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日本の小説家 (1886-1965) ウィキペディアから
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年〈明治19年〉7月24日 - 1965年〈昭和40年〉7月30日)は、日本の小説家。明治末期から昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
谷崎 潤一郎 (たにざき じゅんいちろう) | |
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誕生 |
1886年7月24日 日本・東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地 (現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号) |
死没 |
1965年7月30日(79歳没) 日本・神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜字蓬ヶ平 |
墓地 |
日本・京都市左京区鹿ヶ谷法然院 東京都豊島区染井墓地慈眼寺に分骨 |
職業 | 小説家、劇作家、随筆家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 |
旧制一高英法科卒業 東京帝国大学国文科中退 |
活動期間 | 1910年 - 1965年 |
ジャンル | 小説、戯曲、随筆、翻訳、和歌 |
主題 |
女体美の探究、マゾヒズム 江戸の絢爛、悪魔的心理 デカダンス、フェティシズム モダニズム、異国趣味 美とエロスの曼荼羅 日本の伝統美、母恋い 風俗絵巻、老人の性 |
文学活動 | 耽美派、悪魔主義、古典回帰 |
代表作 |
『刺青』(1910年) 『痴人の愛』(1924年-1925年) 『卍(まんじ)』(1928年-1930年) 『蓼喰ふ虫』(1928年-1929年) 『春琴抄』(1933年) 『陰翳禮讚』(随筆、1933年-1934年) 『細雪』(1944年-1948年) 『少将滋幹の母』(1949年-1950年) 『鍵』(1956年) 『瘋癲老人日記』(1961年-1962年) |
主な受賞歴 |
国民文芸賞(1923年) 毎日出版文化賞(1947年) 朝日文化賞(1948年度) 文化勲章(1949年) 毎日芸術大賞(1962年度) |
デビュー作 |
『誕生』(戯曲、1910年) 『刺青』(1910年) |
配偶者 |
石川千代子(1915年-1930年/1982年死去) 古川丁未子(1931年-1934年/1969年死去) 森田松子(1935年- /1991年死去) |
子供 |
鮎子(長女。1903-1991) 恵美子(次女。森田松子の長女。1929-2013) |
親族 |
倉五郎(父。1854-1919)、関(母。1864-1917) 精二(1890-1971)、得三(1893-1988)、終平(弟。1908-1990) 園(1896-1911)、伊勢(1899-1994)、末(または須恵。妹。1902-1984) 久右衛門(祖父。1831-1888) 百百子、竹田 |
ウィキポータル 文学 |
初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎」[注 1] と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。
谷崎倉五郎、関の次男として東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。長男・熊吉は生後3日で亡くなったため、潤一郎の出生届は、「長男」として出された[1][2]。次男として誕生した弟の谷崎精二は、のちに作家、英文学者(早稲田大学教授)となる[1]。
母方の祖父・谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家[3]から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立第一中学校(現・日比谷高等学校)に入学することができた。散文や漢詩をよくし、一年生のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせた[1]。成績優秀な潤一郎は「神童」と言われるほどだった[1]。
1902年(明治35年)9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし、第二学年から第三学年への編入試験(飛級)を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた[4]。卒業後、第一高等学校に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した[1]。
1908年(明治41年)、一高英法科卒業後に東京帝国大学文科大学国文科に進むが、後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1910年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風で文壇の寵児となった[5]。
大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた[5]。
関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく[6][7]。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する[7]。
太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞、朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人、三女の「雪子」は松子の妹・重子がモデルとなっている[8]。
同戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『鍵』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。 1950年代には『細雪』、『蓼喰ふ虫』が翻訳され、アメリカでも出版[9]。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年と1960年から1964年まで7回にわたって選ばれ[10][11]、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた[11][12]。最晩年の1964年(昭和39年)6月には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された[13]。
明治・大正期から近代日本文学の主流は私小説であり、作家の自我や私生活を描き、人生をいかに生きるべきかを追求する有様を読者に提供することが主な目的といわれてきた。その雰囲気は陰鬱で、陰鬱であることこそが芸術であるという考えかたが一般的だった。そのため、谷崎の作品はしばしば「思想がない」「俗世間との対決がない」「格闘していない」として低い評価が与えられてきた[18][19]。
しかし、そういった類の私小説中心の文学観から離れたとき、谷崎の小説世界の豊潤さや、広い視野から見た思想(パンセ)、18世紀のフランス文学のような苛酷な人間認識と抽象主義を見せた作品(『卍』など)に高い評価が与えられてもいる[18][20]。小谷野敦によると、私小説的風土からの断絶を指摘されてきた谷崎は、実は自身の女性遍歴や身辺にひろく材をとりながら、あれらの豪奢な物語群を書きついでいたとしている[21]。
三島由紀夫は、野暮なことを嫌った都会人の谷崎は自身の格闘を見せることをせず、「なるたけ負けたような顔をして、そして非常に自己韜晦の成功した人」だと論じている[18]。しかしながら、三島はその谷崎の小説家としての天才を賞揚しつつも、その作品群が激動の時代を生きながらも、あまりに社会批評的なものを一切含まずに無縁であることが逆に谷崎の本然の有り方でないともし、「谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然」とも述べて、岸田国士が戦時中に自ら戦地に踏み込み、時代を受け止めたのとは対極の意味合いで、「結局別の形で自分の文学を歪められた」作家であると論じている[22]。
文章的には、谷崎が『文章読本』でみずから主張するような「含蓄」のある文体で、いわゆる日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。情緒的で豊潤でありながら高い論理性を誇るその文体は、日本文学的情趣と西洋文学的小説作法の交合的なものであり、魅力的な日本語の文章が至りうるひとつの極致であるともいわれる。谷崎の文章は森鷗外や志賀直哉に代表される簡勁な表現とは対極的ではあるが、鴎外と並んで小説文体の理想のひとつとされることも多い。三島由紀夫などは谷崎と鴎外の双方を尊敬し,影響を受けている[23]。
強く美しく(「刺青」の地の文においてこの二つはほぼ等価であると記されている)、そして抗いがたく魅力的な女性と、それに対するマゾヒスティックな主人公の思慕がしばしば作品に登場することから、谷崎と彼の作品は女性礼讃やフェミニズムの観点から論じられることがあるが、これらは谷崎の性愛と肉体に対する興味から発するものだと見るのが一般的である。『家畜人ヤプー』の作者(異説あり)天野哲夫は、谷崎文学はマゾヒズム抜きでは語り得ないと指摘。結婚前の松子夫人にあてた書簡などにもご主人様と下僕の関係として扱って欲しいなどの特異な文面が多く見られる。谷崎の諸作品にはしばしば女性の足に対するフェティシズム(足フェチ)が表れている。
関東大震災以前の谷崎の作風は、モダンかつ大衆的であることが知られているが、谷崎自身はそのことを後悔していたらしく、震災以前の作品は「自分の作品として認めたくないものが多い」と言った。そのために震災以前と以後の作品を文学史でも明確に分け、以前の作品を以後の作品に比して低い評価をすることが通例となっていた。しかし、近年、物語小説の復活の機運と、千葉俊二、細江光らにより震災以前の作品への再評価がなされている。また、後期にあっても『猫と庄造と二人のをんな』『台所太平記』のように大正期的な雰囲気をうけついだ作品を谷崎自身が書きついでいることも鑑み、作者自身の低評価については今すこし判断を保留すべき部分がある。
谷崎の特色が顕著な短編小説群は、代表作『刺青』(1910年)における耽美主義、マゾヒズム、江戸文明への憧れと近代化への拒絶、『幇間』(1911年)の自虐趣味、『お艶殺し』(1915年)の江戸趣味と歌舞伎のような豪奢な残虐性、『神童』(1916年)の幼年期に対する憧憬と堕落の愉悦、『人魚の嘆き』(1917年)のロマンティズムや幻想趣味、『異端者の悲しみ』(1917年)のエロティシズム、『母を恋ふる記』(1919年)の母性への憧れと女性崇拝、『鮫人』(1920年)の伝奇趣味などをあげることができる。
『呪われた戯曲』(1919年)や『途上』(1920年)など、ミステリーやサスペンスの先駆的な作品も残している。探偵小説の評論家でもあり、『金色の死』(1916年)で谷崎に着目するようになったという江戸川乱歩は小論『日本の誇り得る探偵小説』(1925年)において自身の名前の元ネタであり、最初の推理小説『モルグ街の殺人』を書いたことでも知られるエドガー・アラン・ポーを引き合いに出して、谷崎を日本のポーと評し、彼の作品の探偵小説としての側面を高く評価している。谷崎自身が自分を探偵小説家と自認せず、またその作品群を探偵小説とみなしてはいなかったとしても、乱歩はポーも同じであったとし、谷崎が日本における海外に誇れる探偵小説家の一人だと論じる[24]。特に乱歩はそのトリック性において『途上』を高く評価しており、「プロバビリティーの犯罪」を扱った世界初のミステリーだとし[25]、後にこれに触発されて短編『赤い部屋』(1925年)を書き、『D坂の殺人事件』(1925年)では明智小五郎が完全犯罪の例として『途上』に言及してその著者である谷崎を称賛する[26]。また、日本における探偵小説の黎明期についても、一般に西洋の探偵小説からの影響に重点が置かれてしまうが、佐藤春夫や芥川龍之介なども含め、谷崎ら大正文壇の探偵小説的傾向の影響も大きかったと論じている[27]。
また、1920年に発表された『藝術一家言』ではその理知的な芸術観や物語論を展開しており、後の芥川龍之介との文学論争を考える上で興味深い。良きライバルの芥川が1927年(昭和2年)に発言した「(小説において)話の筋と云ふものが芸術的なものかどうかと云ふ」疑問に対し激しく『饒舌録』で反論の応酬をしたことは文学史的に有名な論争である(芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』を参照)[6]。
三島由紀夫は、その芥川の自殺が、その後の谷崎文学に与えた「逆作用」の影響を指摘し、芥川の芸術家の敗北の死を目の当たりにした谷崎が、「持ち前のマゾヒストの自信を以て、『俺ならもつとずつとずつとうまく敗北して、さうして永生きしてやる』と呟いたにちがひない」として谷崎の文学変遷を論じ、谷崎がニヒリズムに陥ることなく、俗世への怒りや無力感にとらわれずに身を処して「おのれを救つた作家」だとしている[19]。
関西移住後の代表作は長編が中心となり、ここで谷崎の物語作家としての質的な転換が起こる。『痴人の愛』(1924年)は長編における豊かな風俗性と物語構造の堅牢さがはじめて実を結んだ作品であり、特に風俗描写の問題は大正期諸作の総まとめとして、また戦中戦後の作品への手法論的な影響として大きな意味を持つ。傑作として名高い『卍』(1928年-1930年)、『蓼喰ふ虫』(1928年-1929年)は、いわゆる「夫人譲渡事件」などに題材を取った長編というべき作品だが、現代風俗を扱いながら男女愛欲のさまを丁寧に描き、性愛の底知れぬ深遠を見せて、しかも、それが一皮めくれば文明や社会とつながっているという状況を描いた傑作である。手法論としてもすでに吉田健一らが指摘するとおり、昭和初期に勃興したモダニズム文学の影響を受けている。また、この両作から谷崎の文体は目に見えて優れたものとなり、日本の土着的なものが残る関西文化への牽引が見られるものとなっている[6]。
『乱菊物語』(1930年)、『吉野葛』、『盲目物語』、『武州公秘話』(すべて1931年)はいずれも当時の谷崎が関心を持っていた歴史物である。舞台や時代を変えつつも、大正期以来の耽美主義、マゾヒズム、残虐性、ロマン趣味、幻想趣味、エロティシズム、女性崇拝などが受継がれている点が注目される。
こうした一連の作品からの成果が『蘆刈』(1932年)や『春琴抄』(1933年)の女人像の造型だといえるだろう[7]。特に正宗白鳥を脱帽させた中編『春琴抄』は谷崎的な主題をすべて含みつつ、かなり実験的な文体を用いることで作者のいわゆる「含蓄」を内に含んだ傑作となっており、その代表作と呼ぶにふさわしい。『陰翳礼讃』(1933年-1934年)、『文章読本』(1935年)と二つの批評により、みずからの美意識を遺憾なく開陳するとともに当時の文明を高度に批評した。この時期のしめくくりとなるのは『猫と庄造と二人のをんな』(1936年)である。あたかも大正期の谷崎がよみがえり、『卍』、『蓼喰ふ虫』の文体によって書いたかのような佳品である。
戦中・戦後の谷崎の活動は『細雪』と『源氏物語』現代語訳の執筆に代表される。『細雪』は1942年(昭和17年)ごろより筆を起こし、翌年に雑誌『中央公論』に掲載されたが、奢侈な場面が多いとして1回で掲載禁止となり、以降発表を断念。この年に私家版上巻のみを出版して、戦中何度かの断続を経ながら書き継いだ。1947年(昭和22年)ごろには下巻の相当な部分まで完成し、1948年(昭和23年)に全編の出版が終了。これによって谷崎の名声は揺るぎないものとして確立される。一方の『源氏物語』は、1939年(昭和14年)から『潤一郎訳源氏物語』として発表されるが、中宮の密通に関わる部分は削除された。戦後手を入れ1951年(昭和26年)に『潤一郎新訳源氏物語』を、文体を刷新した『潤一郎新々訳源氏物語』が1964年(昭和39年)に刊行し、決定版となる。
戦後の代表作としては、ほかに母恋いと近親相姦的愛欲の系譜である『少将滋幹の母』(1949年)、『夢の浮橋』(1959年)がある。『鍵』(1956年)は抑圧される性欲と男女の三角関係をテーマにし、『卍』、『蓼喰ふ虫』の系譜の総決算といえる。さらに、『瘋癲老人日記』(1961年-1962年)の迫りくる死の恐怖と愉悦が被虐的な愛欲に重ねあわされた境地もきわめて優れたもので、その文体論的な実験は谷崎の戦後における到達点の一つを示している[13]。
『現代語訳 源氏物語』、『作品集』・『全集』[注 2] は、中央公論社(現:中央公論新社)で文庫判も含め様々な版が刊行された。
谷崎は「疎開日記」昭和19年3月4日の項に、戦勝の噂に対して「所謂戦果なるものはデマに過ぎざるべし、畢竟これは斯くあれかしと願ふ都民の希望が恰も事実なるが如く想像され流言となりしものならん」という冷静な感想を書きつけている。
将来の刊行を可能にするべく戦争遂行者としての国家の体制を肯う言説を叙述の表層にちりばめつつ、その状況を相対化する寓意的なイロニーを織り交ぜていく手法は、『細雪』中巻で多く頁を割かれる。悦子が「青桐」の名前をペータアに何度教えようとしても「アヲギリギリ」としか言わず、そのことに悦子が腹を立てる場面が中巻十章にあらわれている。
悦子は又癇を立てて、「ギリギリと違います。ギリ一遍です」と云っている。それが「義理一遍です」と聞える可笑しさに、雪子は怺えきれなくなって吹き出してしまった。—『細雪』中巻 十
そこには日独両国の関係を、肯定と揶揄の両価的な眼差しによって捉えようとする方向性が滲出している。当時ヨーロッパでドイツが戦勝を重ねていた状況から、陸軍の上層部が勝ち馬に乗ろうとして内閣を動かした結果が三国同盟の成立にほかならなかった。しかし、それは政策上の「義理一遍」のものでしかなかった側面が強い。ドイツとの協力関係は昭和19年の時点では有名無実のものとなっていたが、それが日本人とドイツ人の家庭の交流の様相に、噛み合わない一面を織り交ぜるイロニーとして表現されていると考えるのは、あながち見当違いではないであろう。
こうした戦時下におけるイロニーのあり方は、保田與重郎や太宰治といった、 本来イロニーを本領とすると見なされる文学者たちのそれと比べても、むしろより手の込んだ辛辣さを帯びている。保田や太宰が示した時局への半面以上の歩み寄りと比べれば、『細雪』に見られるイロニーの表出は、明確な対他性を帯びる形でおこなわれている。それは公的な刊行を封じられた形で書き進められることによって、かえって外部世界への批評性が高められた結果であった[28]。
谷崎は自身の作品に特定の政治的意図を込めることはなかったが、にも拘らず、いくつかの作品は当局から発禁処分を受けており『細雪』がその代表である。後に谷崎は、「文筆家の自由な創作活動が或る権威によつて強制的に封ぜられ、これに対して一言半句の抗議が出来ないばかりか、これを是認はしないまでも、深くあやしみもしないと云ふ一般の風潮が強く私を圧迫した[29][30]。」と述べている。
当局の弾圧に抗してまで自らが思うものを書き、世に問おうとした姿勢もさることながら、そもそも太平洋戦争という未曾有の事態の中で、それとは何の関わりもない、優雅にして緩慢な、いわば絵巻物のような小説を構想したこと自体が既に谷崎の特異性を象徴している。
三島由紀夫の評によれば、谷崎は「大きな政治的状況を、エロティックな、苛酷な、望ましい寓話に変へてしまふ」のであり、「俗世間をも、政治をも、いやこの世界全体をも、刺青を施した女の背中以上のものとは見なかつた[31]」のであり、谷崎が戦時下に於てさえこの思想を貫いた事が、意図せずとも、結果として逆説的に政治的態度の表明たり得たのである。
三島にとって、谷崎の、特に戦前の諸作品は、「今日よりもむかしの風俗の中に置くはうが、はるかに秘密めいてゐて、言葉の本当の意味で快楽的なので」あり、子供たちの間でサディズムとマゾヒズムが織り成す「少年」(1911年)や、男性が女性に扮装して密かに夜の街を彷徨する「秘密」(1911年)、女性の同性愛とその破滅を描いた「卍」(1928年)等に見られる性的倒錯の数々は、「かつては選ばれた者の快楽であり、そのやうな題材を扱ふことが一種の世紀末趣味を満足させ、知識階級の悪徳の表現たりえた」が、「今日の日本では、それらの題材の『新しさ』と別に、快楽も知的放蕩も悪徳の観念性も喪はれ、あらゆる性的変質はあからさまな人間性の具現にすぎなくなり、その風趣は消え、そのロマンティシズムは消失したのである[32]」という。
20歳で迎えた敗戦を諸価値観の最大の転機と見なし、戦後の社会ではあらゆる背徳や放縦が自明のものになったという事実を前提としながらも、敢えて戦前の「禁忌」に固執する道を選び、その侵犯を目指すことである種のロマンティシズムを打ち立てようと目論んだ三島にとってすれば、谷崎が描き出した世界に更なる「新しさ」を見出すのは困難であった。
知能と感覚の全てをただひたすら官能へと費やすことで谷崎が描き出した「甘美にして芳烈」(異端者の悲しみ[33])、絢爛にして優雅な作品世界と、当局からの度重なる弾圧や世の善良を装った風潮に対し、戦前から戦中、戦後を通じてあくまで自己を貫いて見せるという尊大にして豪奢な反逆の精神は、今もってなお、谷崎をおいて他に類を見ない。谷崎文学は現代においてこそユニークであり、新しいのである。
1915年(大正4年)、谷崎は石川千代子と結婚したが、1921年(大正10年)頃谷崎は千代子の妹・せい子(『痴人の愛』のモデル。芸名葉山三千子)に惹かれ、千代子夫人とは不仲となった。谷崎の友人・佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せ、三角関係に陥り、谷崎が千代子を佐藤に譲ることになったが撤回するという「小田原事件」が起きた(佐藤の代表作の一つ『秋刀魚の歌』は千代子に寄せる心情を歌ったもの。また、佐藤は『この三つのもの』、谷崎は『神と人との間』を書いている)[6][34]。
結局、1926年(大正15年)に佐藤と谷崎は和解、1930年(昭和5年)、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。このとき、3人連名の「……我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、……素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候……」との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として世の話題になった[6][34]。
翌1931年(昭和6年)、谷崎は、古川丁未子と結婚するが、1934年(昭和9年)10月に正式離婚。翌年1月、同棲を続けていた森田松子と結婚式を挙げた[7]。
松子が妊娠した際、「藝術的雰囲気を守りたい」という谷崎の意向で中絶したと、谷崎自身が『雪後庵夜話』に書いたためこの件が有名となり、それゆえに谷崎を批判する者も多い。しかし戦時下に書かれた『初昔』によれば、松子は3人の医師から健康上中絶を勧められたというのが真相で、そうでなければ松子の3人の姉妹や医師をどう説得したのか説明がつかない[21]。
谷崎は「大谷崎」と呼ばれるが、三島由紀夫や丸谷才一によると、これは「おおたにざき」と呼ぶのが正しく、その理由は「歌舞伎の先代歌右衛門つまり五代目中村歌右衛門(屋号は成駒屋)を大成駒と呼ぶ習はしにあやかつたものだからである[18][19]。「この大成駒はもちろんオホナリコマ。ダイナリコマなんて声をかけたら、八重垣姫も政岡も台なしになつてしまふ」という[35]。丸谷はまた、「彼が大谷崎と尊敬されたのは、作風の華麗、生活の豪奢のせいもあつたらう。しかしそれだけではない。単なる谷崎と区別する意味合ひもあつたのです。彼の弟、谷崎精二は早大教授である英文学者でしたが、小説も書きました」とも述べている[35]。
小谷野敦もまた、大谷崎という呼び名は弟の精二と区別するためのものだと述べているが、「だいデュマ」「しょうデュマ」などと同じく、昭和初年の雑誌に「だいたにざき」とルビがあったとして、読み方は「おおたにざき」ではなく「だいたにざき」であると主張している[21]。
谷崎潤一郎は関東大震災後の1923年9月27日、京都に家を探し避難するかたちで移り住んでいる。そしてその後、阪神間を中心に転々とはするも、1954年熱海に正式に転居するまで関西を離れなかった。その間に谷崎は関西を舞台とする多くの作品を発表しており、それは「卍」に始まり、「細雪」は谷崎の作品の中で最も長い小説となった。
参照:[42]
(出典:[43])
未完作は☆。発禁作は▲ 作品の著作権は現在消滅し、パブリックドメインとなっている。
基本的には永栄啓伸・山口政幸『谷崎潤一郎書誌研究文献目録』(勉誠出版、2004年10月)を参照。
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