釜島
岡山県倉敷市にある水島諸島の島 ウィキペディアから
岡山県倉敷市にある水島諸島の島 ウィキペディアから
釜島(かましま)は岡山県倉敷市下津井[3][4][5][6]に属する無人島である。水島諸島(児島諸島)に属する。かつては有人島であったが、無人島化している。
鷲羽山南側の久須美の鼻の南方約1km沖にある三角形の無人島[7]。面積0.40km2、周囲約3.2km[1][2]。最高標高は43m[注釈 1][2]。島内からは、縄文土器及び弥生土器に加えて、古墳群が発見されており、古くより人が居住していたと考えられる[1]。
平安時代中期、釜島には天慶の乱にて藤原純友が都落ちしてきた。藤原純友は釜島に城を構え、天慶2年(939年)2月に官軍大将の藤原倫実の船隊を打ち破ったという記録が『前太平記』にある。島内にはこの際の城跡や塩釜神社の跡が残っている[1]。江戸時代中の1646年(正保3年)より、岡山藩に所属することとなった[1]。同時代の書物『吉備温故秘録』には、田畑1町8反、家数1軒、男女8人との記録がある。その後も人口の少ない有人島であったが、1906年(明治39年)には、筆海小学校の分教場が設置される[注釈 2][9]。第二次世界大戦後に多くの入植者がおり、1955年(昭和30年)に児島市立下津井中学校の分校が設置された[注釈 3][10]。1959年(昭和34年)当時の小学校の児童数は14名、へき地等級3級であった[2]。小学校の分校は、浜から200m程度の位置にあった[11]。昭和30年代末頃には、夏季の海水浴客を中心に年間で1万人近い来島者がいたという[1]。しかし、その後急速に住人の流出が進み、1970年(昭和45年)に中学校の分校[注釈 4]が休校[10]、1972年(昭和47年)に小学校の分校[注釈 5]も休校となった[9]。そして1980年(昭和55年)の国勢調査時点で無人島化している[7]。1986年(昭和61年)より、夏季のみ期間営業の民宿と茶屋が開かれたが、そちらも後に閉鎖され、現在に至るまで無人のままである[1][7]。また休校となっていた小中学校も、1979年(昭和54年)に小学校の分校が正式に廃校となり[注釈 6][9]、それから10年後の1989年(平成元年)には、中学校の分校も正式に廃校となった[注釈 7][10]。現在は、下電ホテルが島を管理をしている[12]。
『日本廃村百選 - ムラはどうなったのか』の著者・浅原昭生は、2008年(平成20年)と2009年(平成21年)に来島し、島内に残る塩釜神社、民宿跡、分校跡を訪れている[13]。
福田晴一が監督した『二等兵物語 死んだら神様の巻』(1958年(昭和33年)公開)のロケ地でもあった[1]。
島内には海水浴場があるものの、設備は無いため必要な機材は全て持ち込みとなる[7]。
島へ渡るためにはチャーター便を利用する必要がある[7]。
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