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霊歌(れいか)、スピリチュアル(英: spiritual)は、アメリカ合衆国で誕生した宗教的な民謡 (英: folksong) の一つであり、奴隷状態に置かれていた南部のアフリカ系アメリカ人(黒人)の共同体の中から誕生した固有の宗教歌である。これらの歌は18世紀後半の数十年間から1860年代の制度的奴隷制廃止のあいだに黒人の共同体の中ではぐくまれ、アメリカ民謡の最も幅広い重要な音楽形態のひとつに発展した[1]。
黒人霊歌は「ゴスペル」よりも歴史が古く、そのルーツをアメリカの奴隷制時代にもつ。そこでは、奴隷としてアメリカ大陸に連れてこられたアフリカの人々の宗教的音楽的伝統が、強要されたアメリカ南部の福音主義的キリスト教の文化と接触することによって、新たな独自のアフリカ系アメリカの音楽伝統の基層が形成されることとなった[2]。南部プランテーション農場の黒人奴隷の共同体において、チャンツや手拍子を伴いシャッフルというステップを踏みながらの円形のダンス「リングシャウト」、即興で歌うリーダーとそれに呼応するコーラスが相互に歌われるというコール・アンド・レスポンスも 、奴隷による野外礼拝の様式となった。18世紀後半から19世紀初頭の第二次大覚醒の興隆で、奴隷のあいだでさらに宗教歌を伴ったリバイバルの集会は一般的なものとなった[3]。
スピリチュアル (霊的) という語は、新約聖書の「エフェソの信徒への手紙」(エペソ人への手紙)、「コロサイの信徒への手紙」(コロサイ人への手紙)にある「霊の歌」(spiritual song)に由来する。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。 — コロサイ人への手紙(口語訳)
有名なスピリチュアルには、アメリカ先住民チョクトーの解放奴隷であったウォレス・ウィリス (Wallace Willis) の「スウィング・ロー、スウィート・チャリオット」や「スティール・アウェイ・トゥ・ジーザス」、また奴隷として生まれ、初の黒人作曲家の一人となったヘンリー・バーレイ (Henry Burleigh) の「ゴー・ダウン・モーゼズ」や「ディープ・リヴァー」など、豊かな黒人霊歌のストックをベースに数多くの名曲が誕生し、西洋のクラシック音楽や白人の民謡にも影響を与えた。
W.E.B. デュボイス が記すように、アフリカ系アメリカの伝統は音楽の要素を抜きに語ることができないものであったが[4]、奴隷所有者たちは奴隷の共同体の自主的な活動を警戒し、アフリカの言葉の使用を禁じ、集会を禁じ、ドラムの使用を禁じた[5]。また、人々を解放せよと旧約聖書の「出エジプト」を歌う「ゴー・ダウン・モーゼズ」に至っては、そのあまりに明確なメッセージ性のため、その歌を歌うことを禁じる奴隷所有者もいたという[2]。1869年の記録によると、逃亡奴隷を支援する組織「地下鉄道」の「車掌」で、「黒人のモーゼ」とよばれたハリエット・タブマンは、この歌をメリーランドからの逃亡の合図として使ったと記されている[6]。また、タブマンと同様、19世紀の奴隷制度廃止論者で元奴隷だったフレデリック・ダグラスは、1855年の著作の中で、過酷な奴隷時代に霊歌を歌うことは、宗教上の意味を超えた、もう一つの意味があったことを記している。
我々が「ああ、カナン、甘美なカナン。私はカナンの地に向かう」と繰り返し歌う時、洞察鋭いものであるならば、そこに「天国に向かうこと」以上の意味を感じ取ったかもしれない。私たちはカナンに到達すること、つまり北部とは私たちのカナンの地を意味したのだ。 — フレデリック・ダグラス "My Bondage and My Freedom," p. 278 (1855)
厳しい宗教弾圧のもとで黙示文学が発達したように、自由な表現が厳しく制限された奴隷制下にあったアフリカ系アメリカの口承伝統においては、リファレンシャルな言語が発達する。20世紀初頭に発展するゴスペル・ミュージックが新約聖書の福音に重点を置きがちであるのとは明らかに異なり、黒人霊歌は旧約聖書あるいは終末論的なテーマを扱うことが多いのはそのためであると考えられる。
例えば「スティール・アウェイ・トゥ・ジーザス」において、「盗み足で去る」という表現は、宗教的な意味においては、死んで天国に行くことを意味するが、ダグラスの言う、「天国に向かうこと」以上の意味でいうならば、奴隷所有者の家財としての自分の存在を「盗んで」自由の地に去っていくことを意味する。天国に行くことは、死ぬことを意味するのではなく、地上の束縛から解き放たれるという意味において、奴隷制からの解放を意味する。こうした黒人霊歌の歌詞のダブル・ミーニング (二重の意味) に注目して黒人霊歌を理解しようとする試みもヴァナキュラー文化研究の一環として出てきている[注 1]。
黒人霊歌に込められた解放のテーマは、1960年代の公民権運動のアンセムとして再び重要な役割を果たした。「アイズ・オン・ザ・プライズ」や「ああ、フリーダム!」など、当時の「フリーダムソング」の多くは、古い霊歌からアレンジされたものであり、またセルマの行進、ワシントン大行進、キング牧師の葬儀など、マハリア・ジャクソンらの歌う黒人霊歌は公民権運動の絆をより強固なものにした[7]。
現在のように「spiritual」が、黒人霊歌を指すようになったのは、(明確にはわからないが)南北戦争後のことであり、それまでは、アンセム、賛美歌、霊歌、ジュビリー・ソング、奴隷の歌、奴隷小屋・プランテーションの歌、ゴスペル、プランテーション讃美歌など様々に呼ばれた[8]。1960年代には、黒人霊歌を指す言葉として、spiritualが一般的になった[8]。歌集の標題にspiritual songではなくspiritualを用いた本は、ジョンソン兄弟の『アメリカ黒人霊歌集』(1925年)が最初である[8]。
黒人霊歌の起源は、アフリカ民謡を起源のひとつとする説、白人の民間宗教歌が黒人に影響を与えて発生したという白人音楽起源論などが、激しい論争を繰り広げてきたが、アフリカとアメリカ南部白人文化両方の影響があると考えられている[9]。
黒人霊歌はかつて「Negro Spirituals(ニグロ・スピリチュアル)」と呼ばれていたが、黒人を指す「Negro(ニグロ)」という言葉に差別的な意味を持つようになった現在では、単に「スピリチュアルズ・Spirituals」あるいは、「African-American Spirituals」と呼ばれる。1930年代ごろにトーマス・ドーシーやブラインド・ウィリー・ジョンソン[注 2]らが登場したことで、霊歌の時代は終わり、「ゴスペル」の時代へと変わっていった。
「フィールドハラー・ミュージック」は、Levee Camp Holler・ミュージックとも呼ばれ、19世紀に創作された、初期のアフリカ系アメリカ人音楽である。野外奉仕者たちはブルース、スピリチュアル、そして後にリズムとブルースの基礎を築いた。綿花畑の農作業者、刑務所のチェーン・ギャング、鉄道労働者、ターペンタイン・キャンプなどで働くクロッパーは、アフリカ系アメリカ人が多かった。
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