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そば粉で作られた麺および料理 ウィキペディアから
蕎麦(そば)とは、穀物のソバの実を原料とする蕎麦粉を用いて加工した、日本の麺、および、それを用いた料理である。中華そばとの対比で「日本蕎麦(にほんそば)」、「和蕎麦(わそば)」という表現が用いられるほか、沖縄そばとの対比では「ヤマトそば」と呼ばれることもある。
(なお、「中華そば」「沖縄そば」など蕎麦粉を用いない麺類についても「そば」と呼称することもあるがこれについては「蕎麦#麺類の総称としての「そば」」で詳述する。)
本来、ソバの実/蕎麦粉には様々な食し方があるが、麺にした蕎麦、すなわち蕎麦切り(そばきり)が普及してからは、単に蕎麦と言うと蕎麦切りを意味する。
歴史は古く、寿司、天ぷらと並ぶ代表的な日本料理である。この蕎麦の調味として作られる「つゆ(蕎麦汁)」は、地域によって色・濃さ・味などに明らかな違いがあり、その成分も各地によって好みが分かれる。蕎麦を供する場合には皿(竹簾が敷かれている専用の蕎麦皿など)やざる(ざるそば用)、蕎麦蒸籠などが用いられる。蕎麦つゆを供する場合には徳利(蕎麦徳利)と猪口(蕎麦猪口)が用いられることが多い。また汁を張った丼に蕎麦を入れて供するものもある。蕎麦は専門店のみならず、外食チェーンなどのメニューにも載っており、小売店などでも麺が乾麺、生、または茹で麺の状態で販売され、カップ麺としても販売されている。
日本では年中食べられている料理であるが、縁起担ぎのために大晦日の夜に年越し蕎麦を食べる事が風物詩となっている。
アレルギー原因物質の1つであり、毎日蕎麦を食べることでそばアレルギーを発症する可能性がある[3]。そばアレルギーになると、少量の摂取であっても命の危険がある[4]。
蕎麦粉、つなぎ、水を用いて作られる。デンプンの少ない蕎麦粉は細く伸ばすと千切れやすいため、大抵はデンプンを多く含む小麦粉をつなぎ(結着剤)として混ぜる。小麦粉に対する蕎麦粉の配合割合によって名称が変わる。また小麦粉を用いない、いわゆる「十割蕎麦」も存在する。小麦粉以外にもつなぎとして鶏卵(卵切り蕎麦と称する)、長芋・山芋、布海苔(へぎそばと称する)、こんにゃくやオヤマボクチなどが使用されることがあり、独特の食感やコシが発生する。
また、風味付けの薬味を練り込むこともあり、胡麻切り蕎麦(黒ゴマを使用)、海苔切り蕎麦(海苔を使用)、茶蕎麦(抹茶を使用)などが知られる。店によってはモロヘイヤ、山椒、タケノコ、ふきのとう、アシタバ、大葉、柚子、若布、梅などの季節の植物を練り込んで出す店もある。
日本では人力による手打ち、製麺機による製造にかかわらず、次の工程により蕎麦が作られる。
切り出された状態の麺を生蕎麦(生麺)と称する。生蕎麦は酸化により傷みやすいため保存・流通に向かないが、乾燥させた乾蕎麦(乾麺)や凍結させた冷凍蕎麦(冷凍麺)が流通することもある。いずれの製品も茹でなければ食することができない。
生蕎麦は茹でられて食される。蕎麦粉は溶出しやすいため、中華麺やうどんよりも多くの湯で湯がかれる。茹で上がった麺を取り出す場合には金属製あるいは竹製のザル状になったそば揚げが用いられることも多い。蕎麦を茹でた湯はごく薄い粥のようになる。これを蕎麦湯(そばゆ)という(詳しくは後述)。
茹で上がった麺の表面に付着した溶けた蕎麦粉(ぬめり)を洗い落とした後、冷やして固くすると茹で蕎麦(茹で麺)が完成する。茹で蕎麦は多くの場合1食ごとにポリ袋や食器を兼ねた容器に入れて売られる。すぐに食べられる状態のため、つゆ・薬味とともにスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの弁当・惣菜や麺類の売り場で並べられる製品もある。
茹で蕎麦は日本では一般的には以下のように食べられる。
もり蕎麦、ざる蕎麦、ぶっかけ蕎麦は冷たいつゆを用い、かけ蕎麦は温かいつゆを用いる。冷たいつゆは辛汁(からじる)[5]、温かいつゆは甘汁(あまじる)[6] と呼ぶ。寒季など、もりそばのつゆを温めて「あつもり(熱盛り)」にすることもある。
新蕎麦の時期に見られる珍しい食べ方として、蕎麦の香り・歯触り・喉越しを楽しむためとして、つゆをつけずに、水や塩をつける方法がある。蕎麦の味だけでなく香りを存分に味わうためで、空気を一緒に啜り込み鼻孔から抜くようにして食べることによって、香りを存分に賞味できるとされる[7]。元々は作法にこだわらずに香りや喉越しを楽しめる食品であり、音を立てることがマナー上広く許されている点で、うどんや中華麺などと並んで世界的に稀有な料理である。
蕎麦好きな人の中には、蕎麦とは香りと歯触りを賞味すべきものであるとして、「蕎麦はもり(そば)に限る」というこだわりを持つ人もいる。食通で有名な文豪・池波正太郎の書生を務め、自らも蕎麦好きを自認するルポライターの佐藤隆介は、著書の中で「めんつゆに卵を入れようとしたところ、卵など入れてはいけないと池波にたしなめられた」というエピソードや、ざる蕎麦すら供さない名店のような例を挙げ、蕎麦切り本来の滋味を味わうにはもりが一番であると述べている。佐藤は、海苔がのっていては蕎麦の香りが損なわれるからだろうと書いている[8]。
実際の栄養価は、作物としてのソバが栽培された土壌、収穫時期、品種など様々な要因で変動する。
100 gあたりの栄養価 | |
---|---|
エネルギー | 1,439 kJ (344 kcal) |
66.7 g | |
デンプン 正確性注意 | (72.4) g |
食物繊維 | 3.7 g |
2.3 g | |
飽和脂肪酸 | (0.49) g |
一価不飽和 | (0.50) g |
多価不飽和 | (0.97) g |
14.0 g | |
ビタミン | |
チアミン (B1) |
(32%) 0.37 mg |
リボフラビン (B2) |
(7%) 0.08 mg |
ナイアシン (B3) |
(21%) 3.2 mg |
パントテン酸 (B5) |
(23%) 1.15 mg |
ビタミンB6 |
(18%) 0.24 mg |
葉酸 (B9) |
(6%) 25 µg |
ビタミンE |
(2%) 0.3 mg |
ミネラル | |
ナトリウム |
(57%) 850 mg |
カリウム |
(6%) 260 mg |
カルシウム |
(2%) 24 mg |
マグネシウム |
(28%) 100 mg |
リン |
(33%) 230 mg |
鉄分 |
(20%) 2.6 mg |
亜鉛 |
(16%) 1.5 mg |
銅 |
(17%) 0.34 mg |
マンガン |
(53%) 1.11 mg |
他の成分 | |
水分 | 14.0 g |
水溶性食物繊維 | 1.6 g |
不溶性食物繊維 | 2.1 g |
ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した[10]。原材料配合割合: 小麦粉65、そば粉35 | |
| |
%はアメリカ合衆国における 成人栄養摂取目標 (RDI) の割合。 |
蕎麦は、ビタミンB1を豊富に含み、脚気などのビタミンB1欠乏症の予防に効果がある。江戸時代中期から白米による江戸わずらい(脚気)が流行し出し、その頃から江戸で蕎麦が流行した[11](「蕎麦#東京」も参照)。蕎麦粉(全層粉)の段階におけるタンパク質含有量は、ダイズ(大豆)に比較すればそれほど多くはないものの、そのタンパク質は1985年のFAO/WHO/UNU必須アミノ酸基準値でアミノ酸スコアが100点となっており、穀物としてバランスのよいアミノ酸組成を有している。ただし、蕎麦粉に小麦粉を混ぜて麺を作ると、リシンが乏しい小麦粉のアミノ酸組成の影響を受けてリシンを第一制限アミノ酸として蕎麦麺のアミノ酸スコアは低下することになる。
蕎麦(蕎麦粉)に含まれる特徴的な機能性成分としてルチンが挙げられる。蕎麦に含まれるルチンは、毛細血管強化[12]、高血圧予防[13]、酸化防止[14][15] などの生理活性を有する[16]。
自ら蕎麦を打ち、蕎麦を食べる機会の多い蕎麦センター職員の血圧は、蕎麦を常食とするネパールの山岳民族と同様に低かった。この蕎麦の効用は、蕎麦に含まれる多量のカリウムが体内よりナトリウムを排泄させることによると報告されている[17][18]。
アミノ酸 | 穀類/そば/そば粉/全層粉[19] | 穀類/そば/そば/生[20] | 穀類/そば/干しそば/乾[21] | 1985年基準値 (mg) | (参考)1973年基準値 (mg) |
---|---|---|---|---|---|
イソロイシン | 230 | 210 | 210 | 180 | 250 |
ロイシン | 410 | 410 | 410 | 410 | 440 |
リジン | 370 | 190 | 180 | 360 | 340 |
含硫アミノ酸(メチオニン+システイン) | 280 | 220 | 220 | 160 | 220 |
芳香族アミノ酸(フェニルアラニン+チロシン) | 440 | 460 | 470 | 390 | 380 |
トレオニン | 240 | 180 | 180 | 210 | 250 |
トリプトファン | 100 | 78 | 76 | 70 | 60 |
バリン | 320 | 260 | 260 | 220 | 310 |
ヒスチジン | 170 | 140 | 140 | 120 | - |
健康ブームの現在でこそヘルシーな粗食とみなされているが、伝統的には『本草綱目』巻22に「腸胃を実(み)たし、気力を益し、精神を続(つ)なぎ、能く五臓の滓穢を煉る」とあるように、むしろ高い栄養価による滋養強壮効果が便宜とされていた。
蕎麦はアレルギー物質を含む食品として食品衛生法施行規則により指定されており、特定原材料と定められ表示が義務付けられている[22]。
蕎麦・うどんを併売する店では、同じ釜で蕎麦・うどんを茹でる場合も多く、アレルギー物質が混入する可能性があり、注意が必要である。
1988年には、北海道札幌市の小学校給食で蕎麦を食べた児童が発作を起こし、吐瀉物が気管に入って窒息死した事故があった[23]。このため、全国の小・中学校の給食メニューには蕎麦がない。
ソバの日本への伝来は縄文時代まで遡るとされ、ワシントン大学[要曖昧さ回避]の塚田松雄教授によると、島根県飯石郡頓原町から一万年前の蕎麦の花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では九千三百年前、更に北海道でも五千年前の花粉が出ているとある。
文献上では『続日本紀』には奈良時代の養老6年(722年)7月に発せられた詔に「今夏無雨苗稼不登 宣令天下国司勧課百姓、種樹晩禾蕎麦及大小麦、蔵置儲積以備年荒」とあり、旱害に備えるために、晩稲(遅く実る稲)や蕎麦、大麦、小麦を植えて備荒対策とするように指示を出している。これが、わが国で蕎麦の栽培について書かれた最初の記録である。 『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載しているが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られない(なお『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介している)。さらに鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記している。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言える。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えてわずかに栽培する救荒食物としての雑穀だったと考えられている。
古くは粒のまま粥にし、あるいは蕎麦粉を蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)や、蕎麦焼き(蕎麦粉を水で溶いて焼いたもの。麩の焼きの小麦粉を蕎麦に置き換えたもの)などとして食した。蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。
福岡県福岡市博多区の『饂飩蕎麦発祥之地碑』では鎌倉時代、承天寺の僧聖一国師が博多から宋に渡り、水車を利用した製粉技術を記した設計図『水磨の図』(重要文化財)を持ち帰り、この挽き臼技術による粉をベースにした食品、羹(羊羹の前身)、饅(まんじゅう)、麺(うどん・そば)の製法を日本人に広めたとの説もあり、この頃には存在していたものと思われる。
蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である[24][25]。同寺での1574年(天正2年)初めの仏殿修復落成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在したことが推定されている[25]。庶民への普及は18世紀(元禄時代)であったと推定されている[26][27]。稲や小麦などイネ科の穀物と比べて、ソバは寒冷や乾燥に強く、それらの栽培の難しい山間部では伝統的に蕎麦の栽培が広く行われ、名物や名産となっている地方が多い。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説(『本朝文選』)、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)、筑前国の萬松山承天寺(現在の福岡市博多区)説(『饂飩蕎麦発祥之地碑』)もある。
西暦 | 年号 | 文献 | 記載 |
---|---|---|---|
1574年 | 天正2年 | 定勝寺文書(3月16日) | 「定勝寺の修復工事で金永からそば切が振舞われた」 |
1614年 | 慶長19年 | 慈性日記(2月3日) | 「常明寺でそば切を振舞われた」 |
1622年 | 元和8年 | 松屋久好茶会記(12月4日) | 「茶会でそば切を出した」 |
1642年 | 寛永19年 | 幕府御触書 | 「飢饉対策で、そば切・うどん等、穀物加工品の売買を禁じる」 |
1643年 | 寛永20年 | 料理物語 | そば切(生粉打ち)の製法 |
1645年 | 正保2年 | 毛吹草 | 「武蔵と信濃の名物が蕎麦であり信濃から始まる」 |
1688 - 1704年 | 元禄年間 | 遠野古事記(1763年/宝暦13年) | 「元禄年間以前は4月を過ぎると蕎麦切りが打てなかった」(生粉打ちが主体であったため) |
1689年 | 元禄2年 | 合類日用料理抄 | そば切(生粉打ち)の製法 |
1704 - 1710年 | 宝永年間 | 塩尻 | 「棲雲寺の門前蕎麦が、うどんを参考にしたそば切の発祥と信州の人が語った」(つなぎを用いた製法か) |
1707年 | 宝永3年 | 本朝文選 | 「そば切は信濃本山宿発祥で全国に広がった」(雲鈴/蕎麦切ノ頌) |
蕎麦切りという形態が確立されて以降、江戸時代初期には文献に、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書『料理物語』には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っている。17世紀中期以降に、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着していった
同じく江戸時代に、諸大名から将軍家に献上された品などが記された武鑑のうち『大成武鑑(たいせいぶかん)』(出雲寺刊行)の、時献上(ときけんじょう)という季節の節目に行われた献上の項目には9家から蕎麦が献上された記録がある[30][31][32]。かつて「食膳にも据えかねる料理」とまで言われた蕎麦が、この時代に為政者への献上に用いられる名誉ある地位を確立した証左と言える。
蕎麦の品名 | 領国名 | 石高 | 藩主名 |
---|---|---|---|
十月蕎麦 | 信濃国飯山藩 | 二万石 | 本多豊後守助賢(水内郡飯山城主) |
十一月蕎麦 | 上野国沼田藩 | 三万五千石 | 土岐美濃守頼之(利根郡沼田城主) |
十月、十一月の内挽抜蕎麦 | 武蔵国岡部藩 | 二万二百五十石余 | 安部摂津守信寶(榛沢郡岡部在所) |
十月、十一月の内蕎麦 | 下野国大田原藩 | 一万千四百石余 | 大田原飛騨守富清(那須郡大田原城主) |
寒中挽抜蕎麦 | 上野国小幡藩 | 二万石 | 松平大蔵少輔忠恕(甘楽郡小幡城主) |
寒中挽抜蕎麦 | 出羽国天童藩 | 二万石 | 織田兵部少輔信学(村山郡天童在所) |
寒中殻蕎麦 | 上野国館林藩 | 六万石 | 秋元但馬守志朝(邑楽郡館林城主) |
暑中信州寒晒蕎麦 | 信濃国高遠藩 | 三万三千石 | 内藤駿河守頼寧(伊那郡高遠城主) |
暑中寒晒蕎麦 | 信濃国高島藩 | 三万石 | 諏訪因幡守忠誠(諏訪郡高島城主) |
中華そば・焼きそばなどのように、原義から離れて麺類を「そば」と通称することもある。これらは中華麺を「中華そば」「支那そば」と呼ぶことに由来するものであり、蕎麦粉を用いていないにもかかわらず「そば」の名が定着している食品もある。食品衛生法では、焼きそばやラーメンなどに「蕎麦」という漢字表記を与えてはいけないとされており、こうした用法の場合は「蕎麦」の字は用いず、ひらがなで表記するのが通例である。
たとえば、沖縄で単に「そば」と言えば通常、ソーキそばなどで有名な沖縄そばを指す。これは明治時代に本土から伝わった支那そばに由来するもので、小麦粉をアルカリ水溶液で練って作る中華麺の一種である。このため、昭和51年(1976年。沖縄返還4年後)に公正取引委員会は、蕎麦粉を使わない「沖縄そば」という名称にクレームをつけ「そば」と称すべきではないとした。しかし、沖縄製麺協同組合が交渉した結果、特例として「沖縄そば」の表記が認められた[33] 経緯がある。なお、沖縄で「(日本)蕎麦」を普通に食べるようになったのは本土復帰後であるとされている。
また飛騨高山においても、普通「そば」と言えばラーメン(高山ラーメン)を指す場合が多く、蕎麦を指す場合はあえて「日本そば」と呼称する。
焼きそばも「そば」という名であるが、蕎麦粉を含まない中華麺が用いられる。
大きく分けて人手による手打ち蕎麦と機械製麺に二分され、工程によっては手打ち風または手打ち式と名乗る事が出来る。ただし、ここでは便宜的に製麺業における分類に従っているが蕎麦屋には規格がない。
第4条(特定事項の表示基準) |
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生めん類に、次に掲げる文言を使用する場合は、当該各号に掲げる意味により使用するものとする。
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大きく分けて、生めん、乾めん、即席めんの3つの区分ごとに異なる基準が存在する。蕎麦粉の割合が30%を割り込む事によって、名称を変える必要があるもの、割合の表示が必要になるもの、販売できないもの、差はあるが制約が出てくる点は共通している。※ただし、実際の製品には添加物が加わるので誤差が出てくる。
第3条(役務の内容又は商品の品質の表示の適正化に関する事項) |
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営業者は、提供する役務の内容又は商品の品質について、次の各号に定めるところに従い表示するものとする。 |
蕎麦粉の原料はソバ(学名:Fagopyrum esculentum)が通常であるが、2000年代以降は健康ブームで注目されているダッタンソバ(学名:Fagopyrum tataricum)が用いられることもある。
秋に収穫されたソバの実を使用して、秋から冬の初頭にかけて作られた旬の蕎麦は、香りが高く、味も格別であることから新蕎麦または秋新(あきしん)と呼び、初夏から夏に収穫されたソバの実で作られた蕎麦は、秋新と類別して夏新(なつしん)と呼ぶ(ソバ#日本での栽培も参照)。夏新は新蕎麦(秋新)と比較して香りと味がやや劣るとされるが、そもそも蕎麦にとって夏は“夏蕎麦は犬さえ食わぬ”というような諺が示すように栽培技術や冷蔵技術が発達していなかった時代、端境期で保存状態も悪いため香りが抜けてつなぎの割合が増加傾向になる最も劣化する季節であった[49][50]。そこで、収穫したばかりの鮮度の高い粉を使い出来るだけ生粉打ちに近い蕎麦を提供するための工夫をしていると成分表示として謳っているのが夏新であり、秋新に匹敵するという意味はない。同じ季節に競合して提供しないものを比較する事は本質的に意味がない。さらに季節毎の品質のバラつきを抑えるための手段として、日本と季節が異なる南半球のオーストラリアで栽培して春に収穫された蕎麦粉を用いて維持に務める店もあるほどである。秋の風物詩としての秋新の価値は変わるものではないが、そうした努力と技術革新により昔ほど品質のバラつきがなくなっているため、いざ新蕎麦を食べたときに拍子抜けする事があっても不思議ではない。製粉工程の乾燥が強すぎた蕎麦粉や、管理が悪く乾燥した蕎麦粉では秋新であっても低いレベルで品質がバラつかない事も考えられる。
新蕎麦とは正反対の旬が過ぎてから端境期までの蕎麦が、栽培技術や冷蔵技術が発達していなかった時代に名付けられた。陳には「劣る、古い」という意味がある。ところが冷蔵技術の発達した昨今では、玄ソバの保存技術の革新により熟成された蕎麦として新蕎麦よりも評価する流れもあるが、もともと江戸時代の記録に「暑中寒晒蕎麦」という将軍家に諏訪の高島藩と伊那の高遠藩の2藩が献上していた夏の土用に食べる特別な蕎麦があり、歴史的にも厳格な管理の下で製造された夏蕎麦は陳蕎麦とは言えない高級品であった事が窺える[51][52]。ちなみに「寒晒し蕎麦」のように水浸漬させた玄ソバはGABA(γ-アミノ酪酸)含有量が増加するという研究結果がある[53][54]。三輪素麺では、2年ものを「古(ひね)」、3年物を「大古(おおひね)」と呼び優れたものとして扱っていたが[55]、現代は蕎麦も技術の革新により実需者の意識次第で、蕎麦粉の鮮度を保つための環境が簡単に整えられるため、季節毎の品質のバラつきはなくなり新蕎麦を頂点とした時代の区別が通用しなくなってきている。
生蕎麦は現在では、二八蕎麦、十割蕎麦、五割蕎麦他の「蕎麦屋の蕎麦全般」を指す[56][57]。蕎麦屋で生蕎麦の語が使われるのは、上等な蕎麦を生蕎麦と呼んでいた頃の名残である。元来は「そば粉だけで打ったそば・そば粉に少量のつなぎを加えただけのそば・小麦粉などの混ぜものが少ないそば」を意味するものだった[58][59][60][61]。しかし、江戸時代中期以降、小麦粉をつなぎとして使用し始めたことにより、二八蕎麦が一般大衆化したため、高級店が品質の良さを強調するキャッチフレーズとして「生蕎麦」を使うようになった[61][注 1]。その後、幕末頃には「生蕎麦」の指す範囲は拡大し、二八蕎麦にも使われるようになった。現在では、蕎麦粉の割合が明らかに低いと思われる駅前の低価格立ち食い蕎麦店等でも「きそば」のぼりは堂々と掲げられており、その意味は希薄化してしまっている。そのため、蕎麦粉だけの蕎麦を売りにしている蕎麦屋は、分かりやすく表示するため「十割蕎麦」あるいは「生粉打ちそば」という表現を用いるのが一般的である[56]。また「茹でる前の生麺」「生麺・ゆで麺など水分を多く含んだ麺」という解釈もあるが、この場合「きそば」ではなく「なまそば(生そば)」と異称される。生蕎麦の看板や暖簾は、現代での変体仮名の用途の代表例として引用されることがある[62]。
つけ・ぶっかけ・かけの別のほか、用いる具材により様々に分かれる。主となる具材のある蕎麦料理を特に「種物」と称することがある。
特別な具材を用いないつけ蕎麦をざる蕎麦ないし盛り蕎麦と称する。2つのメニューが並列する場合、ざる蕎麦のほうがやや高い値段がつけられていることが多い。
元来、ざる蕎麦と盛り蕎麦の区別は、蕎麦の器(容器)の違い(ざる蕎麦は竹ざるに乗せる)と、蕎麦つゆの違い(「ざる蕎麦」は通常よりコクのあるつゆ)だったが[63]、その後は海苔のかかったものを「ざる蕎麦」、かかっていないものを「盛り蕎麦」と呼んで区別している[64][65]。ほかに、器の名を転じて品書きが「せいろ」[66]、「皿そば」などとされる場合もある[64]。
ざる蕎麦の発祥は、深川の州崎弁財天前にあった伊勢屋が、蕎麦を竹ざるに乗せて出したところ評判が良く、大いに売れたことによる[64]。他の蕎麦屋がこの手法を真似ることで「ざる蕎麦」が広まった。なお、冷たい蕎麦に刻んだ海苔を散らすようになったのは明治以降である[64]。
盛り蕎麦の「盛り」の語は、現在の掛け蕎麦である「ぶっかけ」の対義語で、元禄時代に流行した「ぶっかけそば」と区別するために汁につけて食べるそばを「もり」と呼ぶようになった[64][65]。したがって、ざる蕎麦の「ざる」の対義語が「盛り」ではない。
特別な具材を加えず、熱い汁をはった蕎麦を指す。
従来のめんつゆや肉南蛮にみられる、めんつゆではなく、つけ麺寄りの創作つけ汁と具を用いた蕎麦。港屋、安土、七並などのお店で提供される。「肉そばあるいは肉南蛮」と「つけ蕎麦」の分類が非常に曖昧である。肉そばで有名な新橋の「港屋」系の蕎麦屋は「肉そば」、見た目はつけ麺でも麺は「日本蕎麦」なのが「つけ蕎麦」と分類するのが正しいとされている。
かけ蕎麦で、甘く煮付けた油揚げ(狐の好物とされる)を具とするもの。細切れを載せる地方もある。ぶっかけ蕎麦でも用いられ、特に「冷やしきつね蕎麦」と称することがある。この場合は細切りが多い。
かけ蕎麦で、天かす(揚げ玉)を具とするもの。天ぷらのかわりにのせる=「タネ」がない、つまり「タネ抜き」がなまって「たぬき」、あるいは天ぷらの代わりとして「騙す」意味からきた呼び名とされる。ぶっかけ蕎麦でも用いられ、特に「冷やしたぬき蕎麦」と称することがある。
天ぷらを具とするもの。江戸時代中期に貝柱や芝海老のかき揚げなどを載せたのが始まりという。伝統的な蕎麦屋においてはエビの天ぷらを2本並べて乗せるスタイルが定番とされてきたが、近年では精進揚げやイカなどエビ以外の種を組み合わせる店も多くなっている。
立ち食い店においては事情が異なり、単に天ぷらと言えばかき揚げのことを意味する。関東地方ではたまねぎを主体とした大ぶりのものが用いられ、西日本やその他の地域では小海老などが申し訳程度に入った小麦粉の生地中心の薄いものが使用されることが多い。またちくわやゲソ、春菊、紅しょうがなどといった多種多様な天ぷらが提供されている。
もり蕎麦にも天ぷらが添えられ、「天ざる蕎麦」「天せいろ蕎麦」などと称する。そばつゆと別に天つゆを添える店もある。
かけ蕎麦で、生卵をつゆの中に割り入れたもの。黄身を月に見立てる。ぶっかけ蕎麦でも用いられ、特に「冷やし月見蕎麦」と称することがある。この場合、生卵ではなく温泉卵が用いられることもある。
かけ蕎麦で、山芋や長芋のすりおろしと卵白身をあてたものをかけた蕎麦。うずらの生卵か黄身ものせて供される場合が多い。ぶっかけ蕎麦でも用いられ、特に「冷やしとろろ蕎麦」と称することがある。つけ蕎麦でも用いられ、蕎麦猪口のつゆの中にとろろを入れて食べる。
ぶっかけ蕎麦で、大根おろしを具とするもの。つけ蕎麦でも用いられ、蕎麦猪口のつゆの中に大根おろしを入れて食べる。越前そばが名高い。
東海地方では、大皿もしくは丼に冷やした蕎麦を盛り、大根おろしやえびの天ぷら、刻みのりなどを添えて冷たいつゆをかけたた冷やしそばを「海老おろし」もしくは「磯おろし」と呼ぶ。
かけ蕎麦で、唐辛子やネギなどを用いて調理したもの。『嬉遊笑覧』に記述がある、文化年間に馬喰町に存在した「笹屋」が元祖とされる[67]。名称の由来は「鴨南蛮」を参照。
かけ蕎麦で、山菜水煮を具とするもの。ほとんどの場合パックの加工品が用いられる。ぶっかけ蕎麦でも用いられ、特に「冷やし山菜蕎麦」と称することがある。
かけ蕎麦で、ナメコを具とするもの。他のキノコ類を一緒に入れる事が多い。元は山形県内陸部など東北地方、北関東といった天然のナメコが採れる地方にて食されていた、なめこと大根おろし等を具材に用いた蕎麦[70]。ぶっかけ蕎麦でも用いられ、特に「冷やしなめこ蕎麦」と称することがある。
コロッケ蕎麦は明治時代に東京・日本橋浜町の「吉田」が出したものを元祖とする説がある[71][72]。吉田のコロッケ蕎麦は、鶏挽肉とトロロイモ、鶏卵、少量の小麦粉を混ぜた種でつくる、つくねに近い揚げしんじょを載せており、揚げ物を指すクロケットにちなんだとみられ、現代の一般的なコロッケそばとは別物である[73]。現在は「吉田」の後を継いだ「銀座よし田」が元祖コロッケそばを提供している[73][74]。
ポテトコロッケを載せた現代のコロッケそばは、大阪駅前の立ち食いそば・うどん店「麺処潮屋 梅田店」が1969年(昭和44年)の開店時以来、カレーコロッケを使った「コロッケそば」を定番メニューとして出し続けている[75]。首都圏では小田急電鉄の駅を中心に店舗展開する「箱根そば」が遅くとも1972年(昭和47年)には提供するようになっていたが、実際いつ始めたかは不明である[73]。その後は主に関東地方の立ち食いそば・うどん店で普及したが、これは鰹節出汁の濃いめの関東風そばつゆがコロッケに合うためであり、コロッケを独立して食べる人、そばつゆを適度に浸して食べる人、そばつゆに溶かしてポタージュ状にして味わう人がそれぞれいる[73]。名代富士そばなどが東京のB級グルメとしてPRする活動を展開している[73]。
近年まで他地域(特に関西圏)での知名度は低く、インターネットなどを介して発信されるや、一種のローカルフードとして注目を集めた。また、その組み合わせのインパクトが持つ話題性に乗じて即席めんも発売された[76]。
蕎麦湯(そばゆ)とは、蕎麦を茹でた後に釜の中に残る湯、つまり、蕎麦の茹で汁のことである。蕎麦を茹でると、蕎麦粉などが湯の中に散らばってゆき、結果、蕎麦を茹でれば茹でるほど徐々に湯が濁ってくる。あまりにも濁りが濃くなってくると、茹でている最中に蕎麦同士がくっつきやすくなる他、場合によっては蕎麦の風味が変わることもある[83]。このため、蕎麦を供する店舗のように、同じ釜の中で蕎麦を次々と茹で上げる場合は、これが濃くなり過ぎないように、蕎麦の茹で汁の一部を釜の中から取り出して、新たに湯を加える必要に迫られる。この時、取り出した蕎麦の茹で汁が、蕎麦屋で供される蕎麦湯である[84]。
蕎麦を提供する店舗の場合、蕎麦湯は浸け麺の蕎麦に添えて湯桶などで飲用に、通常は無料で出す。客は、蕎麦湯を残った蕎麦つゆに湯桶から注ぎ入れて割り、最後の締めに飲む。ほとんどの店では、蕎麦を食べ終わる時間を見計らって蕎麦湯の湯桶を時間差で提供している。一方で、蕎麦と同時に提供する店もあり、さらには薬缶等に入れてテーブルに供し、客が好きに注いで飲む店もある。
飲み方としては、残った蕎麦つゆを割って飲む方法、蕎麦つゆを割らず蕎麦湯のみを飲む方法、残った蕎麦つゆをいったん捨てて新しい蕎麦つゆと蕎麦湯を割って飲む方法もあり、個人の好みにしてよいとされる。
通常温かい蕎麦に蕎麦湯は提供されない。しかし、江戸そばのように特に濃い蕎麦つゆを蕎麦湯で割って飲みたい場合などに、注文に応じる店がある。
蕎麦湯の文献上の初出は元禄10年(1697年)の 人見必大による『本朝食鑑』であるとされる。そこに「呼蕎麦切之煮湯稱蕎麦湯而言喫蕎切後不飲此湯必被中傷若雖多食飽脹飲此湯則無害然未試之」(蕎麦切りを食べた後で蕎麦湯を飲まねば病気になる、また過食して腹が飽脹しても蕎麦湯を飲めば害がないというが試したことはない)と伝聞調の記述が見られる。また、寛延4年(1751年)の日新舎友蕎子による『蕎麦全書』の中に「先年所用の事ありて信州諏訪を通る事有り。信濃そばとて名物を聞居ければ、旅宿にてそばを所望せしに、其そば製大きによし。成程名物程の事有り。然るにそば後直に蕎麦湯を出して飲しむ」という記述がある。そこでは「そば後直に蕎麦湯を飲む時は食するそば直に下腹に落着て、たとえ過食すとも胸透きて腹意大きによろしき物也」と整腸作用のために飲むと説明されている[85]。直前に「江戸にてはそば切を人に振舞時、そばの後、定って吸物とて豆腐の味噌煮を出す。能麺毒を解すと云伝ふ」ともあるように、この時代には麺類は毒という考え方が存在していた事も確認できる。また薬膳では蕎麦は涼寒性食品、新舎友蕎子が蕎麦を微寒と記しているほか諺に“蕎麦食ったら 腹あぶれ”というものもあり、冷たい蕎麦を食べた後に温かくする事が病気予防になるとされていた事が窺える。
俳句の世界における蕎麦湯は歳時記に冬の季語として紹介されている[86][87]。これは蕎麦切りの茹で湯という副産物ではなく、前述の蕎麦湯の文献上の初出の時代には大変貴重な砂糖と蕎麦粉を溶いた蕎麦がき状のものを指し、和菓子の文脈に近い、似て異なるものであったと考えられる。ただし、こちらの解釈でも体を温めるものという認識があった事は窺える。享和3年に出版された『東海道中膝栗毛 後篇 乾坤』では、三島宿の旅籠で相部屋となった「護摩の灰」(泥棒、詐欺師)に路銀を盗まれた弥次喜多が、原宿(現在は静岡県沼津市)の蕎麦屋で一杯ずつ食べた後に、なおも腹を満たそうとして蕎麦湯を所望し、さらに「薬を飲むからもっとくれ、ただし醤油がないと効かないから一差ししてくれ」などと言って鱈腹飲む描写がある。
医学の発達した現代には、文献上に見られる整腸作用よりは、冷やしの蕎麦つゆの味覚を楽しむという目的に変わっていった。その場合、直接飲むには味が濃いので、蕎麦湯で割って飲むことで出汁やかえしの風味を楽しむという理由付けである[88]。しかし、塩分のとりすぎが日本人の高血圧症の原因との指摘が散見されるようになって以降、蕎麦つゆで割った蕎麦湯の塩分に注意する旨の表示も見られ、蕎麦湯のみを飲む人も増えてきた。よって、蕎麦湯に残った蕎麦の余韻、蕎麦湯そのものを味わう楽しみにも焦点があてられるようになった。名水が有名な地方などでは、ゆで湯の水の味を重視して良質な水をゆで湯に使用し、蕎麦粉の濃度は低い蕎麦湯を出す店もある。
なお、蕎麦湯に水溶性の栄養分が溶け出しているために蕎麦湯を飲むという説[89] があるが、ルチンについては不水溶性なので、食品添加物として水溶性が高いα-グルコシル-ルチンを加えていない限り蕎麦湯から摂取しようとする方法は現実的ではない[90][91] ものの、特に生そばでは打ち粉に蕎麦粉を用いていればその限りではない。他の栄養素に関しては、生そばの場合は蕎麦の茹で時間が30-60秒と極めて短く、溶け出す量は限られるので開店直後の蕎麦屋の釜や家庭の鍋から汲み上げた蕎麦湯に溶け出している栄養素には期待できないが、朝の開店から時間が経過した蕎麦屋で半抜きのために釜から汲み上げた濃度の高い蕎麦湯には澱粉質、たんぱく質が蓄積されている。前述のように、サラッと薄い蕎麦湯に文句を言う客のためであるとか店主のこだわりにより蕎麦粉などを溶かし込んでいる場合も結果的には同様の成分になる。冷えた蕎麦を食べた後で澱粉質により葛湯のようにとろみがついた温かい蕎麦湯を飲む事で体が温まる事も健康に寄与すると考えられている。
蕎麦湯を飲む習慣については地域差もあり、特に関西地方ではあまり一般的ではないと言われる。『産経新聞』が2017年に大阪市で街頭インタビューを行った結果によれば、そもそも蕎麦湯の存在を知らないとする回答者が約半数を占めたほか、蕎麦湯の存在を知っていてもそれを飲む行為を否定的に捉える回答者が多かった[92]。2018年にJタウンネットが行ったアンケート調査でも、蕎麦湯を必ず飲む人間の比率は東日本の68.3%に対し西日本は48.5%、特に関西地方に限れば35.4%と低い値が出ている[93]。
酒類を提供している蕎麦屋の一部では、そば焼酎(乙類)を蕎麦湯で割ったものを「蕎麦湯割り」として提供する店がある[94]。家庭などで、そば焼酎の楽しみ方として紹介される場合は、出来上がりを安定させるために蕎麦粉を溶いて作った蕎麦湯が用いられるほか、蕎麦湯に梅干を加える飲み方もある[95]。
通常、蕎麦を食わせる店は蕎麦の専門店、もしくは蕎麦とうどんのみを扱う店であることが多く、これを蕎麦屋(そばや)という。蕎麦屋は江戸時代中期頃から見られる商売で、会席や鰻屋に比べると安価で庶民的とされる。蕎麦が好まれる江戸には特にその数が多く、関東大震災以前は各町内に一軒もしくは二軒の蕎麦屋があるのが普通だった。
蕎麦屋の文献上の記載は、文政12年(1829年)の『文政町方書上』に蕎麦屋が3軒あったと記載されているうちの1軒が寛永18年(1642年)から店を構えていたとされる。屋台形式の移動店舗は江戸時代後期に書かれた『三省録』『近世風俗志』『昔々物語』等に、寛文4年(1664年)に「けんどん蕎麦切」の店が現れたとの記述がある。また、貞享3年(1686年)に江戸幕府より出された夜間の煮売り禁止対象に「うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売」という意味の記載があり、寛文10年(1670年)のお触書には記載が無いことから以降の16年で夜間の屋台販売を代表する存在になっていった事が窺える。これらの屋台形式の蕎麦屋は、時代や業態によって「二八蕎麦」「夜鷹蕎麦」「風鈴蕎麦」などとも呼ばれた。
西暦 | 年号 | 文献 | 記載 |
---|---|---|---|
1642年 | 寛永18年 | 文政町方書上(1829/文政12年) | 「蕎麦を出す店が3軒ある」(うち2店は寛永より営業、大田屋は寛永18年(1642年)には店売りをしていたとされる) |
1659年 | 万治2年 | 東海道名所記 | 「東海道中に4軒のうどん・蕎麦を出す茶屋がある」「京都の遊郭島原の茶屋で饂飩・蕎麦を売っている」 |
1662年 | 寛文2年 | 洞房語園(1720/享保5年) | 「寛文2年から後、江戸町二丁目の仁左衛門がけんどん蕎麦を銀目五分で売り始めた」 |
1664年 | 寛文4年 | 昔々物語(1689/元禄2年) | 「けんどんうどん・蕎麦切りが出来た」 |
1676年 | 延宝4年 | 日次紀事 | 「京都では9月から翌年1月にかけて夜そば売りが行われる」 |
1686年 | 貞享3年 | 幕府御触書 | 「蕎麦切りを含む夜中の煮売り禁止」(寛文10年の御触書には蕎麦切りの記載が無い) |
1690年 | 元禄3年 | 東海道分間絵図 | 東海道中に蕎麦切り専門の茶屋が21ヵ所描かれている |
1692年 | 元禄5年 | 万買物調方記 | 「江戸にはけんどん屋(提重)が5軒ある」と記載されている(けんどん箱の上位版が提重) |
蕎麦切り自体は、保科正之の高遠そば、仙石政明の出石そば、本山宿における大名への献上記録、将軍家に献上された武鑑の記録などから身分の高い人物でも食べるものになっていた。しかし、江戸時代の蕎麦屋は庶民のための店であり、武家や公家などの間では人目につく蕎麦屋で外食する機会がなかった。有職故実の大家だった伊勢貞丈の『貞丈雑記』にて「古くありし物なれ共、表向などへ出さざる物故、喰様の方式なども記さざるなるべし」と記している。これは、蕎麦切りをマナーで縛るような記述を避けたとも考えられる。ところが『三省録』では「下賎のものは買ひて食ひしが、小身にても御旗本の面々調へて(=買って)食ふことなし、近年いつとなく、調へて食う様には成りたり」と記している。「武士は食わねど高楊枝」さながらに、かつては生活が苦しくとも旗本となれば蕎麦屋で食べることなどなかったが、最近では食べるようになったようだという趣旨である。このことから、少なくとも伊勢貞丈の没年である天明4年(1784年)から『三省録』の天保14年(1843年)の版の60年の間には武家も蕎麦屋に来店していたと推測される。武士の意識変化だけではなく、蕎麦屋の店構えにも変化があったためとも考えられる。もっとも『寺坂信行筆記』に元禄15年(1703年)12月14日の赤穂事件の折、集合場所に向かう前に「亀田屋」という店で数名が蕎麦切りを食べたと記されている点から、家督や作法を重んじる必要の無い職位の武士・浪人は以前から蕎麦屋に来店したようである。
近代の蕎麦屋には、蕎麦を中心に品数があまり多くなく酒を飲ませることを念頭においた発展をしている店がある。そのような蕎麦屋の酒を「蕎麦前」と称する。現在でも同程度の蕎麦屋とうどん屋を比べると、出す酒の種類は蕎麦屋のほうが多いのが普通である。主なメニューは、各種の蕎麦や酒のほかに、種物(たねもの)の種だけを酒の肴として供する抜き(ヌキ、天ぷら、かしわ、鴨、卵、など、天ぬきの項も参照)や蒲鉾=「板わさ」、わさび芋、焼海苔、厚焼き玉子、はじかみショウガと味噌、また場合によっては親子丼といった丼物など。また店によっては、茹でた蕎麦を油で揚げた揚げ蕎麦が品書きにあることもある。これは箸休め、あるいは乾き物として酒肴にされる。
太平洋戦争以前の蕎麦屋には、蕎麦を食べる以外の様々な用途があった。まず、町内の人間が湯の帰りなどに気軽に立ち寄り、蕎麦を手繰ってゆく格式ばったところが無い店である。またその一方で現在の喫茶店のように、家に連れてきにくい客と会ったり、待ち合わせをしたりする場合にも用いられた。たいてい一階が入れこみ、二階が小座敷になっていることが多く、二階は込み入った相談、男女の逢引、大勢での集まりなどにも用いられたという。戦後はこうした雰囲気も徐々に薄れてきたが、今も静かな雰囲気で風情を楽しむことができる店も存在する。
蕎麦屋には出前という宅配サービスを提供している店がある。もとより蕎麦は長時間の持ち運びに適さない食物であるが、むかしは蕎麦屋の数が多く、出前の範囲も比較的狭かったために、蕎麦は店屋物の代表格だった。ちょっとした客をもてなすために、あるいは年越し蕎麦を一家で食べるために、町内の蕎麦屋から出前を取る風習は江戸時代から見られるものである。1950年代半ば、東京23区内には約2800軒の蕎麦屋があり、日に平均120万食が出たといわれた。しかし店で食べて帰る客は少なく、9割が出前だった[97]。
出前には、岡持ち(おかもち)と呼ばれる取っ手のついた箱型の道具が用いられた。たいていは店の使い走りが蕎麦を出前し、後で丼や蒸籠などの器を引き取りにゆくことが多かった。戦後は自転車やオートバイを利用することも多く、高く積み重ねた蒸籠を曲芸さながら肩に担いで片手でハンドルを握る姿は、当時の蕎麦屋の象徴でもあった。ホンダのスーパーカブは、この蕎麦屋の出前の片手運転に使えるよう、クラッチレバーを廃した設計としたという逸話も残っている。現在、オートバイでは出前機を用いる方法が普通になり、蒸籠担ぎの曲芸はあまり見られなくなった。勘定はかつては空き丼を回収するときに支払ったが、現在は配達時に支払う。
また、鉄道駅やその周辺地域、ビジネス街などの市街地・商業地域、あるいは遊園地、野球場や競馬場などの遊興施設などにて、客が店内のカウンターで立ったまま食べる(立ち食い)・簡易椅子に腰掛けて食べるスタイルの営業形態を基本とした立ち食い蕎麦屋も多数存在する。
江戸時代、浅草の称往院(現在は世田谷区の烏山寺町に移転)境内にあった道光庵という塔頭の僧がそば打ちの名人で、当時のそばの番付で上位の常連になるなど有名になったため、称往院には「そば切り寺」の異名がついた。そば屋の屋号に「庵」をつけるものがあるのはその名残である[98]。
蕎麦専門店だけではなく、うどんも提供する店もありこのような店も「蕎麦屋」と呼ぶ。立ち食い店も多い。蕎麦と酒を楽しむ趣向もある。江戸時代には製麺技術が全国的に普及していなかったため、ほとんどの地方では麺としての蕎麦・うどんはハレの日のご馳走であり、蕎麦屋のある江戸などの都会において蕎麦・うどん文化は開花してゆく[99]。しかし、江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたという。
江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、水質や、出汁の原料、醤油の質、男女比や労働層、文化の特殊性などさまざまな要因があるが、食事からの栄養の多くを白米で摂取したことにより、ビタミン類の欠乏により生じる「江戸患い(えどわずらい)」と呼ばれた脚気を、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで防止・改善できたことにもよる。また、蕎麦に含まれるルチンの成分が酒呑みの高血圧や動脈硬化を抑える効果があることも人気の一環であったと思われる。
蕎麦とうどんの抗争を酒呑童子退治になぞらえた安永期の珍品黄表紙『化物大江山』(恋川春町作)は、当時の江戸人の蕎麦・うどんへの価値観の一面を描いている。源頼光役は蕎麦、悪役の酒呑童子はうどんである。なぜか、「ひもかわうどん」だけは蕎麦側についており、蕎麦一色だった江戸でも例外的に人気があったようだ。
以後、江戸→東京では、「夕方早くに蕎麦屋で独り、種物の蕎麦を肴に酒を飲む」ことが、「粋」を見出す高い価値付けさえ生じるようになった。江戸では、蕎麦を食べることを「手繰る」(たぐる)ともいう。このような言葉を使うこと自体、1つの気取りと言える。
夏目漱石の『吾輩は猫である』(明治38年(1905年))でも、粋人を気取るハイカラ遊民・迷亭が「うどんは馬子の喰うもんだ」とうそぶき、上がり込んだ苦沙弥先生宅で勝手に蕎麦の出前を取って一人で喰う描写がある。蕎麦食いの講釈をとうとうと垂れ、薬味のわさびの辛さに涙しつつやせ我慢で耐えて蕎麦を呑み込む迷亭のいささか俗物的な面も否めない粋へのこだわりぶりに比べ、胃弱症の苦沙弥先生が「うどん好き」であることで、うどんの印象は相対的に冴えないものとなる。
同じく漱石作品の『坊っちゃん』(明治39年(1906年))においても、江戸っ子である“坊っちゃん”が松山で天ぷら蕎麦を注文する一場面が見られる。
近畿における蕎麦処の筆頭は兵庫県豊岡市出石町(出石城下町)で、皿そば「出石そば」は広く知られている。これは江戸時代に蕎麦の本場だった信州上田藩の藩主仙石政明が出石藩に国替えとなった際に大勢の蕎麦職人を連れて来て以来の伝統とされる。なお、山陰地方として捉えた場合に出石と並ぶ蕎麦処とされる島根県出雲地方の「出雲そば」も信州松本藩の藩主松平直政が松江藩に国替えになった際に大勢の蕎麦職人を連れて来て以来の伝統とされる点で出石そばと共通の由来を有している。
京都は古くからの蕎麦屋が多い。これは背後に控える丹波地方でそば作りが盛んだったためである。また、有名なニシンそばは幕末に生み出されたものであり、古くから京都にあった惣菜である「ニシン昆布」に発想を得ている。全体的に見れば、大阪と同じくうどんの方が好まれる傾向にあるが、大阪のようにそば屋がうどんを提供する場合は極めて稀である。
大阪では「そば」より「うどん」の方が一般的に好まれるとされ、好みが東京とは全く逆である。うどん屋が利用者のニーズに応えて「そば」も出しているという概念が強く、蕎麦屋であってもうどんを提供する店も存在する。また、出汁は元来うどんに用いる前提で作られた、淡口醤油を基調とした透き通ったものを用いることが多い。たぬき(油揚げの乗ったそば)やとろろ昆布が乗ったこぶそばは、大阪が発祥である。また、そばは産地の関係か一般に黒そば、田舎そばなどとと呼ばれる殻ごと碾いたものが好まれる傾向にある。
日本の農山村において、伝統的に蕎麦切りはもてなしの料理だった。焼畑でソバを栽培していたような山村にあっても、蕎麦切りは祭礼や正月、来客時のごちそうであると認識されていた。どこの家でも素人ながらに蕎麦打ちの技術を持っており、来客があると、家の主人もしくは主婦が蕎麦を打ち、食事として供した。
食べ方としては、にんじんや椎茸などを細切りにして煮込んだ澄まし汁やみそ汁をつけ汁にして、もりで食べる。また、蕎麦粉の節約のため、細切りの大根(薬味とは異なる)や、春にはセリなどをゆでて、麺と混ぜて盛りつけて食べることもあった。一方、蕎麦掻きは、作るのが簡単であることもあり、普段、農作業の合間に口にするような食べ物だった。他にも、その他の雑穀類と同様、団子にしたり、野菜を煮立てた中に蕎麦粉を入れてかき混ぜるような食べ方もあった。食糧の自給をほとんどしなくなったことや、都会風の蕎麦の食べ方の普及により、地域ごとに特色のあった蕎麦の食べ方は廃れつつある。
ソバは痩せた土壌でも栽培できたことから、北は北海道から南は鹿児島まで、山間地や新規開拓地で盛んに生産された。なお、各地の有名・老舗蕎麦店、立ち食い蕎麦屋、蕎麦チェーン店などについてはそれぞれ関連項目を参照。
もともと食用作物としてソバの栽培が行われておらず、ソバの実を利用する食文化が無い。蕎麦を供する店は非常に少なく、130万人を超える県内人口に対してわずか40軒ほどしかない。県内で栽培した蕎麦粉を使用したり、月桃の葉を練り込んだ蕎麦を供する店もあるが県民にはまったく浸透していない。沖縄そばも小麦粉が原料という文化圏である。
落語の舞台となることの多い徳川時代〜明治時代の江戸・東京で蕎麦が好まれたことから、江戸落語の演目には蕎麦や蕎麦屋がたびたび登場する。なお、うどんが主流の関西で演じられる上方落語では、基本的に同じ噺でありながら、蕎麦をうどんに差し替えた内容にされる事例もある(「時そば」と「時うどん」など)。もっとも、江戸落語にも「うどん屋」という噺があるとおり、蕎麦一色というわけではない。
ソバを麺類に加工して食べる国には、フランス、イタリア、中国、朝鮮半島(北朝鮮・韓国)、ブータン、ネパールなどがある[183]。ただし、麺にする方法は各国、地方で異なり、朝鮮半島の冷麺などのようにところてん式に押し出して作る、イタリアのピッツォッケリのようにのし棒で成形するなどがある。麺ではなく、団子状(ダンプリング)にしたり、腸詰めとしたり、また調理方法も茹でるのではなく焼いて食べるものなどがある。いわゆる日本の蕎麦切りもまた、前述の国々のソバ料理のように独特のものといえる。
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