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1939年のヴィクター・フレミング監督作品 ウィキペディアから
『風と共に去りぬ』(かぜとともにさりぬ、原題: Gone with the Wind)は、1939年に製作されたアメリカ映画。インフレを調整した歴代の興行収入では、2020年でも『風と共に去りぬ』が第1位である[7]。主演はヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、レスリー・ハワード、オリヴィア・デ・ハヴィランド。監督はヴィクター・フレミング。テクニカラー、スタンダードサイズ。
風と共に去りぬ | |
---|---|
Gone with the Wind | |
1939年初公開時のポスター | |
監督 | ヴィクター・フレミング |
脚本 | シドニー・ハワード |
原作 | マーガレット・ミッチェル |
製作 | デヴィッド・O・セルズニック |
出演者 |
ヴィヴィアン・リー クラーク・ゲーブル |
音楽 | マックス・スタイナー |
撮影 |
アーネスト・ホーラー レイ・レナハン |
編集 |
ハル・C・カーン ジェームズ・E・ニューカム |
製作会社 |
セルズニック・インターナショナル メトロ・ゴールドウィン・メイヤー |
配給 |
ロウズ MGM日本支社 |
公開 |
1939年12月15日 1952年9月4日 |
上映時間 | 222分 |
製作国 | アメリカ合衆国 |
言語 | 英語 |
製作費 |
$3,957,000[1][2] $4,230,000[3] |
興行収入 | $389,000,000 |
配給収入 |
1億3336万円(1952年公開時)[4] 1億9326万円(1961年リバイバル公開時)[5] 3億1771万円(1967年リバイバル公開時)[6] |
1936年6月に出版されたマーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』がベストセラーとなり、早くも出版の翌月に映画製作者のデヴィッド・O・セルズニックが映画化権を獲得した。その後3年の歳月と当時の金額でセルズニック・インターナショナルが400万ドル前後の製作費をかけて全編で3時間42分という大長編映画を完成させた。
初公開は1939年12月15日に舞台となったアトランタでワールドプレミアが行われた[8][9]。当時としては画期的な長編テクニカラー映画であったことも手伝って、空前の世界的大ヒットとなった。第12回アカデミー賞にて作品賞・監督賞・主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)・助演女優賞(ハティ・マクダニエル・黒人俳優では初の受賞者)・脚色賞などの8つのオスカーを始めとして、他に特別賞、技術成果賞を含む10部門を受賞した(他にセルズニックが個人で受けたアービング・G・タルバーグ賞も含めば11部門)。
この作品記事はあらすじの作成が望まれています。 |
ヴィヴィアン・リー | クラーク・ゲーブル |
オリヴィア・デ・ハヴィランド | レスリー・ハワード |
セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズのニューヨークオフィスの代表でストーリー係のケイ・ブラウンは、1936年5月5日に『風と共に去りぬ』を出版したマクミラン社からマーガレット・ミッチェルの長編を受け取り一読[11]。『風と共に去りぬ』の映画としての可能性を見抜いて、デイヴィッド・O・セルズニックに『風と共に去りぬ』の映画化権を買わせるべく、梗概を作って5月20日にはセルズニックに送った[11]。その間にも本は旋風を巻き起こし、ぐんぐん売り上げを伸ばしていた[12]。セルズニックはその時『沙漠の花園』の撮影中で、ブラウンの興奮には同調しなかった[13]。
ケイ・ブラウンはそこでメモ・電報・伝言・電話で執拗な説得工作を開始[13]。セルズニックの秘書に「あの本には本気ですし、今や1分1秒を争うのです。既に一社から2万5000ドルの入札額が提示されました。」「文句なしの大作。主要人物は4人で、スカーレットはミリアム・ホプキンスかベティ・デイヴィスにぴったり。メラニーはジャネット・ゲイナー、レットはクラーク・ゲーブルが最適では。」と電報を打っている[11]。
ケイ・ブラウンはさらにセルズニックの友人で『風と共に去りぬ』を気に入っていたジョン・ヘイ・ホイットニーにも助けを求めた[12]。ホイットニーは、「もしそっちが買う気がないなら、自分が映画化権を買ってパイオニア・ピクチャーズで製作する。」とセルズニックに申し渡した[12]。
出し抜かれるのが嫌いなセルズニックは秘書を通してケイ・ブラウンに5万ドルの入札額を出す権限を与え、契約が成立した[12]。
セルズニックが休暇から帰ってくると、14歳以上のほとんど全てのハリウッド女優が応募してきており、写真や電報、手紙や伝言でオフィスは埋め尽くされていた[14]。さらにミッチェルの原作に徹頭徹尾忠実で、何一つはしょったりしないように嘆願する手紙が山のように届いていた[15]。
セルズニックとホイットニーは『風と共に去りぬ』を叙事詩でテクニカラー向きの素材だと見ていた[15]。まず1037ページの原作から脚本を作り出すために、2万5000ドルでシドニー・ハワードを雇った[15]。また製作日程も決まっていなかったが、ジョージ・キューカーを説得して監督を引き受けさせた[15]。
またセルズニック・インターナショナルの広報部長は大々的な広告キャンペーンを開始した[16]。1937年のラジオ放送でのスカーレット・コンテストの上位6人ではベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘプバーン、ミリアム・ホプキンス、マーガレット・サラヴァン、ジョーン・クロフォード、バーバラ・スタンウィックが上がった[17][18]。他にはじめのうちスカーレット役の本命と思われたのはデイヴィス、ホプキンス、タルラー・バンクヘッド、ノーマ・シアラーなどであった[19]。さらにヴォーグ誌では手紙が殺到し、121人もの女優が推薦された[17][18]。しかしセルズニックは映画を担う才能と経験があって比較的無名の女優を求めており、スターの映画にはしたくなかった[20]。そのため広報部長は怒涛の勢いでスカーレット探しを開始、全国でラジオや新聞で告知が始まった[21]。
この空前絶後のスカーレット探しは当時「スカーレット・フィーバー」と呼ばれた[22][23]。いくつもの新聞がスカーレットやレットの候補リストを作成し、レット・バトラー役にはロナルド・コールマン、ベイジル・ラスボーン、エロール・フリン、ゲイリー・クーパー、そしてクラーク・ゲーブルの名が挙がっていた[21]。エレノア・ルーズベルトは個人的に電話をかけてきて、マミー役に自分のメイドを推薦している[21]。
セルズニックはケイ・ブラウンに女優探しを指揮するように言いつけて高等学校の演劇部まで捜索させた[21]。1936年の12月には南部の各都市を回り、アトランタで「スカーレット役希望者は明朝9時にホテルのロビーに集合」と新聞広告を打つと、翌朝彼女はフロント係から500人以上もの人々が集まっていると連絡を受けた[21][17][18]。この際、マーガレット・ミッチェルが女子青年連盟のメンバー15人と助けにきている[24]。しかしオーディションをしてもいいと思われるのはわずか5、6人だけであった[25]。監督のジョージ・キューカーも1937年3月に俳優だけではなくロケ地の下見も兼ねて南部へ行っているが、結局南部で見つけられたのはアリシア・レットら端役の女優だけであった[25]。
ハリウッドでもセルズニックとホイットニーが無名の新人を発見する作業をしており、秘書たちが膨大な仕事に巻き込まれたが、結局徒労に終わった[25]。
他にもスーザン・ヘイワード、ラナ・ターナー、アニタ・ルイーズらがスクリーンテストを受けている[17][18]。
約2年間にわたるスカーレット探索は、応募者1400人、スクリーン・テストは90人、費用は9万2000ドルになった[25]。この段階で制作費は200万ドルを超えることが予想された[26]。
カメラテストではポーレット・ゴダードが最短距離にいて、セルズニック以下スタッフもほとんどゴダードでGOしそうになっていた[27]。
ヴィヴィアン・リーは英国で出版されたばかりの『風と共に去りぬ』を読んで心を奪われた[28]。リーが出演する37年初頭の舞台の初日に、リーは出演者の1人1人に『風と共に去りぬ』を配っており、自分のエージェントにはセルズニックの映画のスカーレットには自分が最も適任であると告げていた[28]。エージェントは映画化権を持っているのはセルズニックだし、ヴィヴィアン・リーはアレクサンダー・コルダと契約しているのだからどんなに関心を持っても無駄だと説得した[28]。しかしヴィヴィアン・リーはスカーレットに取り憑かれており、エージェントにも「スカーレットは私でなければならないのよ。セルズニックさんにそう言ってくださいな。」としつこく話をした[29]。リーが今までにない真剣な熱意に燃えていることを感じたエージェントはリーの写真と切り抜きをセルズニックの事務所に送り、『無敵艦隊』が完成したらフィルムを送ると約束した[30]。セルズニックの事務所のだれかがケイ・ブラウンに話し、ケイ・ブラウンはヴィヴィアン・リーのことでセルズニックに電報を打っている[30]。セルズニックは折り返し電報で「ヴィヴィアン・リーに興味なし。あるいは興味を持つかもしれないが、まだ写真を見ていない。まもなく『無敵艦隊』が公開されるので、その時にリーをみる。」と返答した[30]。
1938年11月5日、当時恋人であったローレンス・オリヴィエが『嵐が丘』への出演のため船でアメリカへ向かった[31]。オリヴィエのアメリカ側のエージェントはセルズニックの兄のマイロン・セルズニックであった[32]。リーとオリヴィエの間で手紙のやり取りが毎日なされていたが、12月にはリーはオリヴィエを追ってアメリカ行きの船に乗った[33][34][17][35]。
シドニー・ハワードは初稿で上映時間6時間の脚本を書いた[36]。1938年を費やしてシドニー・ハワードとセルズニックは妥当な長さの脚本にしようとしていたが、第5稿の段階でも5時間が必要であった[36]。また、脚本の第1稿はヘイズ・コードによって厳しく検閲を受けた[37]。「強姦を連想させるようなもの」「レットを不倫をするような男として描くこと」「ベルを売春婦と連想させること」「死者や負傷者が真に迫り恐ろしいこと」「レットがスカーレットを強姦するように思わせること」などが禁止され、脚本の修正欲求をされた[38]。その後もハワードは脚本の刈り込みを続けたが、1938年10月には気息奄々となって諦めている[39]。途中、改稿のためにスコット・フィッツジェラルドなどが雇われたが[40][17][18]、最終的にセルズニック自身が脚本を書くことになった[41]。
また、セルズニックは1938年6月には全国黒人地位向上協会と交渉し、「映画にはKKK団への言及も、黒人による暴力のシーンも含まれず、黒人の感情を刺激することを避けること。名誉毀損となる表現はいっさいしないこと、小説の中で黒人たちに明らかに不快感を催させるようなものは、物語の主要な要素からは削ること。」と合意した[42]。
ワーナーはセルズニックに、主演をベティ・デイヴィスとエロール・フリンで、そしてMGMよりも高額の出資を提案したが、1938年8月セルズニックは義理の父でもあるルイス・B・メイヤーのMGMと手を組み、レット役にクラーク・ゲーブル、さらに125万ドルの出資をしてもらい、代わりに世界配給権と7年間の利益の半分を渡すこととなった[17][18]。ゲーブルが決まったことで撮影は1939年1月から動かせなくなり、さらにセルズニック・インターナショナルは当時ユナイテッド・アーティスツと契約しており、同社との契約期間は1939年の12月までだったので、そのあとに公開される準備が整った[43][17][18]。
スカーレット役はまだ決まっていなかったが、アトランタ操車場の弾薬庫の炎上シーンが撮影されることになった[44]。セルズニック・スタジオ(元のRKOスタジオ)にあった『キング・コング』などで使用された古いセットを燃やして、その後に『風と共に去りぬ』のセットを作ることになっていた[45][17][18]。使えるテクニカラーカメラは7台、火を自由に調節できる装置を考案し、レットとスカーレットのスタントを用意し、1938年12月10日の土曜の夜に開始された[44]。
その日の朝、セルズニックの兄マイロン・セルズニックはヴィヴィアン・リーに初めて会っており「これは驚いた!あなたはスカーレットだ!」と言った[46]。その夜マイロンはヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエを炎上シーンに連れて行き、撮影後にセルズニックにヴィヴィアン・リーを引き合わせた[47]。その時のことをセルズニックはこう語っている「ヴィヴィアン・リーを紹介された時、炎が彼女の顔を照らした。私は一目見て彼女がピッタリであることを知った。少なくとも彼女は私が考えていたスカーレット・オハラそのままであった。私はあの時の第一印象を永久に忘れることができないだろう。」[48]。
ヴィヴィアン・リーのスクリーンテストが翌週から直ちにジョージ・キューカー監督によって行われることとなった[49]。最終審査はポーレット・ゴダード、ジーン・アーサー、ジョーン・ベネット、そしてヴィヴィアン・リーに絞られていた[50][17][18]。リーはオリヴィエを相手にリハーサルを重ね、テストは12月21日に決まった[50]。「ヴィヴィアン・リーを見た人はみんな彼女の内に燃える何かを感じました。あの溌剌とした感じは他の女優にはなかったものでした。」とセルズニックの秘書は語っている[17][18]。リーはクリスマスに採用を告げられた[17][18]。
アシュレー役にはジェフリー・リン、メルヴィン・ダグラスもスクリーン・テストを受けていたが、「ジェフリーは全然ダメ、ダグラスは流石に上手いのだがアシュレー役には身体がゴツすぎる。」とセルズニックは言っている[17][18]。レスリー・ハワードはアシュレーを演じるのを渋っていたが、ハワードとイングリッド・バーグマンが主演する『別離』で、ハワードがやりたがっていたプロデューサーをさせるということで釣ったという[17][18]。
メラニー役にもいろんな女優がスクリーン・テストを受けていたが、セルズニックはジョーン・フォンテインをメラニー役で起用して本格デビューさせようとした[51][52]。しかしフォンテインはスカーレット役を狙っていたので、姉のオリヴィア・デ・ハヴィランドを推薦したという[51][52][53]。オリヴィア・デ・ハヴィランドはワーナーと専属契約をしていたので総帥のジャック・L・ワーナーから許可がおりなかったが、どうしても演じたかったハヴィランドはジャック・L・ワーナーの夫人に頼み込んで許可を取った[17][18]。
撮影は1939年1月26日にオープニングのシーンから開始された[54]。しかしセルズニックは次の日に撮影する部分の脚本を前日に書くという不安なシステムを作っており、監督のジョージ・キューカーはシドニー・ハワードの脚本へ立ち返るように求めていた[55]。また迅速なテンポで撮影しなければいけないのに、ジョージ・キューカーはそれぞれの心情と人物関係を浮かび上がらせていく演出法をとっていた[55]。クラーク・ゲーブルも、女優の演じる役を最大限に引き立てると定評のあるキューカーの演出法に落ち着かないものを感じていた[55]。キューカーがセルズニックの脚本に従うことも、もっとペースを上げてテーマに重きを置くようにという要請も蹴ったことで、セルズニックは2月13日にキューカーを監督から外した[56]。ヴィヴィアン・リーとオリヴィア・デ・ハヴィランドはキューカーを代えないでほしいと懇願したが無駄であった[57]。監督はゲーブルと大親友のヴィクター・フレミングに替わった[56]。ヴィヴィアン・リーはフレミング監督が好きではなく、こっそりキューカーの自宅を訪れて彼と二人でシーンを検討した[58][59]。リーはこれを撮影が終わるまで続けていたが、ハヴィランドもリーに知られないで同じことをしていた[60][58]。結局、完成された映画には大いにキューカーの影響があった[61]。
フレミング監督は2月18日からセルズニックと打ち合わせを始めたが、キューカーと同じようにこの脚本では撮影出来ないと言った[62]。そのためセルズニックはベン・ヘクトを招聘[63]。3人はシドニー・ハワードの脚本を掘り返し、ようやく使えるものを組み立てることができた[63]。しかし夜も昼も働いていたため、ベン・ヘクトは2週間で逃げ出してしまい、その後は電話をしても一切出なかったという[17][18]。
3月2日、再びオープニング・シーンから撮影再開[64]。フレミングはテンポを速めることで役柄にエネルギーを吹き込み、明晰さと壮大さに力点を置いていた[64]。ただし、セルズニックは相変わらず脚本を毎日改稿していたため、フレミングがさらにテンポを上げようとしても、脚本が無いために足止めされていた[65]。
撮影は1日12時間から18時間にまで延びており、クルーは24時間で待機していた[66]。さらに撮影は3班体制になっていた[67]。ヴィヴィアン・リーは撮影日数の95%に出演しており、仕事が全くない日はほとんどなかった[68][17]。タラでもう二度と飢えはしないと誓うシーンでは休憩なしで22時間ぶっ続けに働いた[68]。その後4時間眠り、翌日は戦争前のアトランタのシーンを撮っていた[68]。リーは毎日16時間も働いていたが[69]、皆が帰り支度を始めると「もう少しお願い」と言って、さらに撮影をしていた[17]。リーは1日でも早く撮影を終わらせて、ローレンス・オリヴィエのもとに行きたがっていたのだった[61][17]。セルズニックは脚本を書く合間にハル・カーンと共にその日撮影したフィルムを編集し、端役のキャスティングの決定をし、特殊効果をチェックしていた[66]。セルズニックの1日の勤務時間は18時間から20時間にまで達していた[70]。
フレミング監督とヴィヴィアン・リーは彼女の役柄で常に争っていた[71][67]。リーが涙を流し、フレミングが怒りに燃えて1日が終わることがしばしばあった[71]。フレミングはスカーレットをキツイ性格で、意地の悪い女に描き出そうとしており、リーはもっと心根の優しい女として描き出そうとしていた[67]。リーは原作をいつもセットに持って来ており、スカーレットの性格が変えられていると言って抗議した[71]。フレミングは人物の性格よりもスペクタクルに重点をおいていた[71]。スカーレットが階段から落ちた後レットが泣くシーンでゲーブルが泣くことを拒み、リーが演出に文句をつけたことでさらにこじらせ、何週間も肉体と精神両面の疲れと戦ってきたフレミングはとうとう耐えられなくなり、セットから出て行ってしまった[72]。
かねてからフレミングが休みを必要とするだろうと考えていたセルズニックはMGMのサム・ウッドを待機させていた[73]。ウッドは4月29日から仕事にかかり、第1班を監督した[73]。ウッドにとって初めてのテクニカラー作品であったにもかかわらず、彼は撮影ペースを維持した[73]。フレミングが戻ってきたのは5月17日[73]。サム・ウッドはそのまま残り、第2班を監督することになった[17]。撮影現場は今や6班体制になっていた[17][18]。そしてついに主要部分の撮影は6月27日に125日間で終了した[74]。今なら200日かかっても撮れないだろうと言われている[17][18]。ただし、打ち上げパーティーの後すぐに撮り直しが開始されている[17][18]。
セルズニックとハル・カーンは1日23時間も編集を行い、時にはぶっ続けで50時間も働いていた[17][18]。9月9日にはようやく試写に出せる程度のものが完成した[75]。上映時間はまだ4時間半、タイトルは絵であったし、音楽はまだ出来上がっておらず1937年の『ゼンダ城の虜』の音楽が使われていた[75]。デイヴィッドとアイリーンのセルズニック夫妻、編集のハル・カーンとジェームズ・E・ニューカム、ジョン・ヘイ・ホイットニーの5名で、フィルムを納めた缶を持ってリバーサイド市のフォックス劇場へ行った[75][17][18][76]。そこで舞い上がっている劇場支配人に上映予定を切り替えさせ、観客にこれから覆面試写会が開かれることを知らせた[77]。出入り口は封鎖され、誰も途中で席を立てないし、途中から入ってくることも出来ない、と[77]。映画が始まり、マーガレット・ミッチェルの名前が出ると大拍手、タイトルが出ると割れんばかりの大歓声が起こった[77][17]。セルズニック夫妻もハル・カーンも感激で泣いたという[17][18]。上映後、回収したアンケートでは絶賛の嵐であった[17][18]。
その後も少しずつフィルムを削る作業や撮り直しや追加撮影が行われ、10月13日にはオープニングシーンの最後の撮り直しもあった[78]。
音楽は南部音楽に精通したマックス・スタイナーに8月14日に依頼されたが、さらに補助としてフランツ・ワックスマンとハーバート・ストサートが雇われた[17][18]。
1939年10月18日にはサンタバーバラのアーリントン劇場でもう一度覆面試写会[79]。再び嵐が巻き起こった[79]。このあとさらに10日間の追加撮影を行い、11月11日に最終の追加撮影が終了[80]。10月半ばにはセルズニックはアメリカ映画協会に「damn」というレットの最後の言葉を許可してもらえるように手紙を書いている[81]。業界の重鎮たちが味方についたおかげで、このセリフは5000ドルの罰金で許可されている[82][17][18]。
1939年12月11日の完成まで[17]、撮影したフィルムは50万フィート、そのうち上映時間にして29時間半になる16万フィートがプリントされた[83]。最終2万フィート、222分の長さまで切り詰められた[83]。
1939年12月15日金曜日、南部のアトランタでワールド・プレミアが開かれた[9]。ロウズ・グランド劇場の正面にトウェルヴ・オークス屋敷を模したファサードを建てたり、全ての商店のウィンドウにポスターを貼らせたりした[84]。知事はプレミアの日は州の休日、アトランタ市では13日〜15日の3日間を休日にした[85][17][18]。グランド劇場の座席数は2051、入場料が50セントの時代に通常の20倍の10ドルという高額料金であったが、6万人から応募があり、抽選になった[86]。
13日にヴィヴィアン・リー、ローレンス・オリヴィエ、オリヴィア・デ・ハヴィランド、イヴリン・キース、アン・ラザフォード、アリシア・レット、ローラ・ホープ・クルーズ、オナ・マンスン、デヴィッド・O・セルズニック夫妻、ケイ・ブラウン、14日にクラーク・ゲーブル、キャロル・ロンバードらキャストやスタッフが到着[87]。スターや名士を乗せた30台の車からなるパレードが、空港からアトランタ市街まで行進した[88]。どの道路にも人が鈴なりであった[88]。また、市営の大講堂では当時の衣装を纏った人々によって、モンスター・バザーが再現された[88]。
15日プレミア当日、スターと共に劇場に入った観客たちは涙ながらに拍手喝采をおくった[89]。映画から衝撃を受けるがままに「反乱軍の雄叫び」をあげ、ヤジを飛ばし、悲鳴を上げ、歓声を送り、足を踏み鳴らした[89]。
上映後、マーガレット・ミッチェルがゲーブルにエスコートされて舞台に立ち[86]、「この映画は私に素晴らしい感動を与えてくれました」「色々言われながら理想の配役が得られるまで、黙り通したセルズニック氏の決意は賞賛に値します。そして配役は完璧だったと思います。」と述べている[17][18]。グランド劇場では改装まで3年間続映した[86]。
1940年2月12日、アカデミー賞ノミネートの発表が行われたが、この年は優秀な映画が多く、これまでで最良の年だと喧伝されていた[91]。ところがデヴィッド・O・セルズニックが最後の最後で『風と共に去りぬ』を滑り込ませたことで、マスコミ各社や映画業界人が憤激の声をあげていた[91]。『風と共に去りぬ』はアカデミー賞のオスカーで、12の部門で13人が候補に上るという記録を打ち立てた[92]。助演女優賞候補にはオリヴィア・デ・ハヴィランドとハティ・マクダニエルの2人が候補になっている[92]。
1940年2月29日、アカデミー賞受賞晩餐会の後、午後11時から第12回アカデミー賞受賞式が行われた[93]。発表はまだであったが、恒例によって新聞各社には授賞式後すぐに公表できるよう受賞者のリストが配布されていた[92]。ところがこの年の白熱状態に我慢できず、ロサンゼルス・タイムズ紙がこの日の午後の版に「デヴィッド・O・セルズニックがアカデミー賞を制覇!」と大見出しとともに発表してしまった[92]。そのためアカデミー賞の封をした封筒を使う有名なシステムが採用されるようになった[92]。
クラーク・ゲーブルは自分が最優秀主演男優賞を獲得できないことを承知でキャロル・ロンバートと一緒にやってきた[92]。主演女優賞は激戦であったが、ヴィヴィアン・リーが獲得[94]。スピーチでは「お世話になった人の名を全部挙げれば、あの映画ほどの長さにもなりかねません」と言ってデヴィッド・O・セルズニックに絞って感謝した[17][94]。そしてこの日最大の喝采は最優秀助演女優賞を獲ったハティ・マクダニエルに捧げられた[94][95]。黒人俳優では初のアカデミー賞受賞であり、この先24年間は後を継ぐ者は出なかった[94]。作品賞でのライバルは『駅馬車』『ニノチカ』『オズの魔法使』『スミス都へ行く』『チップス先生さようなら』『邂逅』『廿日鼠と人間』『愛の勝利』『嵐が丘』という映画の古典の殿堂であったが『風と共に去りぬ』が受賞した[94]。セルズニックは作品賞以外にもアービング・G・タルバーグ賞も受賞している[94]。
『風と共に去りぬ』はオスカー8部門同時受賞と、特別賞とアービング・G・タルバーグ賞も合わせれば10部門(さらに技術成果賞を入れて11部門)という記録破りを成し遂げ、司会のボブ・ホープは「まるでセルズニックの為の慈善興行みたいだね」とジョークを飛ばした[96][17]。
セルズニックが作ったその後の作品は、全て『風と共に去りぬ』と比較され、それより劣ると評された[17][18]。そしてわずか5年後の1944年に、セルズニックは本作の一切の権利をMGMに売却した[17][18]。現在は他のMGM作品(1986年以前)と同様タイム・ワーナーに版権がある。
インフレを調整した歴代の興行収入では、2020年現在でも『風と共に去りぬ』が1位である[7]。
『風と共に去りぬ』は本来35mmスタンダードサイズであるが、アメリカでは1954年から、日本では1955年の最初のリバイバルからワイドスクリーン版での上映が行われてきた[99]。
中でも1967年に日比谷スカラ座で世界初公開された70mmプリント版は、「2倍の大きさ、2倍のスペクタクル、2倍の興奮」と銘打たれて世界を回ったが[132]、これは単純に上下を切ったものではなく、当時の最先端の技術が使われている。
オリジナル・ネガを単純に70ミリの横幅に合わせて拡大すると、天地が1/3以上切れてしまうため、MGM技術研究所はシネマスコープの映画を当時の1.33:1のテレビ用比率のプリントに変えた技術を応用している[132]。
ワイドスクリーンの映画をテレビ用に直すには両端を切れば良いわけで、そのためにワイドのフレームの端から端へレンズが動き、画面の重要な動きを捉える視査装置や走査焼付機が開発されていた[132]。このレンズの動きが電子的に記録され、インター・ポジをセットすると焼付機のレンズもその記録に従って正確に同じ動作をする[132]。
このレンズの動きを水平から垂直に変えることで2.2:1の70mmの画面を作ることに成功している[132]。これは1コマ1コマフィルムの画像を追求する大変な仕事で、重要なあらゆる部分や動きを、レンズがインターポジを上下に走査し、128万回もシャッターを切ってオリジナル・プリントと正確に同じ3時間42分の70mmプリントを生み出している[132]。
音響の面でも、オリジナルの1本のトラックの音を、6本トラックの立体音響に移すため、声、音楽、エフェクトの別々のテープに分解し、これに修正や補強を加えて6本トラックにすることに成功している[132]。
これらは1965年の後半から始められ、テスト・リールが作られてからさらに1年の歳月をかけて70mmのマスター・プリントとステレオサウンドが完成されている[132]。
私は下町で工場を営んでいましたが、不況に襲われ倒産しました。借金に追われてどうしようもなくなり、妻と話してついに一家心中を決めました。
ですがそんな時、何も知らない娘が見ていたテレビの中から女の人の声が聞こえました。
"明日に望みをたくして!"。風と共に去りぬのラストです。
その時の心境はテレビどころじゃなく、ぼんやり画面を見るともなく眺めていたので物語も役者のことも全然わからないのですが、その声に思わず金づちで頭を殴られたような気がしました。
その晩、妻と二人で寝ないで、自分たちの明日についてもう一度考えなおしました……。一家心中やめました……。
この手紙を読んだ水野は涙が止まらなかったといい、後に以下のように述べている。
このたった一つの言葉。TVで放映された日本語の「明日がある!」が今、この三人の命をすくった。
私が映画の仕事をしていてはじめて人様の役に立ったということとともに、人生のすばらしさをしみじみと感じた。
こんな映画こそが傑作だと思う。どんなむずかしい理屈を語る芸術映画より、人に勇気と希望を与える映画こそが永遠の名作だと私は信じる。
私は「風と共に去りぬ」が大すきである。 — 水野晴郎、[144]
映画の冒頭のメインタイトルでスタッフ・キャスト等のテロップの後に、ディキシーの調べと共にアーネスト・ダウスンの恋愛詩「シナラ」の詩の一句が出てくる。これは原作の題名の由来にもなっている[152]。
There was a land of Cavaliers and Cotton Fields called the Old South.
Here in this pretty world, Gallantry took its last bow.
Here was the last ever to be seen of Knights and their Ladies Fair, of Master and of Slave.
Look for it only in books, for it is no more than a dream remembered, a Civilization gone with the wind...
(かつて在りし騎士道と綿畑の地 人々はその地を古き良き南部と呼んだ
その麗しい世界で最後に花を咲かせた勇気ある騎士達と艶やかな淑女達、奴隷を従えた主人達
今は歴史に記されるだけの儚い思い出となった 大いなる文化は、風と共に去りぬ……)
この文章は、一つの文化が戦争という烈風と共に消え去ったことを意味している[153]。
フォトプレイ賞
DVD Exclusive Awards
アメリカ映画ベスト100:第4位
主な出版物、サウンドトラック、映像作品ほかを記述
ほか、多数
備考
パブリックドメイン映像作品(収録内容)、配信などでは、OVERTURE,INTERMISSION,ENTR’ACTE,EXIT MUSIC.および、ほかの収録がない場合がある
主なオリジナル・サウンドトラックの曲
(アナログ/モノラル)レコードほか 収録曲数の異なるバージョンなどが多数存在する
本作は日本においては著作権の保護期間が完全に終了(公開後50年と戦時加算を2004年の著作権法改正以前に満たす)している。米国に於いては著作権が切れる前に95年に延長されており、1939年制作なので保護期間は2034年まで有効である。
ワーナー・ホーム・ビデオから発売されたVHS版は日本でのリリースが米国に先行する形となり日本語字幕版を逆輸入するケースが相次いだため、本国でのリリースが前倒しになった[要出典]。またこの件の影響もあり、DVDは北米と日本でリージョンをわけられることになった[要出典]。
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