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バスター・キートン

アメリカ合衆国の喜劇俳優、映画監督、脚本家 (1895-1966) ウィキペディアから

バスター・キートン
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バスター・キートン: Buster Keaton, 1895年10月4日 - 1966年2月1日)は、アメリカ合衆国喜劇俳優映画監督脚本家チャールズ・チャップリンハロルド・ロイドと並び「世界の三大喜劇王」と呼ばれる[1][2][3]

概要 バスター・キートン Buster Keaton, 生年月日 ...
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プロフィール

要約
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ヴォードヴィル

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『キートン3人組』の寸劇。左の子供がキートン(1901年)

カンザス州ピクア英語版にて、父ジョー・キートン英語版に、母マイラ・キートン英語版との間にジョセフ・フランク・キートン(Joseph Frank Keaton)として生まれた。

両親とも舞台芸人で、キートンも1899年にまだ4歳の頃、親子による「キートン3人組 (The Three Keatons) 」として初舞台に立ち、各地でヴォードヴィルの巡業を続けた[4]。父が、小さい彼の身体を逆さに持ち上げてぶんぶん振り回す「人間モップ」という、荒っぽいギャグを売り物とし、泣き顔一つせず演じていたことは有名な話である。後に弟ハリー(愛称はジングルズ)と妹ルイーズを加えた5人組としても人気を博したが、後にまたバスターと両親の3人組に戻っている。イギリスなどでの海外巡業も経験した。キートンが映画界に進出する直前まで活動が続き、その時点で解散している。

芸名の由来についてはこの家族舞台時代、突風に飛ばされたにも係わらず(自伝でキートンは「階段から転落説」を語っている)、全く泣かなかったのを見た、高名な手品師のハリー・フーディーニに「My, what a buster!(おやおや、なんて頑丈なんだ!)」と言われた[5]処から、すぐそばにいた父によって「バスター・キートン」の名が誕生したといわれる。

ジョーは映画という媒体を評価していなかったとされているが、多数の映画に出演し[6]、家族で共演する作品もいくつか存在する。『デブ君の勇士英語版[7]』では息子との初共演を果たしているが、フィルムは現存していない(理由は「作品関連」で後述)。マイラ、ハリー、ルイーズにも映画出演経歴があり、家族全員が勢揃いした作品こそ存在しないが、『キートンの西部相撲英語版[8]』や『列車の愛の巣英語版[9]』 などで共演が確認できる。

映画(1917年 - 1920年代)

1917年ニューヨークへ渡り、当時マック・セネットキーストン・スタジオで大人気を得、自らのプロダクションを設立したロスコー・アーバックルの誘いを受けて映画界入りを果たした。映画初出演作品は『ファッティとキートンのおかしな肉屋』 (The Butcher Boy)(外部リンク"The Butcher Boy - Internet Archive"参照) だが、キートンが新人ながら決して短くない出演時間を、一度も撮り直しせず撮影を終えた。その後アーバックル主演映画に、立て続けに脇役として出演した。

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出征中のキートン(1918年)

1918年には第一次世界大戦による徴兵で、一時映画出演から離れた。その際耳を負傷したが、回復はしている。

体を張りながらも無表情で一途な役柄を特徴としたことから、「The Great Stone Face(偉大なる無表情)」、他に「死人の無表情」「すっぱい顔」「凍り付いた顔」「悲劇的なマスク」などと呼ばれた。アーバックル主演映画に出演していた頃、このキャラクターは定まっておらず、笑顔や泣き顔、更には激怒した顔など、豊かな表情を見受けることができる。無表情が定着したのは独立後で、チャップリンの撮影施設を買い取り、キートン撮影所を設立した時期と重なる。

1920年長編『馬鹿息子』(The Saphead)に主演する。

初単独監督作品は1920年に撮影された『キートンのハイ・サイン』 (The High Sign) であるが、キートン本人が気に入らず公開が見送られた。同年、監督作品である『文化生活一週間(キートンのマイホーム)』(One Week) が公開されている。その後『キートンの電気館』 (The Electric House) の撮影中、キートンはエスカレーターに足を挿まれ骨折し、撮影中止の事態に陥ってしまった際、埋め合わせとして『ハイ・サイン』が公開された。『電気館』は再度の撮影の後、1922年に公開されている。こうして1920年代を中心に、大人気の映画俳優となった。

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キートンの大列車追跡

1923年まで18本の短編を撮影後、1923年から1928年までは自らの撮影所で、第1作『キートンの恋愛三代記』 (The Three Ages) から10作目である『キートンの蒸気船』 (Steamboat Bill, Jr.) まで、長編作品10本を製作した。これらはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(以下MGM)やユナイテッド・アーティスツにより配給された。

キートンの探偵学入門』 (Sherlock, Jr.) では危険なシーンの撮影のおり、給水塔の水で叩きつけられて汽車の上からレールに転落。首の骨を折ったにもかかわらず、気がつかずに撮影続行。一年半後偶然に骨折の痕が見つかったが、その時には既に完治していたという武勇伝が残されている。本人は「頭痛が続く」しか自覚がなかったという。

1928年には自身の撮影所を手放し、当時すでに多くのスターを抱え込む大手映画製作会社、MGMと契約した。だがキートンは次第に、MGMでの映画製作システムに対応できなくなってしまう。移籍後は主演作品でも脚本を書くことはおろか、監督を務めることさえ激減したため、単なる間抜けな主人公によるコメディ作品というイメージが強くなった。後にキートンが自伝でも過ちとして語っているように、MGMでの時代は転機を迎えた時期だといえる。それでも興行的には成功を収めている作品も存在し、特に1928年に公開された『キートンのカメラマン』 (The Cameraman) は、その年のMGM作品でも抜群の興行成績を記録した。

映画(1930年代 - )

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「ポークパイ帽」を被ったキートン(1939年)

1933年までMGMで映画を撮り続けたが、徐々に仕事は衰退した。衰退の原因が今日では、サイレント映画の衰退、および代わりに台頭するようになったトーキー技術において、キートンのハスキーボイスがそれとマッチしないと評されるところが多い。初トーキー作品は 1930年の『キートンのエキストラ英語版』だが、この作品は、興行的に大成功を収めており、ヴォードヴィル時代に鍛え上げられた、ダンスと歌声を披露している。

他に衰退の原因として考えられている点が、MGMの分業方式・スター方式が合わず、さらに今まで一緒だったチームメンバーが解体してしまったことなどである。サイレント時代の傑作『キートン将軍』などのスタッフは、各スター作品の製作で文字通り引っ張りだこであって、複数の喜劇映画に名を連ねている。

1931年の『紐育の歩道英語版』はキートンの商業的に最も成功した映画だった(興行収入 885,000ドル、純利益は約 200,000ドル)[10]。MGM時代後期は、ジミー・デュランテとのダブル主演となっていった。この頃から酒に溺れる日々が続き、撮影を丸1日潰してしまう出来事も起こった。またMGMとの約束をキャンセルしてしまう出来事も重なり、これがきっかけで解雇されてしまう[11]

1930年代半ばには、エデュケーショナル英語版で短編作品に出演・主演するようになった。1935年の『恥ずかしがり屋の青年英語版』(別邦題『内気な青年』)ではマック・セネット監督、キートン主演の最初で最後のコンビが実現した[12]。また1940年代にはコロンビアユニヴァーサルにも迎え入れられたが、主に脇役であった。

一方で外国で長編作品の製作に携わった(『キートンの爆弾成金英語版』(フランス、1934年)、『キートンのスペイン嬌乱英語版』(イギリス、1935年)、『キートンの月ロケット英語版』(メキシコ、1946年)。『キートンの爆弾成金』では笑い顔を見せている(外部リンク参照))。

他にも監督原案の提供、ギャグの創作や指導などの仕事をこなす。マルクス兄弟の作品にも原案提供・ギャグ指導を行っており(兄弟の反応は微妙なものだったという)[13]、このためマルクス兄弟の特徴となる視覚的で不条理なギャグには、キートンの影響が随所に見られる。

とは言え当時は既にハリウッドの一線から退いたと考えられていた。酒量が増えアルコール使用障害に陥り、破産も経験している。これに前後して『荒武者キートン』で共演した妻との離婚、看護婦であった第2夫人との結婚・離婚などを経験し、「発狂」と新聞に報道されてしまう羽目にまで立ち至っている。これは日本の新聞にも写真つきで報道され、古い映画評論などはいまだにそのまま書かれている。

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最初の妻の、ナタリー・タルマッジ

再評価・晩年

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テレビ番組トワイライト・ゾーンに登場したキートン(1961年)
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バスター・キートンの墓(カリフォルニア州バーバンク)

1950年代に入ると、TVショーの出演やヨーロッパでの舞台を続けるなど、仕事に恵まれた。映画でも1950年ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り (映画)』に出演。1952年に『ライムライト』に出演して、チャーリー・チャップリンと初共演を果たした。これらの仕事や、黄金時代のフィルムが倉庫から探し出されてリバイバル上映されるなど、キートンへの再評価が高まった。1957年には伝記映画『バスター・キートン物語英語版』も公開された。1959年アカデミー名誉賞を授与された。1965年キートンの線路工夫英語版』では主演を務めた。最晩年(1966年)の出演作『ローマで起こった奇妙な出来事英語版』ではセリフも少なく、ただそのへんを走っているだけのマラソンランナー役だったが(最後の大どんでん返しの中心人物だった)、それでもクレジットタイトルでは別格扱いだった。

1966年2月1日、肺癌によりカリフォルニア州ウッドランドヒルの自宅で死去。70歳。

結婚

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ナタリー・タルマッジとの結婚式

3度の結婚を経験している。

  1. ナタリー・タルマッジ - サイレント時代に活躍したタルマッジ三姉妹の一人で、『荒武者キートン』 (Our Hospitality) ではヒロインを演じた。1921年に結婚し1932年に離婚。2人の子供をもうけている。
  2. メイ・スクリヴン - 1933年に結婚し1936年に離婚。
  3. エレノア・キートン - キートンより23歳年下のダンサー。キートンが亡くなるまで結婚生活は続いた。
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芸風や作品の特徴

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『文化生活一週間(キートンのマイホーム)』の珍妙なマイホームのギャグ(1920年)

前述通り「偉大なる無表情」を一切崩さずに行う、体を張ったアクションとギャグが最大の特徴といえる。偉大なる無表情とは、喜怒哀楽を表情に出さない[要校閲]。その表情と命がけのアクションとのギャップが、ファンに愛されている理由のひとつだともいえる。急斜面を転がり落ちたり、列車の上を全速力で駆け抜けたりするなど、非常にアクロバティックである。アクションに限らず、映像技術や特撮技術を駆使したような、トリック要素が多く盛り込まれたギャグも多用する。

作品の特徴であるが、チャップリン作品に形容されるような、悲劇的な要素はあまり見受けられず、スラップスティック・コメディにロマンス要素が加味された作品が多い。基本的にはハッピーエンドである。そしてキートン演じる主人公のそのほとんどが、少し間の抜けた性格の持ち主だが、ロマンティストである。これらはキートンが自ら製作した1920年代に強く見られる特徴である。

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評価

1999年アメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」では、男優部門の21位に選ばれた[14]

雑学

  • 最初の結婚のころ、不動産経営で成功して「イタリア荘」を新築した。この「イタリア荘」は『ゴッドファーザー』の「馬の首事件」の舞台として使われた。使用人として日本人夫婦が住み込んでいたという。のち数回の転売を経たが、屋敷のガレージから貴重なフィルムが発見されている。
  • 野球が大好きだった。『キートンの大学生(キートンのカレッジライフ)』 (College) には野球のシーンが存在する。バントとみせかけてヒットを狙う技術を「バスター」と呼ぶが、芸名との関連はなく、野球用語の「バスタード・バント」の略である。
  • 小惑星(2712) Keatonはキートンの名前にちなんで命名された[15]
  • クレイアニメ『ひつじのショーン』のリチャード・スターザック英語版監督は、「ショーンたちを形作るにあたり、一番参考になっているのはバスター・キートン」とコメントしている[16]

作品関連

  • 『キートンのセブン・チャンス』(Seven Chances)は、冒頭シークェンスを2原色テクニカラーで撮影していた。このカラー方式が完全復刻されたソフト(DVDブルーレイ)は日本国内では発売されていない。2014年12月13日に京都文化博物館で初公開された(フィルム提供:喜劇映画研究会)。
  • キートンが長年尊敬していたロスコー・アーバックルが1921年、女優ヴァージニア・ラッペへの強姦殺人(故殺)容疑で起訴され、その後証拠不十分により無罪評決された事件があった(実際は彼女の持病の発作が原因)。その際映画界を追放されたアーバックルを、『キートンの探偵学入門』において監督起用させた。またアーバックルが復帰する際には「Will be good=きっと良くなる」という意味を込めて「ウィル・グッドリッチ」という名前を考案したのもキートンである。アーバックルへの思いは強く、自らの自伝でも一連の事件に対する冤罪を発言している。
  • 上記の事件によりアーバックルの作品は焼却処分を受けたために、キートンが出演した全作品の中で、唯一現存しない作品が『デブ君の勇士』 (A Country Hero) である。『デブ君化けの皮』 (A Reckless Romeo) と『デブのコック』 (The Cook) も長らく現存しないと言われてきたが、1990年代後半になってノルウェーでフィルムが発見されている。
  • キートンの大列車追跡』(別邦題:『キートン将軍』『キートンの大列車強盗』[17])(The General)が、第57回カンヌ国際映画祭(2004年)の招待作として特別上映された。音楽は作曲家の久石譲が担当し、上映に会わせてオーケストラの生演奏が行われた。このバージョンでのDVD(国内盤)は2006年にデックスエンタテインメントからリリースされた。
  • 日本では1973年からフランス映画社により、1920年代の主要作品の連続上映企画「ハロー!キートン」が実施された[18]
  • テレビ放映は1970年代後半、俳優フランキー堺が語り手を務めた「キートン小劇場」(NHK)、1990年代と2000年代にはNHK-BS2で、『馬鹿息子』から『将軍』、『蒸気船』までの(『拳闘屋キートン』をのぞく)サイレント黄金期の傑作群と、20年代に作られたキートン短編のいくつかが、澤登翠の活弁付で放送されている。併せて3部からなるイギリス・テムズテレビジョン制作のキートンドキュメンタリーの決定版『バスター・キートン/ハードアクトに賭けた生涯 Buster Keaton: A Hard Act to Follow』(1987)も放送された(「外部リンク」の”Buster Keaton: A Hard Act To Follow”参照)。[19]
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フィルモグラフィー

監督及び出演

短編

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『キートンの囚人13号(ゴルフ狂の夢)』のポスター(1920年)

長編

出演のみ

短編

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『ファッティとキートンのアウト・ウェスト』(右は アル・セント・ジョン

長編

脚本

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テレビ出演

キートン作品を含むアンソロジー作品

  • 『喜劇の王様たち(When Comedy Was King)』 - ロバート・ヤングソン(Robert Youngson)監督。ハロルド・ロイドを除く当時の代表的コメディアンのほとんどが見られる[160]。1960年[161]
  • 『喜劇の大将(30 Years of Fun)』 - ロバート・ヤングソン監督。1962年[162][163]

ドキュメンタリー作品

  • So Funny It Hurt: Buster Keaton & MGM』(2004年、クリストファー・バード&ケヴィン・ブラウンロー監督)キートンがMGMと契約していた5年間を探る。[164]
  • Chaplin vs. Keaton – Duel of Legends』(2015年、サイモン・バックス監督)[165]キートンとチャールズ・チャップリンの個性と人生を比較対照しながら描いている。
    • 『喜劇王対決 チャップリンvsキートン』(2017年初放映)NHK-BS1[166]上記作品の日本語訳追加版。
  • The Great Buster: A Celebration』(2018年、ピーター・ボグダノヴィッチ監督)

脚注

関連項目

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参考文献

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書目

外部リンク

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