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日本の江戸時代に、信濃国に所在した藩 ウィキペディアから
高遠の地は戦国時代、諏訪氏の一族であった高遠頼継が治めていた。頼継が武田信玄(晴信)との戦いで没落した後、高遠は武田氏の支配下に入る[1]。
後に信玄の5男で勝頼の異母弟仁科盛信が高遠城主となり、天正10年(1582年)2月に織田信長による甲州征伐が開始されると、信濃の武田勢は次々と信長の嫡男信忠率いる織田軍に降伏していくが、高遠城を守る盛信のみは信忠の降伏勧告を拒絶して果敢に抗戦、織田軍は3月2日に高遠を攻撃して1日で落城させ、城主盛信は自害した[2]。武田家は盛信の玉砕で総崩れになり、勝頼は3月11日に天目山で自害し、武田家は滅亡した。
その3ヵ月後の6月、本能寺の変が起こって信長・信忠が横死。信濃の織田勢は武田旧臣の一揆で追放されて無主状態になると、徳川家康・北条氏直・上杉景勝らによる旧武田領をめぐる天正壬午の乱が起こる。高遠は高遠氏の旧臣保科氏が内藤昌月の支援を得て奪回し[3]、昌月の実父である保科正俊が城主となった。10月、正俊の子正直は家康に服従し、伊那郡2万5000石の所領を宛がわれた[3]。正直はその後、伊那箕輪の藤沢頼親を降伏させた[3]。天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが起きると、家康は正直や諏訪頼忠、小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に派遣したがこの木曾攻めは成果を上げず、正直を抑えに残して撤退した[3]。天正13年(1585年)、家康と北条氏直の和睦の条件である上野沼田領の譲渡問題で真田昌幸が家康から離反したため、家康は大久保忠世に正直ら信濃衆をつけて攻撃するも[3]大敗して撤退。しかも11月に石川数正が徳川家から出奔したのを機に松本の小笠原貞慶が高遠に攻撃をかけるが、保科正俊が鉾持除の戦いで退けた[3]。正直はその後、家康の異父妹久松氏と縁戚となって勢力を伸ばし[3]、天正18年(1590年)の小田原征伐でも徳川軍の後備えとして参戦した[4]。後北条氏が滅亡して家康が関東に移封されると、正直は家康に従って下総多胡で1万石を与えられた[4]。
家康が関東に移ると、旧徳川領は豊臣秀吉の家臣が入封することとなり、伊那には毛利秀頼が10万石で入った[4]。甲州征伐の功により伊那郡を与えられて信長没後の混乱で失領し、復帰したものである[5]。秀頼は入封した直後に3か条からなる条々を発布して統治方針を示し、太閤検地も実施したが、実際の政務は勝斎(姓不詳)と篠治秀政が担当していた[4]。秀頼は文禄2年(1593年)に病死[4]。その妹婿である京極高知が跡を継いだ。高知時代には岩崎重次が城代として統治を担当したが、統治体制には不明な点が多い[4]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで高知は東軍に与力して岐阜城攻略戦に参加し、9月15日の関ヶ原本戦にも参加した功績から[6]、戦後に丹後宮津に移封され、岩崎も甲斐に帰国した[4]。
関ヶ原の戦いの後、高遠には正直の子正光が2万5000石で入部したことにより高遠藩が成立した[7]。正光は慶長11年(1606年)の江戸城石垣修理や5年後の堀普請、大坂の陣参戦など幕府に奉仕している[8]。しかし正光には嗣子が無かったので[9]、正光は第2代将軍・徳川秀忠の隠し子(生母が正室・於江与ではなかったため、その悋気に触れることを恐れた秀忠が正光に預けていた)である幸松こと保科正之を養育することになった。元和4年(1618年)には正之の養育料として筑摩郡に5000石を加増された[10]。寛永6年(1629年)6月に正之は兄の第3代将軍徳川家光と初対面し、寛永8年(1631年)11月、正光の死により正之が家督と3万石を継いで従五位下肥後守に叙任されたが[10]、この頃になると於江与が既に亡く、正之が秀忠の息子であることも周知の事実となったため、徳川家光の計らいにより、正之は寛永13年(1636年)7月に出羽山形藩20万石に加増移封された[10]。
正之と入れ替わりで、山形より鳥居忠春が3万2000石(3万200石[11])で入る。この忠春は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した元忠の孫である。鳥居家は元忠の勲功やその子忠政の功績もあり、24万石まで栄進していた。ところが忠政の子忠恒は病弱で公務が務まらず、しかも継嗣が無く33歳で病死したので、末期養子の禁令に触れてしまい、鳥居家は山形24万石を没収された[11]。しかし幕府は元忠の勲功を認めて、忠恒の実弟忠春に3万200石を与えることで高遠藩に移封した[12]。
忠春は兄の時代に失った24万石を取り戻そうと幕府の御用に励んだ[13]。だがそのために藩財政は大きな負担を伴い、忠春は財源確保のために慶安2年(1649年)に年貢を増徴したため、領民は生活困窮と賦役に耐え切れず、承応3年(1654年)6月に3000人の百姓が尾張藩領の木曾に逃散する事件も起きた[14]。また忠春自らも豪遊したりした[15]。寛文2年(1662年)、忠春は侍医・松谷寿覚により斬りつけられ、それが原因で客死した[16]。
忠春の跡を継いだ子の忠則は、元禄2年(1689年)2月に江戸城馬場先御門の警備を担当していた家臣高坂権兵衛が職務中、幕府御側衆の平岡頼恒の屋敷を覗いていたところを、平岡家の家臣に取り押さえられる事件が起こった(高坂権兵衛事件)[17](高坂は主家に累が及ぶことを恐れ、取り調べ中に自害)。この事件で忠則は家中不取締の責任を追及されて閉門となり、その最中の7月に急死した(自害したといわれる)[17]。忠則の死により、鳥居家は再度改易となった[18]。
鳥居家改易後、高遠藩は廃藩となり、元禄4年(1691年)まで天領となった[19]。その後、内藤清枚が3万3000石で入る[19]。
第2代藩主・頼卿の時代から財政難が始まり、藩政改革が試みられた。正徳4年(1714年)3月の江島生島事件に関わり、高遠に流罪にされた絵島の身柄を預かっている[20]。第3代藩主頼由は藩士に対して俸禄制を採用して財政問題解決に邁進した[21]。第5代藩主の長好は幼少で藩主になった事情もあるが、自らが頻繁に外出して遠乗りや狩り、花火見物に視察などを繰り返して領民に負担をかけ、諸費用もかなりの額に上った[22]。
第7代藩主・頼寧は博学多才で[22]、産物会所設置による産業奨励、学問の奨励、新田開発計画、藩直営の桑園経営などに手腕を発揮して藩政改革に成功を収めた。幕政においても日米関係の上申書を提出したり、兵備を西洋式に改変して藩士に訓練させた[23]。
安政6年(1859年)に最後の藩主となった内藤頼直は、藩校である進徳館の設立や長州征伐参加で活躍した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与し、北越戦争・会津戦争に参戦した。明治2年(1869年)の版籍奉還で、頼直は藩知事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県で高遠藩は廃藩となって高遠県となり、同年12月には筑摩県に編入された。
鳥居家の時代に多数の百姓が逃散して藩内の田畑は無主状態が多くなり、荒廃した[14]。このため鳥居家では明暦2年(1656年)から2年がかりで検地を藩全土で実施し、貢租の確保を図った[14]。しかし鳥居家の2人の藩主はいずれも豪遊して藩財政を傾かせ、領民には重い賦役を課したようで現在に至るまで数多くの借用証文が残っており[16]、田畑を担保にしたり、自分の妻子や家族を質草にして借用した証文も存在している[16]。また寛文9年(1669年)12月などに年貢が納められないので妻子を担保にするなど、わずかな借金で妻子や家族を質入れして領民の生活が苦しめられていた[18]。
内藤家の時代では藩主長好の領国生活が原因で灯油など不必要な経費が浪費されて町民や農民の負担が増した[22]。このため文政5年(1822年)7月にわらじ騒動(興津騒動)、8月に洗馬騒動と称される藩領一揆にまで発展した[24]。
内藤頼寧は幕末の情勢を見て藩内の軍備を西洋化して藩士に訓練させ、領内で演習させた[23]。また江川英龍、肥田金之助、斎藤弥九郎、桂小五郎らを高遠に招聘したり藩士を派遣して訓練させている[25]。内藤頼直の時、調練された軍隊は長州征伐、戊辰戦争における会津・越後戦争で官軍として出兵、越後戦争では若き日の西園寺公望の危急を救った[25]。
頼寧の時代に文化が大いに発展した。頼寧は文政年間に領民の教化策から学問所設立の必要性を痛感し[26]、頼直の時代に藩校進徳館が設立された[27]。また多くの文人・学者らを頼寧は招聘した。茶道・調理術・能楽・書画など多芸に通じ、高遠藩は頼寧の時代に全盛になり、次代の頼直にも受け継がれた。
農民の生活は困窮し藩財政も逼迫した。このため年貢増徴などを試みるも、譜代内藤家は幕府の公務に参加することが多くそのために出費は多かった[24]。さらに文政3年(1820年)の旱魃、翌年の天候不順などで計2万5000石の損害を受け、財政は破綻に近い状態にまで追い込まれていた[24]。このため農民に御用金を課すことで解決を図るもわらじ騒動が発生して失敗し、藩は不正を働いた郡代興津紋左衛門を処分した[28]。
重臣岡村忠輔は天保3年(1832年)2月に産物会所を設置して殖産興業政策を図る[29]。農閑期に薬草を採取させて他国に売り出し、木綿業を製作させて資金の乏しい者には貸付を行なった[30]。また弘化年間には高遠焼を再興させた[30]。産物会所には機織所を設けて絹織業の発展に寄与している[30]。
内藤家の石高は3万3000石であるが、これは高遠の農業生産力の限界に近い値であった[31]。このため年貢率は4割5分から5割を推移し[31]、豪商農層からの御用金、領内の林にかかる税金など諸税で財政は支えられていた[32]。このため藩士の俸禄を下げたり、検見法から定免法への転換も行なわれている[33]。文政9年(1826年)には財政再建のために豪農四名を採用しての藩財政再建政策が試みられるも失敗し、幕末にも和宮降嫁による負担などで高遠は苦しかった。
譜代 2万5000石→3万石
譜代 3万2000石
譜代 3万3000石
元禄11年(1698年)、甲州街道に面した藩の中屋敷の一部が収公され、内藤新宿(現在の新宿区内藤町)として発展した。上屋敷は神田元鷹匠町(現在の千代田区神田小川町)、下屋敷は下渋谷村(現在の渋谷区恵比寿)に存在した。
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