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アメリカの映画 ウィキペディアから
本項では、アメリカ合衆国の映画(アメリカがっしゅうこくのえいが)について解説する。
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主にアメリカ合衆国の人々や映画会社によって製作された映画のこと。特にカリフォルニア州ロサンゼルス郡ロサンゼルス市・ハリウッドの映画スタジオによって制作・製作された映画はハリウッド映画(ハリウッドえいが)と呼ばれる。
また、ハリウッドの大手映画会社による映画以外にも、ハリウッド以外の場所で小さな会社が作った映画や自主映画など小予算で製作した映画も含まれる。アメリカの映画に関わる映画メーカー・俳優はアメリカ合衆国籍とは限らず、世界各国から渡米した人々が多く、国際性が豊かである。
1893年、アメリカでトーマス・エジソンが「キネトスコープ」という映写機を発明した。これは箱を覗くとそこに動く映像が見えるという覗き穴式だったため、現在の映画の直接的な起源とは考えられていない。直接の起源は1895年にフランスのリュミエール兄弟がキネトスコープを改良し、発明した「シネマトグラフ」である。
1894年6月15日にはエジソン製作所のウィリアム・K・L・ディクソンとウィリアム・ハイセがブラックマリアというスタジオで[3]スポーツ初の商業映画として[4]、マイク・レオナードとジャック・クッシングが対戦するボクシングの6回戦を撮影した『レオナード対クッシング戦』を製作している[5]。同社は続けてこの年、ジェームス・J・コーベットがピーター・コートニーを6回にノックアウトする『キネトグラフの前のコーベットとコートニー』を撮影し[4][5]、この作品は全国的なヒットとなった[3]。1895年5月に行われたボクシングの試合の撮影では、レイサム兄弟が開発したアイドロスコープというプロジェクターが初めて使われ、レイサムループという投影装置を利用してより尺の長い映画が撮れるようになっていた[4]。これらの映像はボクシングの実際の公式試合を映したものではなく、脚色や演出があったとされている[6]。
1899年に製作された『Love and War』は、アメリカ映画史上最初のドラマ作品とされている。これは、米西戦争を舞台に家族の別れと再会を描いたものだった[7][8]。
1903年、エドウィン・S・ポーターが『大列車強盗』を製作した。物語を持った初期の映画で、西部劇の元祖ともいえる作品である。この頃の映画はまだ紙芝居のような見世物の段階であった。1905年に、アメリカでは初めての映画館がピッツバーグに設立された。
エジソンがシネマトグラフをアメリカで使用する特許を独占し、MPPCというトラストを組んでトラスト外の業者を排除しようとしたために、アメリカでの映画製作は難しいものとなっていた。困った映画人たちは西海岸のロサンゼルスのハリウッドへ逃げた。そこは降雨も少なく様々な風景があったため映画製作にも適していた。
米国の映画産業を作り上げたのは主にユダヤ人の移民だった。ユダヤ人は他の仕事には迫害を受けており、映画という新しい娯楽ビジネスに注目したのである。1912年にはユニヴァーサル映画とパラマウント映画、1915年には20世紀フォックスの元となるフォックス・フィルム、1919年にユナイテッド・アーティスツ、1923年にワーナー・ブラザース、1924年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーとコロムビア映画、1928年にRKOが設立されるなど、現在のメジャースタジオが次々と設立された。
これらの会社を設立したのは皆ユダヤ人で、また、キャスト、スタッフ、等にもユダヤ人が多い他、アイルランド系も多い。この時期には「アメリカ映画の父」とも呼ばれるD・W・グリフィス監督の『國民の創生』(1915年)が公開された。
また、第一次世界大戦(1914年~1918年)の後、多くの映画製作者がヨーロッパから渡米してきた。最も有名な人物はイギリス出身のアルフレッド・ヒッチコックである。
1927年、アメリカで長編映画としては初めてのトーキー映画『ジャズ・シンガー』が公開され、これ以降トーキー全盛期となる。1929年には第1回アカデミー賞が開催された。見世物として始まった映画が、本格的に文化として認められ始めたといえる。
大きな映画会社が大規模で良質な映画を次々と生み出した。これはスタジオ・システムと呼ばれる。『或る夜の出来事』、『風と共に去りぬ』、『駅馬車』、『市民ケーン』、『バグダッドの盗賊』『独裁者』などが代表的である。
『新婚道中記』や『フィラデルフィア物語』などのスクリューボール・コメディと呼ばれるロマンティック・コメディ映画や、『四十二番街』、『トップ・ハット』、『巨星ジーグフェルド』、『踊るニュウ・ヨーク』、『若草の頃』などメトロ・ゴールドウィン・メイヤー製作作品を代表とした大掛かりなミュージカル映画が流行した。また、『マルタの鷹』、『飾窓の女』、『三つ数えろ』、『白熱』、『第三の男』などのフィルム・ノワールと呼ばれる、ハードボイルドとファム・ファタールが絡む映画も多く作られた。
1941年から参戦した第二次世界大戦中には、『カサブランカ』、『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』、『東京上空三十秒』などの戦意高揚を目的とした、愛国的な映画や、戦争プロパガンダ作品も多く製作された。
テレビが新しい娯楽として広まったものの、『巴里のアメリカ人』や『雨に唄えば』、『バンド・ワゴン』などのミュージカル映画を中心とした大掛かりなセットを駆使し大量のスターを起用した娯楽大作の全盛期が続いた。一方で、『スタア誕生』、『喝采』、『オクラホマ!』など、ストーリー性を重視したミュージカルが50年代半ばに誕生し、現在まで続くミュージカル映画の原型を造った。
また、この時期の映画会社は、テレビとの差別化の為、これまでのスタンダード・サイズから、画面の拡大化を目指し始めた。20世紀フォックス社は1953年公開の『聖衣』で初めてシネマスコープを導入し、その後『百万長者と結婚する方法』、『ディミトリアスと闘士』などに採用され、フォックス以外にも『掠奪された七人の花嫁』、『エデンの東』、『長い灰色の線』などもシネマスコープで製作された。一方、同業他社のパラマウント映画社も1954年の『ホワイト・クリスマス』で実用化されたビスタビジョンで対向し、『泥棒成金』、『必死の逃亡者』、『十戒』などを製作した。
また、1954年の『ダイヤルMを廻せ!』がヒットすると最初の3D映画ブームが巻き起こった。
なお、1940年代後半から1950年代前半にかけて、冷戦開始に伴う赤狩りの影響で、チャールズ・チャップリンなど多くの「左翼的」、「容共的」とみなされた映画人がアメリカの映画産業を追われることとなった他、作品の内容にも大きな影響を与えた。また、アメリカ国内ではなく、ヨーロッパやアフリカで撮影する場合も多かった。『ローマの休日』、『アフリカの女王』、『パリの恋人』、『戦争と平和』、『フランケンシュタインの逆襲』、『ベン・ハー』などが代表的である。
スタジオ・システムが崩壊したものの、1960年代の半ばまでは、娯楽映画やミュ-ジカルの映画化した作品の全盛期が続いた。代表的なものに『ティファニーで朝食を』、『メリー・ポピンズ』、『ウエストサイド物語』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『遥かなるアラモ』等がある。また、公民権運動の広がりに合わせて、ようやくアフリカ系アメリカ人俳優が主役級の立場で正当な評価を受けるようになり、1963年にシドニー・ポワチエが社会派作品『野のユリ』でアカデミー主演男優賞を受賞した。
1960年代後半に入ると、娯楽大作は作られなくなり、1967年の『俺たちに明日はない』を発端として、1969年の『イージー・ライダー』[9]などの「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる反体制的な若者を描く作品群が1970年代半ばまで製作された。これは1960年代にアメリカで巻き起こった公民権運動やヒッピー、ベトナム戦争などの影響を受け、旧来の保守的なWASP的な価値観が崩壊してきたことに影響されたと考えられている。
1970年の『小さな巨人』と『ソルジャー・ブルー』によって西部劇の転換点を迎えることとなった。
この頃新たな収益源を模索したスタジオは、テレビシリーズの製作に活路を求めるようになり、『奥様は魔女』、『可愛い魔女ジニー』、『鬼警部アイアンサイド』、『スパイのライセンス』、『逃亡者』、『コンバット』、『0011ナポレオン・ソロ』、『スパイ大作戦』、『ヒッチコック劇場』、『刑事コロンボ』等、多数のテレビシリーズを成功させた。
1970年代前半には『ゲッタウェイ』『スケアクロウ』など1960年代の遺産を継承した良質な作品が製作された。フランシス・フォード・コッポラ、スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスらも登場した。彼らは映画学校で学び、1960年代にヨーロッパで生まれた技術を身につけた監督だった。インテリ向け映画や文芸派コメディを撮影したウディ・アレンが注目されたのも、1970年代に入ってからである。
コッポラは『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザー パート2』『地獄の黙示録』の3大傑作を製作した。また、『タワーリング・インフェルノ』、『ジョーズ』などの巨額を投じたパニック映画の製作も流行した。商業主義的な映画に対抗して『狼たちの午後』『タクシードライバー』『ディアハンター』などの傑作も、この時代に発表された。1968年の『猿の惑星』と『2001年宇宙の旅』の二作品がヒットし、SF映画にも注目が集まり始め、1977年の『スター・ウォーズ』を皮切りに、『未知との遭遇』『エイリアン』などのヒット作が多く製作された。また、『007シリーズ』は『ダイアモンドは永遠に』『死ぬのは奴らだ』『黄金銃を持つ男』を制作した後、SF色を増した『007/ムーンレイカー』を発表した。
1970年代半ば以降、『ロッキー』等「アメリカン・ニューシネマ」に代って保守的なサクセスストーリーを描く映画が増加した。
1980年代に入り、アメリカや日本、西ドイツなどの先進国を中心に普及したビデオというメディアは、スタジオにとって新たな収益源となり、ハリウッドの映画産業にも影響を与えた。1980年代はの良質な作品とには、『ブルース・ブラザーズ』『48時間』『ストリート・オブ・ファイヤー』などがあった[10]。
一方で、新自由主義のロナルド・レーガン政権下のアメリカにはぴったりのシルヴェスター・スタローン、アーノルド・シュワルツェネッガー、ドルフ・ラングレンらのいわゆる筋肉マン・肉体派が主演する『ランボー』などの商業主義映画が、大量の観客動員を達成するようになった。『ランボー』『ランボー2』のヒットにより、ランボーの亜流B級映画が多数生まれ、良心的な映画評論家からは、観客を愚民化誘導したとも見られた。それらに対するカウンター的作品としては、クリント・イーストウッドの『ダーティ・ハリー4』や、ブルース・ウィリスの『ダイ・ハード』などがある。
こうした風潮に反発したスパイク・リー監督は、『シーズ・ガッタ・ハブ・イット』『スクール・デイズ』『ドゥ・ザ・ライト・シング』などを発表した。1989年にソニーが『スパイダーマン』や『チャーリーズ・エンジェル』シリーズを持つコロンビア ピクチャーズを、翌年にパナソニックが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズなどを持つユニバーサル・ピクチャーズを買収するなど、新たな収益源である映像ソフト(ビデオ)権利の入手を目的の1つにした日本企業による大手スタジオの買収が相次いだ。
コンピュータグラフィックス(CG)技術の発展により、従来の技術的・費用的限界からの解放が進み、当時最新であったCGを本格的に使用した『ターミネーター2』や『ジュラシックパーク』等が大ヒットした。
社会派監督のスパイク・リーの出現や、クエンティン・タランティーノやポール・トーマス・アンダーソンのようなビデオ世代の映画監督が出現したことも特筆すべき事である。
1990年代の半ばには、衰退の域に達していたスパイ映画が再び注目を集めるようになった。中でも『007 ゴールデンアイ』と『ミッション:インポッシブル』は世界的にヒットし、スパイ映画の代名詞的な存在となった。
1997年には『タイタニック』が世界的に大ヒットした。全米では歴代興行収入1位を記録、全世界の歴代興行収入でも1位を獲得し、当時の数々の賞をそうなめにした。
1999年には仮想空間を題材にした『マトリックス』が大ヒットした。『マトリックス』では最新のCGやワイヤーアクションを使い大きな話題になった。
1990年代は、アジアから多くの俳優及び監督がハリウッドに進出した時期でもあった。ジャッキー・チェン、ジェット・リー、サモ・ハン・キンポー、アン・リー、ジョン・ウー等がいる。
コンピュータグラフィックス(CG)技術の更なる発展により『グリーン・デスティニー』、『ハリー・ポッターと賢者の石』、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』、『PLANET OF THE APES/猿の惑星』、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』、『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』、『トランスフォーマー』など大作が幾つも作られた。
しかし、この時代から出演者に対する出演料や製作費の高騰などコストの問題や、日本映画などの外国映画や過去のヒット作の続編・リメイク作品の増加などが顕著となり始めた。
また、デジタルメディアやインターネットの普及に伴い、中華人民共和国やタイ王国などの、著作権関連の法律の取り締まりが比較的緩い開発途上国における海賊版の横行という新たな問題にも直面している。
2008年の『アイアンマン』及び『ダークナイト』の興行及び評価の成功により、アメリカンコミック原作の映画が数多く制作されるようになり、マーベル・シネマティック・ユニバースの成功で各社もユニバース化を計画していったが、何れもMCUほどの成功は収めていない。
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2010年代以降、大物俳優のギャラが低下し、CGや大規模なアクションシーンの撮影にお金を費やす傾向が強い。収益の見込めるスタッフによる大作、過去作のリメイクや続編、リブート、他国の映画のリメイクに加え、比較的経費が少ないドキュメンタリー映画などに頼らざるを得ないのが現状である[要出典]。またコスト削減を目的に[要出典][要検証]、カナダやオーストラリア、ヨーロッパなどアメリカ合衆国国外で撮影される場合が少なくない。
2020年に、アメリカ国内で新型コロナウイルス感染症が拡大すると、ほとんどの映画館が閉鎖を余儀なくされた。映画の新作イベントも縮小され、作品自体も動画配信サービスを通じて家庭で観る風潮が強まった[11][12]。2021年3月頃から映画館は再開され始めたが、入場客数は制限されたため映画館の赤字経営は深刻化。アメリカの中・小チェーンが倒産し[13]、最大手のAMCシアターズも2020年決算において46億ドル(約5000億円)と過去最大の赤字を記録した[14]。また、2022年9月7日には、映画館運営世界2位シネワールドが破産申請を行った[15]。2023年は、「バーベンハイマー」によってコロナ禍から「復活」した[16]。
著作権の保護期間は、他の国では公開後70年となる場合が多いが、米国の場合は少々複雑である。
以下の場合に米国での著作権が消滅し、パブリックドメインとなる。ただし、著作権保護制度や保護期間は国ごとに異なり、米国外では依然として著作権を有する場合がある。米国ではパブリックドメインであるが、日本では著作権の保護があるとして訴えた著名な例として、「ローマの休日」が挙げられる(最終的に日本でもパブリックドメインであることが確認された。ローマの休日#著作権問題も参照)。
上記以外は保護期間が公開後95年となる。
1963年以前の作品は著作権標記が入っていても公開から28年以内にリニューを行わないと著作権が失効し、パブリックドメインとなる。リニューを行った場合は保護期間が公開後95年に延長される。リニューが行われた作品のパッケージの著作権標記は、例えば、以下の様になる。
1963年以前の作品でパッケージの著作権標記にRenewの文字が見当たらないものはパブリックドメインの可能性が高い(但し、パッケージにRenewの標記があっても実際はリニューされずにパブリックドメインとなったものも多い)。
会社によって姿勢に差があり、20世紀フォックス、ユニバーサル、コロンビア、等は、まめにリニューを行っているのに対し、ワーナー、パラマウント、MGM、ユナイテッド・アーティスツ、等はリニューを行わなかったためにパブリックドメインとなった作品が多い。
アメリカで作られる著名な映画の多くは西海岸や東海岸といった伝統的にリベラルかつ多民族が住む地域で作られることが多く、政治的にもリベラル気風が強い。第二次世界大戦以降はマッカーシズムによるハリウッド映画界の大規模な魔女狩りを経てもやや愛国的、ノスタルジックな映画が人気を博していたが公民権運動やベトナム戦争といったアメリカそのものに対する不信感が蔓延してからはアメリカ映画界のリベラル気風は強まっていった。一方で愛国的な映画も国内では受けが良いためコンスタントに製作し続けられており、アメリカ映画の多様性を保持しているのも現実である。
また、アメリカでは芸能人の社会的地位が高いこともあって、政治的見解を隠さずにチャリティーや支持政党を公表することでも有名で、大統領選挙などの節目には俳優たちがそれぞれ自分が支持する政党や候補を応援しに行くことはアメリカ社会において当然の光景となっている。
一般的に民主党支持者は、
一方共和党支持者は、
などアクション娯楽大作の雄や、熱心なキリスト教徒であることが多い。しかし、シュワルツェネッガーはリベラルの強いカリフォルニア州選出の知事を務めたこともあって同性婚や妊娠中絶、移民に寛容であり、イーストウッドもカリフォルニアのカーメル市長を務めイラク戦争に公然と反対するなど政治的には共和党左派(ロックフェラー・リパブリカン)とリベラルなハリウッド映画界の影響が顕著に見られる。
ハリウッド映画のギャラは、ノーギャラから20億円越えまで極めて幅広い。 キャリアの浅い俳優のギャラは相場は、中規模映画(予算5000万ドル以下)の主演で65000ドル、大規模映画(予算1億ドル以上)の主演で100000〜300000ドルである。そのため、超大作映画のメインキャストであっても、家賃が払えないほど生活の苦しい人が大半である。[17]。 また、出演者の最低賃金は、組合によって決められており、2021年現在、予算200万ドル以上の映画においては、1日1056ドル、1週間3664ドルである。[18]なお、予算ごとに最低賃金が決められている。最も低いのは、ショートフィルムであり、最低賃金は1日0ドルである。[19] 2010年代以降、大物俳優のギャラが低下し、高額なギャラを受け取る俳優が減少傾向にある。以下が有名な俳優のギャラ相場であるが、この値は、予算100億を超える映画で単独主演した時の相場(定価)であり、彼らであってもB級映画では10万ドル以下のギャラとなることも少なくない。
また、ハリウッド俳優の年収は年による差が激しい上、コマーシャルの収入のない人が多く、また、撮影日数を考えると1年に何本もの映画に出演できるわけではないため、ミュージシャンやTV司会者の収入には到底及ばないうえ、日本の俳優よりも総じて収入が低い。なお、fourusの公表する収入ランキング[20]は、マネージャー、エージェント、パブリシスト、ビジネスマネージャー、組合、アシスタント等への支払いの前の金額であるため、実際の年収はその半分程度となる。そのため、実際の年収が10億円を超えるハリウッド俳優は30人以下であり、日本で噂されている金額より遥かに低いのが実情であり、ハリウッド俳優=お金持ちということ自体が昔から日本で広まっているデマである。
2200万ドル*ドウェイン・ジョンソン
2000万ドル*レオナルド・ディカプリオ
1700万ドル*マーク・ウォールバーグ
1500万ドル*ベン・アフレック
1200〜1400万ドル*トム・クルーズ
1000万ドル*シャーリーズ・セロン
500〜800万ドル*アーノルド・シュワルツェネッガー
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