式に東宝での宣伝業務に携わるようになり、ゴジラシリーズでのタイアップ展開の拡大に貢献し、映画『ヤマトタケル』(1994年)からはアソシエイトプロデューサーに就任した[275]。
カーチェイスのシーンは、厚木の私有地で撮影が行われ、三田村とベディはほとんどスタントなしで演じたが[67]、ベディが運転する車が曲がりきれず別の場所で撮影していたスタントマンにぶつかる事故があった[76]。ベディは、スタント用の車はジャンプした際に安全に着地できるよう後ろに重心があったため運転しづらかったと述懐している[93]。この件は新聞報道もされたが、結果的に作品のPRのように扱われていた[93]。
スーパーX2の修理シーンでは、本編装飾スタッフがカメオ出演していたがカットされた[77]。
脚本では太陽の塔の描写はなかったが、大阪らしさを象徴するカットとして追加された[77]。
脚本では、桐島と明日香のラストシーンは車が走り去っていく描写であったが、ロケを行う時間がなくなってしまったためストップモーションで表現された[77]。
特技監督の川北紘一を筆頭に、特撮スタッフの多くは同年公開の『ガンヘッド』から引き継いでいる[276][277]。操演の松本光司や特殊効果の渡辺忠昭ら円谷英二時代からのベテランのスタッフも参加しているが、美術の大澤哲三、撮影の江口憲一、照明の斉藤薫などゴジラシリーズ初参加となるメインスタッフも多く、特撮スタッフの世代交代が図られた[276]。世代交代は田中が意図したものでもあるが[276]、経験のある美術や操演のスタッフが同時期に制作していたスペースワールドのイベント映像へ流れていたという都合もあった[278]。一時期、鳴海聡が操演チーフを務めていたが、映画『ZIPANG』(1990年)参加のため途中降板している[278]。スケジュールが短かったことから、撮影途中からチーフ助監督の松本清孝を中心としたB班が組まれ、スーパーX2の発進シーンなどを担当した[出典 119]。
川北は、観客を飽きさせないため2、30分に1回ヤマ場が来るよう設定し、また観客が見入ることから10分置きごとに怪獣が咆哮する場面も入れている[222]。また、芦ノ湖は「霧」、大阪は「炎」、若狭は「雨」と、異なるシチュエーションとしている[282]。
川北は、本作品での演出的な挑戦として怪獣の主観映像や実景との合成などを取り入れている[44]。また、ゴジラが戦う場面で風や雨などを演出したのは、黒澤映画の模倣であると述べている[44][注釈 49]。一方で、操演のワイヤーが見えにくくなることから、戦闘シーンは夜が多くなり[230]、デイシーンでも暗めに映している[222]。夜間シーンではサーチライトが効果的に使われており、回転台や首振り機能付き扇風機などに取り付けて動かしているほか[283]、照明助手が手で振っていたものもある[284]。
川北は、映画『大空のサムライ』(1976年)でのゼロ戦の撮影にラジコンを導入していたが、本作品では初めてヘリコプターのラジコンを用いた[273]。ラジコンの操作は、千葉のラジコンショップを介して紹介されたラジコンマニアの親子が担当しており、使用されたラジコンもその親子の私物を自衛隊カラーに塗装したものである[273]。
合成作業には複数企業が参加し、日本エフェクトセンターは光線作画、マリンポストはモニター画面など、各社の得意分野で分担する体制となった[285]。川北から合成の相談を受けた東京現像所の小川利弘は、合成量が増加し、作業も複雑化していたことから1社ではまかなえないと判断し、各社に依頼し小川が管理を行った[285]。
CGも導入されているが、当時はCGのデータをフィルムに起こすことができるソフトがなかったため[注釈 50]、プロッターを用いて紙に印刷したCGを撮影してオプチカル合成で着色する方法など、合成自体はアナログ作業で行われた[286][287]。芦ノ湖のシーンでは、合成に70mmフィルムが用いられた[288][283]。モニター画面も、ビデオテープに収録したものを再生している[286]。
特撮班は1989年8月10日にクランクイン[出典 120]。同日から12日まで御殿場の陸上自衛隊東富士演習場にて、ゴジラが三原山から出現するシーンの撮影が行われた[出典 121]。前作でも同地で撮影が行われたが[273]、前作は富士裾野側、本作品では富士山側にカメラが向けられている[277]。晴天では富士山がはっきり映ってしまうため、曇天を待って3日目に撮影が行われた[273][注釈 51]。火口部分は、ブルドーザーで盛った土で作られた[277][273]。
8月15日から30日には、東宝スタジオ大プールにてゴジラと自衛隊の戦闘シーンが撮影された[289][292][注釈 52]。同プールは、本来ホリゾント側が順光になるよう設計されていたが、川北は逆光による演出を狙いホリゾント上にレフ板を並べ水面をきらめかせて撮影を行った[出典 122]。実験的にラジコンヘリも用いているが[293][289]、操作が難しいため大プール内に墜落することもしばしばあったという[294]。撮影にはクレーンやいかだを用いられたが、いかだが転覆してカメラが使用不能となる事故が起きている[出典 123]。操演のセッティングには、映画『竹取物語』(1987年)で沢口靖子が演じる加耶が昇天するシーンで使用された籠を用いている[287]。9月7日に行われたゴジラが熱線を吐くシーンの撮影では、爆破のショックによりプールのヒビが広がり、水が流出する事故もあった[295]。
8月31日から9月12日には、東宝第8ステージにて芦ノ湖セットの撮影が行われた[296][297][注釈 53]。従来は第9ステージで特撮の撮影が行われていたが、当時はスペースワールドのイベント映像撮影が行われていたため、第8ステージが使用された[297]。ホリゾントの低さをカバーするためにセット自体が小さく作られ、アオリ気味の演出で巨大感を表現しつつ、スモークで機材が水面に映り込むことを防いでいる[出典 124]。湖面の霧は、魔法瓶に詰めた液体窒素を水中で爆破して表出させたものである[273]。また、セットとカメラの間に木のミニチュアを置くことで奥行きを出しており、この手法は以後の作品でも用いられた[298]。湖面は実際に水を張ったプールとなっているが、照明機材などが漏電しており、感電するスタッフが多かった[294]。一部のシーンでは大プールも用いている[210]。ビオランテの炎上シーンなどはオープンセットで撮影された[210]。
9月17日から10月6には、東宝第2ステージにて大阪ビジネスパークのセット撮影が行われた[115][299][注釈 54]。美術の大澤哲三は大阪出身であることから、セット制作にはその土地勘が反映されている[297]。舞台が狭いエリア内であることや高層ビルをフレーム内に収められないこと、ゴジラのみで対戦怪獣が登場しないことなどから、芦ノ湖と同様コンパクトなセットとしつつ、俯瞰撮影を前提としたものとして作られた[出典 125]。河幅は実物よりも広く作られており、ビルの照明を水面に反射させて照明効果を高めている[115][299]。アオリのシーンは、手前側のミニチュアのみを用いたオープンセットで撮影された[115][299]。川北は、前作では高層ビルの中でゴジラが貧弱に見えてしまったことから、本作品ではあえてアオることでゴジラの巨大感を強調し、ビルの威圧感を薄めたと述べている[222]。クリスタルタワーは、撮影当時は建設中であったためミニチュアもその状態で制作された[301][注釈 55]。
10月12日から18日は、東宝第8ステージでサンダービーム作戦の撮影が行われた[302][280][注釈 56]。セットは奥行きを持たせるため、バースのついた設計となっている[280]。雨の描写は、消火栓の放水管を潰して水を細かくしており、メーサータンクのアップでは霧吹きを用いている[280]。
クライマックスのゴジラとビオランテの対決シーンも第8ステージで撮影された[303][216]。ビオランテは当初動く予定ではなく、川北の発案によって行われた[出典 126]。
若狭の戦闘時間の方が芦ノ湖での戦闘シーンより短く東宝から疑問の声が出た。これは川北が芦ノ湖側の撮影に時間を使い、若狭側の撮影予定を消化しきれずに時間切れとなったためである[305]。特撮班のクランクアップは、11月2日とする説と11月6日とする説が存在する[270]。
大阪のシーンでは、川北が特撮を手掛けたテレビドラマ『東京大地震マグニチュード8.1』のビル破壊シーンを流用している[264]。廃墟となった新宿のシーンでは、前作で使用したミニチュアを流用している[57]。
F-15が硝酸銀を撒くシーンのためミニチュアが用意されていたが、未使用となった[306]。また、映画『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』(1988年)で用いられたなだしお型潜水艦のミニチュアも流用予定であったが、こちらも使用されなかった[306]。
これらの未使用シーンは、DVDに映像特典として収録されている。
音楽は、伊福部昭ではない新しいゴジラ音楽を求めて、当時大ヒットしていたドラゴンクエストシリーズの音楽を手掛けるすぎやまこういちが起用された[出典 128][注釈 57]。また、劇中で伊福部昭の楽曲が『メカゴジラの逆襲』以来15年ぶりに使用されている[49](アルバム『OSTINATO』[注釈 58]より「ゴジラ・タイトル」、「ゴジラ対特車隊」、「怪獣大戦争マーチ」の3曲を流用[出典 129])。
映画音楽は、映像がある程度仕上がってから制作されるのが一般的であるが、本作品ではクランクアップ前に脚本などのイメージに基づいた作曲が行われた[314]。すぎやまは、場面ごとの要望に沿った音楽ではなく、組曲として1枚のアルバムを制作するかたちを望んでいたという[311]。録音は11月14日から15日にかけて行われた[228]。楽曲は、ゴジラ、ビオランテ、スーパーX2の各テーマが中心となっており、エンディング曲にはスーパーX2のテーマが充てられた[314]。エンジニアの行方洋一や指揮・編曲を行ったデービッド・ハウエルらは『ドラゴンクエスト』からのつながりで参加している[311]。
冒頭の自衛隊とバイオメジャーとの戦闘でかかる「バイオウォーズ」では、ゴジラのテーマのアレンジが挿入されている[311]。大森や音楽担当者からは好評であったが、音楽プロデューサーの岩瀬政雄は後日伊福部から苦言を呈されたことを述懐している[311]。
すぎやまの楽曲について、映画音楽評論家の小林淳は「軽快で口当たりの良い音楽[47]」「ゴジラ映画のエンターテイメント性を引き出してきた[314]」、東宝レコードの岩瀬政雄は「流麗なハリウッド風のオーケストレーション」[309]と評している。しかし、小林はすぎやまの音楽と伊福部の音楽は水と油であった[314]、岩瀬は結果として伊福部の楽曲の方が印象に残ってしまったとも述べており、次作では伊福部本人が復帰することとなった[出典 130]。
1990年の正月興行として、『ゴーストバスターズ2』『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』『バットマン』が競合していたため、前作の「3G決戦」に引き続き「2G2B決戦」と打ち出された[317]。
制作当時は児童向けにディフォルメキャラクターが好まれており、本作品でもポスターなどにディフォルメされたゴジラのイラストが用いられた[298]。このことは、前作から観客層を拡大する狙いがあったとされ、以降の作品でも踏襲している[298]。
『デーモン小暮のオールナイトニッポン』にてスペシャル番組が組まれた[317]。当初は小暮独自にやっていた一コーナーであったが、東宝が最終的にタイアップをアピールして来たため、以前自分のMVにゴジラの出演のオファーを断られたデーモンは「今度は(ゴジラを)貸してくれるよな」とコメント。リスナーの投稿も「ゴジラ対ジラース、同時上映キンゴジ対モスゴジ」といったマニアックな投稿と、そのネタが解らないのに爆笑する小高恵美などの場面もあった[出典無効]。本編への出演も小暮からの要望によるものであった[77]。
日本テレビでは、朝の情報番組『ズームイン!!朝』にアポイントなしでゴジラが出演した[317]。次作以降は番組の許可を得ての出演となった[317]。
よみうりテレビでは、ゴジラの34年ぶりの大阪上陸を記念して映画番組『CINEMAだいすき!』にて「ゴジラ復活作戦」と題し、ゴジラシリーズの過去9作品が約2か月に渡って放送された[40]。12月2日放送の『ゴジラ』と『ゴジラの逆襲』では、両作品の合間に特別番組『メイキング・オブ ゴジラVSビオランテ』も放送された[40]。
1989年11月21日から23日には全高15メートルのゴジラバルーンが日比谷シティに展示され、その後福岡・大阪・名古屋へ巡業した[318]。
作品内容については完成度の高さが評価されたが、興行収入は前作を下回り、目標の15億円にも到達しなかった[出典 131]。興行成績自体は1990年度の邦画第8位であり[29]、制作費が十分に回収できたことからシリーズは続行することとなったが[27][321]、この結果を受けて次作以降は新怪獣ではなく人気怪獣を再登場させ、内容もエンターテイメント性を重視したファミリー向け娯楽路線に方針変更されることとなった[出典 132][注釈 59]。また、本作品では予算や撮影日数がオーバーしていたことが次作の制作体制にも影響をおよぼしている[322]。
前作の影響からムック本の発売が少なくなり、映像ソフトの発売も1991年に入ってからになるなど、公開当時の商品展開は消極的なものとなっていた[43]。
一方、後年では再評価され、2014年7月19日に日本映画専門チャンネルで放映された「ゴジラ総選挙」では、本作品が「ゴジラ映画No.1」に選出された[出典 133]。また、2020年代以降はビオランテの人気も高まっている(詳細はビオランテ#評価を参照)。
出版芸術社から刊行されている『怪獣大戦争(怪獣小説全集 2)』に原案者である小林晋一郎の「ゴジラ対ビオランテ」が収録されている。
有馬治郎による小説版が角川文庫(角川書店)から刊行されている[40]。
映画に沿った展開になっているものの、オリジナル要素を多く含むストーリーである[出典 134]。スーパーX2は「アングラー」のコードネームで呼ばれており、ファイヤーミラーの代わりに大広角レーザー砲を装備する、権藤や白神は劇中で落命せず[325]、ビオランテも四肢があり熱線を吐く[81]などの差異がある[326][40]。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.