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『蒲田行進曲』(かまたこうしんきょく)は、つかこうへい作・演出の日本の戯曲。また、それをもとにした小説および映画、テレビドラマ作品。
『熱海殺人事件』『いつも心に太陽を(後に『ロマンス』と改題)』等と並ぶつかこうへいの代表作の一つ。「新選組」の撮影真っ最中の京都の映画撮影所が舞台。土方歳三役の俳優・倉岡銀四郎(銀ちゃん)を中心に繰り広げられる、人間味溢れる活劇。クライマックスシーンの10メートルの高さの階段から転がり落ちる「階段落ち」は圧巻。
1980年(昭和55年)、第15回紀伊國屋演劇賞を受賞。後に小説化、映画化され、小説は第86回直木賞受賞、映画は第6回日本アカデミー賞をはじめ映画界の各賞を多数受賞した。
また、続編として『蒲田行進曲完結編〜銀ちゃんが逝く』が製作された。
東映京都撮影所は、5年に1度の大作「新選組」の撮影に沸いていた。何といってもそのウリは、撮影所自慢の高さ十数メートルの樫の木の大階段で撮影するダイナミックなクライマックスである。池田屋に討ち入った新撰組隊士が、スタントを担当する“大部屋”役者を大階段の上から斬りおとし、壮絶に落下して行くその様を大迫力で映し出して映画を締めくくる、いわゆる『階段落ち』である。
もちろん、落とされた役者はただではすまない。軽くて半身不随、重ければ死亡という多大なリスクが付きまとう。しかし、撮影所の大部屋にすし詰めにされて日々を過ごす大部屋役者達が、それと引き換えに1日だけスターになれるのが、この映画だった。
この年、土方歳三役でその主役を張るのは倉岡銀四郎だった。彼には、自分を「銀ちゃん」と呼んで慕うヤスという大部屋役者がついていた。2人は、スターと大部屋という奇妙な組み合わせでありながら、それ以上に奇妙な関係を持っていた。銀四郎の恋人であり、その子を身ごもった女優・水原小夏を、彼は出世のためにヤスに押し付けたのだ。
妻の腹の中にいるのが自らの子ではないと知りながら、夫となったヤスは大部屋として危険な役をこなしてお産の費用を出そうとする。結婚してからも銀ちゃんに惚れ込んでいた小夏の心は、子供の父親として頑張るヤスへと次第に移って行く。が、そこに、小夏が自分にとってもっとも大事な女性だと気づいた銀四郎が戻ってくる。
※1982年の角川+松竹映画の配役/1980年の初演時の配役/1983年TBSテレビドラマの配役
※印はつかこうへい事務所出演俳優で、原作公演にも、映画版にも出演していた俳優。
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1980年(昭和55年)11月、つか主宰の劇団つかこうへい事務所によって紀伊國屋ホールで初演された。翌1981年12月に再演し、この時の演題は「銀ちゃんのこと」であった。つかは1982年(昭和57年)に一旦演劇活動を休止し、劇団を解散するが、解散公演では本作が再演された。その後も1999年(平成11年)、2000年(平成12年)、2006年(平成18年)とたびたびキャストを変えて上演されている。
また、1994年(平成6年)には続編となる『蒲田行進曲 完結編 銀ちゃんが逝く』が初演された。
いのうえひでのりの演出で劇団☆新感線が1983年5月13日-15日に大阪阪急ファイブ・オレンジルームで上演。
『銀ちゃんの恋』と題し石田昌也の潤色・演出で、宝塚歌劇団により宝塚バージョンとして1996年(平成8年)に初演。
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劇作品の上演用戯曲をつかこうへい自身が小説化した作品。初出は『野性時代』1981年(昭和56年)10月号発表の「銀ちゃんのこと」。『蒲田行進曲』と改題、加筆の上、同年11月に単行本化され、1982年(昭和57年)1月には第86回直木賞を受賞した。
なお、直木賞の選評で選考委員の一人五木寛之は『蒲田行進曲』が天皇制と身分差別についての影絵文学であることを見抜いていると、つか自身がその著書で述べている。
1987年(昭和62年)6月には、続編となる『銀ちゃんが、ゆく 蒲田行進曲完結篇』が刊行されている。
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戯曲をつかこうへい自身が映画向けに脚色し、深作欣二が監督した映画作品。1982年(昭和57年)に松竹と角川春樹事務所が共同製作した、いわゆる角川映画として松竹系で公開された。同時上映は『この子の七つのお祝いに』。TBSは製作に名前を連ねていないが、当時、出資するはずの松竹に金がなく[2]、資金不足を補うため、完成前に角川春樹がTBSの映画部に「必ずこの映画は成功するから、俺の信用でお金を出してくれ」[2]と放送権を売って、放送権料という形で3億円を出資している[3][注 1]。
舞台の段階から各社で映画化の争奪戦があり[6]、企画は東映プロデューサー・佐藤雅夫と書かれた文献もある[7]。つかこうへいが自ら監督してフジテレビ資本で映画化するという構想が最初だったが[6]、往年の松竹蒲田をタイトルにした作品とあって、松竹ではこれを他社でやられては会社のメンツに関わると、執拗に映画化権獲得に動いた[6]。つかは『蒲田行進曲』の映画化より1982年の大晦日にテレビ東京が紅白歌合戦にぶつける『つか版・忠臣蔵』を製作することに賭けていて、出版元の角川書店が、この番組の大手スポンサーに付くことと引き換えに、つかから『蒲田行進曲』の映画化権を取った[6]。角川春樹は仲の良い東映社長の岡田茂に東映での映画化を提案したが[8][9][10]、岡田から「楽屋オチの話なんて誰が見るのか」と断られた[8][9][10]。これを聞いた松竹が角川に猛アタックし[6]、角川から、企画、製作、宣伝もすべて角川方式にするという条件を飲まされ、映画化権を得た[6]。東映に顔の利く角川が原作の舞台になっている東映京都の太秦撮影所を使うことを決めた[6]。
当時の日本映画界を席捲していた角川映画とやっと念願の提携を果たした松竹であったが、撮影は松竹の撮影所でなく、あえて東映の京都撮影所で撮影するという異例の試みが取られた[3][11][12]。弱体化したにっかつが、東宝配給のホリプロ映画や東映配給の角川映画に撮影所をレンタルした例はあるが、本作では松竹は配給だけでなく共同製作会社であり、メジャー映画会社同士で他社の作品を撮影するのは、映画界始まって以来の珍事[6]。監督も東映出身の深作欣二であり、こうしたねじれがあったせいで最初は東映側、松竹側の双方で軋轢があったという[12]。もともと『蒲田行進曲』は松竹の蒲田撮影所を舞台としているものの、つかこうへいは東映京都撮影所の大部屋俳優である汐路章の階段落ちの逸話をテレビ『徹子の部屋』で汐路が語ったことで知り、モデルに執筆したものであり[13][14]、実際は時代劇全盛期の東映京都の話として描かれている[15][16]。撮影時の東映京都撮影所の所長だった高岩淡は、劇中の「銀ちゃん」は東映の「錦ちゃん」こと中村錦之助(萬屋錦之介)をイメージしたようだと語っている[17]。
深作欣二は1981年の『青春の門』撮影後に、松坂慶子主演・野上龍雄脚本で、五木寛之原作の『朱鷺の墓』を映画化したいと松竹の織田明プロデューサーに要請し[18]、金沢のシナハンも終え、カナダロケの段取りをつけるなど、かなり製作が進んだ段階で、深作と野上が『朱鷺の墓』の製作中止を織田に申し出た[18]。後処理の難航で、松竹はかなりの損害を被ることが予想されたため、織田が二人に代替案を要求し[18]、野上が『魚影の群れ』を、深作が田辺聖子原作の『休暇は終わった』と松竹が企画として挙げていた本作『蒲田行進曲』を出していた[18]。深作の監督就任で製作が一気に進んだ[18]。
原作者のつかこうへいが第1稿を書くも、深作と揉め、最終稿に至るまで大幅に修正させられたが、それを書籍化すれば売れると踏んだ製作者の角川春樹が、自社のレーベル『シナリオ文庫』で、揉めた経緯を含め顛末を、つかと深作の討議付きで文庫化している[19]。
配役は松竹作品ということで、まずヒロインの小夏に松坂慶子[注 2]が起用された。銀四郎とヤスについては難航し、つかは自身の劇団の役者を使うよう主張したが、深作の意向を汲んだプロデューサーの角川の提案で、松田優作[注 3]に銀四郎役の出演依頼がなされたが、松田は辞退した。つかと深作は、その後も役者の選定で口論を繰り返し、スケジュールに余裕がなくなった。この事態にプロデューサーの角川は堪忍袋の緒が切れ、「おまえら、ガタガタ言ってんだったらもうこの企画はやめだ!」と席を蹴って自宅へ帰ってしまった。つかと深作は話し合いの末に「角川さんを宥めよう」と、真夜中に二人揃って角川を懐柔に訪れた[20]。結果、ヒロインは深作の意向が反映されたので、つか作品の舞台に数多く出演していた風間杜夫と平田満が主役に起用され、結果的に2人の出世作となった[21][22]。風間が深作に指名されたのは撮影直前のことだった[23]。松竹の幹部は風間も平田も知らなかった[24]。また、映画でキャリアのない平田に対して深作は「舞台のままにやってくれたらいい」と気遣ってくれたという[25]。
有名な"階段落ち"の階段は、芝居では階段のセットはなしで上演されたが[26]、映画では実際に階段落ちをやった。東映京都スタジオに高さ約8m、35段の階段セットを組み[注 4]、1982年8月13日に撮影が行われた[26]。スタントも最初は平田満自身がやる予定だったが[27]、舞台も控えていて深作が「ケガはさせられない」と言ったため[27]、平田には上から6段だけ落ちてもらい[26]、以降の29段はJAC所属の猿渡幸太郎がやった[26][27]。階段のへりにゴムをはり、ウエットスーツを着てのスタントであった。
京都ロケでは、当時中学生だった桧山進次郎がセリフなしのエキストラとして出演していたが、本人によると「そのシーンはカットされた」とのこと。
深作は「デビュー当時、岡田茂にいわれた映画の三要素"泣く、笑う、(手に汗を)にぎる"の三拍子が揃った」と自負した[28]。
DVDに収録されている特典映像には、撮影風景やカットされた没シーン、銀ちゃんが舎弟とすき焼きを食べてその伝票に驚くシーンや、廃墟ホテルでスタントマンがマットの上へ落ちるシーン等が収録されている。
上述の通り、岡田茂は角川に「ヒットしない」と言ったが[3][9][10]、配給収入は17億6000万円と大ヒットを記録[29]。アンコール上映も行われた[3]。それまで角川映画は大量宣伝によりヒットしていた一方で、話題先行で質が伴わないという風評があったが、本作によってようやく作品的にも評価されるようになり[15][30][31]、第6回日本アカデミー賞をはじめ映画界の各賞を多数受賞した。大量の宣伝スポットによりヒットしてきた角川映画において、口コミ中心で面白さが伝わり大ヒットしたことも角川映画としては異例であった[29]。
松竹の野村芳太郎は、自分たち松竹映画の過去を象徴する「蒲田行進曲」というタイトルの映画を東映出身の深作欣二に撮られたことに憤り、4年後の1986年に自らプロデューサーとして映画『キネマの天地』を企画した[32]。蒲田撮影所時代を経験している松竹のカメラマンだった厚田雄春は、『蒲田行進曲』『キネマの天地』のどちらも蒲田撮影所の当時の雰囲気が出ておらず、それは無理もないとしながらもやっぱり物足りないと評している[33][34]。
1984年1月2日の『新春スターかくし芸大会』(フジテレビ系)では、『市ヶ谷行進曲』というタイトルで本作のパロディコントが放送された[35]。主役はヤスで、ヤス役は西城秀樹が演じ、クライマックスの大階段落ちシーンでは、高さ6メートルの階段をスタントマンなしで、実際に西城が転げ落ちた[35]。
『決定版!蒲田行進曲』と題して、TBSの『日立テレビシティ』にて、1983年6月22日に前編、6月29日に後編と、2回に分けて放送されたテレビドラマ。銀四郎役の沖雅也が6月28日に飛び降り自殺したことから、翌日の後編の放送分は話題となった。
TBS、1991年年末ドラマスペシャル。12月30日(月曜日)に放送。放送時間は21:00 - 22:54(この枠は『月曜ドラマスペシャル』枠だが、本作は『月曜ドラマ〜』扱いはされない)。
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