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フランソワ・トリュフォー

フランスの映画監督 (1932-1984) ウィキペディアから

フランソワ・トリュフォー
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フランソワ・ロラン・トリュフォー(François Roland Truffaut、1932年2月6日 - 1984年10月21日)は、フランス映画監督脚本家俳優である。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。映画作家・理論家のアレクサンドル・アストリュックがトリュフォーを「愛のシネアスト(cinéaste)」と定義した[1]

概要 François Truffaut フランソワ・トリュフォー, 本名 ...
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生涯

要約
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フランソワ・トリュフォーとクロード・ジャド (『逃げ去る恋』のプレミアで)

パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるなど、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。15歳のとき、のちに映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』初代編集長(1951年 - 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会い引き取られ、以降バザンが死ぬまで親子同然の生活を送る。失恋をきっかけに軍隊に志願するが、インドシナ戦線に送られることを恐れて脱走し、途中で捕まり軍刑務所にに投獄される。そのときもバザンが保護者となり軍隊から救い出した。20歳になると、彼の勧めにより映画評論を著すようになり、『カイエ・デュ・シネマ』を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を多数執筆した。特に、同誌1954年1月号に掲載された「フランス映画のある種の傾向」という文章は厳しい論調だった。

最初の短編映画を発表した後、1956年、ロベルト・ロッセリーニの助監督となる。1957年、配給会社の社長令嬢と最初の結婚をする。同年、製作会社レ・フィルム・デュ・キャロッス社を設立、2作目の短編映画『あこがれ』を演出し、翌1958年公開。

1959年、キャロッス社とSEDIF(義父の会社コシノールの子会社)の共同製作による処女長編『大人は判ってくれない』を監督し、第12回カンヌ国際映画祭に出品されると大絶賛を浴び、監督賞を受賞。作品は大ヒットを記録し、トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高らしめることとなった。彼自身の体験談を下敷きにして作られた同作はその後ジャン=ピエール・レオ演ずるアントワーヌ・ドワネルを主人公とする「アントワーヌ・ドワネルの冒険」としてシリーズ化され、『逃げ去る恋』(1978年)に至るまで合計5本制作された。このとき出逢った映画会社マルソー=コシノール当時のマネジャーマルセル・ベルベールは、キャロッス社の大番頭的存在となり、またトリュフォー作品にカメオ出演し続けることになる。

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セルジュ・ブールギニョンとともに(1963年、ホテルニュージャパンにて)

1963年4月1日から10日にかけて第3回フランス映画祭が東京都千代田区の東商ホールで開催された。『突然炎のごとく』のほか、ジャン=ガブリエル・アルビコッコの『金色の眼の女』と『アメリカのねずみ』、『ミス・アメリカ パリを駆ける』『シベールの日曜日』『女はコワイです』『不滅の女』『地下室のメロディー』『地獄の決死隊』の計9本の長編と、短編映画『ふくろうの河』が上映された[2]。トリュフォー、アレクサンドラ・スチュワルトアラン・ドロンマリー・ラフォレセルジュ・ブールギニョンアルベール・ラモリス、フランソワーズ・ブリオンらは映画祭に参加するため3月28日に来日した[3][4]。雑誌の企画により、トリュフォーとブールギニョンは、市川崑増村保造川喜多かしこホテルニュージャパンで語り合った[5]

1968年のカンヌ国際映画祭において、コンテストの必要性の有無を巡って大論争が巻き起こり、トリュフォーはカンヌ国際映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣を張った。しかし、映画祭の改革を主張したトリュフォーに対しジャン=リュック・ゴダールは政治的な改革を訴え、2人の方向性の違いが明らかとなった。この出来事を一つのきっかけに、盟友であったゴダールとの決別を始めとしてヌーヴェルヴァーグの面々と疎遠になった。68年の『黒衣の花嫁』、69年の『暗くなるまでこの恋を』[6]は高い評価を得た。

1973年、映画へのラブレターと銘打ち、映画制作の裏側を描いた『アメリカの夜』を発表し、アカデミー外国語映画賞を受賞する。本作では自身も映画監督役として出演した。また、監督と兼任して科学者役を演じた『野性の少年』を観たスティーヴン・スピルバーグからのオファーにより、『未知との遭遇』では科学者役で出演した。

1983年7月に脳腫瘍と診断され、ミッチェル・ベルジェとフランス・ギャル夫妻の邸宅にて療養する。友人であったミロシュ・フォアマン監督の『アマデウス』のプレミアに出席することを望んでいたが、叶わないまま1984年10月21日に死去した。彼が生涯に制作した映画は25本であった。

トリュフォーの死に際して、フランスに留まらず世界各国の映画関係者が集い盛大な葬儀が執り行われたが、ゴダールは葬儀に参列せず、追悼文を著すこともなかった。しかし、死後4年経った1988年に出版されたトリュフォー書簡集に、彼からの手紙を提供した。内容は激しくゴダールを罵倒する語調のものであったが、新たに書き下ろした序文では「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」と締めくくった[7]

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エピソード

  • フランス映画の父として慕い尊敬していたジャン・ルノワールがアメリカで失意の底に沈んでいることを聞きつけ、幾度もアメリカに渡って勇気づけ、ルノワールの死に至るまで両者は親子同然の関係を持ち続けた。また、自分自身の分身を演じ続けたジャン=ピエール・レオに対しても息子同然の扱いをしていたという。
  • 緑色の部屋』の宣伝キャンペーンで、1980年2月に来日した際、日本の映画ジャーナリストが日本の名作を観てもらおうと、当時名画座で掛かっていた深作欣二監督の『仁義の墓場』を推薦し[8]、トリュフォーに観てもらった[8]。しかしトリュフォーは開始10分で劇場を出てしまい[8]、「何で?」と聞いたら、「非常に疲れていたのと、暴力的なシーンが多くて堪えられなかったのです。暴力的な映画よりエロチックな映画の方がずっと好きです」と言った[8]。「今まで観た映画で好きな映画は?」という質問に対しては「オーソン・ウェルズ監督の『偉大なるアンバーソン家の人々』、それからフェデリコ・フェリーニ監督の『カサノバ』が大好きです。他にもたくさんあって数えきれません。それらについては色々本に書いているので読んでください」などと答えた[8]
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フィルモグラフィ

監督作品

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あこがれ』(1958年)
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大人は判ってくれない』(1959年)
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ピアニストを撃て』(1960年)
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突然炎のごとく』(1962年)

出演作品

受賞

さらに見る 賞, 年 ...
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日本のテレビ番組出演

日本語文献

著作・インタビュー など
評伝
  • アネット・インスドーフ 『フランソワ・トリュフォーの映画』 和泉涼一、二瓶恵訳、水声社、2013年
  • アントワーヌ・ド・ベック、セルジュ・トゥビアナ編 『フランソワ・トリュフォー』 稲松三千野訳、原書房、2006年
  • 山田宏一 『フランソワ・トリュフォー映画読本』 平凡社、2003年、増補版2022年
  • 山田宏一 『トリュフォー、ある映画的人生』 平凡社、1991年、増補1994年、平凡社ライブラリー、2002年
  • 山田宏一 『トリュフォーの手紙』 平凡社、2012年
  • 山田宏一 『フランソワ・トリュフォーの映画誌 山田宏一の映画教室vol.1』 平凡社、2004年。図版多数の編著
  • 『季刊リュミエール 2 フランソワ・トリュフォーとフランス映画』 筑摩書房、1985年
  • ユリイカ 詩と批評 特集トリュフォー』1985年2月号、青土社歌田明弘
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脚注

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関連項目

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外部リンク

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