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小説家、評論家、随筆家 (1906-1955) ウィキペディアから
(さかぐち あんご、1906年〈明治39年〉10月20日 - 1955年〈昭和30年〉2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は(さかぐち へいご)。
坂口 安吾 (さかぐち あんご) | |
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誕生 |
坂口 炳五(さかぐち へいご) 1906年10月20日 日本・新潟県新潟市西大畑通28番戸(現・中央区西大畑町579番地) |
死没 |
1955年2月17日(48歳没) 日本・群馬県桐生市本町2丁目266番地 |
墓地 | 新潟県新津市大安寺(現・新潟市秋葉区大安寺) |
職業 | 小説家、評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(哲学) |
最終学歴 | 東洋大学印度哲学倫理学科第二科(現・文学部東洋思想文化学科) |
活動期間 | 1931年 - 1955年 |
ジャンル | 小説、評論、随筆 |
主題 |
ファルス、アプレゲール、行雲流水、大悟徹底 絶対の孤独、偉大なる落伍者 歴史探訪 |
文学活動 | 無頼派、新戯作派 |
代表作 |
『風博士』(1931年) 『日本文化私観』(1942年) 『堕落論』(1946年) 『白痴』(1946年) 『桜の森の満開の下』(1947年) 『二流の人』(1947年) 『不連続殺人事件』(1947年) |
主な受賞歴 |
探偵作家クラブ賞(1948年) 文藝春秋読者賞(1950年) |
デビュー作 | 『木枯の酒倉から』(1931年) |
配偶者 | 坂口三千代(旧姓・梶) |
子供 | 坂口綱男 |
親族 |
坂口得太郎(曾祖父)、ミタ(曾祖母) 坂口得七(祖父)、ユウ(祖母) 吉田久平(母方の祖父) 坂口仁一郎(父)、アサ(母) 坂口献吉(長兄)、千鶴(妹) 村山セキ(五姉)、喜久(姪) シウ、ユキ、ヌイ(異母姉) キヌ、アキ(養女姉、六姉) 七松、成三(次兄、三兄) 上枝、下枝(四兄、七姉) |
ウィキポータル 文学 |
昭和の、第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記など多彩な活動を通し、無頼派・新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。
新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科(現・文学部 東洋思想文化学科)卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。
戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた[1][2]。
文学においての新人賞である芥川龍之介賞の選考委員を第21回から第31回の間務め、松本清張や辻亮一、五味康祐などの作家を推した。歴史小説では黒田如水を主人公とした『二流の人』、推理小説では『不連続殺人事件』が注目された[1][3]。
坂口安吾は純文学だけではなく、歴史小説や推理小説、文芸、時代風俗から古代まで広範な歴史における題材を扱った随筆や、フランス文学の翻訳出版、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記など、多彩な活動をした。一方で気まぐれに途中で放棄された未完、未発表の作品も多く、小説家としての観点からはけっして「器用な」小説家とはいえないが[1]、その作風には独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的性格と風が吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家だといわれている[1][4][5]。
1906年(明治39年)10月20日、新潟県新潟市西大畑通28番戸(現・中央区西大畑町579番地)に、憲政本党所属の衆議院議員の父・坂口仁一郎(当時45歳)、母・アサ(当時37歳)の五男、13人兄妹の12番目として難産で生まれる[2][7]。本名「炳五」(へいご)の由来は、「丙午」年生まれの「五男」に因んだもの。血液型はA型。本籍である新潟県中蒲原郡阿賀浦村大字大安寺(現・新潟市秋葉区大安寺)の坂口家の高祖は、碁所の坂口仙得家の末裔(似た名前の二名の囲碁棋士・坂口仙徳と阪口仙得、いずれの末かが不明瞭)という代々の旧家で、「坂口家の小判を積み上げれば五頭山の嶺までとどき、阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きぬ」と言われたほどの富豪であり、遠祖・治右衛門(のち甚兵衛)は九谷焼の陶工であった[2][8]。しかし祖父・得七の投機の失敗により明治以後に没落した。父・仁一郎は政治活動に金銭を注ぎ、炳五の生まれた頃、家は傾きかけていた。邸内の広さは520坪で、松林の巨木に囲まれた邸宅は母屋と離れを合わせ90坪もある寺のような建物で、裏庭の松林を抜けると砂丘が広がり、日本海を見渡せた[2][9]。祖父・得七は、炳五誕生の10日後、79歳で死去した。
父・仁一郎は、「阪口五峰」「七松山人」の号で漢詩集の著書『北越詩話』(1918-1919年)、『舟江雑誌』のある漢詩人でもあり(森春濤の門下)、市島春城(春城)、会津八一と親交があった。新潟米穀株式会社取引所理事長、新潟新聞社(現・新潟日報社)社長なども務め、衆議院議員の政治家としては、大隈重信の下で憲政擁護に尽力し、若槻禮次郎、加藤高明、犬養毅(木堂)、尾崎行雄(咢堂)らと政友であった[10]。安吾は父について、「三流の政事家であった」としている[11]。10歳年上の長兄の献吉は、後に新潟日報社やラジオ新潟(現・新潟放送)の社長などを務めた。母・アサの実家は、新潟県中蒲原郡五泉町大字五泉(現・五泉市本町)の大地主・吉田家であった。吉田一族は皆〈ユダヤ的な鷲鼻〉を持ち、特に母・アサの兄(伯父)の眼は青く、〈まつたくユダヤの顔で、日本民族の何物にも似てゐなかつた〉という[9]。アサは仁一郎の後妻で、傾いた家計を支えるのに苦労していた。炳五は、5歳の時に生れた妹・千鶴に母親を奪われたという思いが強く、気丈でヒステリックな母から愛されなかったという孤独を抱き、見知らぬ街を彷徨うこともあった[7][9]。炳五は、自分ばかり憎み叱責する母に対する反抗心を増し、砂丘に寝転んで光と小石の風景を眺めながら、海と空と風の中にふるさとと愛を感じ、その中にふるさとの母を求めていた[9]。
幼少時の炳五は破天荒な性格で知られ、ガキ大将として近所の子供を引き連れ、町内や砂丘、茱萸林、異人池で遊び回り、立川文庫の『猿飛佐助』を愛読し忍術ごっこに興じて忍法を研究していた。炳五の従姉妹の徳(アサの妹の娘。のちの献吉の妻)によると、ある叔父が「炳五はとてつもなく偉くなるか、とんでもない人間になるか、どちらかだ」と言っていたという[2][注釈 1]。小学校での成績は優秀で、ほとんどの科目が10点満点だったが、新潟県立新潟中学校(現・新潟県立新潟高等学校)に入学すると近眼で黒板の字が読めなくなり、英語や数学の成績も下がった。家計は遣り繰りがうまくいかずに差押えを受けていたため、母から眼鏡を買ってもらえず、炳五はその真相が級友に分かるのが恥ずかしく、ほとんど授業に出なくなる。また横暴な上級生への反抗の気持ちも強く学校を休み、放課後の柔道などの練習だけ通った。ようやく眼鏡も買ってもらうが、炳五の不注意で黒眼鏡を買ってしまい、友人たちが珍しがって引ったくり、いじっているうちに壊れてしまう。授業が面白くなく、野球漫画を描き、海岸の砂丘の松林で寝転がるなどして過ごし、雨の日は学校近くのパン屋の二階で歌留多(小倉百人一首)に興じる。この頃、谷崎潤一郎『ある少年の怖れ』などを読む[9][2]。またこの頃、新潟市のシンボルであった木造の2代目萬代橋がかけ替えられることが決まり、長い間不思議な悲しみに襲われた[12]。
中学2年の時に、4科目(英語、博物など)で不合格となり留年したため、家庭教師をつけられるなどしたが、逃げ回っていた。勉強をしない炳五に漢文の教師が、「お前なんか炳五という名は勿体ない。自己に暗い奴だからアンゴと名のれ」と黒板に「暗吾」と書いたとされ、これが「安吾」の由来とされる[9][13]。1922年(大正11年)、反抗的な落伍者への畏敬の念が強く、ボードレールや石川啄木の影響を受けていた炳五は、試験の際に答案を配られた直後、白紙で提出するなど反抗的態度を取る。この時、「学校の机の蓋の裏側に、余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらうと、キザなことを彫つてきた」と安吾は自伝小説『いづこへ』に記しているが、実際は柔道部の板戸に彫ったという[14]。炳五が再び落第濃厚で、放校されることを危惧した父や兄・献吉が、9月に東京の私立豊山中学校(現・日本大学豊山高等学校)3年に編入させたことがきっかけで、父や長兄夫婦、四兄・上枝と共に東京府豊多摩郡戸塚町大字諏訪(現・西早稲田2丁目)の借家に移り住み、浅草の寄席にも出かけた[2]。秋頃、仁一郎は胃癌と診断される[10]。母と離れて暮しはじめ、炳五は世の中の誰よりも母を愛していることをのちに知る[9]。
文学作品は、兄・献吉の影響もあり早くから読んでおり、私立豊山中学校編入後は同級生の山口修三、沢部辰雄の影響で宗教にも目覚める。谷崎潤一郎、バルザック、芥川龍之介、エドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、アントン・チェーホフなどを愛読した。また、詩歌では石川啄木や北原白秋などを愛読し、短歌を作っていた。その他にも、日本史に興味を持ち、『講談雑誌』を愛読していた。自伝小説『風と光と二十の私と』には、ボクシング小説「人心収攬術」の翻訳を、友人Sの名前で雑誌『新青年』に掲載したとあるが(結局掲載されなかったのか)、その掲載記事は見当たらない。文学に自信が持てず、豊山中学時代は、野球や陸上競技に熱中、角力大会に入賞し、5年次の1924年(大正13年)に第10回全国中等学校陸上競技会(インターハイの前身)のハイジャンプで1メートル57センチの記録で優勝した[14][2]。
関東大震災のあった1923年(大正12年)11月2日に父・仁一郎が細胞肉腫、後腹膜腫瘍で死去(64歳で没)。戸塚を離れ、池袋などを転々と引っ越し、1925年(大正14年)から兄と荏原郡大井町字元芝849(現・品川区東大井)に転居。本当は山に入って暮らすことを考えていたが、父の財産管理で10万円の借金があったことから、3月に豊山中学校を卒業後は代用教員になることを決心し、荏原郡世田ヶ谷町の荏原尋常高等小学校(現・若林小学校)に採用され、その分教場(現・代沢小学校)の代用教員となり、5年生を担当する。分教場主任の家に下宿し、月給は45円であった。生徒への教育方針は「温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせる」ことで[15]、優しいが怖い先生だったという[14]。
この頃、短歌を書く時の名前を「安吾」と称するようになる。「安吾」とは、心安らかに暮らすことを意味する「安居」のことである[2]。のちに安吾は、〈僕は荒行で悟りを開いたから、安吾にした〉と鵜殿新に語っている[16]。芥川龍之介、佐藤春夫、正宗白鳥の作品や、チェホフ『退屈な話』など、多くの文学書を愛読する。
卒業した豊山中学校が仏教真言宗の中学で、在学中から友人らの影響で宗教に目覚めていた安吾は、ますます求道への想いが強くなり、1926年(大正15年)から仏教の本格研究を志すため代用教員を辞め、4月に東洋大学印度哲学倫理学科第二科(現・東洋思想文化学科)に入学。住いは荏原郡大井町字元芝に戻ったり、四兄・上枝と婆やと共に北豊島郡西巣鴨町大字池袋(現・豊島区西池袋)に転居したりした。大学では読書会(原典研究会)を行なうなどした。龍樹に影響を受け、「意識と時間との関係」「今後の寺院生活に対する私考」を原典研究会刊『涅槃』に発表する。この頃、交通事故に遭い、後遺症で頭痛や被害妄想が起こりがちになる[8][14]。
睡眠時間をわずか4時間にし(午後10時に寝て午前2時に起床)、仏教書や哲学書を読み漁る猛勉強の生活を1年半続けた結果、神経衰弱に陥る[17][8]。1927年(昭和2年)の芥川龍之介の自殺がさらに安吾の神経衰弱に拍車をかけ、創作意欲を起こしつつ書けない苦悩の中で、自殺欲や発狂の予感を感じ[18]、錯乱症状が悪化して、兄も安吾の病状に気づくようになる[2]。しかし、古今の哲学書や、サンスクリット語、パーリ語、チベット語など語学学習に熱中することで妄想を克服した[17]。
大学でサンスクリット語などの辞書を読むために、さらにラテン語、フランス語を学び、1928年(昭和3年)に神田三崎町のアテネ・フランセ初等科に通い始める[19]。そこで、フランス語を成績優秀で「賞」をもらうほど習熟し、同校に通う長島萃、江口清とも知り合う。当時の安吾は詰襟服にソフト帽を押し潰したようにかぶり、まだ酒も飲まず、講義に欠かさず出席して神経衰弱を治すために勉強に打ち込んでいたと江口清は述懐している[20]。安吾は彼らと読書会を開き、モリエール、ヴォルテール、ボーマルシェ、デュアメル などに惹かれた。当時隆盛であった左翼文学やプロレタリア文学には全く魅力を感じず、佐藤春夫、宇野浩二、葛西善蔵、有島武郎を愛読し、小説家への夢を本格的に固める。この頃に第2回『改造』懸賞創作に小説を応募するが落選する[10]。翌1929年(昭和4年)、アテネ・フランセ中等科へ進んだ安吾は、校友会に参加し、菱山修三、葛巻義敏らとも知り合った[19][14]。11月に再び、第3回『改造』懸賞創作に応募して落選したとされる[10]。
1930年(昭和5年)3月に東洋大学を卒業した安吾は、既成の文学者のようになれない自分に煩悶し、書くべきものの必然性を求めて寄席やレビュー、歌舞伎を観たり、音楽(エリック・サティなど)を聴いたり、有名になりたいという野心と裏腹にカフェーの支配人になろうともするが、アテネ・フランセ高等科に進み、本格的に20世紀フランス文学を学ぶ。5月には荏原郡矢口町字安方127番地(のちに蒲田区安方町。現・大田区東矢口)に新築した家に、兄・献吉夫婦と、前年1929年(昭和4年)に妹・千鶴と上京してきた母・アサと移住した。母は、自分の実家から資金援助し安吾をフランスへ留学させてやろうと真剣に考えていたが、安吾自身は自信が揺らぎがちで、〈途中で自殺しそうな気配の方を強く感じて〉しまい、留学に踏み切れなかったという[21]。11月に、アテネ・フランセの友人葛巻義敏、長島萃、江口清、山田吉彦(きだみのる)らと同人誌『言葉』を創刊[19][注釈 2]。創刊号に翻訳「プルウストに就てのクロッキ」(マリイ・シェイケビッチ)を掲載した。この頃から同人仲間と神楽坂、神田、銀座、新橋に飲みに行くようになる[20]。同月14日には、兄妹の中で一番好きだった異母姉・ヌイが黒色肉腫のため死去(40歳で没)。
1931年(昭和6年)1月に『言葉』第2号に、ナンセンス的な処女小説「木枯の酒倉から」(副題は「聖なる酔つ払ひは神々の魔手に誘惑された話」)を書き、島崎藤村が褒めているという話を聞いて、小説家としての資質に自信を持つようになる[20]。『言葉』を2号で廃刊後、5月に『青い馬』と改題して岩波書店から新創刊し、創刊号にドビュッシー風の小説「ふるさとに寄する讃歌」(副題は「夢の総量は空気であつた」)、随筆「ピエロ伝道者」、翻訳「ステファヌ・マラルメ」(ヴァレリー)、「エリック・サティ」(コクトー)を発表した。「エリック・サティ」[22]は葛巻義敏との共訳であった[20]。
続いて6月、『青い馬』2号に散文ファルスとも言うべき「風博士」を発表。3号に、新潟県東頸城郡松之山町、松之山温泉を舞台にした「黒谷村」を発表する。この「風博士」を牧野信一から激賞[注釈 3]、「黒谷村」も島崎藤村と宇野浩二にも認められ、一躍新進作家として文壇に注目された。安吾は、〈私は短篇小説をたつた三つ書いただけで一人前の文士になつてしまつた〉と述懐している[19]。次いで9月に「海の霧」を雑誌『文藝春秋』、10月に「霓博士の頽廃」を『作品』に発表し、売れっ子作家となり、牧野信一主宰の春陽堂の『文科』にも「竹薮の家」を連載した。この作品にも音楽性、映像性が見られる[2]。『文科』同人には、小林秀雄、河上徹太郎、井伏鱒二らがいた[注釈 4]。
1932年(昭和7年)3月、『青い馬』は5号で廃刊、この最終号には評論「FARCEに就て」を掲載し、〈文学全般にわたつての道化〉について論じた。3月から京都に1か月半ほど滞在し、河上徹太郎の紹介で京都帝国大学仏文科卒業間際の大岡昇平を訪ねて、独文科の加藤英倫、安原喜弘らと知り合い交遊して帰京。文学上のことで口論となることのあった牧野信一とは徐々に疎遠となる[2]。6月、「母」を『東洋・文化』に発表。8月、青山二郎行きつけの京橋の酒場「ウヰンザア」にて、加藤の紹介で美人女流作家・矢田津世子と知り合い交際が始まる。この酒場で中原中也との交友も始まった。12月には鎌倉で療養中の姪・村山喜久(姉・セキの娘)を見舞い、詩画集『小菊荘画譜』を喜久の父・村山真雄の弟で画家の村山政司と共に作り、〈菊は娘の娘也と叔父安吾 世に推して憚らず〉などの健康回復の祈願を書く[2]。
1933年(昭和8年)3月に田村泰次郎、井上友一郎、河田誠一、菱山修三、矢田津世子らと同人誌『櫻』創刊に参加し、マニフェスト「新しき文学」を掲げ、5月から「麓」を連載するが、『櫻』は第3号以降の刊行が難しくなり、6月に矢田と共に脱退した[注釈 5]。全集未掲載で存在が知られていなかった短編探偵小説「盗まれた一萬圓」を『東京週報』1933年10月15日号に掲載していたことが2022年に判明した[24]。11月、小説論「ドストエフスキーとバルザック」を『行動』に発表。
1934年(昭和9年)1月に何度も自殺未遂を繰り返していた親友・長島萃が脳炎で発狂し夭折したことに衝撃を受け、2月に「長島の死に就て」を『紀元』に発表。同月には河田誠一(詩人)も急性肋膜炎で死去した。この2人の友人の死は、安吾に生命の不安を与え、生活態度にも影響を及ぼした[2]。安吾は前年に知り合った蒲田新宿の酒場「ボヘミアン」のお安さんと3月から半ば同棲生活に入り、のちに大森区堤方町555(現・大田区中央)の十二天アパートに移住。5月、「姦淫に寄す」を『行動』に発表。9月に戯曲「麓」(未完)を『新潮』に発表するが、文学的転機に悩み、夏には越前(福井県北部)など北陸地方に放浪し、流転の生活を送る[14]。
1935年(昭和10年)4月に「蒼茫夢」、5月に随筆「枯淡の風格を排す」を『作品』に発表。徳田秋声を批判したこの随筆が縁で、尾崎士郎と知り合う。6月に『黒谷村』(「木枯の酒倉から」など6編収録)を竹村書房から刊行し、出版記念会を開く。新鹿沢温泉に赴き、長野県小県郡弥津村(現・東御市)の奈良原鉱泉で一夏を過ごし、7月、「金談にからまる詩的要素の神秘性について」を『作品』、8月に「逃げたい心」を『文藝春秋』に発表。この小説の主人公の逃走(蒸発)願望は、太宰治などの同時代作家に共通するものであった[25]。12月、母や母性について書いた「をみな」を『作品』に発表。お安さんと別離し、蒲田区安方町の家へ戻る。
1936年(昭和11年)3月、本郷の菊富士ホテルで執筆中に矢田津世子が来訪し再会するが、その後、矢田から絶縁の手紙が来る。このことや同月24日に牧野信一の自殺に衝撃を受けたことから、1月から『文學界』に連載していた長編「狼園」を中断し、5月に牧野への追悼随筆「牧野さんの祭典によせて」を『早稲田文学』、「牧野さんの死」を『作品』に発表する。6月には、5年間交際していた恋人・矢田津世子に絶縁の手紙を送った[26]。矢田との間には肉体関係はなく、5年目の冬に一度接吻しただけだという[27]。11月末から、矢田との恋愛を主題にした長編「吹雪物語」の執筆に取りかかり、翌1937年(昭和12年)2月、尾崎士郎に見送られて東京を発つ。京都府京都市伏見区稲荷鳥居前町22に下宿し、「吹雪物語」の執筆に専念しながらも絶望に陥り、移った下宿先の上田食堂の二階に碁会所を開くなど囲碁三昧、飲酒に明け暮らす生活を送る[28][2]。
1938年(昭和13年)5月に、安吾作品では最も長い700枚の渾身作「吹雪物語」を脱稿して上京し、本郷の菊富士ホテルに滞在。竹村書房から長編『吹雪物語』を7月に刊行するが、失敗作と評され失意に陥る。6月には可愛がっていた姪の村山喜久が松之山の自宅の池の前で自殺し二重の苦悩の中、執筆に専念し、12月に三好達治の雑誌『文体』に説話体小説「閑山」を発表した。日本の古典文学や昔話に親しみ、1939年(昭和14年)2月にも、説話体小説「紫大納言」を『文体』、3月は「木々の精、谷の精」を『文藝』に発表した。同年5月、安吾は〈人々のいのちとなるやうな物語〉を書くべく[29]、新たな小説の腹案を練るため、茨城県取手町の取手病院の離れに住み込むが、何を書いても本当の文学が書けない思いで空漠とした生活を送る[30]。
翌1940年(昭和15年)1月には取手の寒さに悲鳴をあげ、三好達治の誘いで小田原早川橋付近の亀山別荘という結核患者のための家に転居する。リルケの『マルテの手記』を読み、絶望の必要性を教えられたことと、三好の勧めで『日本切支丹宗門史』など切支丹物を読み始め、執筆意欲を取り戻し、7月に歴史小説「イノチガケ」を『文學界』に発表する。12月に上京し、「風人録」を『現代文學』に発表。歴史小説への意欲は同人雑誌の頃の若い時代にも潜在していたが[20]、ここで新たに歴史人物への共感と視野が広まる[2]。
大晦日に大井広介と浅草雷門で会い、意気投合し『現代文學』同人となる[注釈 6]。翌1941年(昭和16年)1月に大井宅で歴史書を耽読し、蒲田区安方町の家に戻る。8月に評論「文学のふるさと」を『現代文學』に発表。シャルル・ペロー版『赤ずきん』の残酷な〈救ひ〉のない結末を鑑み、〈生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独〉が〈文学のふるさと〉だと考察し、〈モラルがないといふこと自体がモラル〉というところから文学は出発するのではないかと論じられ[25]、自身の孤独な半生を思想として結晶させている[2]。8月、小田原から蒲田区安方町94に移り、再び母や兄たちと住むようになったが、小田原の借家は9月に暴風雨で流失する。歴史長編小説『島原の乱』(未完)を構想し、10月に『現代文學』に「島原の乱雑記」を発表、11月は「ラムネ氏のこと」を『都新聞』に発表する。同月、石川淳と識る[31]。
戦時下の1942年(昭和17年)2月、母・アサが73歳で死去。3月に評論「日本文化私観」を『現代文學』に発表。6月に「真珠」を『文藝』に発表。「真珠」は、真珠湾攻撃に特殊潜航艇(甲標的)で参加して戦死した九軍神を主題にした小説で、彼らの死を目前にしたゆえの透明な明るさと、安吾自身の飲んだくれの無頼の生活を対比させた作品である[1]。兄・献吉夫婦が新潟市二葉町1丁目に転居したため、『島原の乱』の執筆を兼ねて一夏を新潟で過ごす。11月に「青春論」を『文學界』に発表。独自の文学観や思想を確立してゆく。1943年(昭和18年)9月、最初の自伝小説「二十一」を『現代文學』に発表。10月に創作集『真珠』(「古都」「孤独閑談」など所収)を刊行したが、「孤独閑談」の一部の表現が時局に合わないとして再版を禁じられた。この頃、「猿飛佐助」の構想を立てるが中断する。12月に『日本文化私観』を文体社から刊行。戦時中は作品発表の場が大幅に減り、歴史書や『平家物語』を読み漁った。
1944年(昭和19年)1月に黒田官兵衛を主人公にした歴史小説「黒田如水」(『二流の人』の原型)を『現代文學』、2月に「鉄砲」を『文藝』に発表。徴兵逃れのために日本映画社の嘱託となる。3月14日に矢田津世子が38歳で病死。安吾はしばらく打ちのめされた[2]。1945年(昭和20年)4月に召集令状を受けるが、応召せず、6月に、記録映画『黄河』などの脚本を書いたが映画化はされなかった。2月26日に東京大空襲を受けたが、家は焼け残った。戦災に遭った親戚筋の大野璋五(裁判官)一家4人が坂口家と同居する。終戦後の9月に日本映画社を退社。世話になった友人の尾崎士郎が戦争責任で追及されることを危惧して奔走する[2]。安吾は尾崎士郎の秘書という名目でGHQ戦犯事務所に同行して弁護をした[10]。
1946年(昭和21年)になると雑誌が復刊され出し、1月に「わが血を追ふ人々」(『島原の乱』構想の一部を独立させたもの)を『近代文學』に発表。4月に『新潮』に発表した評論「堕落論」は、終戦後の暗澹たる世相の中で戦時中の倫理や人間の実相を見つめ直し、〈堕ちきること〉を考察して、敗戦に打ちのめされていた日本人に大きな影響を与えた[1]。同誌に6月に発表した小説「白痴」も大きな反響を呼び、この2作によって脚光を浴びた安吾は一躍人気作家となる[1]。続いて7月に「外套と青空」を『中央公論』、9月に「女体」を『文藝春秋』、「欲望について」を『人間』、「我鬼」(のち『二流の人』に挿入)を『社会』を発表。「女体」は、夏目漱石の作品を〈全然肉体を生活してゐない〉とし、〈一組の夫婦の心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿に於て歩ませる〉という主題の作品である[25]。
10月に自伝小説「いづこへ」を『新小説』、「魔の退屈」を『太平』、「デカダン文学論」を『新潮』、「戦争と一人の女」を『新生』に発表。11月に自伝小説「石の思ひ」を発表。12月に「続戦争と一人の女」を『サロン』に発表し、旺盛な活動を見せる。この頃、太宰治や織田作之助と座談会で面識をもつ。写真家林忠彦と酒場「ルパン」で知り合い「カストリを飲む会」を通じ交友し、12月に安方町の自宅の二階の紙屑だらけの仕事場で撮られた写真も後に有名になった。2年間ほど掃除をしていない部屋を見て、林忠彦は「これだ!」と叫んだという[2]。同月には文藝春秋社『座談』で阿部定と対談する[32]。
1947年(昭和22年)1月、独特の歴史観による歴史小説「道鏡」を『改造』に発表。道鏡と孝謙天皇の恋の道程を描き、戦前の史観では悪逆非道とされていた人物を取り上げた安吾らしい作品としてセンセーショナルに迎えられたが、内容はむしろ女帝としての孝謙天皇を描いたものだった。同月には、「恋をしに行く」(「女体」の続編)を『新潮』、「私は海を抱きしめてゐたい」を『婦人画報』、徳川家康を題材にした歴史小説「家康」を『新世代』、自伝小説「風と光と二十の私と」を『文藝』に発表。20代の青春期の精神遍歴を描いた小説は、3月の「二十七歳」もあり、それに続く連作的な「三十歳」(翌年5月発表)では当時新進女流作家であった矢田津世子との恋愛について描かれ、安吾自身も年代記の眼目としている。人気作家となった安吾は、太宰治、織田作之助、石川淳らとともに「新戯作派」「無頼派」と呼ばれて、時代の寵児となり注目される反面、「痴情作家」とレッテルを貼られることもあった[2]。
2月、随筆「特攻隊に捧ぐ」を『ホープ』に寄稿したが、GHQの検閲で全文削除となり未発表作となる。同月には初の新聞連載小説「花妖」を、岡本太郎の挿絵で『東京新聞』に連載開始するが、新聞小説としては型破りであったために読者の評判は悪く連載中断となってしまい、5月で未完となった。6月には虚無の極北、絶対の孤独を凝視した「桜の森の満開の下」を『肉体』、自伝小説「暗い青春」を『潮流』、評論「教祖の文学」を『新潮』、ファルス的な連作「金銭無情」「失恋難」「夜の王様」「王様失脚」(のちに長編『金銭無情』)を『別冊文藝春秋』他各誌に発表するなど旺盛な活動を見せた。作品の反響は大きく執筆のペースは大幅に増え、次々と作品を発表し、ヒロポンを服用しながら4日間一睡もしないこともあった。安吾には強気の反面、神経の弱い面が多分にあったという[20]。
9月からは推理小説「不連続殺人事件」を雑誌『日本小説』に連載し始める(挿絵は高野三三男)。作中に登場する巨勢博士は短編「選挙殺人事件」(1953年)、「正午の殺人」(1953年)でも活躍させている。安吾は少年時代から推理小説、探偵小説を愛好し、推理作家としてはアガサ・クリスティを最高の作家として挙げ、横溝正史も好んでいる[33][34]。飲みに行くこともままならなかった戦争中には、平野謙、荒正人、檀一雄、埴谷雄高らと大井広介邸に集まり、犯人あてのゲームに興じていたが、推理に一番熱心であったが一番当らなかったという[35][3]。大井広介は、「彼(安吾)の推理は不可思議な飛躍をする」ことが多かったと回想している[35]。安吾は推理小説を、パズルの魅力やゲームとして楽しむ理知的な娯楽と捉えているが[36]、それを成立させるためには、「作家的、文学的、洞察と造型力」が必須であり、「いやしくも犯罪を扱う以上、何をおいても、第一に人間性についてその秘奥を見つめ」ていなければならないと語り[37]。トリックが先にありきで後から登場人物を当てはめたような、「有りうべからざる人間心理をデッチあげ」、「人間性を不当にゆがめている」作品には批判的である[37][38][注釈 7]。10月に「青鬼の褌を洗う女」を『愛と美』(『週刊朝日』25周年記念号)に発表するが、この作品のモデルと自称する梶三千代とは、3月に新宿の酒場チトセで知り合い、毎週水曜日に秘書として手伝いをしてもらうようになり、9月から結婚生活に入った(正式な婚姻届はのちの1953年8月24日)[39][2]。なお、安吾自身は「青鬼の褌を洗う女」について、〈特別のモデルといふやうなものはない。書かれた事実を部分的に背負つてゐる数人の男女はゐるけれども、あの宿命を歩いてゐる女は、あの作品の上にだけしか実在しない〉としている[40]。
1948年(昭和23年)1月に『二流の人』(九州書房)を刊行。「淪落の青春」(未完)を『ろまねすく』に発表。伊藤整や太宰治、林房雄らのいる『ろまねすく』は前年8月に同人となった[注釈 8]。2月に『金銭無情』を文藝春秋新社から刊行する。この頃からヒロポンに加え、アドルムを服用するようになり、ちょうど太宰治の自殺した6月頃から、鬱病的精神状態に陥る。これを克服するために、短編やエッセイの仕事は断り、長編「にっぽん物語」(のち『火』)の連載執筆に没頭する。しかし不規則な生活の中でアドルム、ヒロポン、ゼドリンを大量に服用したため、病状は更に悪化し、幻聴、幻視も生じるようになる。12月、執筆取材のために京都へ行くが発熱し旅館に病臥する状態だった。翌1949年(昭和24年)1月に戻った後にはアドルム中毒で狂乱状態、幻視、神経衰弱となり、夫人や友人達の手により2月23日に 東京大学医学部附属病院神経科に入院した[2]。3月に「にっぽん物語―スキヤキから一つの歴史がはじまる」を発表(続きは5月-7月まで)。
4月に薬品中毒症状と鬱病は治まり、「僕はもう治っている」を『読売新聞』に発表。「にっぽん物語」の完成を目指し、置手紙を残して外出先から電話をかけて病院を自主退院する。6月には「精神病覚え書」を『文藝春秋』に発表。8月に推理小説「復員殺人事件」を『座談』に連載開始し、本格推理小説で新境地を拓くが、載誌が廃刊となったため翌年3月に第19章までで中絶となる[41]。未完となった「復員殺人事件」はその展開を惜しまれ、他の探偵小説を書く暇があるのなら、これを完結させるべきだったと大井広介はのちに安吾に苦言を呈している[3]。生活のために執筆を再開するが、軽く使用した薬物のために病気が再発し発狂状態となる。やむなく夫人とともに静岡県伊東市に転地療養し、温泉治療でなんとか健康を取り戻し、11月に伊東市岡区広野1-601の借家に移転し、犬を飼い始める。なお、この1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)まで5年間、芥川賞選考委員を勤め、五味康祐『喪神』、松本清張『或る「小倉日記」伝』[42]を強く推すなど新風を吹き込んだ。
1950年(昭和25年)1月には、ファルス的小説「肝臓先生」を『文學界』に発表。続いて戯作者精神を発揮した社会時評「安吾巷談」を『月刊 文藝春秋』で発表し、文藝春秋読者賞を受賞するが、この頃、再び睡眠薬を服用し、中毒症状の発作を起こした。5月から「街はふるさと」を『読売新聞』に連載し、執筆のため度々上京して文京区小石川林町のモミジ旅館に宿泊した[2]。8月に「巷談師」を『別冊文藝春秋』に発表。10月からは探偵小説「明治開化 安吾捕物帖」を『小説新潮』に連載。この作品は、探偵・結城新十郎が勝海舟との談話を交えながらシリーズで解決役となる。安吾は、短編の推理の理想的な形式として日本流のシャーロック・ホームズシリーズを書こうとし、日本では岡本綺堂『半七捕物帳』のような成功作があるということで「捕物帳」になった[3]。同月には石坂洋次郎、林房雄らとの合作によるラジオ小説『天明太郎』を宝文館で刊行した。翌1951年(昭和26年)3月から歴史考察を記した「安吾新日本地理」を『文藝春秋』にて連載開始。古代王朝に関する大胆な仮説(蘇我天皇説)も提唱した鋭い感性からくる歴史観は、その後の作家(松本清張、黒岩重吾など)が古代史を論ずる際の嚆矢となった。
安吾は流行作家としての収入があっても全て使い切ってしまい、5月に税金滞納により家財や蔵書、原稿料も差し押さえとなる。国税庁に腹を立てた安吾は6月に、「差押エラレ日記」、「負ケラレマセン勝ツマデハ」を『中央公論』に書き、税金不払い闘争を行なった。夏から岐阜県北部の飛騨・高山地方を旅行し、日本古代への新たな興味を抱く。一方、この頃から競輪場に通い出し、伊東競輪のあるレースの着順判定(写真判定)に不正があったのではないかと調査、当時の運営団体である静岡県自転車振興会を検察庁に告訴するという伊東競輪不正告訴事件を9月に起こす。監督官庁である通商産業省は「坂口氏の思い違いである」として断定する[43]が、11月にはこれについて書いた「光を覆うものなし」を『新潮』に発表し、その中で再度写真のすり替えによる不正を主張したが、12月に嫌疑不十分で不起訴となった。この時代の競輪は、チンピラやヤクザの巣窟だったという[44]。
この競輪告訴事件の泥沼化により疲れ果て、アドルムを多量に服用し伊東市から離れて、被害妄想から大井広介邸など転々と居場所を変えることになり、妻・三千代の実家や石神井の檀一雄宅に居候する。檀一雄の家に身を寄せていた頃、安吾は「ライスカレーを百人前頼んでこい」と妻に言いつけ、三千代夫人は仕方なく、近所の食堂や蕎麦屋(「ほかり食堂」と「辰巳軒」)に頼み、庭に次々と出前が積み上げられていくという「ライスカレー百人前事件」を引き起こす[39][44][注釈 9]。檀一雄はその時の安吾について、「云い出したら金輪際にひかぬから」と語っている[45][44]。その後安吾は、1952年(昭和27年)2月末、『現代文學』同人だった南川潤の紹介で群馬県桐生市本町2丁目266番地の書上又左衛門邸の離れに身を隠す。この頃、この地で古墳巡りやゴルフを始めた[2]。小説の執筆は激減するが、同年1月からは歴史人物譚「安吾史譚」を『オール讀物』に連載し、評論家として活躍、巷談師を自称する。同月には、チャタレー裁判を林房雄らと共に傍聴し、「チャタレイ傍聴記」を『読売新聞』に載せた。6月に「夜長姫と耳男」、9月に戯曲「輸血」を『新潮』に発表。10月からは歴史小説「信長」を新聞『新大阪』に覆面作家として連載。連載と並行して作者名を当てる懸賞募集も行われ、応募総数2784通のうち正解は1299名だった。
1953年(昭和28年)1月、「屋根裏の犯人」を『キング』に発表。4月ころから鬱病が再発し、アドルム、ブロバリンの大量服用で錯乱状態となったことで、南川潤とも絶縁する。8月に、文藝春秋新社の企画で、安吾が上杉謙信で、檀一雄が武田信玄という想定で川中島決戦を再現するため信州に旅行するが、ここで暴れて松本警察署の留置場に入れられ、釈放された8月6日の朝、長男(綱男)の誕生を知る。薬物の発作が治まると、子供の親だという自覚が芽生え、生活が変化する。1954年(昭和29年)1月、子供が出来たために、財産が無いことを案じた「人の子の親となりて」を『キング』に発表。50歳近くで初めての子ができたことに惑いながらも、子供の成長の伴い愛情を深め、貯金をしようかという気になり始め、また子にはパパ、ママと呼ばせる[46]。
同年8月、歴史小説「真書太閤記」を『知性』に連載開始。「信長」と対をなし、豊臣秀吉(太閤)を描いた作品である(未完)。10月に法要のため、初めて妻と息子を連れて新潟に帰省し、幼少時代の地を歩く。11月に行きつけの浅草のお好み焼き店「染太郎」で、知人たちと食事をし、トイレに立つ時に熱い鉄板に手をついてしまうという「染太郎火傷未遂事件」を起こす[47]。ジュっと音がして焼けた安吾の手のひらを、すばやく氷で冷やして手当をしてくれた店の女主人に感謝した安吾は、「テッパンに手をつきてヤケドせざりき男もあり」という色紙を贈った[47]。12月には、「安吾日本風土記」の構想のために九州の宮崎県に赴き、高千穂神社を訪れた[2]。『中央公論』編集長・笹原金次郎によれば、安吾は庶民の声を綴ろうと、「日本全国歩こう。地方を廻って、古老から話を訊くんだ。日本人の、全く新しい歴史を書きたいんだ」と意欲を持って、「安吾日本風土記」に臨んでいたとされる[2]。
1955年(昭和30年)1月、歴史小説「狂人遺書」(「真書太閤記」の後継をなす作品)を『中央公論』、2月に推理小説「能面の秘密」を『小説新潮』に発表。「安吾日本風土記――高千穂に冬雨ふれり」を『中央公論』に発表して連載開始し、富山県や新潟県、さらに高知県へ取材した。3月号には「安吾日本風土記――富山の薬と越後の毒消し」を発表。2月15日夜に桐生市の自宅へ戻り、17日早朝に、「舌がもつれる」と言いながら突然痙攣を起こし倒れ、7時55分に脳出血により死去[2]。48歳没。
葬儀は2月21日に青山斎場で行われ、尾崎士郎、川端康成や佐藤春夫、青野季吉らが弔辞を読む。川端康成は、「すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない」とその死を悼んだ[2]。安吾は生前、葬式は退屈で不要だから「バカ騒ぎを一晩やりなさい。あとは誰かと恋をしてたのしく生きて下さい。遺産はみんな差しあげます。お墓なんか、いりません。」「告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。」と語っており[48]、墓は故郷の新潟県新津市大安寺(現・新潟市秋葉区大安寺)の坂口家墓所に葬られたが、墓には安吾の名や戒名は一切印されていない。
小説としての絶筆は「狂人遺書」となった。没後にエッセイとして3月に「諦めている子供たち」が『暮しの手帖』、「砂をかむ」が『風報』、4月に「育児」が『婦人公論』、「青い絨毯」が『中央公論』、「世に出るまで」が『小説新潮』に掲載される。「狂人遺書」について安吾は生前、〈誰にもわかってもらえなかった秀吉の哀しさと、バカバカしいほどの野心とを書くんだよ〉と言い、53歳の高齢となって初の子供(鶴松)ができた晩年の豊臣秀吉に自己を投影して、長男・綱男への気持ちを表現すると同時に、大きな執筆意欲を示していた[20]。
1957年(昭和32年)、新潟市寄居浜の護国神社境内に「ふるさとは語ることなし」の詩碑が建立された[2]。また毎年2月17日は「安吾忌」が催されている。
未完成であった推理小説「樹のごときもの歩く」が、1957年(昭和32年)8月から11月まで4回『宝石』で連載された[49]。これは、掲載雑誌廃刊のために第19章までで未完のままであった推理小説「復員殺人事件」(1949年8月-1950年3月)を「樹のごときもの歩く」と改題して再掲載したものであり[41]、その後を同年12月から高木彬光が続きを書き継いで、翌1958年(昭和33年)4月に完結させた[49][41][50]。高木が書き継いだ新稿の後半部は第20章から第30章となる[41]。高木は安吾夫人から、犯人のことや事件解決の決め手などの「安吾の意図」を聞いていたという[50]。しかし結果的には、「解決編」(最終回の第28章から第30章[41])は安吾の遺志どおりには展開されてはいないとされている[50]。
柄谷行人は解説「坂口安吾とフロイト」において、安吾が自らの鬱病の原因を「自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランス」(「精神病覚え書」)と自己分析していたことに触れた上で、その「自我の理想的な構成、その激烈な祈念」という反復強迫に、フロイトの言う「死の欲動」があると分析している[51]。また同時に柄谷は、日本の近代文学の「第一次戦後派」や「第三の新人」といった戦後の作家や、太宰治とは隔たる安吾の特異な面を見ながら、「何が彼を近代文学=ロマン主義的な一般性から隔てているのか」の答えとして、安吾には、「理性と感情」(意識と無意識)、「現実原則と快感原則」といったわかりやすい二元論とは異質な「死の欲動」があり、その反復強迫にたえず追い詰められていた作家だとしている[51]。
そして柄谷は、安吾が文壇に注目された時期に掲げていたファルス(全的に人間存在を肯定[52])ではない、いわゆる近代小説的な、意識による抑圧の理論の「まともな長編小説」を書こうとして鬱病を再発させ、その長編「吹雪物語」の完成後、鬱病を回復させた時期に執筆した「イノチガケ」という作品(キリスト教がいかに日本に到来し広がったかを政治的背景の中で示した作品)に着目し、その中の、幕府が考案した穴つるしの刑によって殉教が繰り返される光景の「無味乾燥な書き方」や、その「滑稽な」処刑により切支丹の死の尊厳を封じることができたと書いている随筆「文学と国民生活」を関連させつつ、その滑稽さが「死の欲動」を抑制したと解析している[51]。そのため、その「イノチガケ」(ある意味でファルスの反復)以後の安吾は、初期にファルスを唱えながらもなお抱いていた「近代小説の形態へのこだわり」を捨て去り、多彩なジャンル(「日本文化私観」のようなエッセイや「織田信長」などの歴史小説)に及ぶ重要な執筆活動を広げ、その活動を通して安吾の中で「近代小説を優位におくハイアラーキー(位階)」が消失したとして、柄谷は以下のように安吾の作品総体を評価している[51]。
また、奥野健男の論考によると、坂口安吾は多彩な活動をする一方で、気まぐれに放棄された未完作、未発表作も多く、その烈しい精神の振幅の個性を全的に表現しうる方法論を模索しながらも十全に開花させた純文学においての長編小説は書かれることは無かったが[1][注釈 11]、いわゆる文壇の巨匠や名人と言われるような器用な作家の作品からは得られない特異な魅力のある作家として、広くジャンルを越えて他の多くの作家、創作者からも親しまれている傾向があり[1][53]、奥野はその安吾の魅力を、他の小説家からは求めることができない「不思議な人間的魅力にあふれている」「ある時は人間の魂の底まで揺がすようなすさまじい感動を、ある時は澄みきった切ないかなしみに似た憧れを与えてくれる」と評しつつ、「坂口安吾の作品の中に、未来の文学へのさまざまな貴重な実験や発想や方法、そして全人的なヴァイタリティをぼくたちは見いだすことができる」としている[1]。また、文学作品だけではなく、その歴史小説や推理小説も評価され愛好されている[3]。
無頼派、新戯作派であり、坂口安吾との交流も多かった檀一雄は安吾の特異な作家性について以下のように評している[54]。
安定した全ての気質の解体。道義、人情の解体これらは、いつも過激なまでの生活万般の解体にまで及んでいた。その臂力の雄偉さ。その思考の斬新さ。まことに前人未到のものであり、私にはいつも鬼神のワザに思われたものである。私の生涯のできごとで、この人との邂逅ほど、重大なことはほかにない。おびただしい精神の贈与を、乱雑に、また惜しげも無くドカドカとばら撒き与える人であった。 — 檀一雄「作品解説『堕落論』」
磯田光一は坂口安吾が執筆した作品群を並べ、安吾という作家、また文章への評価としてこう総括している[55]。
安吾は優れた作家であると同時に、一流のエッセイストであった。彼はエッセイにおいても、ある時は志を語り、またある時は、ゆったりした余裕と現実洞察力をもって、世のさまざまな事象について語っている。安吾の書き残した作品群が、世の人生案内ふうの本とは根本的に異なっていることに気づくためには、事によったら読者の年齢と成熟とを必要とするかもしれない。しかし、一流の文学というものは、おおかたそういう性格のものなのである。 — 磯田光一「坂口安吾 人と作品」
七北数人は、安吾の「風と光と二十の私と」を始めとする自伝的小説群を解説しながら、「無頼派と呼ばれるにふさわしいデカダンな行状を含みながらも、これほど真面目に生きた人は稀ではないかと思わせられる」として以下のように安吾の作品を評価している[56]。
(安吾は)いつでも人生いかに生くべきかを真剣に考え、求道の念が強すぎて時にくずおれそうになる弱い心も隠さずさらけ出す。文章のはしばしに滲む悲しみは、青春の純粋な魂を失わずにいる人にだけ沁みとおっていく清水のようなものかもしれない。 — 七北数人「解説――風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」[56]
柄谷行人は『週刊読書人』3211号に掲載された自らの著作である坂口安吾論の刊行インタビューの中で、無頼派について「「無頼」という言葉は、一般に考えられているようなものではなく、「頼るべきところのないこと」(『広辞苑』)です。つまり、それは他人に頼らないことです。その意味では、いわゆるヤクザは無頼とはほど遠い。組織に依存し親分に従い、他人にたかるのだから。その意味で、安吾はヤクザではなく、まさに「無頼」だった。太宰はそうではない。「無頼」であれば、そもそも共産党に入党しないし、転向もしない。彼は頼りっぱなしの人だった。自殺するときまで、他人に頼っている。そういうものを「無頼」とはいいません。言語の本来の意味では、「無頼派」は安吾だけだったと思います。最初に読んだときから、自分には安吾が性に合っていた。」と評している。
また、坂口安吾の作家生活は約24年間(1931年-1955年)であるが、戦後10年間の後半生(文壇的成功、恋愛、酒と遊び、狂気、長編小説の失敗、社会的事件、死)と、戦前14年間の前半生の経過が非常に似ていることが指摘されている[57]。小川徹は、安吾が自身の前半生を戦後の後半生に対応させて、同じ人間が生まれ変わり、「解放された人間」として同じ経過のコースをもう一度生きてみようとしたのではないかと考察している[57]。
そして、前段の節でも記述したように、安吾の葬儀の際には川端康成が、安吾の個性的な文学について触れ、「すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない」と述べた[2]。
また、作家同士の交流が多かった無頼派、新戯作派の中でも特に坂口安吾と深い交流があった石川淳は自らの随筆『安吾のいる風景』の中で「安吾はよく書き、よく褒めた。褒めるのは自分の書いたものに決まっている。それはもっと、もっとと、自分を先のほうへせきたてる調子のようにもきこえた」と、創作時における安吾の印象を述べている。
さらに、石川淳は『この巨大なるもの』と題した以下のような評を安吾の全集に寄せている。
一たび堰を切つた安吾全集は奔流だうだうと諸君のたましひに鳴りひびく。高貴なるもの、通俗なるもの、深くしづもるもの、派手にみだれるものを併せて、文學の精髓はすべて混沌としてここにある。全巻至るところに安吾がゐて、大いに笑ひ大いに慨く。 — 石川淳「この巨大なるもの――『定本 坂口安吾全集』」
作家の佐藤春夫は「文学の本筋をゆく」の中で、「坂口安吾の文学はいささか奇矯で反俗的なところはあつても、文学としては少しも病的なものではなく、高邁な精神をひそめたすぐれたものと思ふ。その点、太宰治のどこまでも頽廃的でいぶしのかかつたセンチメンタルなものよりわたくしは坂口の文学の方が文学の本筋だと思つてゐる」とした上で以下のように評している[58]。
坂口は世俗的などんな先入観念にも煩はされるところなくぢかに人間を見た。そのため人間の心理は彼は可なり深く知るところである。それ故、彼の文学は、創作とばかりは限らず、雑感随筆のたぐいまで、その囚はれないものの見方、濶達な人がらがよく出てゐて、おもしろい。太宰のものが現代青年のものであるのに対比して坂口の文学は将来のおとなの文学だとも思へる。
わたくしは素直に人智の進歩発達を信じて年来、文学の常識も年々に健全な発達を遂げてゐると見てゐるものであるが、一般の読者が太宰の文学に堪能してこれを卒業したころになつて、坂口文学の真価がもう一度見直され、やがて正常に理解され愛読されるものとなるのを疑はない。 — 佐藤春夫「文学の本筋をゆく――坂口安吾選集」[58]
終戦直後の成功によって無頼派(新戯作派)と呼ばれた坂口安吾だが、その戦前からのファルス的作品や、歴史小説までも含めた諸作品に貫かれているのは、「壮大な虚構精神」であり、私小説的な自伝小説には、自己否定と独特な「求道的態度」が脈打っていると三枝康高は解説し[4]、それらの作品には、安吾の狂気じみた「爆発的性格」と「ガランドウにも似た風格」が介在していると評している[4]。
この「ガランドウ」という言葉は、小田原に安吾を招き共に生活をしたこともある三好達治が安吾を評して、「かれは堂々たる建築だけれども、中へはいってみると、畳が敷かれていない感じだ」と言った評を受け、安吾自身が笑ってしまい、自分のことを、「まったくお寺の本堂のような大きなガランドウに、一枚のウスベリも見当たらない。大切な一時間一時間を、ただなんとなく迎へ入れて送りだしてゐる。実の乏しい毎日であり、一生である。土足のままスッとはいりこまれて、そのままズッと出ていかれても、文句のいいやうもない。どこにもくぎりのないのだ。ここにて下駄をぬぐべしといふやうな制札が、まつたくどこにもないのである」と述べたことから来ている[59][4]。
三島由紀夫も安吾を「敬愛する作家」として以下の言葉を選集に寄せている[60]。
私は坂口安吾氏に、たうたう一度もお目にかかる機会を得なかつたが、その仕事にはいつも敬愛の念を寄せてゐた。戦後の一時期に在つて、混乱を以て混乱を表現するといふ方法を、氏は作品の上にも、生き方の上にも貫ぬいた。氏はニセモノの静安に断じて欺かれなかつた。言葉の真の意味においてイローニッシュな作家だつた。氏が時代との間に結んだ関係は冷徹なものであつて、ジャーナリズムにおける氏の一時期の狂熱的人気などに目をおほはれて、この点を見のがしてはならない。 — 三島由紀夫「私の敬愛する作家」[60]
そして、「太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮んで、木の葉が沈むやうなものだ」として、三島は安吾について以下のようにも評している[5]。
坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。底の底まで見透かしてゐたから、明るくて、決してメソメソせず、生活は生活で、立派に狂的だつた。坂口安吾の文学を読むと、私はいつもトンネルを感じる。なぜだらう。余計なものがなく、ガランとしてゐて、空つ風が吹きとほつて、しかもそれが一方から一方への単純な通路であることは明白で、向う側には、夢のやうに明るい丸い遠景の光りが浮かんでゐる。この人は、未来を怖れもせず、愛しもしなかつた。未来まで、この人はトンネルのやうな体ごと、スポンと抜けてゐたからだ。太宰が甘口の酒とすれば、坂口はジンだ。ウォッカだ。純粋なアルコホル分はこちらのはうにあるのである。 — 三島由紀夫「内容見本」(『坂口安吾全集』)[5]
坂口安吾は推理小説以外に、将棋や囲碁も好んでおり、特に囲碁は強く、1937年(昭和12年)の京都府滞在時には碁会所席主として生活していたほどであったが、その後に塩入逸造三段に五子で勝ったこともある[61]。
囲碁の呉清源の岩本薫との十番碁の第一局、将棋の木村義雄が塚田正夫に名人を奪われた第6期名人戦の最終局(第七局)、木村と升田幸三との三番勝負の第一局、木村が塚田から名人を奪回した第8期名人戦の最終局(第五局)、それぞれの観戦記を執筆していて、評価が高い。「勝負の鬼」として十年間不敗だった木村義雄が、1947年(昭和22年)の第6期名人戦で、勝負師根性を捨てたため塚田正夫にて敗北した時の、木村を厳しく批判した『散る日本』は名作として名高く、1950年に第一期九段戦に勝利した大山康晴を主人公にした小説『九段』もある。
また、王将戦で升田幸三が木村義雄との香落ち番の対局を拒否した陣屋事件についても、事の詳細を記した随筆『升田幸三の陣屋事件について』が安吾の死後に見つかった[注釈 12][62]。この中で安吾は、升田の処分を決める棋士総会を傍聴したと記している。この随筆は、関係者の間で証言が食い違うことの多かった陣屋事件における、貴重な考証資料の一つとして注目を浴びた。
旧来の封建主義(天皇制等)[64]と共に共産主義や日本共産党、日本社会党に対しても批判的立場をとり[65]、「マルクスレーニン筋金入りの集団発狂あれば、一方に皇居前で拍手をうつ集団発狂あり、左右から集団発狂にはさまれては、もはや日本は助からないという感じ」と記している[66]。ソ連や日本共産党をたびたび批判する一方で中国共産党を高く評価しており、「本家ソビエットの共産主義政府が壊滅しても、中共だけは栄えるかも知れない」ことを予言した[67]。
…完全なる無内容、それに加うるにいたずらなる喧嘩ずき、まるで人間の文化以前の欠点だけを集成して見せつけられているようであった。
彼らのやった仕事の総量は、事毎に牙をむいて吠えたがる野犬の行跡に酷似しているが、人間のなすべき事には全く似たところがない。「なすべき」というのは、知識と責任を背景にしたところの、という意で、政党と政党員には当然必要とすべき条件をさすのである。
…共産党の全てが、共産主義というものが、みんなこのように無内容で、品性下劣なわけではないだろう。日本共産党というものの悲しむべき特性であるらしい。しかし、ナホトカで特殊教育をうけ筋金を入れてもらって祖国へ敵前上陸する新特攻隊を見ると、共産党の本家も、その品性の低さ貧しさに於て日本支店の本店たるにふさわしく、人間の良識が求めているものには逆行的であるようだ。 — 「戦後合格者」
彼らのやった仕事の主なるものはと云えば、ナホトカからスクラムをくんで祖国へ敵前上陸の筋金入りの人達をたきつけて益々をこねさせたり、坐りこませたりすることである。尤もこれに対しては、かくの如くに教育して敵前上陸せしめた海の彼方の本店を咎めることが先でなければならないが、本店の押しつける無法な仕打を修正して受け入れるだけの識見がない無能な三太夫ぶりというものは、どこの国の共産党にくらべてもこれ以下のものは見当らない。この三太夫は本店の殿様の手打になるのをビクビクしているだけである。
彼らが行った政策の唯一のことは、他に対する不協力ということである。反対のための反対。漸進的なるものに対する拒否。同じことでも自分が主導してやるのでなければイヤだという全体主義であるが、それも単に否定し反対するだけの破壊的な方策によって全体主義の性格を誇示したにすぎないのである。
「豊かな国のオコボレに縋る方が、現実を救う最短距離」として戦後の日米関係にも肯定的で[68]、反再軍備の持論として『もう軍備はいらない』を執筆している。
『咢堂小論』では、戦時中、基地に於て酒と女と死ぬことの三つだけを習得した特攻隊員が戦後、野放しとなり暴徒化するであろうというのでこれを再教育せよと述べた志賀直哉を批判しつつ、当時の軍人精神の欺瞞を指摘している。
死を見ること帰するが如しなどと看板を掲げて教育を施して易々と註文通りの人間が造れるものなら、第一に日本は負けてゐない。かかる教育の結果生れた人格の代表が東条であり真崎であり、軍人精神の内容の惨めさは敗戦日本に暴露せられたカラクリのうちで最も悲痛なる真実ではないか。日本上空の敵機は全部体当りして一機も生還せしめないと豪語した結果の惨状は御覧の如くであり、飛行機のことは俺にまかせて国民などは引込んでをれと怒鳴り立てた遠藤といふ中将が、撃墜せられたB29搭乗員の慰霊の会を発起して物笑ひを招いてゐるなど、職業軍人のだらしなさは敗戦日本の肺腑を抉る悲惨事である。軍人精神には文化の根柢がないから、崩れると惨めである。浮足立つて逃げ始めると大将も足軽も人格の区別がなくなり一様に精神的に匪賊化して教養の欠如を暴露する。死生の覚悟などといふものは常に白刃の下にある武芸者だの軍人などには却つて縁の遠いもので、文化的教養の高いところに自ら結実する。問題は文化、教養の高低であつて、特攻隊員の死をみること帰するが如しなどといふ教育などは取るに足らない。 — 『咢堂小論』
また、政治と民衆、文学との関係、そこから帰結する人間の生活と個・自我の問題について洞察され、著者の脱政治性と個人主義的態度がみられる。
我々小説家が千年一日の如く男女関係に就て筆を弄し、軍人だの道学先生から柔弱男子などと罵られてゐるのも、人生の問題は根本に於て個人に帰し、個人的対立の解決なくして人生の解決は有り得ないといふ厳たる人生の実相から眼を転ずることが出来ないからに外ならぬ。
社会主義でも共産主義でも世界聯邦論でも何でも構はぬ。社会機構の革命は一日にして行はれるが、人間の変革はさうは行かない。遠くギリシャに於て確立の一歩を踏みだした人間性といふものが今日も尚殆ど変革を示してをらず、進歩の跡も見られない。社会組織の革命によつて我々がどういふ制服を着るにしても、人間性は変化せず、人間性に於て変りのない限り、人生の真実の幸福は決して社会組織や制服から生みだされるものではないのである。自由といつても惚れる自由もあれば、それを拒否する自由もある。平等などと一口に言ふが、個といふ最後の垣に於て人は絶対に平等たり得ぬものである。賢愚、美醜、壮健な肉体もあれば病弱もあり、強情な性癖もあれば触れれば傷つく精神もあるのだ。憎しみもあれば怒りもある。軽蔑もあれば嫉妬もある。人間といふものを机上にのせて、如何なる方程式だの公理によつて加減乗除してみても、計算によつて答がでてくるシロモノではないのだ。しかも人生の日常の喜怒哀楽といふものは此処に存してゐるのであつて、社会機構といふものは仮の棲家にすぎず、ふるさとは人間性の中にある。之なくして人間に生活はない(……)
文学といふものは常に現実に満足せざるところから出発し、いはば現実と常識に対する反骨をもつて柱とし、より高き理想をもつて屋根とする。政治と妥協する文学は一応は有り得ても、その政治が実現したとき、文学は更にその政治の敵となつて前進すべきものである。より高きもの、より美しきもの、文学は光をもとめて永遠に暗夜をすすむ流浪者だ。定住すべき家はない。政治の敵であることによつて、政治の真実の友となるのであつて、政治は文学によつてその欠点を内省すべきものである。なぜなら社会制度によつて割りきれない人間性を文学はみつめ、いはゞ制度の穴の中に文学の問題があるからだ。政治が民衆を扱ふとすれば文学は人間を扱ふ。そして政治、つまりは現実と常識に対する反骨が文学の精神であり、咢堂の精神は概ねかくの如きものであつたと僕は思ふ。 — 『咢堂小論』
民衆は先づ「生活」すべきものであつて、決して党派人たることを要しない。政友会だから民政党の嫁は貰はないといふのは田舎の実話であるよりも笑話であるが、今日でも同じことで、近頃の激化した党派性では、あいつは共産党だから嫁にやらぬとか、あいつはブルジョアの娘だからどうだとか、結局再び同じ笑ひ話が笑はれもせず堂々と横行しはじめる形勢にある。
人間は先づ生活すべきものであり、生活は常により高い理想に向つて進むべきものであつて、固定してはならないものだ。民衆が政治をもとめ、よりよき政党を欲するのは、自らの生活を高めるための手段としてで、政治家は民衆の公僕だとはその意味だ。先づ民衆の生活があり、その生活によつて政党が批判選択せらるべきで、民衆が党派人となることは不要であり、むしろ有害だ。(……)
何故にかかる愚が幾度も繰返さるるかと云へば、先づ「人間は生活すべし」といふ根本の生活意識、態度が確立せられてをらぬからだ。政党などに走る前に、先づ生活し、自我といふものを見つめ、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむか、よく見究めることが必要だ。政治は生活の道具にすぎないので、古い道具はいつでも取変へ、より良い道具を選ぶことが必要なだけである。政治の主体はただ自らの生活あるのみ。自らの生活は宇宙の主体でもあつて、自我が確立せられてのみ国家も亦確立せられるだらう。(……)
政治は人間生活の表皮的な面を改造し得るけれども、真実の生活は人間そのものに拠る以外に法はない。自我の確立、人間の確立なくして、生活の確立は有り得ない。 — 『咢堂小論』―党派性を難ず―
シュルレアリスムに関しては批判的であった[69]一方で『日本文化私観』等では、機能的、即物的、モダニズム的嗜好がうかがえる。
ある春先、半島の尖端の港町へ旅行にでかけた。その小さな入江の中に、わが帝国の無敵駆逐艦が休んでいた。それは小さな、何か謙虚な感じをさせる軍艦であったけれども一見したばかりで、その美しさは僕の魂をゆりうごかした。僕は浜辺に休み、水にうかぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。
この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上ったのである。
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。
問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なる物を取去り、真に適切に表現されているかどうか、ということだ。 — 『日本文化私観[70]』
『デカダン文学論』(1946年)では、道徳観が綴られている。
私は世のいわゆる健全なる美徳、清貧だの倹約の精神だの、困苦欠乏に耐える美徳だの、謙譲の美徳などというものはみんな嫌いで、美徳ではなく、悪徳だと思っている。(……)
美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや豪奢を愛し、成金は俗悪な大邸宅をつくって大いに成金趣味を発揮するが、それが万人の本性であって、毫も軽蔑すべきところはない。そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するように、正しいことをも愛するのである。人間が正しいもの、正義を愛す、ということは、同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存する故に意味があるので、悪いことをも欲する心と並び存する故に意味があるので、人間の倫理の根元はここにあるのだ、と私は思う。(……)
私は風景の中で安息したいとは思わない。又、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。 — 『デカダン文学論』
人間が好むものを欲しもとめ、男が好きな女を口説くことは自然であり、当然ではないか。それに対してイエスとノーのハッキリした自覚があればそれで良い。この自覚が確立せられず、自分の好悪、イエスとノーもハッキリ言えないような子供の育て方の不健全さというものは言語道断だ。(……)
私はデカダンス自体を文学の目的とするものではない。私はただ人間、そして人間性というものの必然の生き方をもとめ、自我自らを欺くことなく生きたい、というだけである。私が憎むのは「健全なる」現実の贋道徳で、そこから誠実なる堕落を怖れないことが必要であり、人間自体の偽らざる欲求に復帰することが必要だというだけである。人間は諸々の欲望と共に正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必然的な展開に就ては全く予測することができない。(……)
(「新潮 第四三巻第一〇号」1946(昭和21)年10月1日)
公開年月日 | タイトル | 監督 | 主演 | 製作 | 配給 |
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1951年4月27日 | 天明太郎 | 池田忠雄 | 佐野周二 | 松竹大船撮影所 | 松竹 |
1958年1月9日 | 負ケラレマセン勝ツマデハ | 豊田四郎 | 森繁久彌 | 東京映画 | 東宝 |
1975年5月31日 | 桜の森の満開の下 | 篠田正浩 | 若山富三郎 | 芸苑社 | 東宝 |
1977年3月15日 | 不連続殺人事件 | 曾根中生 | 瑳川哲朗 | タツミキカク / ATG | ATG |
1998年10月17日 | カンゾー先生 | 今村昌平 | 柄本明 | 今村プロダクション / 東映 / 東北新社 / 角川書店 | 東映 |
1999年11月13日 | 白痴 | 手塚眞 | 浅野忠信 | 手塚プロダクション | 松竹 |
2011年11月19日 | UN-GO episode:0 因果論 | 水島精二 | 勝地涼 | ボンズ | 東宝 |
2012年9月29日 | BUNGO〜ささやかな欲望〜 告白する紳士たち「握った手」 ※オムニバスの一篇。 |
山下敦弘 | 山田孝之 | ボイスアンドハート | 角川映画 |
2013年4月27日 | 戦争と一人の女 | 井上淳一 | 江口のりこ | 戦争と一人の女製作運動体 | ドッグシュガームービーズ |
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