三菱自動車工業
日本の自動車メーカー ウィキペディアから
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三菱自動車工業株式会社(みつびしじどうしゃこうぎょう、略称:三菱自動車(みつびしじどうしゃ)・三菱自工(みつびしじこう)、英: MITSUBISHI MOTORS CORPORATION[5] 略称:MMC)は、三菱グループの自動車メーカー。 2003年にはトラック・バス部門を分社化(三菱ふそうトラック・バス)。
msb Tamachi 田町ステーションタワーSの本社 | |
種類 | 株式会社 |
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機関設計 | 指名委員会等設置会社[1] |
市場情報 | |
略称 | 三菱自動車、三菱自工、三菱自、三菱、MMC |
本社所在地 |
日本 〒108-8410 東京都港区芝浦三丁目1番21号 msb Tamachi 田町ステーションタワーS 北緯35度38分42秒 東経139度44分58秒 |
設立 | 1970年(昭和45年)4月22日 |
業種 | 輸送用機器 |
法人番号 | 7010401029044 |
事業内容 | 自動車及びその構成部品、交換部品並びに付属品の開発、設計、製造、組立、売買、輸出入その他の取引業 他 |
代表者 |
平工奉文(取締役会長)[2] 加藤隆雄(取締役代表執行役社長兼CEO) 長岡宏 (代表執行役副社長・開発・商品戦略・TCS・デザイン担当) 中村達夫 (代表執行役副社長・営業担当) 松岡健太郎 (代表執行役副社長CFO) |
資本金 |
2843億8200万円 (2022年3月期)[3] |
発行済株式総数 |
14億9028万2496株 (2022年3月期)[3] |
売上高 |
連結:2兆389億900万円 (2022年3月期)[3] |
営業利益 |
連結:873億3100万円 (2022年3月期)[3] |
経常利益 |
連結:1009億6900万円 (2022年3月期)[3] |
純利益 |
連結:740億3700万円 (2022年3月期)[3] |
純資産 |
連結:6303億100万円 (2022年3月期)[3] |
総資産 |
連結:1兆9284億4300万円 (2022年3月期)[3] |
従業員数 |
連結:28,428人 単体:13,671人 (2023年3月31日現在) |
決算期 | 3月31日 |
主要株主 |
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主要子会社 |
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関係する人物 |
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外部リンク |
www |
2016年10月に日産自動車が筆頭株主となり、日産自動車とフランスのルノーと共にルノー・日産・三菱アライアンス[6][7] を構成している。また三菱商事の持分法適用関連会社でもある[8]。
三菱自動車工業は日本の自動車メーカーのひとつであり、1970年6月に三菱重工業から分社(独立)した会社である。
2021年の販売台数は93万7,000台で、内訳は北米15万6,000台、欧州13万1,000台、日本7万台、アジア32万1,000台、その他14万7,000台[9]。日本国内での登録台数シェア(≒販売台数シェア)は、2017年で0.9%、2018年で1.1%という企業である[注釈 1][10]。
日本では1904年、山羽虎夫によって日本車第1号と言われている「山羽式蒸気自動車」が製作され、1911年には東京府東京市麻布区(現在の東京都港区麻布)に「快進社自働車工場」(日産自動車の源流)が設立され、日本初のエンジンまでも含めた純国産車を開発し、1916年にはアロー号が製作されたという歴史があるが(→日本車#歴史を参照)、三菱は、1917年から『A型』を世に送り出した[11][12]。A型は1921年までに22台生産され[11]、日本で初めての「量産乗用車」となった[12][13]。
現在の三菱自動車工業は三菱重工業とクライスラー(現・ステランティス)社との合弁事業としてスタートし、1993年までクライスラーと資本提携していた。その後、2000年からドイツに本拠を置くダイムラー・クライスラー(現・メルセデス・ベンツ・グループ)と資本提携関係となったが、2005年に解消。なお、クライスラーとの技術提携関係は2009年まで継続されていた[14]。2003年にはトラックやバスなど大型車事業を「三菱ふそうトラック・バス」として分社化。2年後、同社はダイムラー(現・ダイムラー・トラック)傘下へ譲渡された。
2008年、プジョー・シトロエン(現・ステランティス)との間で、ロシアでプジョーブランド、シトロエンブランド、三菱ブランドの車両を生産するための合弁事業に関する基本契約を締結した[15]。
2016年10月20日、日産自動車が三菱自動車の株式の34%を保有する筆頭株主となった。同年12月14日、臨時株主総会で日産自動車会長兼社長カルロス・ゴーンの会長就任が正式に承認された(CEOは益子修社長が継続)。
2018年11月26日に開かれた臨時取締役会で、金融商品取引法違反容疑で同月19日に逮捕されたゴーンの代表取締役会長職の解任を決議した[16]。
三菱自動車は、2009年7月に世界初の量産型EV(量産型電気自動車)となる『i-MiEV』を発売したメーカーである[17]。
またサッカーJリーグ・浦和レッドダイヤモンズの親会社でもあった。日産自動車との資本提携(と日産系であるマリノスの存在)に伴い、新たに三菱重工業が共同で浦和レッズに出資することとなり、三菱自動車の出資比率は大きく引き下げられた(沿革の項を参照)。
氏名 | 在任期間 | 出身校 | |
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初代 | 佐藤勇二 | 1970年4月 - 1973年5月 | 東京商科大学 |
2代 | 久保富夫 | 1973年5月 - 1979年6月 | 東京帝国大学工学部[67] |
3代 | 曽根嘉年 | 1979年6月 - 1981年6月 | 東京帝国大学工学部[67] |
4代 | 東条輝雄 | 1981年6月 - 1983年6月 | 東京帝国大学工学部[67] |
5代 | 舘豊夫 | 1983年6月 - 1989年6月 | 東京帝国大学経済学部[68] |
6代 | 中村裕一 | 1989年6月 - 1996年6月 | 京都大学工学部[69] |
7代 | 塚原董久 | 1995年6月 - 1996年6月 | 東京大学経済学部[70] |
8代 | 木村雄宗 | 1996年6月 - 1997年11月 | 京都大学大学院工学研究科[71] |
9代 | 河添克彦 | 1997年11月 - 2000年11月 | 横浜国立大学経済学部[72] |
10代 | 園部孝 | 2000年11月 - 2002年6月 | 慶応義塾大学経済学部[73] |
11代 | ロルフ・エクロート | 2002年6月 - 2004年4月 | ボフーム大学機械工学部[74] |
12代 | 岡﨑洋一郎 | 2004年4月 - 2004年6月 | 早稲田大学第一理工学部[75] |
13代 | 多賀谷秀保 | 2004年6月 - 2005年1月 | 東京大学経済学部[76] |
14代 | 益子修 | 2005年1月 - 2014年6月 | 早稲田大学政治経済学部[77] |
15代 | 相川哲郎 | 2014年6月 - 2016年6月 | 東京大学工学部[78] |
16代 | 益子修 | 2016年6月 - 2019年6月 | 早稲田大学政治経済学部 |
17代 | 加藤隆雄 | 2019年6月 - 現職 | 京都大学工学部[79] |
2024年8月現在、生産拠点は全てアジアに存在している。
古くからモータースポーツ事業にも力を注いだ。ラリーの活動が最も有名であるが、実際にはフィールドを問わずに活躍した。
1962年のマカオグランプリのAクラス(排気量750cc以下の市販車)で、500が表彰台を独占した[83]。1964年の第二回日本グランプリのツーリングカー・T-Ⅲ部門(排気量700〜1,000cc)にはコルト1000を投入し、日野・コンテッサやミニクーパーを相手に1-4位独占の圧勝を収めた[84]。
当時の日本メーカーとしては珍しくフォーミュラカーにも積極的であった。日本グランプリ併催のフォーミュラカーレース「日本スピードカップ」にチューニングしたコルト1000のエンジンを供給し、1967年には1-2フィニッシュを果たした[85]。日本グランプリとして開催された1971年でも2.0リッターDOHCのコルトF2000が勝利[86]。1973年からの全日本F2000選手権(現在のスーパーフォーミュラ)でもエンジン供給を行った。加えてWRC(世界ラリー選手権)にも初年度からランサーで参戦し、1974年サファリラリーで初の総合優勝を飾った。しかしオイル・ショックによりいずれの活動からも撤退した。
オイル・ショックが明けた1984年にラリーアートが設立され、本格的にワークス活動が再開される。
これに先立ち、1981年にWRCにギャランで復帰。グループBのスタリオンを経て、1990年代後半には、グループA規定のランサーエボリューションがトミ・マキネンの手で1996年から1999年までドライバーズチャンピオンを史上初の4連覇を達成した(1998年にはマニュファクチャラーズタイトルも獲得)。また出場者が少なかったという利があったものの、篠塚建次郎がアイボリーコースト・ラリーで日本人初のWRC総合優勝を2度達成している。しかし「市販車にこだわる」というポリシーが仇となって新規定のWRカーに出遅れ、2000年代は低迷。2002年11月にMMSP(三菱自動車モータースポーツ)が設立されるが、ランサー WRCの熟成不足に経営不振も相俟ってスポット参戦に留まる状態が続き、2005年末に事実上の撤退となった。
市販車仕様に近いグループN規定のPCWRC(プロダクションカー世界ラリー選手権)では、ランサーエボリューションは2000年頃に28連勝を記録するなど高い戦闘力を発揮。ライバルのスバル・インプレッサ WRX STIと合わせて「インプ・ランエボ」と並び称された。三菱ワークスのWRC撤退後も、PWRCや地域のラリー・ツーリングカーレースなどで、プライベーターたちによって目覚ましい活躍が見られた。
全日本ラリー選手権ではミラージュがBクラスの2WD・4WD部門の両方を席巻し、1993から2002年の10年間タイトルを獲得し続けた。またランサーエボリューションも奴田原文雄の活躍で、PWRC同様にスバルと総合タイトルを争った。
ダカール・ラリーにも1980年代から参戦。パジェロ/パジェロエボリューションにより、全メーカー中1位となる12回の総合優勝を達成した。この記録は2022年現在も破られていない。また日本人の篠塚建次郎、増岡浩も総合優勝を飾った。環境の変化もあって、マシンは00年後半にレーシングランサーに切り替えられたが、2009年を最後にリーマン・ショックによる経営不振を理由に撤退した。
ツーリングカーレースでは、グループA時代にギャランやスタリオンが投入され、当時最強を謳われたフォード・シエラ勢にしばし迫る活躍を見せた。1990年代にはN1耐久(現在のスーパー耐久)に加え、JGTC(現在のSUPER GT)GT300クラスにラリーアートが前輪駆動のFTOを投入していた。2005〜2009年にはストックカー・ブラジルにも参戦し、2度チャンピオンを獲得した。
フォーミュラカーではF1や全日本F3000選手権といったトップカテゴリには参戦していないが、1990年代に育成カテゴリのフォーミュラ・ミラージュを運営しており、土屋圭市やラーマン山田がこのチャンピオンに名を連ねている。またF3にも国内外でエンジン供給を行っていた。
アフターパーツメーカーとして知られるHKSはこの頃三菱との関わりが強く、ラリー用のランサーやF3などのエンジンのチューニングを請け負っていた。
ダカール・ラリー撤退後はラリーアートの主要業務は撤廃され、欧州のごく一部を除いて閉業状態に追い込まれた。本社の関わるレース活動はパイクスピーク・ヒルクライムやアジアクロスカントリーラリーなどへ、市販の電動車技術を盛り込んだマシンを用いての単発イベントへの参加が細々と行われる程度であった。スウェーデン法人による特認のR5規定のミラージュのラリー投入、スペイン法人によるエクリプスクロスでのダカール参戦なども行われたが、いずれもワークス復帰とまではいかなかった。
しかし2022年に「ラリーアート」ブランドの復活が宣言され、トライトンによるアジアクロスカントリーラリーの活動に「チーム三菱ラリーアート」として参戦。ブランド復活後初参戦で総合優勝を飾った[87]。
これらの医療機関は企業立病院であるが、三菱自動車工業関係者以外も利用可能。
エンブレムは当初からスリーダイヤを用いているが、1976年 - 1984年頃までは、三菱のイニシャルであるアルファベット“M”を模したエンブレムをつけていた。このエンブレムは乗用車、普通商用車を主に装着されていた。ふそう系の中型、大型車にはスリーダイヤが付いており、70年代中盤頃はMマークとスリーダイヤを併用装着していた時期がある。しかし形状からいすゞ(の当時のエンブレム)と間違えられがちだったため、1980年代前半 - 1990年代中頃には英文社名からの略「MMC」をシンボルマークとしていた[注釈 8]。この間、テレビ・ラジオの協賛クレジット、並びに各種広告においてのクレジットもスリーダイヤを使用せず「MMC三菱自動車」と表記されていた。
その後1987年10月以降からはスリーダイヤが順次復活し、MMCロゴと併用されるようになったが、1993年10月以降から日本国内でも順次、スリーダイヤとMITSUBISHIのロゴを使うようになった。
インターネットでのドメイン名「mmc.co.jp」が同じ三菱グループの三菱マテリアルに先に使われたこともあって2016年現在、MMCはMMCレンタカー等一部でしか使われていない(前述のように三菱マテリアルとの混同を避けるため、「三菱自動車の」という前書きが添えられている。三菱自動車バス製造(現・三菱ふそうバス製造)では、2003年頃までMMCロゴが窓ガラスに使われていた。
上記記載の通り、1982年のCI導入のころから1993年頃までは「MMC三菱自動車」、2000年以後は「MITSUBISHI MOTORS」(協賛読みに関しては2009年以後「三菱自動車」)として協賛クレジットをアナウンスしている。
1996年、アメリカ合衆国において289人へのセクシャルハラスメントとパワーハラスメントがあり、アメリカ合衆国連邦政府機関雇用平等委員会(EECO)が集団訴訟に踏み切る。これに対し自社から3時間離れたEECO支部まで、地元市長など約3,000人をバスで送迎し抗議デモを行わせた。これにより、全米女性機構や公民権運動の指導者なども強く反発、ボイコットや不買運動に発展し、三菱自動車工業が和解金を支払うまで続いた。
1997年(平成9年)、総会屋利益供与事件により、総会屋の2名と三菱自の3名が逮捕される。 同時に系列7社も、総会屋に株主総会対策で送金していた事が判明する。
1998年3月20日、東京地方裁判所(植村立郎裁判長)は総会屋1名に対し懲役1年6月の実刑判決を言い渡した(求刑懲役2年)。被告人は直ちに控訴した[88]。
2000年と2004年に発覚したリコール隠し、不適切な改修による火災事故は、三菱リコール隠しを参照。
詳しくは2005年のオイル漏れの不具合に関する三菱自動車・3G83エンジンに関する問題を参照。
2016年(平成28年)4月20日17時、日産自動車との合弁会社であるNMKVで開発した軽自動車のJC08モード燃費試験について、燃費を実際よりも良く見せるため、国土交通省に虚偽のデータを提出していたことを明らかにした[90]。
該当の車両は、三菱ブランドでは「eKワゴン」「eKスペース」、日産ブランドでは「デイズ」「デイズルークス」であった。協業先に当たる日産自動車が、前記該当車の燃費を実際に測定したところ、届出値との乖離がみられ、燃費不正が発覚した。
これを受けて国土交通省は、国内外の自動車メーカーやオートバイメーカーなど41社に対し、燃費試験の不正がなかったか調査するように指示した[91]。
実際よりも5-15%程度良い燃費を算出しており、軽自動車の業界基準であるJC08モードで30km/L以上という水準に見せかけていた[92]。該当車種は即日販売及び出荷停止となった。相川哲郎社長は、4月26日に石井啓一国土交通大臣への報告後の記者会見で改めて謝罪し、三菱自動車工業について「会社の存続に関わる程の大きな事案」と述べた[93]。低排出ガス車認定制度(エコカー減税)について、高市早苗総務大臣は「燃費が変わった場合は、その差額(自動車重量税や自動車取得税)を納めて頂く」と述べている。
さらに、軽自動車に限らず1991年(平成3年)以降に発売した全ての車種において、違法な方法で燃費試験をしていたことも明らかになった[94]。さらに後日、1991年(平成3年)から25年間に渡り、10・15モード燃費で計測した燃費データの偽装をしていたことが発覚した。詳しい車種及び台数は現時点で調査中とするものの、今後さらに増える可能性がある[95]。
軽自動車においては、以下の違法行為が明らかになっている[96]。
1991年(平成3年)以降に、三菱自工が製造した全ての車両において、以下のいずれか、または複数の違法行為が行われていた。なお当該車両については、開発段階において正規の走行試験を行っていなかったものの、事件発覚後に行った惰行法による燃費測定の結果、差異が3%以内に留まったことから、三菱自工は販売停止等の処置は行わないとしていた。
しかし、3パーセントの乖離を重く見た国土交通省は、三菱自動車が改めて提出するデータを「信用できない」として、5月2日から独立行政法人交通安全環境研究所で独自に測定を行った結果、9車種中8車種において最大15%の差が生じており、三菱自工による再測定のデータを、8月30日に国土交通省に提出したレポートにおいても、不正計測が行われたことが発覚した。これを受け、三菱自工は販売停止等の処置をとることとなった。
軽自動車の不正では、三菱自動車は燃費目標達成業務を、子会社の三菱自動車エンジニアリング(MAE)に丸投げしていたほか、子会社が実施した試験方法が「高速惰行法」であったこと、さらに、試験結果が意図的に低い値を抽出した捏造であることを知りながら、その内容を承認していた。この件について、益子会長は力のない子会社に、レベルの高い車の開発を丸投げしたことが、事件の背景にあると述べている[98]。
この一連の燃費不正問題について、2016年(平成27年)12月16日に、該当車種の所有者を始めとした24都道府県の88人が、三菱自工を相手取り総額約1億3,000万円の損害賠償を求め大阪地方裁判所に集団訴訟を提起。係争中である[99]。
更に同問題で、実際の燃費と懸け離れた広告をしたのは景品表示法違反に当たるとして、消費者庁が三菱自動車に4億8507万円程度の課徴金納付を命じた[100]。
法務省と厚生労働省は、三菱自動車工業岡崎製作所(愛知県岡崎市)において、溶接作業を学んでもらうため受け入れたフィリピン人の技能実習生27人に対し、本来の計画になかった、自動車の組み立てなどに従事させていたことが2018年5月に明らかになった[101] ことを受けて、法務省は2019年(平成31年)1月25日付で、三菱自動車の実習計画認定を取り消す行政処分を下した。
2017年(平成29年)11月に施行された技能実習適正化法に基づく措置であり、三菱自動車は2019年から2024年までの5年間、外国人技能実習生の新規受け入れが出来なくなった。
2018年11月19日、三菱自動車工業取締役会長のカルロス・ゴーンが、金融商品取引法違反で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された[102]。
2020年6月、三菱自動車に勤めていた男性社員(当時47歳)が2019年2月に自殺したのは、長時間労働により発症した精神疾患が原因だったとして、三田労働基準監督署が労災認定していたことがわかった[103]。
遺族の代理人弁護士によると、男性社員は1993年に新卒で三菱自動車に入社[104]。エンジニアとして長く商品開発に携わっていたが、2018年1月からそれまで経験のなかった商品企画部に配属され、日産自動車と共同開発した軽自動車(eKワゴン・eKクロス)の商品企画を担当[104]。単身赴任して住んでいた社員寮では平日の夜も会社のパソコンで仕事をしており、休日に妻と娘がいる自宅に帰った際も近くの図書館で仕事をしていた[103]。両社の意向を調整する業務に従事する中で、板挟みになり強いストレスを抱えていたという[104]。2019年2月7日、男性社員は社員寮で練炭自殺した[104]。
遺族から労働災害の申請を受けて労働基準監督署が調査した結果、亡くなる直前の1か月の残業時間が「過労死ライン」と言われる100時間を超える139時間以上にのぼっていたことが分かった[105]。男性社員は休日もパソコンを使って働くなどしており、実際の労働時間はさらに長かったとみられる。健保組合から支給されたスマートウォッチの記録では、亡くなる前の1カ月のうち22日は睡眠時間が6時間に満たなかった[106]。三田労働基準監督署は男性社員が自殺したのは残業が急増するなどした結果、精神疾患を発症したのが原因だったとして、2020年5月28日付で労働災害と認定した[105]。
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