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内藤 清枚(ないとう きよかず)は、江戸時代初期から中期の旗本、のち大名。信濃高遠藩の初代藩主。高遠藩内藤家第6代(第7代とする説あり)。
正保2年(1645年)8月6日、旗本・水野守政の次男として生まれる。元服して水野守興と名乗り、旗本として寛文12年(1672年)5月26日、書院番に列し、幕臣として仕えた。母が内藤重頼の妹だったため、天和元年(1681年)4月6日に重頼の養子となり、内藤清長と改名する。元禄3年(1690年)、重頼の死去により遺領3万3000石を継いだ。元禄4年(1691年)2月9日、信濃国伊那郡・筑摩郡に移封され、高遠藩内藤家の初代藩主となる。藩庁は高遠城に置いた。
元禄4年(1691年)12月1日、自身の国入りに先立ち、清枚の名で藩士に対し「条目」17か条を発布した。加えて同日付で重臣の連名による「覚」11か条を制定し、家中法度を整えた。なお、初めての国入りは翌年9月21日であった。
高遠への移封に際して幕府の行なった検地では、実高が3万9000石であるとされ、そのうち6000石が幕府領とされた。そのため財政が苦しく、新田開発に尽力することとなる。この新田開発で実高をかなり上げたが、その反面で元禄7年(1694年)と宝永4年(1707年)に大坂加番、元禄8年(1695年)12月から元禄10年(1697年)8月まで奏者番に任じられるなど、要職を歴任したことから出費が増大し、藩財政を苦しめたという。
元禄9年(1696年)、駒ヶ岳を横断する権兵衛街道を開設する。宝永元年(1704年)、名を清長から清枚に改めた。
正徳4年(1714年)4月16日に死去した。享年70。養子として長頼と清行がいたが、長頼は不行跡により養子関係を白紙に戻し、清行も早世したため、実子の頼卿が跡を継いだ。
父母
子女
養子
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