Loading AI tools
ボクシング組織 ウィキペディアから
世界ボクシング評議会(せかいボクシングひょうぎかい、英: World Boxing Council, WBC)は、プロボクシングの世界王座認定団体の一つ。本部はメキシコのメキシコシティにある。
略称 | WBC |
---|---|
設立 | 1963年 |
設立者 | ルイス・スポタ(初代会長) |
種類 | ボクシング組織 |
本部 |
メキシコ メキシコシティ |
会長 | マウリシオ・スライマン |
ウェブサイト | https://www.wbcboxing.com/ |
元々は世界ボクシング協会(WBA)、ヨーロッパボクシング連合(EBU)、英国ボクシング管理委員会(BBBofC)、ラテンアメリカプロボクシング連合(LAPBU)、東洋ボクシング連盟(OBF)が対等の立場で討議する機関として1963年2月14日に設立[1][2]。その後、分立志向を強め、1966年8月27日にWBAとは別に、独自のルールと世界ランキングを発表して、完全に分裂した[3][4][5]。主要4団体中、加盟国が最も多いプロボクシング世界王者認定団体。4ラウンドごとにポイント採点を公表する。フリーノックダウン制(※何度ダウンしても10カウント以内に立ち上がってファイティングポーズを示し、レフェリーが危険が無いと判断すれば試合続行)を他団体に先駆けて採用している(2023年現在はWBA以外で採用)。他団体がランキング15位までしか作成していないのに対し40位まで名簿作成している。
2009年8月に、「WBCダイヤモンド王座」(WBC Diamond Championship)の創設を発表。初のダイヤモンド王者となったマニー・パッキャオには、通常の世界王座のベルトをベースに、18カラットの金、861個のダイヤモンド、221個のエメラルド、6個のルビー、180個のスワロフスキー・クリスタル・ガラスなどの宝石が埋め込まれた特製のチャンピオンベルトが贈呈された。また、ベルトを覆う革にはフェラーリ社製のものが使われる。創設の際に行われた投票では、理事会の全員が賛成したという。翌9月には、メキシコシティのCorona Auditoriumで行われた記者会見で、WBC会長が実際に贈呈されるベルトを披露した[7]。
2010年3月、ホセ・スライマン会長が暫定王座に替わるタイトルとして、11月にメキシコで開催予定のWBC総会で「WBCシルバー王座」(WBC Silver Championship)の創設を発表することを公表。なお、王者には、通常の世界王座のベルトをベースに、バックル部が金色ではなく銀色のシルバーベルトが贈呈される。また、暫定王者とは異なり、シルバー王者のWBCランクは維持される。
2019年6月、「WBCフランチャイズ王座」(WBC Franchise Championship)の創設を発表。
2014年1月16日、1975年以来38年間WBC会長を務めていたホセ・スライマンがカリフォルニア大学ロサンゼルス校内にあるロナルド・レーガンUCLAメディカルセンターで82歳で死去し[8][9]、前任者の四男でWBC事務局長のマウリシオ・スライマンは自身のWBC会長就任を否定したが[10]、同年2月11日にメキシコシティで行われた会長選挙で満票(26票)を集め、新会長に選出された[11]。奇しくもホセ・スライマンと同じ44歳でのWBC会長選出を果たしたマウリシオ・スライマンだが、結果的にはWBC会長の座がスライマン父子で世襲された形となった。
2018年3月17日にWBC世界スーパーライト級王座決定戦がWBCが認定した世界タイトルマッチの2000試合目として行われ[12][13]、ホセ・カルロス・ラミレスが12回3-0(120-108、117-111、115-113)の判定勝ちを収めマディソン・スクエア・ガーデン・シアターで行われたアミール・イマムとの一戦を制した[14][15]。
1963年2月の設立と同時に、日本ボクシングコミッション(JBC)は、東洋ボクシング連盟(OBF)を通じてWBCに加盟しており[16][1][2]、良好な関係を保っていた。しかし1966年8月27日のWBC総会で、独自のルールと、初のWBC世界ランキングを発表して、WBAから完全に分裂したことから[3][4][5]、1966年9月27日にJBCは、WBC世界ランキングを認めないと発表した[17][18]。よって今後はWBC単独認定の世界戦を認めないとした。(実際に関光徳や花形進、ファイティング原田が海外でWBC単独認定王座に挑戦した際、たとえ王座を奪取してもJBCでは王者と認めないという達しが出ていた。)
しかし、ジョニー・ファメション vs.原田戦が、挑戦者の原田がダウンを連続して奪い、優勢に見えた試合だったにもかかわらず、判定負けとされた(※しかも、最初は引き分け宣告をリング上で行いながら、リングを降りるとすぐに、チャンピオンの判定勝ち防衛に変更するという不可解なもの。)こと、原田の(欧米人以外では初の)3階級制覇のかかった試合であったことから、当時の世論が沸騰、JBCはWBCを認めて原田の国内での再戦を認めろ、との意見が強まり、世論と業界の事情に押される形で、JBCもファメションvs.原田の再戦の日本での開催を認めざるをえなくなった。(当初JBCはWBC単独認定王者を認めない立場から当時のWBA王者の西城正三へのターゲット変更を模索したが、西城は日本テレビ専属・原田はフジテレビ専属のため交渉がまとまらなかった。)
結果、JBCは、なしくずし的にWBC世界ランキングを認めることになった。
この非認定期間を挟んで、1963年2月14日から1966年9月26日までの間と、ファメション対原田の第2戦が開催された1970年1月6日以降から2013年3月31日までの間を合わせて、日本はWBAとWBCと世界王座認定団体を2団体承認するという形が通算46年間以上続いた。
分立団体としてJBCに承認されて初めてWBC王座を獲得したのは、1970年4月5日にWBC世界ジュニアライト級王座に就いた沼田義明である。
2011年には東北地方太平洋沖地震による震災被害からの日本復興支援として、マイク・タイソン、オスカー・デ・ラ・ホーヤ、マニー・パッキャオなど過去から当時に至るまでの世界王者十数名からサイン入りグローブやトランクスを集め、これに地震による電力不安の影響で東京から神戸へ会場が変更された4月8日開催のトリプル世界戦に出場の6選手から提供されたグッズを併せてJBCに託した。それらは日本の主なボクシング会場に展示の後、JBCが慈善オークションにかけることとなり[19]、同トリプル世界戦の調印式冒頭では、会長の息子で立会人を務める副会長のマウリシオ・スライマンが、この興行は日本を勇気づけるだろうと挨拶した後[20]、日本語で「WBCは世界のボクシング界の人々とともに、日本と一緒に戦います。ガンバレ、ニッポン」と激励メッセージを送った[21]。同年6月のJBC事務局長更迭に伴う混乱のため、この慈善オークションは大幅に遅れ[22]、2012年1月24日から3月11日までの7週間、Yahoo!オークションにて開催された[23][24][* 1]。
WBC認定試合におけるルールの主な特徴を以下に挙げる。
WBCは世界王座の他にも、アメリカ大陸王座、インターコンチネンタル王座、ユース王座、ムンドヒスパノ王座、全アフリカ世界王座、女子世界王座(WBC FEMALE)、ムエタイ王座(WBC MUAY THAI)等の王座を認定している。
WBCの下部組織が他の団体と違う点は例えばWBAのPABA、NABAなどの組織は完全なWBAの下部組織であり、WBCの場合は元々存在するコミッション同士が集まって、自分たちで結成した組織であるということである。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.