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兵庫県神戸市出身。旧制都立武蔵中学校を経て早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業。日新火災海上保険を経て、1961年に日本放送協会に入局し、国際局に勤務した。並行して、映画雑誌の『キネマ旬報』『映画評論』には1950年代初めから読者投稿を繰り返し常連採用者となっていた。やがて、読者から常連執筆者となり、1969年にNHKを退局。以後、フリーランスの立場で映画評論やフランス語翻訳などの執筆活動を行い、毒舌の辛口映画評論家として知られた。特にフランス映画に強く、1972年以降フランスのカンヌ国際映画祭には繰り返し出席してレポート記事を執筆した。評論活動では、『キネマ旬報』誌を中心に活動し、連載コラム「シネマ・ア・ラ・モード」は2度に渡って同誌の読者賞を受賞した。
一方、評論活動以外には、映画・テレビドラマでのカメオ出演を積極的に行い、映画関係者を描く小説を執筆した。
1984年に肝硬変、食道動脈瘤で倒れたが奇跡的に回復する。1997年3月23日、肝不全にて死去。享年66。
田山の没後、日本映画批評家大賞内の国際活動賞に(田山力哉賞)の副名称がつけられている。
「死と血に魅入るポランスキー」(映画評論1972.10月号)、「ロマン・ポランスキーにとっての「マクベス」」(キネマ旬報1972.10月上旬号)を執筆しているが、明里千章によれば、これはケネス・タイナンが"Esquire"1971.9月号に掲載した"The Polish Imposition by Kenneth Tynan"をタイナンの名前を出さず無断で再編集し翻訳したものである。明里は村上春樹の『1973年のピンボール』に「千九百七十一年九月号の「エスカイヤ」に載っているケネス・タイナンのポランスキー論を訳しながら」とあるのは、二本の田山論文の出典を示すことによる、執筆モラルの表明だったのではないかと推測している。(『村上春樹の映画記号学』2008)
兄に協栄生命保険元会長の田山嘉郎、従兄に脚本家の猪俣勝人。猪俣勝人とは映画関係の共著を執筆している。歌手の尾崎亜美の叔父とされることがあったが、正確には尾崎の母方の祖父の弟の妻の甥という遠縁である[1]。
前述のように評論スタイルは徹底的に辛口で、特に大島渚、北野武監督とは、『週刊文春』誌上やテレビを通じて、激しい舌戦を展開した[2]。
1990年に北野武が当時の最新作『3-4X10月』を監督した際には、北野がタレント・ビートたけしとして司会だったテレビ番組『どーする!?TVタックル』の1990年11月12日放送の回にゲスト出演した。その回のテーマは「映画監督の逆襲」で、田山は1人で低い位置の被告席に座らされて、高いひな壇に座る大島渚ら5人の映画監督に集中攻撃を受けて孤軍奮闘した[3][4]。
しかし当時、連載していたコラムでは、かねてから北野武を天才と評しており[5]、また北野監督の『ソナチネ』はじめ過去の作品を否定しながらも、北野監督の実力はこんなものではないだろうと書いており、才能は認めていた[6]。そして1996年製作『キッズ・リターン』では絶賛し、その年の邦画ベストテンで上位に挙げていた。北野監督本人に会い『キッズ・リターン』が良かったと褒めると北野は「本当に?」と驚いた様子で何度も聞き返したエピソードもあったという[7]。
『キネマ旬報』誌の授賞式で対面したときは、談笑してパフォーマンスと洒落であることを確認。キネマ旬報読者賞を受賞した北野は、受賞挨拶で田山とは良好な仲であると何度も説明し、田山と北野は握手を交わした[8]。
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