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日本の映画会社 ウィキペディアから
東京テアトル株式会社(とうきょうテアトル、英: TOKYO THEATRES COMPANY, INCORPORATED[2])は、映画配給および映画館の運営、飲食店運営、不動産賃貸事業を中心とする日本の映画会社。かつてはセゾングループ傘下で西洋環境開発の子会社であった。その関係でパルコ、西友(LIVIN・WALK)、西武百貨店など元セゾングループの商業施設で多数の映画館を運営受託していた。
種類 | 株式会社 |
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機関設計 | 監査役会設置会社 |
市場情報 | |
本社所在地 |
日本 〒104-0061 東京都新宿区新宿1-1-8 御苑テアトルビル 北緯35度41分16.3秒 東経139度42分46.4秒 |
設立 |
1946年6月28日 (東京興行株式会社) |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 3010001035000 |
事業内容 |
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代表者 | 代表取締役社長 太田和宏 |
資本金 |
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発行済株式総数 |
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売上高 |
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営業利益 |
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経常利益 |
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純利益 |
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純資産 |
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総資産 |
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従業員数 |
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決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | 有限責任大有監査法人[1] |
主要株主 |
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主要子会社 | #関係会社参照 |
外部リンク | https://www.theatres.co.jp/ |
特記事項:1946年に東京興行株式会社として設立。1955年に東京テアトル株式会社に社名変更。 |
1946年(昭和21年)、吉岡重三郎によって東京興行株式会社として設立された。吉岡は阪急阪神東宝グループの小林一三の片腕であり、戦前には東京宝塚劇場(のち東宝)社長、後楽園スタヂアム社長、日活社長を務めた人物である。1949年(昭和24年)5月、東京証券取引所再開と同時に株式上場した。1955年(昭和30年)11月3日に映画館「テアトル東京」を銀座に開館、同時に東京テアトル株式会社に社名変更している。映画館、キャバレー、ボウリング場の運営を主な事業として手掛けてきた。しかしその後、ボウリングブームの終焉や、映画産業の斜陽化などから経営不振に陥った[3]。テアトル東京も1981年(昭和56年)10月31日をもって閉館した。
そこで安定的な経営基盤の構築を目的に、テアトル東京跡地の再開発に際して当時の清水清秋社長から、セゾングループ総帥の堤清二に協力が要請され合意に至った[3]。合意に則り、1983年に西武都市開発(のちの西洋環境開発)が増資して東京テアトル株式の37%を取得。再開発の主体を担い、1987年(昭和62年)1月、跡地にホテル西洋銀座、銀座セゾン劇場、銀座テアトル西友が入居する銀座テアトルビルが竣工した[4]。これによって東京テアトルは、東邦生命保険とともに銀座テアトルビルの共同所有者となった[3]。
1989年(平成元年)まで、西洋環境開発は東邦生命保険に次いで東京テアトルの2位株主であったが、その後セゾングループ各社の持株を集約して東京テアトルの筆頭株主となった。これにより、東京テアトルは西洋環境開発の子会社となりセゾングループ入りした[4]。セゾングループ入りに伴い、グループ内の西武百貨店、西友、パルコが個々に運営していた映画興行の運営を受託した[5]。
1999年(平成11年)に大株主であった東邦生命保険が業務停止命令を受け破綻。さらに翌2000年(平成12年)には西洋環境開発も経営破綻した。大株主の喪失は東京テアトルにも大きな影響をもたらし、東邦生命から銀座テアトルビルの土地と建物を購入したほか、同ビルでセゾングループが手掛けていた事業を引き継ぐなどのために新規融資を受けたため、ピーク時における借入金総額は220億円を超えた。また安定株主であった大株主の経営破綻によって株式が大量に市場に放出されたため、株価も急落する事態にも見舞われた[6]。
銀座テアトルビル竣工以来、自己所有する歓楽街のテナントビルなどレジャー関連の不動産賃貸業とホテル運営が売上の柱となっていたが、世界金融危機による不況により2009年(平成21年)から2013年(平成25年)にかけて多くの事業整理に踏み切った。2013年(平成25年)5月にはホテル西洋銀座を閉館[7]、同年6月には銀座テアトルビルを売却している[7]。
その一方で、中古区分マンションを買取り、リフォーム後に販売するリニューアルマンション事業への進出、北海道内を中心とした「串鳥」など居酒屋の出店、また映画部門では既存の映画館に加え、運営受託したシネリーブルとシネカノンの映画館を「テアトルシネマグループ」のチェーンに組み込み、独立系の作品や配給会社の作品を中心とした映画作品の配給、上映の拡大などが行われている。
創業者の吉岡重三郎(1883 - 1969)は、大阪府の吉岡勘三郎の三男として生まれ、大阪高等商業学校在学中は野球部捕手として活躍。1909年に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)に入社して営業を担当。1915年には同社が建設した豊中球場の活用策として全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を発案し開催した[10][11]。阪急阪神東宝グループの創業者小林一三の片腕として40年以上仕え、東京宝塚劇場(のち東宝)社長、後楽園スタヂアム社長、日活社長(1941 - 45)を務め、1942年には大映の発起人に名を連ねるなど、戦前の映画・演劇・レジャー界で活躍した[12][13]。 終戦後、公職追放となり隠居生活を送っていたが、戦後の荒廃した大衆生活に潤いをと、東京テアトルを設立、映画・演劇の斡旋興行を行いつつ自社映画館の設立に尽力し、銀座一丁目に「テアトル銀座」を開業した[12]。当時、銀座で映画館は失敗するというジンクスがあったが、米国の封切作品の上映や一流設備の導入により成功した[12]。長女初子の婿に子爵梅小路定行の次男・定美(1911- 1984、京都大学経済学部卒)を迎え、吉岡定美は重三郎の跡を継いで東京テアトルの社長、会長を務めた[14][15]。姪に木谷千種がいる[16]。
映画館は「テアトルシネマグループ」と総称される[注 1]
子会社の有限会社アイザックを通じて、レジャーホテルの運営も行っていたが、2016年1月10日をもって営業を終了。レジャーホテル事業から撤退した[56]。
2013年までキャバレーを運営していたが撤退。東京都心部でレストランや「西洋銀座」名称の中食・洋菓子店を数店舗出店しているほか、子会社の札幌開発により「串鳥」などの居酒屋を展開している。
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