Loading AI tools
日本の将棋の棋戦 ウィキペディアから
名人戦(めいじんせん)は、毎日新聞社[注 1]、朝日新聞社[注 1] および日本将棋連盟主催の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。将棋界の近代化にあたり、江戸時代以来の終身位名人制を廃し、短期実力制によって名人を選ぶべく、1935年(昭和10年)に第1期が開始された(第1期リーグ戦は1935年から1937年にかけての2年間)。タイトル戦の中で一番長い歴史を有し、七番勝負の勝者は名人のタイトル称号を得る。名人位は竜王位とともに将棋界の頂点とされている。
名人と挑戦者とで行われる対局(七番勝負)のこと。名人戦七番勝負の勝者には、将棋界で最も格式と歴史のある(家元制として江戸時代初期の1612年(慶長年間)から、実力制タイトルとしては1937年から続く)「名人」のタイトル称号が与えられ、次期の七番勝負終了まで、そのタイトル保持者となる。毎日新聞社と朝日新聞社とが共催(2007年度から)し、大和証券グループから協賛を受けている(2005年度から)。
江戸時代以来、近代まで将棋の名人は世襲制(ただし血縁が絶対ではない、家元制・推挙制)であった。
1929年、読売新聞社による「第一回日本将棋選手権戦」開始にあたり、読売新聞社が行ったアンケートに、時の名人関根金次郎が「古来、名人の位は一生涯のものだが、私は時勢に鑑み適当な時期に退隠したいと思う」と回答[1]。なお、この頃の関根は「名人」ではなく「九段制」を考えていた[1]。
その後、日本将棋連盟顧問の中島富治の発案を受け、1934年(昭和9年)、東京日日新聞学芸部長の阿部眞之助が囲碁および将棋の「実力名人戦」を企画し[2]、日本将棋連盟会長の金易二郎が1935年3月に「昭和12年(1937年)に300年続いた一世名人を廃する」と発表。同年、名人戦(当初は八段9名のリーグ戦)が開始。2年にわたる「第1期名人決定大棋戦」の結果、1937年の12月6日に木村義雄が花田長太郎に勝ち、翌年に予定されていた決勝六番勝負をへることはなく、初代の実力制名人に決定。1938年2月11日(当時の祝日・紀元節[3])、十三世名人の関根金次郎は1935年に提出した声明書に基づき名人位を返上し、木村が実力制名人位についた。
これにより初代大橋宗桂以来続いた一世名人制が廃止され、短期実力制名人位制度が開始された。なお、囲碁は名人戦ではなく本因坊戦とされ1939年に開始した[4]。
名人戦は名人と挑戦者の二者により七番勝負形式で行われる。
名人戦の予選にあたる棋戦を「順位戦」と称し、5つのクラスに分かれた最上位クラスのA級順位戦の優勝者が名人戦の挑戦者となる。
名人と挑戦者(A級順位戦の優勝者)が七番勝負を戦う。七番勝負は全国各地の旅館や料亭、あるいは文化的施設など格調高い場所で行われる。第66期(2008年)以降は第1局を東京都文京区の椿山荘で行い、第2局~第5局は全国の自治体からの公募により開催地が決定されるのが恒例となっている[5]。
持ち時間は2日制の各9時間で、これは将棋の全タイトル戦のうち最長時間である。1日目の終わりには封じ手を行い、2日目の開始まで次の手を考えて有利になることがないようにする。昼食休憩(両日とも)は12時から1時間、夕食休憩(2日目のみ)は17時から30分間(いずれも第80期より)[6]。なお、2日目に夕食休憩の時間があるのは、2018年現在タイトル戦の中では名人戦だけ(1日制のタイトル戦では王座戦がある)。ただ名人戦の夕食休憩について、渡辺明は「局面が勝負所に入っていてタイミングが悪いし、腹が減ればおやつを食べれば良い」「新聞社的にも休憩無しの方が助かる(翌朝の紙面に記事を間に合わせやすい)はずで、誰が得しているのかわからない」として「夕食休憩は不要」と主張している[7]。
名人戦の賞金額は通常非公開だが、過去に『将棋世界』誌上でその一端が公開されたことがある[8]。同記事によれば、1991年当時の名人および挑戦者の賞金額は以下のとおり。
従って名人位を防衛すると合計で約3,500万円ほどとなり、当時の竜王戦の賞金とほぼ並ぶ計算となる[8]。
当初は1期2年であり、2年間かけて挑戦者を決め、偶数年に番勝負を開催していた。ただし、1937-38年(第1期名人戦)、1943-44年(第4期)、1945-46年(第5期)では挑戦者不在などの理由により番勝負が開催されず、第1期(1937-38年)および第5期(1945-46年)では1年目の奇数年のうちに名人が決まった。
第5期までの名人戦では各期ごとに試行錯誤が重ねられ、挑戦者決定リーグの開催方式が変更された。
「名人戦」の予選として実質的に位置づけられる「順位戦」が1946年に始まったことで、第6期名人戦以降(1947年以降)は1期1年となり、挑戦者決定方法も固定された。
名人位を通算5期以上獲得した棋士は、原則として引退後に、永世称号である永世名人を名乗ることができる。
他のタイトルの永世称号と異なり、「○世名人」という称号となる。これは、江戸時代から続く終世名人制を引き継ぐためであり、最初の永世名人である木村義雄は、関根金次郎十三世名人の次であるから十四世名人を名乗った。
永世名人の資格は、1949年に、名人戦主催者が翌年から朝日新聞社に変更となったのを機に制定された。当時の規約は、名人5期以上の棋士が失冠した際に、連盟がその棋士の人格などを審査し、永世名人に相応しい人物であれば永世名人の称号を贈るというものであった[15]。
規約制定以前の1945年に木村義雄は既に規定の名人5期を達成していたため、当然この資格を獲得し、1952年に名人を失冠すると永世名人を襲位した。
なお、「木村の名人獲得期数5期は1949年に達成したものであり、戦前の獲得期数は実際は4期である」や「永世名人の規約ができたのは1952年である」などといった誤解がある。しかし、木村の名人獲得期数と規約制定年と襲位との関係を理解しないことから起きた誤りである。
この規定による永世名人の資格獲得者は、木村義雄(十四世名人)、大山康晴(十五世名人)、中原誠(十六世名人)、谷川浩司(十七世名人)、森内俊之(十八世名人)、羽生善治(十九世名人)の6名である。
木村は1952年の名人陥落後に引退して十四世名人を名乗った。大山は名人13連覇など数々の偉業を称えて、特例で現役でありながら十五世名人を名乗ることを許されていた。中原は2007年11月に、名人15期をはじめとする実績を称えて現役中に十六世名人に推戴された。谷川は、2022年4月に還暦を迎えたこととこれまでの実績・将棋界への貢献から推薦を受けて、現役中ながら十七世名人を襲位した。2022年現在、森内、羽生はまだ襲位していない。規定通り引退後に永世名人を名乗ったのは木村のみである。
上述の通り、第10期以降は名人戦挑戦のために、順位戦A級在位という前提を要する関係上、名人戦挑戦者の段位は必然的に八段以上となる。
1984年4月1日から改定施行された昇段規定により、八段の挑戦者が名人位を獲得した場合、九段に昇段する[注 3]。
当規定が施行されて以降、名人位獲得に伴い九段に昇段した棋士は、谷川浩司・佐藤康光・丸山忠久・森内俊之・佐藤天彦・豊島将之の6名である。尚、谷川と丸山は、五段から八段までの全ての段位を順位戦の昇級に伴い昇段したので、名人位獲得をA級から名人への昇級と考えると五段から九段まで全て順位戦の昇級で昇段したことになる。
|
期 | 年度 | 名人戦七番勝負 | 挑戦者決定リーグ | |||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名人 | 勝敗 | 挑戦者 | 八段(昇段日順) | 予選通過者 (七段以下) | ||||||||||||||||||||
1 | 1937 | 木村義雄 |
|
- | 土居 | 大崎▼ | 金 | 木見▼ | 花田 | 木村雄◎ | 金子 | 神田辰 | 萩原 | |||||||||||
1938 | 1位木村と2位花田が大差となったため、1938年の番勝負は行わずに1937年に名人決定。 | |||||||||||||||||||||||
2 | 1939 | 木村義雄 |
|
土居市太郎 | 土居 ◎全 | 金 | 花田 | 金子 | 神田辰 | 萩原 | 斎藤銀 | 阪田▽[注 4] | 渡辺東 | |||||||||||
1940 | 前期リーグで規定の点数を満たさなかった八段は出場資格なし。予選を通過した七段1名が出場。 | |||||||||||||||||||||||
3 | 1941 | 木村義雄 | ○○○○--- | 神田辰之助 | 土居○ | 金 | 木見 | 花田 | 金子 | 神田辰◎ | 萩原 | 斎藤銀 | 坂口 | 塚田正○ | 渡辺東○ 大野源 | |||||||||
1942 | 出場者を3組に分けて1次リーグ戦を行い、各組1位の3名と2位から敗者復活戦を勝ち抜いた1名で決勝。 | |||||||||||||||||||||||
4 | 1943 | 木村義雄 | - | - | 土居 | 金 | 木見▽ | 花田○ | 金子 | 神田辰▽ | 萩原○ | 斎藤銀 | 坂口○ | 塚田正 | 小泉 | 渡辺東 | 大野源○/村上 山本樟/大山 | |||||||
1944 | トーナメント突破4名が木村と予備手合を行うも全員敗退。名人挑戦権獲得者なしで木村の名人防衛。 | |||||||||||||||||||||||
5 | 1945 | 木村義雄永 | - | - | 花田 | 金子 | 萩原 | 坂口 | 塚田正 | 大野源 | 加藤治[注 5] | |||||||||||||
1946 | 近年の成績で選抜された7名が予備資格者となったが、予備手合が戦争で中止。特例として木村の防衛扱い。 |
期 | 年度 | 名人戦七番勝負 | 順位戦A級 | A級 昇級者 | ||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名人 | 勝敗 | 挑戦者 | 期数 | 1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 | 11位- | ||||||||||
6 | 1947 | 木村義雄 | 塚田正夫 | 1 | 土居/金▼/花田/金子▼/萩原○/斎藤銀▼/坂口/塚田正◎/渡辺東▼/小泉▼梶▼/加藤治/大野源○/村上 | 升田 | ||||||||||||||||||
7 | 1948 | 塚田正夫 |
|
大山康晴 | 2 | 木村雄 | 大野源○ | 萩原 | 土居 | 加藤治 | (坂口) | 升田○ | 花田○▽ | 村上▼ | 大山◎ 丸田 北楯 松田辰 | |||||||||
8 | 1949 | 塚田正夫 | ○●○●● (五番勝負) | 木村義雄 | 3 | 升田 | 大野源 | 大山○ | 土居▼ | 丸田 | 木村雄◎ | 加藤治▼ | 北楯 | 萩原▼ | 松田辰○ | (坂口) | 五十嵐○ 高島一 原田 | |||||||
9 | 1950 | 木村義雄 | ○○●●○○- | 大山康晴 | 4 | 塚田正 | 大山◎ | 升田○ | 丸田○ | 大野源 | 北楯▼ | 五十嵐 | 高島一 | 原田▼ | (松田辰) | (坂口) | 高柳○ 板谷四 南口 | |||||||
10 | 1951 | 木村義雄 | ○●○○●○- | 升田幸三 | 5 | 大山 | 升田◎ | 丸田 | 塚田正 | 高島一▼ | 五十嵐▼ | 大野源▼ | 高柳 | 板谷四 | 南口▼ | 張出. 坂口(松田辰) | 原田 松田茂 荒巻 | |||||||
11 | 1952 | 木村義雄▽ | ○●●●●-- | 大山康晴 | 6 | 升田○ | 大山◎ | 丸田 | 坂口▼ | (高柳) | 塚田正 | 板谷四 | 原田 | 松田茂 | 荒巻▼ | (松田辰) | 花村 松下 小堀 | |||||||
12 | 1953 | 大山康晴 | ○○●○○-- | 升田幸三 | 7 | 升田◎ | 丸田 | 塚田正○ | 板谷四▼ | 原田 | 松田茂○ | 花村 | 松下▼ | 小堀 | (高柳) | (松田辰) ▼ | 灘 南口 大野源 | |||||||
13 | 1954 | 大山康晴 |
|
升田幸三 | 8 | 升田◎ | 塚田正○ | 松田茂 | 丸田 | 原田 | 花村 | 小堀▼ | 灘 | 南口▼ | 大野源 | 高柳▼ | 高島一 松浦卓 | |||||||
14 | 1955 | 大山康晴 | ○●○○●○- | 高島一岐代 | 9 | (升田) | 塚田正 | 大野源 | 花村 | 灘 | 松田茂 | 丸田▼ | 原田 | 高島一◎ | 松浦卓 | 松下 五十嵐 | ||||||||
15 | 1956 | 大山康晴永 | ○○○○--- | 花村元司 | 10 | 高島一 | 塚田正 | 大野源▼ | 花村◎ | 松田茂 | 灘 | 原田 | 松浦卓▼ | 松下▼ | 五十嵐 | 升田○ | 二上 坂口 | |||||||
16 | 1957 | 大山康晴 | ●○●●○●- | 升田幸三 | 11 | 花村 | 升田◎ | 松田茂▼ | 灘 | 原田 | 五十嵐 | 高島一▼ | 塚田正○ | 二上 | 坂口 | 大野源 丸田 | ||||||||
17 | 1958 | 升田幸三 | ○○○持●●○- | 大山康晴 | 12 | 大山◎ | 塚田正 | 五十嵐 | 花村 | 灘 | 原田▼ | 二上 | 坂口▼ | 大野源○ | 丸田○ | 高島一 加藤一 | ||||||||
18 | 1959 | 升田幸三 |
|
大山康晴 | 13 | 大山◎ | 大野源 | 丸田 | 五十嵐▼ | 二上 | 塚田正○ | 灘 | 花村▼ | 高島一 | 加藤一 | 熊谷 加藤博 | ||||||||
19 | 1960 | 大山康晴 |
|
加藤一二三 | 14 | (升田) | 塚田正 | 大野源 | 丸田 | 二上 | 高島一 | 灘 | 加藤一◎ | 熊谷▼ | 加藤博 | 花村 松浦卓 | ||||||||
20 | 1961 | 大山康晴 | ○○○●○-- | 丸田祐三 | 15 | 加藤一▼ | 塚田正 | 灘 | 加藤博 | 高島一 | 大野源 | 丸田◎ | 二上 | 花村 | 松浦卓▼ | (升田) | 芹沢 廣津 | |||||||
21 | 1962 | 大山康晴 | ○○○○--- | 二上達也 | 16 | 丸田 | 加藤博▼ | 二上◎ | 灘 | 高島一▽ | 花村 | (塚田正) | 大野源 | 芹沢 | 廣津 | 升田 | 加藤一 熊谷 | |||||||
22 | 1963 | 大山康晴 | ○○○●○-- | 升田幸三 | 17 | 二上 | 升田◎ | 丸田 | 灘 | 芹沢▼ | 廣津▼ | 花村▼ | 大野源 | 加藤一 | 熊谷 | 塚田正 | 加藤博 五十嵐 | |||||||
23 | 1964 | 大山康晴 | ●○○●○○- | 二上達也 | 18 | 升田 | 二上◎ | 大野源 | 加藤一 | 丸田 | 熊谷▼ | 塚田正 | 灘▼ | 加藤博 | 五十嵐 | 松田茂 山田 | ||||||||
24 | 1965 | 大山康晴 | ○○○●○-- | 山田道美 | 19 | 二上 | 升田 | 加藤一 | 丸田 | 塚田正 | 大野源▼ | 加藤博○ | 五十嵐▼ | 松田茂 | 山田◎ | 熊谷 有吉 | ||||||||
25 | 1966 | 大山康晴 | ●●○○○○- | 升田幸三 | 20 | 山田 | 加藤博 | 升田◎ | 松田茂 | 丸田 | 二上 | 塚田正 | 加藤一▼ | 熊谷▼ | 有吉 | 灘 花村 | ||||||||
26 | 1967 | 大山康晴 | ○○○●○-- | 二上達也 | 21 | (升田) | 山田 | 加藤博 | 二上◎ | 丸田 | 塚田正 | 有吉 | 松田茂 | 灘▼ | 花村 | 加藤一 内藤 | ||||||||
27 | 1968 | 大山康晴 | ○○○○--- | 升田幸三 | 22 | 二上 | 加藤博 | 山田 | 丸田 | 有吉 | 松田茂▼ | 花村 | (塚田正) | 加藤一▼ | 内藤 | 升田◎ | 大友 関根茂 | |||||||
28 | 1969 | 大山康晴 | ●○○●●○○ | 有吉道夫 | 23 | 升田 | 山田 | 二上 | 丸田 | 有吉◎ | 花村 | 内藤▼ | 加藤博 | 大友▼ | 関根茂▼ | 塚田正 | 加藤一 灘 | |||||||
29 | 1970 | 大山康晴 | ○●○○○-- | 灘蓮照 | 24 | 有吉 | 升田 | 山田▽ | 丸田 | 加藤博▼ | 二上 | 花村 | (塚田正) | 加藤一 | 灘◎ | 内藤 中原 | ||||||||
30 | 1971 | 大山康晴 | ○●●○●○○ | 升田幸三 | 25 | 灘 | 有吉 | 升田◎ | 加藤一 | 花村▼ | 二上○ | (丸田) | 内藤 | 中原 | 塚田正 | 原田 米長 | ||||||||
31 | 1972 | 大山康晴 | ●○○●○●● | 中原誠 | 26 | 升田 | 二上 | 加藤一 | 有吉 | 内藤 | 中原 ◎全 | (丸田) | (灘) | 塚田正▼ | 原田 | 米長 | 佐藤大 大内 | |||||||
32 | 1973 | 中原誠 | ○○○○--- | 加藤一二三 | 27 | 大山 | (升田) | 米長 | 二上 | 内藤 | 原田▼ | 丸田 | 加藤一◎ | 有吉 | 佐藤大 | 11. 大内▼12. 灘 | 関根茂 塚田正 | |||||||
33 | 1974 | 中原誠 | ●○○●○●○ | 大山康晴 | 28 | 加藤一 | 大山◎ | 米長 | 二上 | 内藤 | 丸田▼ | 有吉 | 佐藤大▼ | 灘▼ | 関根茂 | 11. 塚田正張出. (升田) | 板谷進 大内 | |||||||
34 | 1975 | 中原誠 | 大内延介 | 29 | 大山 | 内藤▼ | 二上 | 関根茂▼ | 米長 | 有吉 | 塚田正▼ | 加藤一 | 板谷進 | 大内◎ | 升田 | 桐山 熊谷 | ||||||||
35 | 1976 | 中原誠永 | ○●●○○●○ | 米長邦雄 | 30 | 大内▼ | 大山 | 升田 | 米長◎ | 板谷進 | 二上 | 有吉 | 加藤一 | 桐山 | 熊谷▼ | 勝浦 森雞 |
期 | 年度 | 名人戦七番勝負 | 順位戦A級 | A級 昇級者 | |||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名人 | 勝敗 | 挑戦者 | 1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 | 11位- | ||||||||||
- | 1977 | 主催者移行問題により次期名人戦は1978年3月から実施(第36期順位戦を1977年1月-1978年2月の期間で実施) | |||||||||||||||||||||
36 | 1978 | 中原誠 |
|
森雞二 | 米長 | 大山 | 有吉▼ | 二上 | (升田) | 板谷進 | 加藤一 | 桐山 | 勝浦 | 森雞◎ | 大内 花村 | ||||||||
37 | 1979 | 中原誠 | ●●○○○○- | 米長邦雄 | 森雞○ | 勝浦 | 米長◎ | 大山○ | 二上○ | 加藤一 | 桐山 | 板谷進 | 大内▼ | 花村▼ | (升田) ▽ | 内藤 石田和 | |||||||
38 | 1980 | 中原誠 | ○●持○○○-- | 米長邦雄 | 米長◎ | 森雞▼ | 大山 | 二上▼ | 加藤一 | 桐山 | 板谷進 | 勝浦 | 内藤 | 石田和 | 木村徳 森安秀 | ||||||||
39 | 1981 | 中原誠 | ○○○●○-- | 桐山清澄 | 米長 | 大山 | 加藤一 | 桐山◎ | 板谷進▼ | 勝浦 | 内藤 | 石田和 | 木村徳▼ | 森安秀 | 大内 二上 | ||||||||
40 | 1982 | 中原誠 | 加藤一二三 | 桐山 | 米長 | 勝浦▼ | 大山 | 加藤一◎ | 内藤 | 石田和▼ | 森安秀 | 大内 | 二上 | 森雞 谷川 | |||||||||
41 | 1983 | 加藤一二三 | ●●●○○●- | 谷川浩司 | 中原○ | 森安秀 | 桐山 | 米長 | 大山 | 内藤 | 大内▼ | 二上▼ | 森雞 | 谷川◎ | 青野 淡路 | ||||||||
42 | 1984 | 谷川浩司 | ○○○●○-- | 森安秀光 | 加藤一 | 中原 | 桐山 | 米長 | 大山 | 内藤▼ | 森雞 | 森安秀◎ | 青野 | 淡路▼ | 勝浦 田中寅 | ||||||||
43 | 1985 | 谷川浩司 | ●●●○○●- | 中原誠 | 森安秀 | 加藤一 | (大山) | 森雞 | 中原◎ | 桐山 | 米長 | 青野 | 勝浦 | 田中寅▼ | 有吉 二上 | ||||||||
44 | 1986 | 中原誠 | ○○●○○-- | 大山康晴 | 谷川 | 森安秀▼ | 森雞 | 米長○ | 勝浦▼ | 桐山 | 加藤一○ | 青野▼ | 有吉 | 二上 | 大山◎ | 南 小林健 | |||||||
45 | 1987 | 中原誠 | ●●○○○○- | 米長邦雄 | 大山 | 米長◎ | 加藤一 | 谷川○ | 森雞 | 桐山○ | 有吉 | 二上▼ | 南 | 小林健▼ | 内藤 青野 | ||||||||
46 | 1988 | 中原誠 | ○●●●○●- | 谷川浩司 | 米長 | 谷川◎ | 桐山 | 大山 | 森雞▼ | 南 | 加藤一 | 有吉▼ | 内藤 | 青野 | 塚田泰 真部 | ||||||||
47 | 1989 | 谷川浩司 | ○○○○--- | 米長邦雄 | 中原 | 米長◎ | 加藤一▼ | 桐山 | 南 | 青野 | 内藤 | 大山 | 塚田泰 | 真部▼ | 田中寅 高橋道 | ||||||||
48 | 1990 | 谷川浩司 | ●○●○●●- | 中原誠 | 米長 | 桐山▼ | 内藤 | 大山 | 中原◎ | 青野 | 塚田泰 | 南 | 田中寅▼ | 高橋道○ | 有吉 真部 | ||||||||
49 | 1991 | 中原誠 | ○○○●○-- | 米長邦雄 | 谷川 | 高橋道 | 米長◎ | 内藤 | 大山 | 青野▼ | 塚田泰 | 南 | 有吉 | 真部▼ | 小林健 石田和 | ||||||||
50 | 1992 | 中原誠 | ●●○●○○○ | 高橋道雄 | 米長 | 谷川○ | 塚田泰 | 南○ | 内藤▼ | 高橋道◎ | 大山○ | 有吉 | 小林健 | 石田和▼ | 田中寅 田丸 | ||||||||
51 | 1993 | 中原誠 | ●●●●--- | 米長邦雄 | 高橋道 | 谷川 | 南 | 大山▽ | 有吉 | 小林健 | 米長◎ | 塚田泰 | 田中寅 | 田丸▼ | 羽生 加藤一 | ||||||||
52 | 1994 | 米長邦雄 | ●●●○○●- | 羽生善治 | 中原 | 高橋道 | 南 | 谷川○ | 小林健▼ | 田中寅▼ | 有吉 | 塚田泰 | 羽生◎ | 加藤一 | 島 森下 | ||||||||
53 | 1995 | 羽生善治 | ○○●○○-- | 森下卓 | 米長 | 谷川 | 中原○ | 高橋道 | 有吉 | 塚田泰▼ | 加藤一 | 南▼ | 島 | 森下◎ | 森内 村山聖 | ||||||||
54 | 1996 | 羽生善治 | ○○○●○-- | 森内俊之 | 森下 | 中原 | 米長 | 谷川 | 高橋道▼ | 加藤一 | 島 | 有吉▼ | 森内◎ | 村山聖 | 佐藤康 森雞 | ||||||||
55 | 1997 | 羽生善治 | ●○●●○●- | 谷川浩司永 | 森内 | 森下 | 米長 | 谷川◎ | 島 | 中原 | 加藤一 | 村山聖▼ | 佐藤康 | 森雞▼ | 高橋道 井上慶 | ||||||||
56 | 1998 | 谷川浩司 | ○●○●○●● | 佐藤康光 | 羽生○ | 森内 | 森下 | 佐藤康◎ | 島 | 中原 | 加藤一 | 米長▼ | 高橋道▼ | 井上慶 | 丸山 村山聖 | ||||||||
57 | 1999 | 佐藤康光 | ○○●●●○○ | 谷川浩司 | 谷川◎ | 羽生 | 森内○ | 森下 | 中原 | 井上慶▼ | 島 | 加藤一 | 丸山 | (村山聖) ▽ | 郷田 田中寅 | ||||||||
58 | 2000 | 佐藤康光 | ●●○○○●● | 丸山忠久 | 谷川 | 森内 | 丸山◎ | 羽生 | 森下 | 島 | 加藤一 | 中原▼ | 郷田▼ | 田中寅 | 青野 先崎 | ||||||||
59 | 2001 | 丸山忠久 |
|
谷川浩司 | 佐藤康 | 森内 | 羽生 | 森下 | 谷川◎ | 加藤一 | 田中寅▼ | 島▼ | 青野 | 先崎 | 藤井猛 三浦 | ||||||||
60 | 2002 | 丸山忠久 | ●●●●--- | 森内俊之 | 谷川 | 佐藤康 | 羽生 | 森内◎ | 青野 | 森下 | 先崎▼ | 加藤一▼ | 藤井猛 | 三浦 | 島 郷田 | ||||||||
61 | 2003 | 森内俊之 |
|
羽生善治 | 丸山 | 佐藤康○ | 谷川 | 羽生◎ | 森下▼ | 藤井猛○ | 青野 | 三浦 | 島 | 郷田▼ | 久保 鈴木大 | ||||||||
62 | 2004 | 羽生善治 | ●●○●○●- | 森内俊之 | 森内 ◎全 | 佐藤康 | 藤井猛 | 谷川 | 丸山 | 青野▼ | 三浦 | 島▼ | 久保 | 鈴木大 | 深浦 高橋道 | ||||||||
63 | 2005 | 森内俊之 | ●○○○●●○ | 羽生善治 | 羽生◎ | 佐藤康 | 谷川 | 丸山 | 三浦 | 鈴木大 | 藤井猛 | 久保 | 深浦▼ | 高橋道▼ | 森下 郷田 | ||||||||
64 | 2006 | 森内俊之 | ○○●○●○- | 谷川浩司 | 羽生○ | 藤井猛 | 久保 | 佐藤康 | 谷川◎ | 丸山 | 三浦 | 鈴木大▼ | 森下▼ | 郷田 | 深浦 阿部隆 | ||||||||
65 | 2007 | 森内俊之永 | ●●○○○●○ | 郷田真隆 | 谷川 | 羽生 | 佐藤康 | 郷田◎ | 丸山 | 藤井猛 | 久保 | 三浦 | 深浦▼ | 阿部隆▼ | 木村一 行方 | ||||||||
66 | 2008 | 森内俊之 | ○●●●○●- | 羽生善治永 | 郷田 | 谷川 | 羽生◎ | 佐藤康 | 丸山 | 藤井猛 | 久保▼ | 三浦 | 木村一 | 行方▼ | 鈴木大 深浦 | ||||||||
67 | 2009 | 羽生善治 | ○●○●●○○ | 郷田真隆 | 森内 | 三浦 | 郷田◎ | 丸山 | 木村一 | 藤井猛 | 谷川 | 佐藤康 | 鈴木大▼ | 深浦▼ | 高橋道 井上慶 | ||||||||
68 | 2010 | 羽生善治 | ○○○○--- | 三浦弘行 | 郷田 | 佐藤康▼ | 森内 | 丸山 | 木村一 | 藤井猛 | 谷川 | 三浦◎ | 高橋道 | 井上慶▼ | 渡辺明 久保 | ||||||||
69 | 2011 | 羽生善治 | ●●●○○○● | 森内俊之 | 三浦 | 高橋道 | 森内◎ | 丸山 | 木村一▼ | 谷川 | 郷田 | 藤井猛▼ | 渡辺明 | 久保 | 佐藤康 屋敷 | ||||||||
70 | 2012 | 森内俊之 | ○●○●○○- | 羽生善治 | 羽生 ◎全 | 渡辺明 | 高橋道 | 郷田 | 三浦 | 丸山▼ | 谷川 | 久保▼ | 佐藤康 | 屋敷 | 橋本崇 深浦 | ||||||||
71 | 2013 | 森内俊之 | ○○●○○-- | 羽生善治 | 羽生◎ | 渡辺明 | 三浦 | 谷川 | 屋敷 | 郷田 | 佐藤康 | 高橋道▼ | 橋本崇▼ | 深浦 | 行方 久保 | ||||||||
72 | 2014 | 森内俊之 | ●●●●--- | 羽生善治 | 羽生◎ | 三浦 | 郷田 | 渡辺明 | 屋敷▼ | 佐藤康 | 深浦 | 谷川▼ | 行方 | 久保 | 広瀬 阿久津 | ||||||||
73 | 2015 | 羽生善治 | ○●○○○-- | 行方尚史 | 森内 | 行方◎ | 渡辺明○ | 佐藤康 | 深浦 | 三浦▼ | 久保○ | 郷田 | 広瀬○ | 阿久津▼ | 佐藤天 屋敷 | ||||||||
74 | 2016 | 羽生善治 | ○●●●●-- | 佐藤天彦 | 行方 | 渡辺明 | 久保▼ | 広瀬 | 深浦 | 郷田▼ | 森内 | 佐藤康 | 佐藤天◎ | 屋敷 | 稲葉 三浦 | ||||||||
75 | 2017 | 佐藤天彦 | ●○●○○○- | 稲葉陽 | 羽生 | 行方 | 渡辺明 | 佐藤康 | 屋敷 | 森内▼ | 広瀬 | 深浦 | 稲葉◎ | (三浦) [注 6] | 久保 豊島 | ||||||||
76 | 2018 | 佐藤天彦 | ●○●○○○- | 羽生善治 | 稲葉○ | 羽生◎ | 渡辺明▼ | 広瀬○ | 行方▼ | 屋敷▼ | 深浦 | 佐藤康○ | 久保○ | 豊島○ | 三浦 | 糸谷 阿久津 | |||||||
77 | 2019 | 佐藤天彦 |
|
豊島将之 | 羽生 | 稲葉 | 広瀬 | 佐藤康 | 久保 | 豊島◎ | 深浦▼ | 三浦 | 糸谷 | 阿久津▼ | 渡辺明 木村一 | ||||||||
78 | 2020 | 豊島将之 | ●○○●●●- | 渡辺明 | 佐藤天 | 羽生 | 広瀬 | 糸谷 | 佐藤康 | 久保▼ | 三浦 | 稲葉 | 渡辺明◎全 | 木村一▼ | 菅井 斎藤慎 | ||||||||
79 | 2021 | 渡辺明 | ●○○○○-- | 斎藤慎太郎 | 豊島 | 広瀬 | 佐藤康 | 佐藤天 | 羽生 | 糸谷 | 三浦▼ | 稲葉▼ | 菅井 | 斎藤慎◎ | 永瀬 山崎 | ||||||||
80 | 2022 | 渡辺明 | ○○●○○-- | 斎藤慎太郎 | 斎藤慎◎ | 豊島 | 広瀬 | 糸谷 | 菅井 | 佐藤康 | 佐藤天 | 羽生▼ | 永瀬 | 山崎▼ | 藤井聡 稲葉 | ||||||||
81 | 2023 | 渡辺明 | ●●○●●-- | 藤井聡太 | 斎藤慎 | 糸谷▼ | 佐藤天 | 豊島 | 広瀬○ | 永瀬 | 佐藤康▼ | 菅井 | 藤井聡◎ | 稲葉 | 佐々勇 中村太 | ||||||||
82 | 2024 | 藤井聡太 | ○○○●○-- | 豊島将之 | 渡辺明 | 広瀬▼ | 豊島◎ | 永瀬 | 斎藤慎▼ | 菅井 | 稲葉 | 佐藤天 | 佐々勇 | 中村太 | 千田 増田康 | ||||||||
83 | 2025 | 藤井聡太 | ------- | 豊島 | 永瀬 | 渡辺明 | 菅井 | 稲葉 | 佐藤天 | 佐々勇 | 中村太 | 千田 | 増田康 |
獲得 | 防衛 | 出場 | 挑戦 | A級在籍(名人在位含む) | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
休場除く | 休場含む | ||||||||||
最多 | 大山康晴 通算18期 |
大山康晴 通算12期 |
大山康晴 通算25期 |
|
大山康晴 通算43期 |
大山康晴 通算44期 | |||||
連続 | 大山康晴 13連覇 |
大山康晴 連続21期 |
羽生善治 連続3期 |
大山康晴 連続35期 |
大山康晴 連続44期 | ||||||
最速 (四段昇段後) |
第41期 谷川浩司 6年177日 |
第42期 谷川浩司 7年168日 |
第19期 加藤一二三 5年257日 |
第18期 加藤一二三 3年323日 | |||||||
最年少 | 第81期 藤井聡太 20歳317日 |
第82期 藤井聡太 21歳313日 |
第19期 加藤一二三 20歳104日[注 7] |
第18期 加藤一二三 18歳170日[注 8] | |||||||
最年長 | 第51期 米長邦雄 49歳345日[注 9] |
第30期 大山康晴 48歳94日[注 10] |
第44期 大山康晴 63歳28日[注 11] |
第51期 大山康晴 69歳90日[注 12] |
A級順位戦の記録は、順位戦、および将棋棋士の在籍クラス を参照。
|
棋士 | 名人在位 82期 | 七番勝負出場 82期 | A級在籍 82期 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
通算 | 連続 | 通算 | 連続 | 通算 | 連続 | |
大山康晴 | 18 | 13 | 25 | 21 | 44(43) | 44(35) |
中原誠 | 15 | 9 | 18 | 10 | 29 | 29 |
羽生善治 | 9 | 3 | 17 | 9 | 29 | 29 |
森内俊之 | 8 | 4 | 12 | 7 | 22 | 22 |
木村義雄 | 8(7) | 5(4) | 10(9) | 6(5) | 6 | 6 |
谷川浩司 | 5 | 2 | 11 | 3 | 32 | 32 |
渡辺明* | 3 | 3 | 4 | 4 | 13* | 8 |
佐藤天彦* | 3 | 3 | 4 | 4 | 9* | 9* |
升田幸三 | 2 | 2 | 10 | 3 | 31(23) | 31(7) |
塚田正夫 | 2 | 2 | 3 | 3 | 28(25) | 26(15) |
佐藤康光 | 2 | 2 | 3 | 3 | 26 | 14 |
丸山忠久 | 2 | 2 | 3 | 3 | 14 | 14 |
藤井聡太* | 2* | 2* | 2* | 2* | 2* | 2* |
米長邦雄 | 1 | 1 | 8 | 2 | 26 | 26 |
加藤一二三 | 1 | 1 | 4 | 2 | 36 | 19 |
豊島将之* | 1 | 1 | 3* | 2 | 7* | 7* |
二上達也 | 0 | 0 | 3 | 1 | 27 | 23 |
斎藤慎太郎 | 0 | 0 | 2 | 2 | 4 | 4 |
郷田真隆 | 0 | 0 | 2 | 1 | 13 | 10 |
丸田祐三 | 0 | 0 | 1 | 1 | 24 | 17 |
有吉道夫 | 0 | 0 | 1 | 1 | 21 | 12 |
三浦弘行 | 0 | 0 | 1 | 1 | 19(18)[注 13] | 14 |
灘蓮照 | 0 | 0 | 1 | 1 | 17 | 11 |
花村元司 | 0 | 0 | 1 | 1 | 16 | 7 |
桐山清澄 | 0 | 0 | 1 | 1 | 14 | 14 |
高橋道雄 | 0 | 0 | 1 | 1 | 13 | 7 |
森雞二 | 0 | 0 | 1 | 1 | 10 | 6 |
森下卓 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9 | 9 |
高島一岐代 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9 | 4 |
稲葉陽* | 0 | 0 | 1 | 1 | 7* | 5 |
森安秀光 | 0 | 0 | 1 | 1 | 6 | 6 |
山田道美 | 0 | 0 | 1 | 1 | 6 | 6 |
行方尚史 | 0 | 0 | 1 | 1 | 6 | 5 |
大内延介 | 0 | 0 | 1 | 1 | 6 | 2 |
土居市太郎 | 0 | 0 | 1 | 1 | 3 | 3 |
神田辰之助 | 0 | 0 | 1 | 1 | - | - |
内藤國雄 | 0 | 0 | 0 | 0 | 17 | 5 |
大野源一 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 8 |
久保利明 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | 5 |
青野照市 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 4 |
藤井猛 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 10 |
広瀬章人 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 10 |
深浦康市 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 7 |
1978年のNHK特集で第36期名人戦を取材したドキュメンタリーがテレビ放送され[16]、大きな反響を受けた[17]。また、1884年に放送が開始されたNHKでのBS放送では、「将棋名人戦」として1988年の第46期名人戦の第1局の対局開始からテレビ中継が始まった[18]。当時のBS放送では独自番組が少なく棋戦のテレビ中継は貴重なコンテンツとなった[17]。名人戦七番勝負(竜王戦七番勝負も同様)の模様は、2015年までNHK BSプレミアム(2010年まではNHK BS2)で「将棋名人戦」という番組名で放送されていた。
各局の1日目は17:00-18:00に、2日目は16:00-18:00に生放送されることが多く、勝敗の結果はダイジェストとして2日目の夜遅く(翌日の0時台-1時台)に10分程度放送された。
司会をNHKの男性アナウンサーが、解説を棋士が、女流棋士が解説の聞き手を務めるという3人体制が長く続いたが、2011年は女流棋士が出演せず、第1局で磯辺真季(将棋普及指導員[注 14])が聞き手を務めた後、第2局からは男性アナウンサーが聞き手を兼ねる2人体制となった[注 15]。
2010年度からは、番組の始めと終わりに初めてテーマ音楽が流されるようになった。ドラムセット付きのオーケストラに模したコンピュータミュージックであり、「将棋竜王戦」や囲碁のタイトル戦番組でも同じ曲が使用されていた。
また、この名人戦の挑戦権をかけた「A級順位戦」最終戦の実況中継も「将棋界の一番長い日」と題して、2012年までBSプレミアムで時間を区切っての長時間実況中継が行われていたが、2013年は放送チャンネルを囲碁・将棋チャンネルとBSスカパー!、スカチャンに移譲(囲碁・将棋チャンネル提供)して行われた。[19]
ABEMA(2017年 - )による七番勝負の完全生中継[20]が行われている。また朝日新聞囲碁将棋TVでは七番勝負の完全生中継[20]が行われている。完全以前はニコニコ生放送(2012年 - 2019年)でも中継が行われていた。
当初の主催は東京日日新聞および大阪毎日新聞で、のちにこの二社が合併して毎日新聞社主催となった。第9期(1950年)から第35期(1976年)は朝日新聞社の主催に変わった。第36期(1977年)から再び毎日新聞社の主催となり、第66期(2008年)より毎日新聞社[注 1]・朝日新聞社[注 1]の共催となる。
順位戦#順位戦の歴史も参照。
この年、名人戦の契約が毎日新聞社から朝日新聞社に移っている(正確には、1949年の順位戦の中断中に、毎日新聞社と日本将棋連盟との交渉が決裂し、これ以降の順位戦、および翌1950年に開催される名人戦の主催者が朝日新聞社になった[22])。
名人戦を失った毎日新聞社は王将戦を創設し、再び名人戦の主催社となった後も、王将戦の主催社(スポーツニッポン新聞社と共催)として現在に至っている。
この節の加筆が望まれています。 |
この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。大幅な値上げの背景には、囲碁の序列1位の棋戦である棋聖戦の契約金が1億6000万円であったため、囲碁に対抗する意味でそれ以上の金額での契約を成立させたいという思惑があったといわれる。
朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。
その後、連盟から8月14日に正式な申し入れがされたことで毎日新聞社が交渉に参加[23]、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定、連盟と毎日新聞との間で仮契約が行なわれた[24]。
1976年9月13日 日本将棋連盟(塚田正夫会長、二上達也専務渉外)の発表内容
「第三十六期名人戦を本日、毎日新聞社と仮契約した。契約金は二億円。開始までに休場、引退者を除いた名人および挑戦者による特別棋戦を用意した。三十六期名人戦の期間は(編注:昭和)五十二年1月から五十三年二月末日までであり、七番勝負は同年三月から行われる」
仮契約直後に行われた臨時の棋士総会で、毎日への移籍の賛否を問う投票が行われ、56票対54票の2票差という僅差でありながらも移籍が認められることとなった[23]。反対票が当初の予想を大きく上回ったが、これは、この投票の前に順位戦(この年は中止されている)に代わる臨時の昇級棋戦を要求した若手陣が、臨時棋戦の実施を否決されてしまったために反発したためとされている。
この一連の契約問題解決に日数を要したこともあり、上記発表にあるように、次期名人戦の第36期七番勝負は本来の日程(1977年4月開始)から1年弱遅れの1978年3月開始となった。また、順位戦は「第30期」の終了(1976年3月)から9か月間の余白期間を経て、「第36期」が1年余りの日程(1977年1月から1978年2月まで)での実施となり、あわせて順位戦の回次が名人戦と揃えられた。結果として、名人戦は1977年中に実施されないことになった。
第36期名人戦の実施まで日数が空くことから、毎日新聞社は「名人戦復帰記念特別棋戦」の実施を決定し、同年10月5日から引退・休場者を除いた歴代名人と挑戦者の11人によるトーナメント戦により争われることになった[23]。
一方、名人戦を失った朝日新聞社(学芸部)は「近代将棋 1976年12月号」誌上において「今後はアマチュア症の発展と進行に力を注ぐ」「いずれアマ将棋の全国大会を行う計画」とし[25]、同社はその後、1977年から「朝日アマ名人戦」を、1982年から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は朝日オープン将棋選手権、2006年で終了)を主催している。
なお1991年11月ごろ、日本将棋連盟の理事会で、名人戦を朝日新聞社に移そうという動きが表面化していたという記録があるが、この時点では実現しなかった[26]。1991年8月、日本将棋連盟渉外担当理事の大内延介が、朝日新聞社に名人戦主催に復帰する考えがあるか打診した[27]。日本将棋連盟の8人の理事のうちでも、朝日へ移す案に賛成派は大内、二上達也、田丸昇の3名のみで、のこり5名は反対だった[28]。その後、91年9月、92年3月、92年5月の棋士会でも、反対意見が多く、廃案となった[29]。
2006年3月、日本将棋連盟理事会は第66期(2008年)以降の主催を朝日新聞社に移管するとの方針を示し、この時点での主催社である毎日新聞社に対し、契約を更新しない旨の通知書を送付した。事前に何の相談もなく下された理事会の決定に、長年名人戦を通じ棋界を盛り立ててきた毎日新聞社は激怒し、大きな問題となった。
問題が大きくなった要因のひとつとして、毎日新聞社との直接交渉を担当した中原誠専務理事(副会長)が「名人戦は朝日に移るが、王将戦を盛り上げて欲しい」との不手際な発言があった。その後、米長邦雄会長が中原交渉担当の失言の可能性を認めつつも、双方誤解があったという苦しい釈明をしている。また米長会長は、東京中日スポーツ紙上の連載コラムにおいて「毎日新聞社に通知書を送ったのは、現状の契約条件を変更したい場合にも通知書を送る必要があったためであり、朝日新聞社への移管ありきの話というわけではない」と説明した。また米長は同コラムで「日本将棋連盟の予算は現在毎年約1億円ほどの赤字が出ており、財務体質の改善のためにも契約の見直しが必要だった」とも述べているが、毎日新聞社側はこの主張に対し「将棋連盟は長年、十分な契約料を貰いながら財務改善の努力を一切しておらず、金に困ったから信義を捨て、伝統を売るのか」と社説で批判した。
2006年度の名人戦の契約額は3億3400万円であったのに対し、朝日は3億5100万円、ほかに臨時棋戦4000万円、普及協力金1億5000万円での5年契約を提示していたという。
通知の撤回を求める毎日に対し、連盟は一時、毎日・朝日の共催を提案するなどの妥協案を提示したが、5月になって補充説明書を毎日に送り、毎日はこれを通知の撤回と見なして契約見直しの協議に応じると発表。その後に行われた棋士総会において (1)毎日が単独での契約を望む場合、毎日の提示した契約条件を受諾するかどうかを棋士の表決で決定 (2)毎日が朝日との共催を望む場合、交渉は理事会に一任する――との案が採決された。
7月10日、毎日が単独での主催による7年契約(1年目は3億3500万円、2年目以降は毎年協議、その他将棋振興金として年3000万円)を提示。棋戦の契約は通常3年契約で行われており、異例の長期の提案となった。羽生善治(当時王位・王座・王将)が対局終了後のインタビューで、森内俊之(当時名人・棋王)が名人就位式の席上で、渡辺明(当時竜王)が自身のブログで、それぞれ毎日案を支持することを表明した。
8月1日に臨時の棋士総会が開催され、毎日案の採決が行われた。結果は賛成90票、反対101票となり、毎日案を受諾しないことが決定したが、賛否の差が少数であったため、朝日は毎日との共催を提案した。9月19日、毎日は共催についての協議を開始することを受け入れ、11月1日に共催に関して基本事項で合意したと発表した。
12月27日、毎日・朝日両新聞社と日本将棋連盟の間で、契約金などについて合意された。名人戦・順位戦は5年契約となり、契約金は両社合わせて年額3億6000万円、別枠の将棋普及協力金が年額1億1200万円となる。観戦記については双方それぞれの独自の取材を行い、名人戦については双方から1名副立会人を出すこととなった。
名人戦・順位戦を共催する2社の表記順は、偶数の期が「朝日新聞社、毎日新聞社」の順、奇数の期が「毎日新聞社、朝日新聞社」の順となる[21]。
また、朝日新聞社が主催している朝日オープン選手権は朝日新聞社の新棋戦扱いとなり(契約金は年8000万円)、「朝日杯将棋オープン戦」に改められた。毎日新聞社などが主催する王将戦(契約金は年7800万円)は継続して開催される。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.