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オランダ領東インド、バタヴィア(現・インドネシア、ジャカルタ)生まれ。東京を経て秋田県八森に疎開、移住。東京外国語大学フランス語学科卒業。
1963年4月1日から10日にかけて、第3回「フランス映画祭」が東京都千代田区の東商ホールで開催された。『突然炎のごとく』『シベールの日曜日』など計9本の長編と、短編映画『ふくろうの川』が上映された[2]。フランソワ・トリュフォー、アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、セルジュ・ブールギニョン、アレクサンドラ・スチュワルト、アルベール・ラモリスらが映画祭に参加するため来日した[3]。山田は当時学生だったが、まる一週間トリュフォーの通訳を務めた。フランス人と本格的にフランス語を話すのは初めてのことだったという[4]。
あるときひとりのジャーナリストがトリュフォーにインタビューに来た。フランス語に堪能なジャーナリストで、私のへたくそな、ぐずぐずした通訳にがまんがならず、ついにみずからフランス語でトリュフォーに質問し始めた。ところが、トリュフォーはそのジャーナリストのしゃべるフランス語がひとこともわからないふりをしてみせたのである。そして、かたわらで情けない顔をしていた私に、「あいつ、なにを言ってるんだ? ちゃんと日本語で言ってもらって、きみがちゃんと通訳してくれ」とわざと聞えよがしに言った。(中略)その思いやりの屈折ぶりに私は感動した。そのときから、私はフランソワ・トリュフォーという人間と作品に、トコトンつきあおうと決心したのである[4]。
1964年11月、フランス政府給費留学生としてパリに移住[5]。1967年まで在住した。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となる。
『アルファヴィル』の助監督についていたジャン=ピエール・レオに頼み込み、1965年2月5日、同作品の撮影現場に潜り込む。このとき初めてジャン=リュック・ゴダールと会った[6]。
1968年5月のカンヌ国際映画祭に、羽仁進監督の『初恋地獄篇』がコンペティション外特別招待作品に選ばれた。山田は羽仁プロから宣伝と販売を委託され、ポスターやスチール写真など宣伝材料をかついでカンヌに向かい、中止事件を目の当たりにする[7]。
帰国後、『キネマ旬報』『話の特集』などに連載を行い、映画評論活動に入る。フランスの前衛的な映画から、マキノ雅弘などの娯楽映画まで、同じスタンスで論じる評論スタイルで注目される。また、翻訳、インタビュー、聞き書きなども多数ある。なお、マキノ雅弘の自伝『映画渡世』も、マキノの著書となっているが、山根貞男と山田による聞き書きである。
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