森山眞弓

日本の政治家、官僚 (1927 - 2021) ウィキペディアから

森山眞弓

森山 眞弓(もりやま まゆみ、1927年昭和2年〉11月7日 - 2021年令和3年〉10月14日[1])は、日本労働官僚政治家位階正三位。旧姓名は古川 眞弓[2]

概要 生年月日, 出生地 ...
森山 眞弓
もりやま まゆみ
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内閣広報室より公表された肖像
2001年 撮影)
生年月日 (1927-11-07) 1927年11月7日
出生地 日本 東京都
没年月日 (2021-10-14) 2021年10月14日(93歳没)
死没地 日本 東京都
出身校 旧制津田塾専門学校
(現・津田塾大学
東京大学法学部法律学科
前職 労働省婦人少年局局長
参議院議員
衆議院議員
白鷗大学学長
所属政党 自由民主党
称号 正三位
旭日大綬章
ニュージーランド・メリット勲章
法学士(東京大学・1950年
配偶者 夫・森山欽司(元衆議院議員、第50代運輸大臣、第27代科学技術庁長官
公式サイト 森山眞弓公式Webサイト(2010年3月22日時点のアーカイブ)

第71代 法務大臣
内閣 第1次小泉内閣
第1次小泉第1次改造内閣
在任期間 2001年4月26日 - 2003年9月22日

第118代 文部大臣
内閣 宮澤改造内閣
在任期間 1992年12月12日 - 1993年8月9日

内閣 第1次海部内閣
在任期間 1989年8月25日 - 1990年2月28日

内閣 第1次海部内閣
在任期間 1989年8月10日 - 1989年8月25日

選挙区比例北関東ブロック→)
栃木2区
当選回数 4回
在任期間 1996年10月21日 - 2009年7月21日

その他の職歴
参議院議員
栃木県選挙区
当選回数 3回
1980年7月8日 - 1996年9月20日
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労働省婦人少年局長、参議院議員(3期)、衆議院議員(4期)、環境庁長官内閣官房長官(女性初)、文部大臣法務大臣白鷗大学学長(2007年2月 - 2013年3月)などを歴任した。

来歴、人物

要約
視点

生い立ち

北海道硫黄株式会社社長の古川俊雄の三人姉妹の長女として生まれた。津田塾専門学校外国語学科(現・津田塾大学)へ入学。極東国際軍事裁判において翻訳のアルバイトをしていた。津田塾専門学校を卒業後、女性として初めて東京帝国大学法学部法律学科(現在の東京大学法学部)へ入学(同期東大入学に中根千枝がいる)。大学3年生のときに森山欽司と結婚した[3]

国家公務員上級甲試験(現在の「国家公務員採用総合職試験」にあたる)に合格し、東京大学卒業後、1950年4月に女性上級職員第1号として労働省に入省[3][4]。女性官僚の草分け的存在としてキャリアを築いた。1980年(昭和55年)、婦人少年局長を最後に労働省を退官。局長時代には男女雇用機会均等法の草案に尽力した。その模様は『プロジェクトX』で後に紹介されている。

労働省局長を退官する頃、特命全権大使の下馬評にも上っている[3]

政界

1980年(昭和55年)に労働省を退官し、第12回参議院議員通常選挙栃木県選挙区に自由民主党より立候補、トップ当選する。当時、自民党栃木県連会長だった夫は、彼女の立候補に積極的ではなかったが、この選挙で自民党は2議席を独占した。夫の森山欽司とは「おしどり夫婦」として知られた。

連続3期当選したのち、第41回衆議院議員総選挙に鞍替え立候補するため、参議院議員を辞職した。同選挙では比例北関東ブロックより単独立候補し、当選する。以降連続4期当選しており、その間に選挙区栃木2区に変更している(夫が死去した後の1990年(平成2年)第39回衆議院議員総選挙で、自身が衆議院鞍替えを望んだが断念、簗瀬進を擁立した)。

1989年(平成元年)、第1次海部内閣環境庁長官として初めて入閣するが、女性スキャンダルで内閣官房長官山下徳夫が辞任したため、後任の官房長官に横滑りで就任し、女性初の官房長官となった(女性の官房長官は2022年時点まででも森山が唯一である)。

1992年(平成4年)、宮澤改造内閣文部大臣として入閣。1993年の選抜高校野球では、始球式を務めた。

第1次小泉内閣、および、内閣改造後の第1次小泉第1次改造内閣で、法務大臣として入閣した。約2年4ヶ月の法務大臣在任中には死刑囚5人の死刑執行命令書署名した。

なお、法務大臣在任中の2002年(平成14年)に鈴木宗男事件が発生している。

2005年の郵政選挙後には、自民党党紀委員長として郵政民営化法案に反対した衆参議員ら50人に対する処分を決定する。首班指名でも他党党首に投票した野呂田芳成を除名処分とし、平沼赳夫堀内光雄野田聖子ら26人には離党勧告、中曽根弘文鴻池祥肇らは1年間の役職停止などとした。

2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界からの引退を表明する[7]

死去

2021年(令和3年)10月14日、老衰のため東京都内で死去。93歳没。同月18日に訃報が明らかにされた[7][8]。死没日をもって正三位に叙された[9]

政策

  • ユースカルチャーに対する法的規制を積極的に推進している国会議員の一人としても知られている。近年においては、児童保護と性倫理の矯正という視点からアニメやコミックなどにおける児童キャラクターの性描写を児童ポルノ法によって規制するべく活動していた[10][11]。また女性議員政策提言協議会の会長として、ゲームソフトに対する広範な法的規制の必要性を主張している[12]
  • 選択的夫婦別姓制度導入に賛同し、また婚外子差別撤廃派でもあった[13][14][注釈 1]

エピソード

  • 夫の欽司との間に1男2女を授かったが、長男は昭和48年(1973年)に、柔道の試合中に事故で死去。森山の公式ウェブサイトでは、この時のことについて、悲しみを紛らわすため(労働省の)仕事に打ち込んだと記述している。
  • 孫が生まれた時、昔妹が使った呼び名を思い出して、「まあもちゃん」と呼んでもらうことにした[15]
  • 趣味は、カメラ、ゴルフ、スポーツ観戦など[16]
  • 日中国会議員書画展へ書画を提供している[17]
  • 日本相撲協会に対し、大相撲の神事としての不文律(女人禁制)についての問題提起をたびたび行っていた。労働省婦人少年局長時代の1978年(昭和53年)には、わんぱく相撲大会の予選で上位入賞した女児が蔵前国技館で行われる本大会に出場できない問題について、協会理事を労働省に呼び「土俵は神聖というのは、どういう意味で?」「みなさんは女性を不浄だと思っていらっしゃるのかしら」と問い詰めた[18][注釈 2]。官房長官時代に、内閣総理大臣杯土俵に上がって授与しようとして日本相撲協会に拒否された際には、森山やその支持者らがこの事態を女性差別問題であると問題提起を行い、その後の女人禁制反対派の活動により各地で様々な伝統行事のあり方に議論を呼びかけることになった[19]

栄典

主な所属議員連盟

略歴

著作

  • 『各国法制にみる職場の男女平等』東京布井出版、1979年2月。 NCID BN00996527全国書誌番号:79008888NDLJP:11893849
  • 『各国の職場における男女平等法』教育社〈入門新書 時事問題解説 no.222〉、1979年3月。 NCID BN08467246全国書誌番号:79014214NDLJP:11893789
  • 『うさぎのじょぎんぐ 労働省婦人少年局長の覚え書き』サンケイ出版、1980年4月。 NCID BN16161820全国書誌番号:80024727
  • 『女と国会とコーヒーカップ ナイロビへの道』小学館、1985年10月。ISBN 9784093870153 NCID BN05870129全国書誌番号:86006774NDLJP:11924872
  • 『非常識からの出発 女性官房長官・激動の六か月』小学館、1990年11月。ISBN 9784093870580 NCID BN06332097全国書誌番号:91006508
  • 『この日この時』河出書房新社、1994年5月。ISBN 9784309009124 NCID BN11762390全国書誌番号:94053124
  • 『春夏秋冬』河出書房新社、2001年1月。ISBN 9784309013978 NCID BA51241584全国書誌番号:20148602
  • 『わたしの呼び名は《まあもちゃん》』岩波書店〈岩波フォト絵本〉、2002年11月。ISBN 9784001153538 NCID BA60762318全国書誌番号:20344440
  • 『法務大臣の八八〇日』河出書房新社、2004年8月。ISBN 9784309016580 NCID BA68686508全国書誌番号:20666052
  • 『つまり、政治家とは 激動の時代とともに』河出書房新社、2012年2月。ISBN 9784309245805 NCID BB08580073全国書誌番号:22056595

洋書

編集

編著

共編著

翻訳

脚注

関連項目

外部リンク

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