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日本のアニメプロデューサー、評論家 (1958-) ウィキペディアから
おかだ としお 岡田 斗司夫 | |
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本名 | 岡田 斗司夫(おかだ としお)[1] |
生年月日 | 1958年7月1日(66歳) |
出生地 | 大阪府大阪市住吉区 |
国籍 | 日本 |
職業 |
プロデューサー、 評論家、文筆家 |
ジャンル | サブカル全般、SF、映画、人文科学、社会科学 |
配偶者 | 独身、離婚歴あり[2] |
公式サイト | 岡田斗司夫の公式ブログ オタキング・岡田斗司夫のブログ |
主な作品 | |
実写映画 アニメーション映画 OVA オリジナルビデオ ゲーム 書籍 『ぼくたちの洗脳社会』(著) 『オタク学入門』(著) 『「世界征服」は可能か?』(著) 『いつまでもデブと思うなよ』(著) 『オタクはすでに死んでいる』(著) |
株式会社オタキング代表取締役、株式会社クラウドシティ代表取締役、FREEex設立者、株式会社ガイナックス元代表取締役社長(初代)、東京大学教養学部元非常勤講師、大阪芸術大学芸術学部キャラクター造形学科元客員教授。
大阪市[3]住吉区出身、東京都武蔵野市吉祥寺在住[4]。大阪電気通信大学中退[5][6]。血液型O型[7]。離婚歴あり、独身[2]。自称、オタキング[3]。
1958年(昭和33年)7月1日、大阪市住吉区で一男一女の第2子として生まれた。「斗(闘い)を司(司る)夫(ますらお)」の意で名付けられた[8]。
1963年(昭和38年)、住吉区遠里小野[gm 1]にある遠里幼稚園に入園した。幼稚園2年目で既に漢字が読めるなど早熟であったため、幼稚園は無意味だから辞めたいと主張し、父母らの同意のうえで1964年(昭和39年)に退園する[5]。
この頃、家計は貧窮し、ご飯のおかずはきな粉という食生活で、長屋に3家族で生活していた[注 1]。幼少時に学校で受けた知能検査で、知能指数が148以上あることを知り、頭が良いのなら宿題などは単なる機会損失に過ぎないと、以後の勉学を放棄した[5]。この頃の夢は科学者になることであった。大阪市立遠里小野小学校入学[9]。父親はUFOや超能力などオカルト好きで、中でも横山光輝の『バビル2世』の大ファンで[6]、父親が買ってきたUFO関連の書籍を拾い読みし、日本万国博覧会(大阪万博)の御当地という環境もあって科学・物理方面に明るい子供となり、父親と空想上の乗り物の内燃機関について互いに知恵を絞っていた[要出典]。
小学三、四年生の頃、母が内職(縫製)の規模を拡大させて有限会社岡田刺繍を設立すると、父が教師を辞めて社長に就任した[10]。
大阪市立三稜中学校へ進学。中学では友人から機材を借りて自主短編映画を撮影し、学校の行事などで上映していた。この頃の岡田はSF作家になることを夢見ていたが、知識とアイデアは大量に出てくるが、それを創作物という形にするのは全く別の才能だということを悟る。映画・特撮・アニメーション・模型・空想科学の流行に没頭した。浜村淳のラジオ番組『ヒットでヒット バチョンといこう!』の「もし地球の自転が停止したら」という投稿コーナーで「地球の自転が停止したとしても、エネルギー保存則まで消えてしまうわけではない。行き場をなくした膨大な運動エネルギーは瞬時にして熱エネルギーに変換され、あっというまに地球は灼熱の惑星となって生物は絶滅する」と投稿し、これが浜村に絶賛された[11]。
1974年(昭和49年)、大阪府立今宮高等学校へ進学する。20歳までの3年間で蔵書が1万7千冊以上となる[12]。テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を観て衝撃を受け、父親にビデオテープレコーダ「Uマチック」を買ってもらった[13]。当時高価だったビデオテープは1本しかなく[注 2]、何度も再生して暗記しては上書き録画した。1977年(昭和52年)、同校を卒業するも、大学受験に失敗し、夕陽丘予備校に通い始める[6]。
1978年(昭和53年)、コンピュータを学ぶために大阪電気通信大学に入学し[14]、「SF&アニメーション研究会」へ入部し、没頭し始める。のちに大阪芸術大学の講義で本人が語ったところによれば、一年生の時に履修届の提出を忘れてしまい、以降4年間は大学へ行くふりをしながら両親には仕送りを続けてもらい、籍を置いたままファン活動にのめり込んでいる。同年、映画『スター・ウォーズ』が日本で公開されると熱烈なファンになった。
ある日家に立ち寄ると3階建てであったはずの実家が4階建てへと増築されており、最上階の1フロアが丸々「巨大な神殿」に変わっていた。父親からは「今日からお母ちゃん(神道系の)神さんやで」と告げられて驚愕する[15]。訊けば、母が税金対策として新興宗教を立ち上げ、母自らが教祖となっていた[15]。しかし、零細企業である有限会社岡田刺繍の収める税金よりも宗教法人としての必要経費の方が多く、結局は税金を納めていたほうが損失が少なかったというのが実態であった[15][16]。
1978年(昭和53年)、大阪電気通信大学も参加していた関西学生SF研究会連盟の会合に顔をだすようになる。ここで武田康廣と出会う。同年、第17回日本SF大会 (ASHINOCON) に参加し、武田康廣と共に舞台で話芸を披露。「関西芸人」の異名を取る[17]。
1979年(昭和54年)、関西学生SF研究会連盟が大阪で主催した第4回SFショーの事務局長を務める[18]。本来は日本SF大会の大阪第3回大会 (DAICON3) を開こうとしたものだったが、開催ルールを知らなかったため認められず、野田昌宏が始めたイベントのSFショーの名を借りて開催した[19]。企画・構成・演出を務め、桂枝雀のSF落語やコスチュームショーなどを企画構成した[18]。
1981年(昭和56年)、第20回日本SF大会 (DAICON3) を開催。オープニングでDAICON FILMの自主製作アニメーションを上映。会場でグッズやガレージキットを販売したり、自主制作作品のビデオ販売で大会の赤字を補填できたことなどにより、このジャンルがマニア向けのビジネスになると直感し、両親からの出資を得て実家の会社の一部門として1982年(昭和57年)にSFグッズ専門店「ゼネラルプロダクツ」を開店する[18]。
1982年(昭和57年)、脚本を執筆したDAICON FILMの自主製作映画『愛國戰隊大日本』がSF界で論争になる[20]。同年6月27日に放送の劇場アニメ『伝説巨神イデオン』の宣伝番組に武田康廣と共に「双子の悪魔」としてテレビ出演し、数々のパフォーマンスを演じた[21]。
1983年(昭和58年)には、DAICON FILMの自主制作映画『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』(総監督・主演:庵野秀明)の脚本を執筆した。
大阪での活動に限界を感じていた山賀博之に誘われ、岡田は東京進出を決めた[22][23][24]。
1984年(昭和59年)、アニメ制作会社「ガイナックス」を設立し、代表取締役に就任する。アニメ映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』、OVA『トップをねらえ!』、NHKテレビアニメシリーズ『ふしぎの海のナディア』や、PC用ゲームソフト『プリンセスメーカー』などのヒット作を生み出す。
1992年(平成4年)、岡田自ら企画したPC用ゲームソフト電脳学園シナリオI Ver2.0が有害図書指定され、宮崎県を提訴して最高裁まで争うが棄却される。その後、ガイナックスはEOCSに加入する[要出典]。同年、岡田はガイナックスを退社する。退社についてネット上では会社内での不仲説などが流れたが、岡田と共に同社を立ち上げた武田は「社長でありながら仕事をしなくなった岡田に会社を辞めるよう迫った結果だ」とし[17]、岡田本人は、著書『フロン』において「子供が生まれてからSFや美少女モノの話が作れなくなってしまったため」と語っている。
1994年(平成6年)10月から1995年(平成7年)3月にかけて東京大学教養学部の非常勤講師を務め、サブカルチャーを題材とした「マルチメディア概論」の講義を行った。1996年(平成8年)から1997年(平成9年)にかけては、学外の講師を招聘して設置される自由研究ゼミとして「オタク文化論」の講義を行った[25]。講師として参加した竹熊健太郎によると、毎回ゲストに講義させる形態で、岡田自身は最初にゲストを紹介するだけであったという[26]。1996年に、講義内容を元にした 『オタク学入門』(太田出版)が刊行されるが、竹熊健太郎によれば、漫画の章の9割は竹熊単独の講義内容が元になっているにもかかわらず、「竹熊との対談を元にした」と、あたかも岡田が内容に関わっているかのように振る舞ったと批判している[27]。立教大学でも講義を行う。
1995年(平成7年)、唐沢俊一・眠田直とともに、オタク芸人ユニット「オタクアミーゴス」を結成。1996年よりレギュラーメンバーとして出演のNHK・BS2で不定期放送中の番組『BSマンガ夜話』開始。
1997年(平成9年)、自身の講演・執筆活動のために株式会社オタキングを設立、代表取締役に就任[28]。
1999年(平成11年)、編者を務めた『国際おたく大学』で唐沢俊一が行った伊藤剛 への誹謗中傷によって提訴される。結果、原告の要求した「全国紙での謝罪・賠償金の支払い」という要求は却下され、「誹謗中傷的」という文言を含む謝罪をサイトに一定期間掲示するという条件で和解する。『フロン』連載執筆中に、妻と相談の上離婚して別居する。
2003年(平成15年)、ガレージキットの草創期から公私にわたる交友がある海洋堂と組んで食玩「王立科学博物館」シリーズを企画し、タカラから発売。
2004年(平成16年)、岡田が企画立案したBS2『BSアニメ夜話』の放送開始。レギュラーメンバーでもあり、当初は司会も務めた。
2005年(平成17年)、大阪芸術大学芸術学部キャラクター造形学科客員教授。
2006年(平成18年)、新宿のロフトプラスワンにおけるトークショー「オタク・イズ・デッド」で「オタクという民族は解体し、『オタク文化』は死んだ」「いまこそすべてのオタクは、『オタクである』という旧来のアイデンティティより解放され、『アニメやマンガなどが好きな個人』として生きるべき」と語り、各メディアで取り上げられ[29]反響を起こした。そこで語られたトークを大幅に加筆修正したものが2008年に「オタクはすでに死んでいる」として発表された。同年11月21日に、プチ落語家「吉祥亭満月」としてデビュー。2001年(平成13年)頃から2003年(平成15年)頃にかけてダイエットをし、一時は30kgの減量をしたがリバウンドして元に戻る[30]。2006年頃に、口にする食べ物を逐一記録するダイエットを開始した。
2007年(平成19年)、自ら実践したダイエットをテーマに著した『いつまでもデブと思うなよ』(cf.) が、2008年(平成20年)に50万部のベストセラーとなる[31][32]。日本トンデモ本大賞2008で複数票を得た。同2008年、食玩「王立科学博物館」シリーズが三才ブックスより書籍化された。同年1月、携帯電話ブランド各社の公式サイト「王立科学博物館」[33]が相次いで公開された。同年5月、電子玩具の企画開発、製造販売事業を行うワイ・シー・トイズ・ラボ株式会社[注 3]顧問就任。
2009年(平成21年)3月、mixiを退会した[35][36]。直前には自身の公開日記で経緯と理由について語っており、何者かによる度重なるプロフィール改竄の被害を数か月間受け続け、システム管理者に対応を求めてきたが、返信があったのは当初だけで、その後は対応措置どころか返信すらなくなってしまったことで、システムと管理者を信頼できなくなったという[35][36]。
2011年(平成23年)2月、株式会社クラウドシティを設立。5月、ニコニコ生放送にて『ニコ生 岡田斗司夫ゼミ』を始める。
2012年(平成24年)、吉本興業と契約し、よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属する[3][注 4]。1月、オタキングexの社名をFREEexに変更する。
2014年(平成26年)9月、作中に岡田自身が登場する漫画作品『アオイホノオ』のドラマ版に手塚治虫役で出演する。
2015年(平成27年)1月、岡田が女性80人と交際していたことが週刊誌に暴露された。岡田自作の〝愛人リスト〟がネット上に流出し、炎上に発展。女性を細かくランク付けし、『「若い子は騙して抱いて、終わったら捨てろ」というのが僕の中の法則』などとも記しており、批判が殺到した[37][38]。岡田自ら、 一時期は80人、2015年時点で9人の女性と同時に交際していると自称している[39][40]。本件によって騒動となったことを受けてフリックスの代表を辞任した[40]。
2016年(平成28年)5月、堀江貴文らと共に「みんなのアニメプロジェクト」をスタートし、制作費をクラウドファンディングのCAMPFIREで募る[41]。
2017年(平成29年)、岡田斗司夫アーカイブを開設[注 5]。
2021年(令和3年)スタジオカラーの公式Twitterの一つ「(株)カラー 2号機」は2021年5月23日、2つのツイートをリツイートし岡田斗司夫の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に関する考察を否定した[42]。6月8日、スタジオカラーのYouTubeチャンネルにおいて、岡田の「真希波・マリ・イラストリアス=庵野秀明の妻・安野モヨコである」という説に対して 「岡田斗司夫は庵野秀明と25年会っていないうえ、安野モヨコとも面識がない」といった情報を映画関係者らが明かした[43]。
2022年(令和4年)3月8日にTwitchで配信された『シン・エヴァンゲリオン劇場版1周年生特番』のQ&A企画で、庵野秀明はファンからの「そのひとが言うと、それが正解になってしまう非関係者なひとのことをどう思っていますか?」という質問に対して「迷惑、と思います」と断言。「非関係者なひと」は岡田斗司夫のことだとファンの間では考えられている[44][45]。この件のツイートに対してはスタジオジブリ公式Twitterも同意を示した[46][47]。
他にも「マリは安野モヨコがモデルというのは本当か」という質問に対して庵野は「マリのモデルが妻だと解釈した文章や動画等を散見しますが、それは一部の人の解釈・憶測にすぎません」と否定した。さらに、キャラクターやストーリーの解釈は自由だと認めながらも、「偏った憶測でスタッフや家族を貶められるのはあまりに哀しいこと」だと意見を表明。あらためて「マリ=モヨコ説」にクギを刺し、岡田の「解説」は庵野秀明から完全否定される形となった。
2024年(令和6年)
岡田斗司夫が2007年(平成19年)の著書『いつまでもデブと思うなよ』[50]で紹介したダイエット法である。日々摂取する食物とそのカロリーを記録することで、自分が摂取しているカロリー、食事の内容、間食などを自覚し、食生活の改善につなげるというものである。
フリックス (FREEex) とは、岡田斗司夫が2010年(平成22年)に設立した後援会的組織「オタキングex」を前身とする組織。前身組織から引き継いだ "ex" は「未来への可能性」を意味する拡張子に由来し、現組織名は、"free" との合成で「自由の未来への可能性」などといった意味合いをもって命名された。自由でこそ本来のポテンシャルを活かせる岡田を自由に活動させ、そこから生まれるものを岡田以外の者が自由に利用できるようにすることを設立理念とする。作家・評論家としての岡田斗司夫のコンテンツを著作権フリー化し、無料で世の中に広めることを重要な目的および手段としている。上記の騒動により、団体代表を退いている。
「オタキング」とは、日本語の俗語「おたく」と外来語「キング」の合成語で「オタク王」を意味する自称で他称。「オタクのカリスマ」[51]「おたくの教祖」とも称される。
戯画的にオタクを演じることでオタクの顔であった宅八郎に替わり、1996年(平成8年)からオタク関係の著書を立て続けに出版し、並行して各種メディアに頻繁に露出するようになり、そのなかでオタクをひたすら擁護・称揚して、それまでネガティブなイメージであったオタクの社会的地位向上のための言論活動を1998年(平成10年)まで行なった[52][53]。
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