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日本の映画評論家・フランス文学者 ウィキペディアから
蓮實 重彥(はすみ しげひこ、1936年(昭和11年)4月29日 - )は、日本の文芸評論家・映画評論家・フランス文学者・小説家。
専門はフローベール研究だが、ロラン・バルトやミシェル・フーコーなどフランス現代思想が1970年代から日本へ紹介されるさいに中心的役割を果たす1人となったほか、近現代文学・映画評論の分野でも数多くの批評を手がけている[1]。
1980年代以降は各国の映画製作者とも幅広く交流し、小津安二郎など日本映画の世界的再評価に大きく貢献した。東京大学教養学部教授(表象文化論)、第26代東京大学総長(1997年-2001年)を歴任。東京大学名誉教授[2]。
蓮實は、雪舟などの研究で知られた日本美術史家・蓮實重康の息子として、1936年に東京で生まれた[3]。東京大学文学部フランス文学科へ進学、パリ大学ソルボンヌへ留学する中でとくに作家フローベールの研究を進めるが、同時にドゥルーズやデリダなど当時パリで活躍していた思想家を精力的に翻訳・紹介してゆく[3]。
フランス文学者としての主な業績に『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』(1988)や『「ボヴァリー夫人」論』(2014)などがあり、フランス現代思想の紹介者としては『批評あるいは仮死の祭典』(1974) や『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(1978) を刊行[1]。またフーコーの主要な発言を網羅した『ミシェル・フーコー思考集成』全10巻を監修している[4]。
一方、蓮實を一般に広く知られる存在としたのは、アカデミズムの外で行われた膨大な文芸批評・映画評論である[5]。文芸批評では夏目漱石や大江健三郎・藤枝静男・安岡章太郎などに注目、『文藝』などで多数の時評を手がけ(『絶対文藝時評宣言』1994、『文学批判序説』1995)、またロラン・バルトやデリダらフランス現代思想に強く影響された文学理論の研究も行った(『「赤」の誘惑: フィクション論序説』2007など)。
映画評論では1960年代からゴダールやトリュフォーの読解・翻訳を開始、さらにフランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌上で行われていたゴダールらの批評に接続する形で、当時まだ低俗な娯楽とみなされていたハリウッドの西部劇などB映画 (B-film [英語版])、ドン・シーゲルやニコラス・レイ、リチャード・フライシャーといった監督の再評価を活発に行った[6]。こうした関心は後年の現代日本映画、とくにポルノや任侠映画への注目にもつながってゆく[7][1]。映画評論の分野では、とくに映画批評誌『季刊リュミエール』(1985-1988) の創刊と編集にかかわって日本の伝統的な映画評論に新風をもたらした活動や、『監督 小津安二郎』(1983) 、『ハリウッド映画史講義』(1993)の刊行などがとくに重要な功績とみなされている[1][5]。
現役の映画製作者らとも熱心にかかわり、ヴィム・ヴェンダースら著名な監督との交友で知られるほか、2001年にはヴェネツィア国際映画祭で小部門ながら審査委員長をつとめている[8]。また1970年代に非常勤講師として担当した映画に関する授業の聴講生から、後年現代日本映画の代表的な監督が現れた(黒沢清・青山真治・周防正行など)ことも、近年になって注目されるようになった[9]。
また小説家として『陥没地帯』(1986)・『伯爵夫人』(2016) を発表しているほか、長男の蓮實重臣が幼いころ言葉を習得していった過程をもとに日本語やフランス語についての思索を深めた評論集『反=日本語論』(1978)では読売文学賞(評論・伝記部門)受賞している。
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1936年 - 東京府麻布区六本木町(現在の東京都港区六本木)に生まれる。
1943年 - 学習院初等科へ入学。
1949年 - 学習院中等科へ進学。1年生のころに「同窓の三島由紀夫の『仮面の告白』などを読み、その運動神経のなさを軽蔑する」[3]。陸上競技部に入り、円盤投で新宿区で優勝。東京都では5位になった。
1952年 - 学習院高等科へ進学。
1955年 - 大学受験に失敗。研数学館で浪人生活を送る。
1956年 - 東京大学教養学部文科二類(現・三類)へ入学。
1958年 - 東京大学文学部仏蘭西文学科へ進学。
1962年にフランスに留学し、1965年にパリ大学大学院で博士号を取得した。同年、帰国。
1966年、東京大学文学部助手になる。
同年、ゴダールの『アルファヴィル』のシナリオ採録をキネマ旬報に掲載。
1969年、山根貞男の依頼により「シネマ69」に「アランレネ 鏡を恐れるナルシス」を書く。
1970年4月、東京大学教養学部講師に就任。立教大学一般教育部非常勤講師を併任して「映画表現論」を講義。また、同年より蓮實の翻訳した『ゴダール全集』『ゴダール全シナリオ集』(柴田駿監訳)、『ゴダール全エッセイ集』(柴田駿監訳、保苅瑞穂との共訳)の刊行が開始。
1971年 - パリ第7大学に日本語教師として着任。約1年間をパリで過ごす。
1973年7月、翻訳したジル・ドゥルーズ『マゾッホとサド』が刊行される。
1974年、『批評あるいは仮死の祭典』刊行。
1975年 - 東京大学教養学部で映画論ゼミを開講。
1977年5月、『反=日本語論』刊行。
1978年、『反=日本語論』で第29回読売文学賞を受賞[10]。2月、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』刊行。10月、『夏目漱石論』刊行。
1979年には1月『蓮實重彦の映画の神話学』、2月『映像の詩学』、5月『シネマの記憶装置』、6月には山田宏一と共訳したフランソワ・トリュフォー『映画の夢 夢の批評』、10月『「私小説」を読む』、11月『表層批評宣言』、12月にも山田と共訳したトリュフォー著『わが人生 わが映画』を刊行。
1985年、『表層批評宣言』刊行。9月、『話の特集』での連載をまとめたもので、単行本全体がワンセンテンスから成る『シネマの煽動装置』を刊行。
1988年、東京大学教養学部教授になる。
「文藝」1990年春季号~1992年冬季号にて、文芸時評をやった。[11]
1993年から1995年まで教養学部長、1995年から1997年まで副学長を歴任。
1997年4月に東京大学26代総長に就任。
1999年フランス政府の「芸術文化勲章」受章。
2002年11月から翌年2月にかけて、仙台市青葉区のせんだいメディアテークにて連続講演「蓮實重彦 映画への不実なる誘い」を行う。第1回「映画における国籍」2002年11月23日、第2回「映画における演出」2002年11月24日、第3回のための参考上映『映画史』("HISTOIRE(S) DU CINEMA")2003年2月9日、第3回「映画における歴史」2003年2月15日。この講演に関連して、「さまざまな角度から<映画の21世紀>に光をあてるべく」、ホームページ『あなたに映画を愛しているとは言わせない』が開設された。
2004年秋より季刊『InterCommunication』にて連載開始。
2007年3月、『「赤」の誘惑 フィクション論序説』を発表[12]。秋、『InterCommunication』での連載が終了。3年におよんだ連載は翌年11月に刊行される『ゴダール マネ フーコー―思考と感性とをめぐる断片的な考察』にまとめられる。同年、第25回川喜多賞を受賞[13]。
2008年、7年ぶりとなる批評集『映画崩壊前夜』を発表する[14]。
2014年、大著『「ボヴァリー夫人」論』が刊行された[15]。
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