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幸田 直子(こうだ なおこ[注 1]、1959年〈昭和34年〉3月22日[2] - )は、日本の女優、声優。北海道札幌市出身[2]。
実家は開業医[2]。一人っ子だったため、両親は医師にしたかったという[2]。
子供の頃から映画が好きで、当時から映画雑誌『SCREEN』を毎月買うことが楽しみだったという[2]。
その時に「親の言うことは高校までしか聞かない」と高校卒業後、札幌から上京し、「監督もやってみたい」と思い、日本大学芸術学部映画学科演技コースに進学[2]。
同大学芸術学部を受験に行った時は面接で「あなた実家が病院なの? だったら一浪しても医学部行ったら?」と諭されたが、「映画のことしかやりたくない」と意思を固めていた[2]。しかし、業界でなんとかやっていかないと札幌に帰郷しなくてはならなかったため、文学座研究所[4]に入所したが、研究生1年で出ることになり、「まだ受けられる劇団はないか」と探して見つけたのが劇団昴の養成所だった[2]。
最初に付いた役はNHK総合テレビジョンの『銀河テレビ小説』の放送作品『幸せのとなり』の料理学校の生徒のひとりであった[2]。
劇団昴に移った後、秋の研究生公演で主役を貰ったが、観に来ていた劇団昴のマネージャーが、「アテレコのオーディションに行ってみない?」と声をかけてくれた[2]。アテレコの最初の仕事は1978年、演出家の福永莞爾によるオーディションで選ばれたイタリア映画の『ウンベルト・D』であった[2]。台本を渡されたが、アテレコはしたことがなく、口が合ってるのかも全然わからないまま帰った[2]。憶えてないが、福永が後で幸田に「お疲れさま、じゃなくて、さよなら、って言って帰ったよ」と述べており、結局劇団から電話が来て「今回はダメだったよ」と言われ、「私は一生アテレコはできないんだ……」と思っていたという[2]。
2、3週間した頃に突然、劇団から電話がかかってきて、東北新社に親戚か知り合いがいるかを問われ、「いないです」と答えたところ、東北新社からヒロインの声の話が来た[2]。その後東北新社にリハーサルに行くよう勧められ、現場に行った[2]。
当時は本名であったため、「昴から来ました佐藤由美子です」と言ったところ、「じゃあこれ台本だから」と台本を渡され、イタリア映画『酒とバラと亡霊と』のヒロイン役のバラ役に抜擢された[2]。
その時は台本に印を付けていいかも全然わからず、当時はフィルムであったことから、映写室に連れて行かれ、小さなモニターを前に「これ1回観ながら(アテレコを)やってみて」と言われた[2]。喋ろうとして口を動かす間に、自分の役が通り過ぎていき、「キャー!」と驚く声もあったが、どうやっていいのかわからず1回見終わり「私にはできない!」と呆然としていた[2]。そうしていたところ、演出の小柳剛が、音が入ったカセットテープを貸してくれて、「このカセットテープを聴いて勉強してきなさい」と言われていたという[2]。
抜擢された理由は、演出の福永が憶えており、ヒロインを探していた小柳から相談を受けた時に推薦してくれたとのこと[2]。東北新社には親戚も知り合いもいなかったが、劇団昴に入ったばかりの研究生にもかかわらずいい役を貰い、その年の3月に文学座を出ることになり、11月にはまた声の仕事が入ったため、1年のうちに天国と地獄があった感じであったという[2]。
アテレコデビューがヒロインというのは、当時でも珍しかったが、劇団昴は声の仕事が多く、当時は田島令子、石田太郎などが所属しており、マネージャーも色々と動いてくれて幸田も色々なところで推してくれたんだと語る[2]。リハーサルを終えて、「もうちょっとリラックスしないとダメだから、共演の人たちが飲んでる現場に行きなさい」と言われ、演出家の佐藤敏夫の洋画のアテレコに参加した人物たちの飲み会に連れて行かれ、皆の前で「アテレコ処女だ」と紹介されたという[2]。
それまでは声優を目指す気持ちは一切なかったが、劇団昴が吹き替えのユニットで担当していたTBSの深夜の放送の番組『ペイトンプレイス物語』の大ファンで、劇団昴に入団後あちこち「ざるそばお願いします!」のようなものまで『ペイトンプレイス物語』の声が聴こえていたという[2]。その時は「いいなあ」と思ってはいたが、アテレコをするとは、前日まで思ってもいなかったという[2]。
『酒とバラと亡霊と』で亡霊役を演じていた内海賢二はテレビで聴く声であったことからわかり、幸田も新人であったことから緊張していた[2]。内海はすごく気を遣ってくれて、フランクに接してくれたが、偶々その時にラジオの取材が入り、「なんだ、ラジオの取材の方がよくしゃべるじゃない」とからかわれたという[2]。当時の周囲は優しく「こういう風にした方がいいよ」と親切に教えてくれて声の仕事が一気につながっていった感じであったという[2]。
アテレコのやり方は、現場に何回か行くうちに自然と覚えていき、全て現場で学んだという[2]。その頃は気付いていなかったが、色々な人物がサポートしてくれたおかげで「自分は声優になれたんだな」と月日が経ってみると改めてわかったという[2]。
初めてのゴールデン枠の主役は声の仕事を始めてから1年目くらいに、日本テレビの『水曜ロードショー(日本テレビ)』で放送された『続・個人教授』となる[2]。
その時に初めて、新聞のラテ欄に「佐藤由美子」と名前が掲載されたが、それを見ていた大学の恩師から「佐藤由美子じゃ誰かわからない。どこにでもある名前だから芸名を付けたほうがいい」とアドバイスを受け、芸名を「幸田 直子」に改名[注 1]。それをきっかけに、劇団昴も準劇団員1年で退団して、本格的に声優の仕事に取り組んだという[2]。
事務所は高瀬プロダクション[5]を経て、2015年3月までマウスプロモーション[4]、ムーブマン[6]、2024年9月までリマックスに所属していた[3]。
洋画ではシガニー・ウィーバー、エマ・トンプソンの吹き替えを多く担当している。
太字はメインキャラクター。
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