浦和レッドダイヤモンズ (うらわレッドダイヤモンズ、英 : Urawa Red Diamonds )は、日本 の埼玉県 さいたま市 をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ (Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10 の1つ。呼称は浦和レッズ (うらわレッズ)。
三菱自動車工業サッカー部 (1950年 創部)を前身とする。ホームタウン は埼玉県 さいたま市 (旧:浦和市 )。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002 と浦和駒場スタジアム [1] 、練習グラウンドは大原サッカー場 [1] 。チーム名は「ダイヤモンド 」(最高の輝き、固い結束力)に由来し[1] 、それをクラブカラーである「レッド」と組み合わせたもの[1] 。
国内三大タイトル (J1リーグ 、Jリーグカップ 、天皇杯 )を全て獲得しているクラブの一つで、Jリーグクラブで初めてAFCチャンピオンズリーグ で優勝を成し遂げたクラブでもある。観客動員と営業収入においては、長年Jリーグ加盟クラブ中最高の成績を維持し続けている(当項目 を参照のこと)。
運営会社
運営会社は「浦和レッドダイヤモンズ株式会社 」。埼玉県さいたま市緑区の埼玉スタジアム2002内に本社を置く。
三菱自動車工業 (三菱自工)の全額出資により設立された(設立当初の商号は「株式会社三菱自動車フットボールクラブ 」)。1996年 の増資時に埼玉県 と浦和市の出資を受けた。更に2000年に埼玉県内の複数の企業および三菱グループ他社など計27社[注 1] から出資を受け、三菱自工は引き続き株式の過半数(50.625%)を保有する筆頭株主であった。
しかし2016年 、三菱自工が燃費試験の不正問題 に起因する経営難から再建を図る際に日産自動車 (日産)が株式を34%保有する単独筆頭株主となったため、日産が株式の約75%を保有する横浜F・マリノス との間で、Jリーグクラブの親会社が他クラブの親会社の株式の保有を禁じるJリーグ規約第25条(5)の規定[注 2] に抵触する可能性が生じた[7] 。これについて、Jリーグチェアマン の村井満 が2016年6月の臨時理事会後に「クラブライセンス交付第1審機関 が(レッズが日産及び三菱自の子会社・関連会社 に該当するかを)認定するためJリーグ側では認定できない」とした上で「現状ではJリーグの規約に抵触する可能性が高い」との見解を表明した[8] 。
三菱自工およびクラブ側で株式の委譲などを検討した結果、2016年10月31日に、三菱自工が三菱重工業 と共同出資して持株会社 「ダイヤモンドF.C.パートナーズ 株式会社 」を設立し、同社にクラブの全株式を譲渡することを発表[9] 。これにより三菱自工の間接出資比率が19.8%となったことで問題を解消した[10] 。
2017年1月に1億1280万円の第三者割当増資 を実施し、新たに15社[注 3] が株主に加わり、株主数は43社・2団体となった[3] 。なお、ダイヤモンドF.C.パートナーズも増資を引き受け(410株)、同社が過半の株式を保有する状況に変わりは無い。
クラブの経営状況
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(2013年3月 )
Jリーグトップの営業収益を上げる背景には以下の点が挙げられる。
1996年-1999年、2001年-2002年、2006年以降と過去に18シーズンでJリーグ観客動員1位を記録。2007年はナビスコ杯4試合、ACL6試合とカップ戦を含めた年間観客動員数がJリーグクラブでは初めて100万人を突破し、2008年はリーグ戦でJリーグ史上最高となる809,353人を動員した。2012年8月4日FC東京 との試合で1000万人を動員した。
1人当たり動員単価が約2,900円(新潟:約1,700円)と比較的高水準である。これは、招待券による入場者が極めて少なく(同年度0.5%[12] )、割引率10%未満にもかかわらずシーズンチケット(埼玉スタジアムの約2万2000枚を含む)が軒並み完売していることから、それらが入場料収入の確保に高い安定性をもたらしていることが挙げられる。
ユニフォーム サプライヤーは、1993年 から1996年 のリーグ戦[注 4] でのミズノ 、並びに1997年 のリーグ戦でのUMBRO を除き、過去は一貫してプーマ であったが、2004年 からナイキ が独占供給契約を結んでおり、2007年 からは4年間で16億円の契約に更新することが報じられている。
地域への貢献
浦和区にあったオフィシャルショップ(現在は同区内で移転)「RED VOLTAGE 」(2015年)
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(2013年3月 )
営業収入はチーム強化の他に事業運営の財源にも割り振られ、設備投資をはじめとした高度な地域貢献を可能にしている(参考:同年度事業運営費33億200万円)。2004年には4億5000万をかけてクラブハウスを新築。2階にサポーターズカフェを設け、1階前面には197席の練習見学スタンドを設けた。クラブはこれを地元のファンを中心にした交流拠点としてさいたま市に寄贈している。また、少年サッカーの普及事業として、各種サッカー教室の開講をはじめ、クラブトップチームの優勝賞金の一部を用具などのかたちで地元の幼稚園・小中学校・特別支援学校 に寄贈するなど、独特の地域還元の手法を展開している。女子サッカーに関しては2005年2月、日本女子サッカーリーグ のさいたまレイナスFC を統合し、浦和レッズ・レディース を設立。アマチュアチームに練習場を提供し、優れた選手にはプロ契約の道を開くなど、女子サッカーの普及と充実に貢献している。
埼玉県 内における浦和レッズがもたらす経済波及効果は、年間127億円 (2006年度ベース)[13] [14] 。そのうち、直接効果はクラブの支出68億55百万円とサポーター の交通費・飲食代21億25百万円の合計89億80百万円となり、一次波及効果は16億74百万円、二次波及効果が20億65百万円で、経済波及効果の合計は127億19百万円と算出されている[14] 。これにはスカパー! [ 要曖昧さ回避 ] (スカパー!プレミアムサービス 含む)や、ケーブルテレビ 等のJリーグ 有料放送の視聴増加分や大画面テレビ等の購入促進効果、地元でのサッカー人気の盛り上がりに伴う消費拡大などは含まれていない。
特色ある事業のひとつに、主に幼稚園児、小学生を対象にした「ハートフルクラブ 」の運営がある。2003年にスタートした同クラブは、元日本代表の落合弘 がキャプテンを務め、コーチはOBの杉山弘一 、土橋正樹 、宮沢克行 ら計8人を数える。毎週開催されるサッカースクールのほか、地域の幼稚園(レッズキッズサッカー)、小学校授業サポート、中学校サッカー部活動サポートなどを巡回実施し、また障害者にサッカーの場の提供を行うなど地域貢献にも力を入れている。2006年には約36000人の児童を集め、累計で10万人に達している。中学生未満の児童に対してはテクニック向上を重視せず、サッカーの楽しさやコミュニケーション育成を方針としているため、浦和レッズは競技力を重視する小学生チームを保有していない。
Jリーグ百年構想 の一環として、さいたま市桜区の14万平方メートルの敷地(元東京農業大学 グラウンド)にサッカー場(天然芝 2面・人工芝 1面)、フットサル 場(人工芝 8面)、テニス 場(全天候型など9面)、野球 場(天然芝 1面)、ラグビー 場(天然芝 1面)、サイクリング コース、キャンプ 場を整備しており、上述のクラブハウスと併せて、これらの施設をレッズランド として一般に開放している。現役を引退した浦和レッズの選手が指導するフットサル教室や少年サッカー教室、伊達公子 がプロデュースするテニス教室なども開講し、生涯スポーツの普及に取り組んでいる。整備・建設にあたって、批判の多い公的資金の投入を極力回避していることで、このような利用者ニーズに応えた自由な設計が実現している。室内スポーツに関しても、2006年4月に隣接する浦和西体育館 の指定管理者 となった。クラブでは、地域に根ざしたヨーロッパ型の総合スポーツクラブを目標としている。
そのほか、2011年3月11日の東日本大震災の復興を支援するために「東日本大震災等支援プロジェクト」に取り組み、サッカーを通じて子どもたちの心のケアに努めている。
国際交流
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(2018年1月 )
アジアサッカー連盟が主催する2007年のAFCチャンピオンズリーグ2007 (ACL)に日本代表クラブとして出場が決定して以来、「アジアを征して世界と互角に戦う強いクラブを目指す」という目標を掲げている。ACLのホームゲームには、通常予選リーグを開催する水曜は集客率が鈍いため小規模のスタジアムで開催する傾向にあるが、あえて2万人収容の駒場スタジアムではなく6万人収容の埼玉スタジアムで開催[15] 。予選通過後の全ての試合を埼玉スタジアムで開催した。また、ACLの海外遠征時には、「ハートフルクラブ」の活動を遠征地でも実施し、草の根レベルでの国際交流・サッカーの普及をはかった。2008年には、前年のACL決勝の際にUAEのドバイで事前合宿をした縁で、中東では初となる「ハートフルクラブ」の活動を同地で実施した。
定期的にさいたまシティカップ を開催し、海外のクラブチームと対戦している。
2006年にイギリスのテレビ番組制作会社IMGロンドンによる、世界を代表する10クラブを題材にした番組「キングス・オブ・クラブス」の対象としてノミネートされた。同番組では、他にレアル・マドリード (スペイン )、チェルシーFC (イングランド )、ACミラン (イタリア )、ボカ・ジュニアーズ (アルゼンチン )など世界的な12クラブがノミネートされ、そのうち10クラブが「トップ10」として紹介される。IMGロンドンのプロデューサー、ゲイル・ファーマーは「浦和の知名度は欧州でも高い」と話している。番組は2007年3月から、日本を含めた世界130カ国で放送された。
2023年、第14回グローブ・サッカー・アワード2023における『最優秀男子クラブ』の受賞候補20クラブが発表され、浦和レッズがノミネートされた。アジアからは浦和の他、アル・ヒラル (サウジアラビア )、アル・イテハド (サウジアラビア)らがノミネートされ、その他地域ではマンチェスター・シティFC (イングランド)、FCバルセロナ (スペイン)やFCバイエルン・ミュンヘン (ドイツ )などもノミネートされた。
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1990年代
1992年 - 1994年
浦和駒場スタジアム(メインスタンド)
1992年 - Jリーグ開幕前に開催されたナビスコ杯 に参加し、予選リーグを5勝4敗と勝ち越したが、予選5位で上位4クラブによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯 はベスト4へ進出した。
1993年 の両ステージ、1994年 の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、1993年シーズンは両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:鹿島アントラーズ 、ニコスシリーズ:V川崎 )の優勝を目の前で決められた。なお、1993年シーズン終了後に当時監督の森孝慈 は「3年間分負けた」と発言したほか、1993年・1994年のリーグ戦用のセカンドユニフォームのカラーは水色であったが、このユニフォームを使用した試合では2年間で1勝もすることができなかった。
当時の補強方針にも疑問符がついた。センターフォワードのヴィクトール・ウーゴ・フェレイラ が出場4試合で解雇され、さらには攻撃の要として期待されたウーベ・ラーン が結果を残せずセンターバックにコンバートされた事はクラブの迷走を象徴するものであった。また、守備強化のためGKのミロ を獲得し、ミロ自体はGKとしては活躍したものの肝心のDFは補強されなかったため、出場3試合目の名古屋グランパス 戦に大敗し3連敗を喫した後に報道陣に対し「次が(自分が出場する)最後(の試合)になるかも」「もう帰りたい」とコメントするほどで、結果的にこの時期に外国人選手で活躍したのはミヒャエル・ルンメニゲ だけであった。しかし、1994年のセカンドステージからギド・ブッフバルト やウーベ・バイン が加入すると徐々に改善の兆しを見せていった。
1994年6月の第1ステージ・サントリーシリーズ後、駒場陸上競技場がJリーグ規格の15000人を下回るキャパシティ(当時約1万人収容)であり、Jリーグの勧告を受けるかたちで増築・改修を行うことを決め一時閉鎖。第2ステージ・NICOSシリーズ以後は大宮サッカー場(こちらも当時は約1万人収容でJリーグ規格外)でホームゲームを開催。
1994年11月19日第2ステージ・NICOSシリーズ最終節の横浜マリノス 戦は、駒場陸上競技場が改修工事中だったことや、収容15,000人以上の関東のスタジアムに全て断られたことにより富山県総合運動公園陸上競技場 で開催。
1995年 - 1998年
ギド・ブッフバルト 。レッズOBで後にレッズの監督も務めた。
1995年 に就任したドイツ人 監督ホルガー・オジェック の下で躍進を遂げる。前年に加入した元ドイツ代表 のDFブッフバルトの活躍によって守備が安定し、1995年の1stステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博 が日本人初のJリーグ得点王となった。
同年サントリーシリーズは引き続いて大宮で主催試合を行ったが、NICOSシリーズが開幕する8月に駒場スタジアムの増築が完了し本拠地に復帰。
その後は中位にとどまることが多くなる。背景には、三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。
通年シーズンであった1996年 は第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず最終的に6位で終了。
1997年 、攻撃的サッカーへの転換を図り新監督にホルスト・ケッペル を招聘するも、全く内容が伴わずわずか1年で退団。シーズン終了後にはブッフバルトが退団、移籍。
1998年 は三菱OBの原博実 監督の下、新加入の小野伸二 やゼリコ・ペトロヴィッチ を擁して2ndステージで3位となった。
2010年代
2010年
チームスローガン:KEEP REDS ON!
2011年
チームスローガン:TOGETHER FOR THE GOAL
2012年
チームスローガン:REDS 020th We stand beside you forever always
2012年から5年半チームを率いたミハイロ・ペトロヴィッチ
2013年
チームスローガン:REDS TAKE A STEP FORWARD
ペトロヴィッチ体制2年目。
田中達也 が新潟 へ、ポポ が神戸 へ完全移籍。また、期限付き移籍中の原一樹 、エスクデロ・セルヒオ [注 12] 、青山隼 がそのまま完全移籍。また、濱田水輝 が新潟 へ期限付き移籍(2014年1月31日まで)し、千葉 に期限付き移籍している高橋峻希 の移籍期間が2014年1月31日まで延長された。
前年に1.FCケルン からレンタルで加入した槙野智章 が完全移籍となり、広島 から森脇良太 、仙台 から関口訓充 、鹿島 から興梠慎三 、柏 から那須大亮 をそれぞれ完全移籍で獲得。明治大学 から阪野豊史 が加入した。また、草津 へ期限付き移籍していた永田拓也 が復帰した。
開幕戦で前年王者の広島に勝利し、2008年から続いていた開幕戦の連敗を止めてクラブ史上初のアウェイゲームでの開幕戦勝利 を達成。その後は開幕6試合負けなしと序盤から好調を維持し、コンフェデレーションズカップ によるリーグ戦中断までの時点では、横浜FM と勝点27で並び得失点差で上回る2位で、首位を独走していた大宮 と勝点差5の状態だった。前半戦最終2戦でリーグ戦2度目の連敗を喫し9勝4分4敗で勝点31の4位で折り返す。第19節終了時に3位に再浮上して以降、終盤まで3位と2位を行き来するかたちで、第22節広島、第24、31各節横浜FM 首位に3度までも勝点差1まで迫り優勝争いに絡んだものの、いずれもその次の試合で敗れ再び差を広げられるなど勝負弱さを露呈。33節で鳥栖 に敗れた時点で優勝の可能性が消滅し、最終節でもC大阪 に2-5で大敗し同シーズンリーグ戦初の3連敗、かつ最終4節未勝利で6位に後退、ACL 出場権を逃した。興梠慎三 、柏木陽介 、原口元気 の1トップ2シャドーを中心とした攻撃陣は、リーグ1位の66得点をマークする等力を発揮した一方、可変フォーメーションの3バックのうちサイドバックに位置する森脇と槙野が積極的に攻撃参加する為、カウンターの対策が脆弱だった事もあり守備陣は終盤5試合で16失点を喫する等でリーグ12位タイの56失点と脆さを露見させ、この攻守のバランスの悪さが勝ちきれない試合を多く生み出し失速した要因になった。
リーグ戦同様カップ戦でも勝負弱さを露呈し、5年ぶりの出場となったACL2013 では3勝1分2敗の勝点10という成績であったが、同勝点の全北現代(韓国) との直接対決の成績で1分1敗と下回ったためグループリーグ敗退。天皇杯 では主力を温存した結果3回戦で山形 に敗退し、ナビスコカップ は2年ぶり5回目の決勝進出を果たしながら柏 に0-1で敗れ準優勝と、国内三冠も射程圏内でありながら結局無冠でシーズンを終えることとなった。
5月11日に開催されたホームの鹿島 戦は、目前に控えていたJリーグ開幕20周年を記念して「Jリーグ20thアニバーサリーマッチ 」として開催された[注 13] 。
3月30日のアルビレックス新潟戦で、マルシオ・リシャルデス がチームのJ1通算1000ゴールを決めた。また、10月27日の柏 戦で山田暢久 がJリーグ 通算500試合出場を達成した。
2014年
チームスローガン:REDS-FULL of LIFE!
序盤は前述のトラブルによる混乱もあり、5試合を消化した時点で2敗を喫する等やや躓いたものの、その後はクラブ新記録となる4試合連続完封を記録するなど強固な守備を武器に一気に調子を上げ、ペトロヴィッチ体制となって初めて首位で2014 FIFAワールドカップ による中断期間を迎えた。中断期間明け後も記録は続き、7月23日にはJ1新記録となる7試合連続完封を達成した。
5月25日、原口元気 がドイツ・ブンデスリーガのヘルタ・ベルリン へ完全移籍。6月16日には山岸範宏 の山形 への期限付き移籍と、岩舘直 の水戸 から期限付き移籍での加入が発表された。
10月6日、ペトロヴィッチ監督との契約を更新した。浦和レッズの監督としては、クラブ史上最長となる4シーズン目を迎える事になる。
10月22日、第29節甲府 戦でJリーグ初となる公式戦通算1000試合を達成するも、観客動員数は1万9977人で、埼玉スタジアム2002が2001年に開業して以来初めて、1試合の観客動員数が2万人を下回った。
リーグ戦は、中断後も好調を維持し、一時は2位と勝点差7をつけて首位に立つものの、前年同様終盤に失速。当時12ゴールと得点源だった興梠が第30節の鹿島戦で負傷し、第32節の勝てば優勝決定という大一番となった、勝点差5の2位G大阪 との直接対決は引き分けても優勝に大きく近づく状況だったにも関わらず勝って優勝を決めようとして終盤の2失点で敗れた。そればかりか、ペトロヴィッチが鹿島戦で負傷したにも関わらず興梠を3枚目の交代に使用した事で右腓骨骨折を更に悪化させてしまう。続く第33節鳥栖戦では後半アディショナルタイム のラストプレーで途中出場の小林久晃 に同点ゴールを決められて痛恨の引き分け、G大阪に首位を明け渡す。最終節名古屋 戦では、試合開始早々に槙野のゴールで先制するも、後半にセットプレーで牟田雄祐 に押し込まれ同点に追いつかれる。そして3枚目の交代枠に不整脈から復帰したばかりの鈴木を投入すると、自陣でその鈴木のパスミスによるカウンターから永井謙佑 に決勝弾を決められて逆転負け。G大阪が既に最下位でのJ2降格が決まっている徳島 に引き分けたにも関わらず西川がGKのJ1年間完封試合数の記録を16に更新した(それまでの記録は93年V川崎 の菊池新吉 、09年FC東京 の権田修一 が記録した15)甲斐も空しくACLを制した2007年に続き逆転で優勝を攫われた。
ヤマザキナビスコカップ は、グループリーグを首位通過したものの、準々決勝で広島と2引き分け、アウェイゴール ルールにより敗れた。天皇杯 は、3回戦で群馬 に1-2で敗れ、前年の山形に続きJ2相手に敗戦を喫した。
12月13日、天皇杯でG大阪が優勝したことにより、FUJI XEROX SUPER CUP2015 へ繰り上げで出場が決定。
2015年
チームスローガン:WE BELIEVE in REDS
ペトロヴィッチ体制4年目。
坪井慶介 が湘南 に、加藤順大 が大宮 にそれぞれ完全移籍、山田直輝 が湘南 に、阪野豊史 が栃木 にそれぞれ期限付き移籍 、山形 に期限付き移籍していた山岸範宏 は完全移籍した。また、関口訓充 (その後C大阪 へ移籍)、マルシオ・リシャルデス 、福岡に期限付き移籍していた野崎雅也 がそれぞれ契約満了により退団した。
柏 から橋本和 、仙台 から武藤雄樹 、清水 から高木俊幸 、大宮からズラタン 、広島 から石原直樹 、FC東京 から加賀健一 が完全移籍で加入、小島秀仁 は徳島 から岡本拓也 は長崎 から復帰水戸 から期限付き移籍中の岩舘直 は移籍期間を延長した。
指宿 キャンプ中、この年から新設されたJリーグ・スカパー! ニューイヤーカップ鹿児島ラウンドに出場し初優勝を飾った。
リーグ戦1stステージでは、開幕戦で湘南に3-1で勝利し、その後も一度も負けることなく順調に勝点を伸ばすと、6月3日の柏戦でJ1新記録となる開幕14試合連続無敗を達成。そして、第16節で神戸に引き分け史上初の無敗優勝を決めた。無敗記録は最終的に、7月19日に2ndステージ第3節の広島とのホーム戦で敗れるまで続き、開幕19試合連続無敗となった。
その一方で、4度目の出場となったAFCチャンピオンズリーグ2015 では、初戦で水原三星 に1-2で逆転負けを喫すると、その後3連敗と全く結果を残せず、5戦目も敗れて最下位でのグループリーグ敗退となった。
2ndステージは最終的に9勝4敗4引き分けとなり、年間成績ではサンフレッチェ広島に勝点2及ばず勝点2位となったため、チャンピオンシップ には準決勝から挑むこととなった。準決勝のガンバ大阪戦は1-1の同点で延長に突入したが、延長後半に2点を奪われ3-1で敗戦、年間順位3位でシーズンを終えることとなった。
ナビスコカップでは、準々決勝で、新潟 と対戦し、1回戦は0-5と大敗し、2回戦は3-0で勝利したものの、トータルスコアでは3-5で敗れ、2年連続ベスト8で敗退となった。
その一方で、天皇杯は順調に相手を撃破し、9年ぶりの決勝進出を果たすものの、決勝のガンバ大阪との対戦では先制を許した後、興梠のゴールで追いつき1-1で前半を折り返す。しかし、後半に勝ち越しを許し1-2で敗れ、9年ぶりの優勝を果たせなかった。
2016年
チームスローガン:Beating Heart Together!
ペトロヴィッチ体制5年目。
鈴木啓太 が引退、阪野豊史、茂木力也が愛媛 、斎藤翔太が水戸 、岡本拓也が湘南 に期限付き移籍、山田直輝、矢島慎也の期限付き移籍期間が延長した。
湘南 から遠藤航 、FCアスタナ からブランコ・イリッチ 、京都から駒井善成 、高卒の伊藤涼太郎 を獲得。また1.FCケルン から長澤和輝 を完全移籍で獲得すると同時に千葉 への期限付き移籍が発表された。期限付き移籍だった岩舘直が完全移籍に移行した。
6月27日福島春樹 の鳥取 、7月6日橋本和 の神戸 への期限付き移籍が発表された。
AFCチャンピオンズリーグ2016 ではグループHに入り、前年の王者広州恒大 と1勝1分けとするなど2勝3分け1敗のグループ2位で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント1回戦ではペトロヴィッチの広島時代に所属した高萩が所属していたFCソウル と対戦し、さいたま市での1stレグでは宇賀神友弥 のゴールで1-0で先勝、ソウルワールドカップ競技場 での2ndレグではキャプテンとしてAFC U-23選手権2016 優勝に貢献した遠藤が自陣ペナルティーエリア付近でアドリアーノ に奪われるミスを犯しデヤン・ダミヤノヴィッチ にゴールを奪われ90分終了時0-1となり延長戦に突入。延長戦では李の2ゴールで一旦は勝ち越すもアディショナルタイム突入後に高余韓のゴールで追いつかれて2試合合計3-3となりPK戦に突入する。PK戦では4人目までに4-3としていたが、決めれば9年ぶりのベスト8進出が決まる5番手の西川が失敗してサドンデスに突入、8番手の駒井も止められて6-7で敗戦した。
Jリーグの1stステージでは序盤戦から首位を走っていたが6月11日の鹿島 戦で敗れ、6月15日のG大阪戦で連敗し首位から転落した。また、第17節の広島戦で3連敗をしてしまい1stステージ優勝を逃した。
8月6日 Jリーグ2ndステージ第7節湘南戦でホーム通算試合500試合を達成した。
9月25日 のJ1 2ndステージ第13節広島 戦で年間順位3位以内が確定、2年連続チャンピオンシップへの出場が決まった。
ACL組としてシードされたJリーグYBCルヴァンカップ ではここ2年鬼門だった準々決勝で4日前のリーグ戦では1-2で敗れている神戸に敵地で1-2で競り勝つと第2戦は4-0の圧勝。準決勝でも第1戦で得意の味スタ で12年間公式戦では負けておらずお得意様のFC東京 に2-1で逆転勝ちを収めると10月9日 に行われた第2戦は3-1で勝利し、3年ぶりの決勝をガンバ大阪 と迎える事になった。決勝戦では前半17分に槙野が敵陣で引っ掛けられるとアデミウソン にドリブルで切り裂かれた末に先制点を奪われるが、後半30分に高木との交代で入った李忠成が入ったばかりのコーナーキックに合わせて1-1の同点に追いついた。その後、延長戦でも決着がつかずにPK戦に突入、3人目までは全員決めてG大阪の4番手で当時ルーキーだった呉屋が真ん中目掛けて蹴ったシュートを西川が足で止めて、5番手の遠藤航まで全員決めて勝負あり。5-4で13年ぶりとなるJリーグYBCルヴァンカップ 優勝。ペトロヴィッチにとっては2006年6月から日本で指揮を執って以来初の国内三大タイトル優勝を果たした。なおこれが2023年現在ペトロヴィッチが獲得した唯一の国内三大タイトルである。
11月3日 のJ1 2ndステージ第17節横浜FM 戦で引き分けて年間勝点順位1位(勝点74)とし、Jリーグチャンピオンシップ決勝 からの出場を決めた。チャンピオンシップでは鹿島と対戦、アウェイでの1stレグは興梠がPKを誘い阿部が沈めた1点を守り切って1-0で先勝、ホームの2ndレグでは興梠のゴールで先制し2戦合計2-0とリードするものの、ロングボールへの宇賀神の稚拙な対応[41] もあって金崎夢生 にダイビングヘッドで1点を返され、後半35分にはカウンターで攻める鈴木優磨 を槙野がペナルティエリア内で倒してPKを献上、またも金崎に決められて1-2とされ、アウェイゴールの数により年間王者を逃した。
2017年
チームスローガン:すべてにおいてバージョンアップ
ペトロヴィッチ体制6年目。
大谷幸輝 が新潟 、永田充 が東京V 、加賀健一 が山形 へ完全移籍、石原直樹 が仙台 に期限付き移籍、茂木力也 は期限付き移籍先が愛媛 から山形へ変更、期限付き移籍していた橋本和 が神戸 、阪野豊史 が山形に完全移籍、斎藤翔太 の期限付き移籍期間が延長、9月には伊藤涼太郎 が水戸 へ期限付き移籍した。
千葉 からオナイウ阿道 、新潟 からラファエル・シルバ 、湘南 から菊池大介 、横浜FM から榎本哲也 を完全移籍で、福岡 から田村友 を期限付き移籍で獲得。さらに福島春樹 、長澤和輝 、矢島慎也 が期限付き移籍から復帰した。8月には守備立て直しのためCSマリティモ からマウリシオ を獲得した。
J1リーグ 戦第6節仙台戦ではクラブ最多得点記録タイとなる7得点を挙げ7-0で勝利した。
チームは第8節終了時点で6勝1分1敗と首位を走っていたが、第9節の当時リーグ最下位の大宮 とのさいたまダービーで敗戦したところから低迷、さらに第13節川崎 戦[注 14] での敗戦後ペトロヴィッチ監督が次に行われる第18節新潟戦から連勝出来なければチームを去るとサポーターに告げる事態にまで発展した。新潟、天皇杯3回戦の熊本には勝利したが、続く第22節C大阪 戦[注 15] で敗戦、そして第19節の札幌 戦も敗れ第9節以降の成績が3勝1分8敗となり順位も8位まで低迷、そして7月30日、ペトロヴィッチとコーチ兼通訳の杉浦大輔 を解任[42] 、後任にコーチの堀孝史 が2011年10月以来約5年半ぶりに監督に就任した[43] 。
AFCチャンピオンズリーグ2017 ではグループリーグ上海上港 、FCソウル と同組になるも4勝2敗の成績で首位通過。ラウンド16では済州ユナイテッド と対戦。アウェイの第1戦を0-2で落とし第2戦で勝ち抜けに最低でも3点が必要な状況[注 16] に追い込まれたが、延長戦の末3-0で勝利し勝ち抜けた。堀が就任した準々決勝は川崎 と対戦。第1戦を1-3で落とし、迎えた第2戦では先制点を献上するも、興梠の得点後に車屋紳太郎 が退場しバランスを取る為中村憲剛 を下げた後、防戦一方になった川崎を攻め立てズラタン、ラファエルシルバ、高木俊幸のゴールで4-1で試合終了。2戦合計5-4となり、歴史的大逆転勝利を飾った。準決勝ではグループリーグでも対戦した上海上港 を2戦合計2-1で破り、10年ぶりの決勝進出を決めた[44] 。決勝はサウジアラビアのアル・ヒラル と対戦。2戦合計2-1で勝利し、日本勢では2008年のG大阪 以来9年振り、クラブとしては2007年以来10年振りとなる優勝を飾った。また、ホーム7戦全勝という大会史上初の快挙も達成した。また、堀はこのシーズンのAFC年間最優秀監督賞 に選ばれた。なおクラブは国内外で7つ目のタイトルを獲得したが、日本人監督の下で獲得したのはクラブ史上初である[45] 。
だが、2007年の優勝とは違い、2年連続で出場する為には最低でも4位に入らなければならないJリーグでは、監督交代後は守備に重きを置き競争力を取り戻したものの、8月は3連勝を含む勝ち点10を稼いだが、その後はACLでの闘いもあって連勝が叶わず、ラスト3試合も全て0-1と黒星を重ね、結局リーグ戦は7位で終了した。沖縄での2次キャンプで「相手のコートで戦う」(ペトロヴィッチ)[46] というコンセプトの下で、前年以上にチーム全体が前掛かりになったこともあり、昨年は28だった失点が54とほぼ倍増し、スコアレスドローも含めた完封数は降格した3チームよりも少ない4[注 17] (リーグ最少)と、足を引っ張った守備が上位進出を阻む結果となった。
FIFAクラブワールドカップ2017 では準々決勝でアル・ジャジーラ と対戦、後半に失点をしてしまい0-1で敗れ5位決定戦へ回った。5位決定戦ではウィダード・カサブランカ と対戦、マウリシオの2ゴール、柏木陽介 の1ゴールを守りきり3-2で勝利し5位となった。
前年王者として迎えた、ルヴァンカップ は、準々決勝 で、C大阪 に、アウェイでの第1戦は0-0、第2戦はホームで 、2-2アウェイゴールの差で、敗退。
2019年
チームスローガン:浦和のために 最後まで走り、闘い、貫く
平川忠亮 が前年限りで引退、ズラタン が契約満了で退団、菊池大介 が柏、李忠成 が横浜FM、榎本哲也 が富山へ完全移籍。駒井善成 、岡本拓也 もそれぞれレンタル先への完全移籍に切り替わった。また伊藤涼太郎 、オナイウ阿道 は大分、武富孝介 が湘南へ期限付き移籍。
C大阪から杉本健勇 、柏から鈴木大輔 、横浜FMから山中亮輔 、山形から汰木康也 を完全移籍で獲得。FCポルト からエヴェルトン を期限付き移籍で獲得した。夏には関根貴大が2年ぶりに復帰、武富孝介は湘南のパワハラ問題 もあり期限を早めて復帰した一方、アンドリュー・ナバウト が退団。武富は復帰後、疲労骨折を負った。
各ポジションに実力者を獲得し、目標とする「リーグとACLの2冠」も達成しうる陣容を揃えた[50] 。プレシーズンに練習試合を1試合も行わなかったからかリーグは開幕から低調。10節から10年ぶりとなる4連敗を喫するとオズワルド・オリヴェイラ監督を解任。後任に昨季暫定監督を務めた大槻毅 が正式監督として就任した[51] 。しかしその後も過密日程の中、21節から4ヶ月14試合で1勝(6分け7敗)で最終節になって1部残留が決まった。結果は9勝10分15敗の勝ち点37で14位、2部との入れ替え戦に回る16位との勝ち点差は1であった。
前年王者として迎えた天皇杯は4回戦でJFLのHonda FC に0-2で完敗。試合後には不満を募らせたサポーターが選手バスを取り囲んで抗議する事態に至った[52] 。ルヴァンカップは準々決勝で鹿島と対戦し、2戦1分1敗、合計4-5で敗退した。なお、チームは8月14日の天皇杯3回戦・水戸ホーリーホック戦を最後に全コンペティションで10戦連続未勝利(5分け5敗)に陥っており、上記の3試合は全てこの時期に行われたものである。
ACLは、グループリーグでブリーラム・ユナイテッド、北京国安、全北現代と同居。勝利した方が決勝トーナメント進出となる最終節・北京国安戦に3-0で完勝し、ベスト16進出。ラウンド16は蔚山現代にホームで1-2と敗れるもアウェイで3-0と勝利し逆転でベスト8進出。準々決勝は上海上港に2分けながらアウェイゴール差で勝ち上がり、準決勝は広州恒大に連勝し、2年ぶり3度目の決勝進出を決めた。決勝は2年前と同じくアル・ヒラルと対戦したが、アンドレ・カリージョ 、セバスティアン・ジョヴィンコ 、バフェティンミ・ゴミス といった強力な助っ人を擁したチームに2戦合計0-3で完敗。リーグ戦で3点を奪った試合が2試合しかない程の得点力不足がACLの決勝で出てしまい3度目の優勝はならなかった。
2020年代
2020年
強化体制が一新され、中村修三GM・北野大助GM補佐が退任。新たにスポーツダイレクター(SD)、テクニカルダイレクター(TD)が置かれるようになった。初代SDに土田尚史 、TDに西野努 が就任した。また、大槻毅監督の続投が発表された。土田SDは11月に病気療養に入った。
森脇良太 が退団、オナイウ阿道 は期限付き移籍から復帰したがすぐ横浜FM に移籍。茂木力也 、山田直輝 はそれぞれレンタル先への完全移籍に切り替わった。井澤春輝 が鹿児島 、大城蛍 が鳥取 、池高暢希 が富山 へ期限付き移籍。シーズン途中にマウリシオ・ファブリシオが揃ってポルティモネンセへレンタル移籍となった。
新潟 から昨季J2得点王のレオナルド を獲得。伊藤涼太郎 が期限付き移籍から復帰。また青森山田高校 から武田英寿 が加入。チーム始動後にメルボルン・ビクトリー からU-23豪州代表主将のトーマス・デン を獲得した。
目先の勝利に囚われることなくチームを変革させるため2022年度のリーグ優勝を目標とする『3年計画』を掲げ、2020年はその1年目という位置付けでチームコンセプトの浸透を図りつつ、「ACL出場権獲得・得失点差プラス2桁以上」を目標に掲げた[53] 。その1つとして、基本フォーメーションを慣れ親しんだ3バックから4バックに変更し、4-4-2の布陣を採用。公式戦5戦無敗(4勝1分)と好スタートを切ったかに見えたが、過密日程の中で中々戦術が浸透せず、徐々に順位を下げ、13勝7分け14敗と負け越して10位に終わった。試合内容も悪いことが多く、勝利時はなんとか逃げ切り辛勝、敗戦時は徹底的に攻め込まれ大敗という状況が続き、得失点差は-13とマイナス2桁に乗ってしまった[注 19] 。9月にホーム3連戦で3連続完封負け、2008年以降なかった1試合6失点を1年で2度喫するなど、攻守両面で内容の伴わないシーズンとなった。
ルヴァンカップは2年ぶりにグループステージからの出場。開幕節で仙台 に5-2で勝ったが、C大阪 に0-1で敗戦。新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う中断&レギュレーション変更の結果、1回戦総当たり・同グループの松本山雅FC が不参加となったためこれでグループ2位となったが、プレーオフステージが取りやめとなったためグループ2位内での成績最上位クラブしかプライムステージに進出できず、結果名古屋グランパス に及ばずグループステージ敗退となった。天皇杯もレギュレーション変更の結果リーグ戦上位2位までしか出場権がなく、リーグ10位のため不参加となった。
その他タイトル
さいたまシティカップ :3回
Jリーグマネジメントカップ :4回
eJ.LEAGUE :1回
フィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会 :2回
表彰
Jリーグ /J1リーグ
最優秀選手賞
ベストイレブン
1995 - 福田正博 , ギド・ブッフバルト
1996 - 岡野雅行 , ギド・ブッフバルト
1998 - 小野伸二
2002 - エメルソン
2003 - エメルソン, 坪井慶介
2004 - エメルソン, 長谷部誠 , 田中マルクス闘莉王
2005 - 田中マルクス闘莉王
2006 - ワシントン , 鈴木啓太 , 田中マルクス闘莉王
2007 - ロブソン・ポンテ, 鈴木啓太, 阿部勇樹 , 田中マルクス闘莉王, 都築龍太
2008 - 田中マルクス闘莉王
2009 - 田中マルクス闘莉王
2013 - 那須大亮
2014 - 西川周作
2015 - 槙野智章 , 西川周作
2016 - 柏木陽介 , 阿部勇樹, 槙野智章, 西川周作
2017 - 興梠慎三
2023 - 伊藤敦樹 , マリウス・ホイブラーテン , アレクサンダー・ショルツ , 西川周作
得点王
1995 - 福田正博
2004 - エメルソン
2006 - ワシントン
ベストヤングプレーヤー賞
1998 - 小野伸二
2002 - 坪井慶介
フェアプレー賞 高円宮杯
フェアプレー賞
2014, 2016, 2018, 2019, 2021, 2022
フェアプレー個人賞
1996 - 岡野雅行
2002 - 坪井慶介
2014 - 西川周作
2018 - 西川周作
2023 - 西川周作
最優秀監督賞
2006 - ギド・ブッフバルト
優秀監督賞
最優秀育成クラブ賞
最優秀ゴール賞
功労選手賞
2003 - 福田正博, 井原正巳
2014 - 山田暢久
2016 - 鈴木啓太
2020 - 那須大亮
2022 - 阿部勇樹, 石原直樹 , 田中達也 , 田中マルクス闘莉王
2023 - 槙野智章
Join賞
1999 - 浦和レッズ, 浦和市 , レッズファン・サポーター
2002 - 浦和レッズ
2004 - 浦和レッズ
ベストピッチ賞
2005 - 埼玉スタジアム2002
2009 - 埼玉スタジアム2002
2013 - 埼玉スタジアム2002
2016 - 埼玉スタジアム2002
特別賞
MYアウォーズ
2016 - MVP 西川周作
2016 - ベストイレブン 興梠慎三, 阿部勇樹, 西川周作
月間MVP
月間ベストゴール
2014 - 4月 李忠成, 9月 柏木陽介
2016 - 3月 興梠慎三
2017 - 7月 関根貴大
2020 - 8月 トーマス・デン
2021 - 6月 キャスパー・ユンカー
2023 - 7月 岩尾憲
Jリーグカップ
FIFAクラブワールドカップ
AFCチャンピオンズリーグ
A3チャンピオンズカップ
得点王
2007 - ワシントン
さいたまシティカップ
フィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会
最多得点試合
J1
ホーム
7-2 (2004年2nd第2節(8月21日)・対東京V、埼玉スタジアム2002)
7-0 (2005年第27節(10月15日)・対柏、駒場スタジアム)
7-0 (2017年第6節(4月7日)・対仙台、埼玉スタジアム2002)
アウェイ
7-0 (1996年J第20節(9月21日)・対柏、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 )
7-0 (2005年第14節(7月6日)・対東京V、国立霞ヶ丘陸上競技場)
J2
(参考:リーグ戦以外の記録)
9-0 (2000年天皇杯2回戦(12月3日)・対ホンダロックSC 、駒場スタジアム)
最多失点試合
J1
ホーム
0-6 (1993年2nd第9節(9月3日)・対V川崎、駒場競技場)
3-6 (1994年2nd第22節(11月19日)・対横浜M、富山県総合運動公園陸上競技場 )
1-6 (2008年J1第34節(12月6日)・対横浜FM、埼玉スタジアム2002)
アウェイ
J2
最多失点勝利試合
4-3 (1994年2nd第3節(8月17日)・対市原、市原緑地運動公園臨海競技場 )
4-3 (2005年J1第24節(9月18日)・対広島、広島ビッグアーチ )
4-3 (2012年J1第17節(7月7日) ・対鳥栖、埼玉スタジアム2002)
4-3 (2013年J1第21節(8月17日)・対大分、埼玉スタジアム2002)
4-3 (2015年2nd第15節(10月24日)・対FC東京、味の素スタジアム )
4-3 (2017年J1第17節(7月1日) ・対広島、埼玉スタジアム2002)
4-3 (2020年J1第16節(9月13日)・対札幌、札幌ドーム)
最多得点(失点)引分試合
4-4 (2003年1st第9節(5月17日)・対G大阪、駒場スタジアム)
4-4 (2014年第21節(8月23日)・対FC東京、味の素スタジアム)
4-4 (2015年1st第11節(5月10日)・対仙台、ユアテックスタジアム仙台 )
最多連続無敗試合
19試合 (2015年1st第1節(3月7日)から2nd第2節(7月15日) - 13勝6分)
(参考:他の公式戦込み)
17試合 (リーグ戦2005年J1第33節(11月26日)から2006年J1第8節(4月15日)10試合、天皇杯2005年5回戦(12月10日)から決勝(1月1日)4試合、スーパー杯2006年(2月25日)1試合、ナビスコ杯2006年予選第1日(3月29日)から予選第2日(4月12日)2試合 - 15勝2分)
ホーム無敗記録
25試合 (2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日) - 22勝3分)※J1史上最多記録タイ
(参考:他の公式戦込み) ※埼玉スタジアム、駒場スタジアムでの試合
37試合 (リーグ戦2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日)25試合、大宮アルディージャ のホームゲーム1試合、2006年ナビスコ杯予選3試合、準々決勝1試合(3月29日、4月12日、5月21日、6月3日)、2005年天皇杯2試合(11月3日、12月24日)、2006年天皇杯3試合(11月4日、12月16日、12月23日)、2007年ACL 2試合(3月7日、4月11日)- 34勝3分)
アウェイ無敗記録
17試合 (2006年第33節(11月26日)から2007年第31節(11月11日) - 12勝5分)
最多連勝
8連勝 (1998年1st第16節(8月5日)から2nd第6節(9月18日)) - PK勝ち1試合含む
7連勝 (1998年1st第17節(8月8日)から2nd第6節(9月18日)) - 90分勝ちのみ
ホーム連勝記録
10連勝 (2006年第8節(4月15日)から第27節(10月15日))
アウェイ連勝記録
10連勝 (2007年第12節(5月19日)から第29節(10月20日))
最多連敗
9連敗 (1993年2nd第4節(8月7日)から第12節(11月13日)) - Vゴール負け1試合含む
7連敗 (2009年第18節(7月18日)から第24節(8月29日)) - 90分負けのみ
ホーム連敗記録
6連敗 (1993年2nd第5節(8月14日)から第15節(11月27日))
アウェイ連敗記録
10連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から2nd第1節(7月24日)) - PK負け1試合含む
10連敗 (1993年2nd第14節(11月20日)から1994年1st第14節(5月4日)) - Vゴール負け3試合含む
10連敗 (1994年2nd第8節(9月7日)から1995年1st第5節(4月1日)) - Vゴール負け1試合含む
8連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から第14節(6月30日)) - 90分負けのみ
同一カード最多連勝
8連勝 (2004年2nd第15節(11月28日)から2009年第17節(7月11日)-対広島)
8連勝 (2007年第15節(6月17日)から2010年第22節(9月12日)-対FC東京)
9連勝 (1997年2nd第17節(10月4日)から2000年J2第42節(11月20日)-対平塚) -J2リーグ戦4試合含む。Vゴール勝ち2試合含む。2003年に天皇杯で敗れた。
同一カード最多連敗
7連敗 (1993年1st第2節(5月19日)から1994年2nd第5節(8月27日)-対名古屋) - 90分負けのみ
7連敗 (1993年1st第13節(6月26日)から1994年2nd第21節(11月16日)-対V川崎) - Vゴール負け1試合含む
7連敗 (1993年2nd第1節(7月24日)から1995年1st第10節(4月22日)-対広島) - PK負け1試合含む
最多試合出場
501試合 - 山田暢久 (初出場1994年1st第12節(4月27日)・清水戦)
最多連続試合出場
152試合 - 阿部勇樹 (2013年J1第11節(5月11日)から2017年J1第25節(9月9日))
最年少試合出場
(参考:リーグ戦以外の記録)
16歳8日 - 邦本宜裕 (2013年天皇杯3回戦(10月16日)・山形戦)
最年長試合出場
40歳2カ月19日 - 阿部勇樹 (2021年第38節(12月4日)・名古屋戦)
シーズンフルタイム出場
田北雄気 (1996年 - 30試合、1999年 - 30試合)
山田暢久 (1998年 - 34試合)
石井俊也 (2001年 - 30試合)
内舘秀樹 (2002年 - 30試合)
坪井慶介 (2002年 - 30試合、2003年 - 30試合)
阿部勇樹 (2009年 - 34試合、2012年 - 34試合、2014年 - 34試合、2015年 - 34試合、2016年 - 34試合)
山岸範宏 (2010年 - 34試合)
エジミウソン (2010年 - 34試合)
柏木陽介 (2010年 - 34試合、2013年 - 34試合)
永田充 (2011年 - 34試合)
加藤順大 (2012年 - 34試合)
槙野智章 (2013年 - 34試合)
西川周作 (2014年 - 34試合、2015年 - 34試合、2016年 - 34試合、2017年 - 34試合、2018年 - 34試合、2020年 - 34試合、2023年 - 34試合)
李忠成 (2014年 - 34試合)
武藤雄樹 (2016年 - 34試合)
アレクサンダー・ショルツ (2023年 - 34試合)
最多得点
113得点 - 興梠慎三 ※2023年7月1日現在
最多連続得点試合
7試合 - エメルソン (2002年1st第3節(3月16日)から第9節(7月20日))
1試合最多得点
4得点 - 福田正博 (1994年1st第9節(4月13日)・平塚戦)
(参考:リーグ戦以外の記録)
4得点 - ワシントン (2006年ヤマザキナビスコカップ準々決勝(6月3日)・川崎戦)
4得点 - 盛田剛平 (2000年天皇杯2回戦(12月3日)・ホンダロックSC 戦)
GK通算最多得点
1得点 - 田北雄気 (1996年第30節(11月9日)・横浜F戦で得点) ※J1記録
最年少得点
17歳11か月3日 - 原口元気 (2009年第5節(4月12日)・名古屋戦)
(参考:リーグ戦以外の記録)
16歳8日 - 邦本宜裕 (2013年天皇杯3回戦(10月16日)・山形戦)
最年長得点
39歳8カ月3日 - 阿部勇樹 (2021年第13節(5月9日)・仙台戦)
ハットトリック
J1
4得点
福田正博 (1994年1st第9節(4月13日)・平塚戦)
3得点
ルル (1994年2nd第12節(9月21日)・清水戦)
大柴健二 (1998年1st第9節(4月29日)・柏戦)
岡野雅行 (1998年1st第17節(8月8日)・神戸戦)
エメルソン (2002年1st第5節(4月20日)・広島戦、2004年1st第6節(4月18日)・大分戦、2004年1st第9節(5月9日)・新潟戦、2004年2nd第14節(11月23日)・柏戦)
永井雄一郎 (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦)
山瀬功治 (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦)
マリッチ (2005年J1第27節(10月15日)・柏戦)
ワシントン (2006年第19節(8月23日)・新潟戦)
田中マルクス闘莉王 (2008年第17節(7月17日)・東京V戦)
エジミウソン (2009年第32節(11月21日)・磐田戦)
興梠慎三 (2017年第6節(4月7日)・仙台戦、2017年第12節(5月20日)・清水戦)
ファブリシオ (2018年第22節(8月15日)・磐田戦)
キャスパー・ユンカー (2022年第11節(5月18日)・横浜FM戦)
J2
3得点
阿部敏之 (2000年2nd第15節(5月27日)・鳥栖戦)
(参考:リーグ戦以外の記録)
Jリーグカップ
4得点
ワシントン (2006年準々決勝第1戦(6月3日)・川崎戦)
3得点
トゥット (2002年予選リーグ第5戦(5月9日)・鹿島戦)
エメルソン (2002年準決勝(10月2日)・G大阪戦、2003年準決勝第2戦(10月8日)・清水戦)
田中達也 (2004年準決勝(10月11日)・名古屋戦)
ワシントン (2006年予選リーグ第6戦(5月21日)・横浜FM戦)
エジミウソン (2008年予選リーグ第2戦(3月23日)・京都戦)
興梠慎三 (2016年準決勝第2戦(10月9日)・FC東京戦)
天皇杯
4得点
盛田剛平 (2000年2回戦(12月3日)・ホンダロック 戦)
3得点
年度別観客動員記録
さらに見る 年度, 所属 ...
年度 所属 合計 動員数 最多動員数 最少動員数 平均 動員数 試合数 ホームゲーム開催スタジアム (太字は本拠地登録されたスタジアム) 備考
動員数 相手 会場 動員数 相手 会場
1993 J 206,265 50,348 清水 国立 8,258 広島 駒場 11,459 18 駒場 17、国立1
1994 406,457 55,125 V川崎 7,854 18,475 22 駒場 8、大宮 7 国立4、博多陸 1神戸ユ 1、富山 1[注 21]
1995 508,554 56,652 9,168 大宮 19,560 26 駒場 12、大宮10 国立3、新潟陸 1[注 21] [注 22]
1996 364,936 50,974 京都 5,611 福岡 札幌厚別 24,329 15 駒場 11、国立3札幌厚別 1
1997 328,060 38,707 広島 14,937 横浜F 駒場 20,504 16 駒場 14、国立2
1998 385,994 46,547 柏 16,971 V川崎 22,706 17 駒場 14、国立3
1999 J1 319,146 46,401 鹿島 13,329 柏 21,276 15 駒場 12、国立3[注 23]
2000 J2 338,457 20,207 鳥栖 駒場 13,408 新潟 16,923 20 駒場 20[注 24]
2001 J1 400,799 60,553 横浜FM 埼玉 16,808 清水 26,720 15 駒場 11、埼玉2 国立2[注 25]
2002 394,445 57,902 磐田 14,499 柏 26,296 駒場 9、埼玉5 国立1
2003 432,825 51,195 鹿島 18,335 京都 28,855 駒場 8、埼玉 7[注 26] [注 27]
2004 549,903 58,334 横浜FM 18,029 柏 36,660 埼玉 9、駒場 6[注 28] [注 29]
2005 669,066 55,476 名古屋 15,760 清水 39,357 17 埼玉 13、駒場 4
2006 774,749 62,241 G大阪 16,040 大分 45,573 埼玉 15、駒場 2[注 30]
2007 793,347 62,123 鹿島 16,709 神戸 46,667 [注 31]
2008 809,353 57,050 G大阪 16,225 京都 47,609 埼玉 16、駒場 1
2009 751,565 53,783 鹿島 18,777 神戸 44,210
2010 678,994 55,410 名古屋 21,625 山形 埼玉 39,941 埼玉 17[注 32]
2011 576,477 54,441 柏 20,240 福岡 33,910 [注 33]
2012 622,772 51,879 名古屋 25,743 川崎 36,634
2013 630,701 54,905 C大阪 23,295 磐田 37,100 [注 34]
2014 603,770 56,758 G大阪 19,777 甲府 37,736 [注 35] [注 36]
2015 658,668 53,148 22,363 38,746 [注 37] [注 38]
2016 627,898 56,841 横浜FM 22,766 36,935 [注 29] [注 39]
2017 570,215 57,447 鹿島 21,603 G大阪 33,542
2018 603,534 55,689 神戸 21,250 名古屋 35,502
2019 581,135 54,599 19,698 G大阪 34,184
2020 [注 40]
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カップ戦(Jリーグ杯・ACL)での主催試合使用スタジアム
出典: [71] [ 信頼性要検証 ]
GS=グループステージ(予選リーグ)、PO=プレーオフステージ、PS=プライムステージ(決勝T=決勝トーナメントと同義)
さらに見る 年度, Jリーグ杯 ...
年度 Jリーグ杯 ACL 備考
1992 大宮3 川越1 不参加
1993 大宮3
1994 (主催なし) Jリーグ杯=完全トーナメント制
1995 (非開催)
1996 駒場7
1997 駒場4 Jリーグ杯=駒場・決勝T1を含む
1998 駒場2
1999 Jリーグ杯=完全トーナメント制
2000 駒場1
2001 駒場3
2002 駒場4 Jリーグ杯=駒場・決勝T1を含む
2003 駒場5 Jリーグ杯=駒場・決勝T2を含む
2004 埼玉1 駒場2 Jリーグ杯=埼玉・決勝T1のみ
2005 埼玉3 駒場3 Jリーグ杯=埼玉・駒場とも決勝T1ずつ含む
2006 埼玉1 駒場3 Jリーグ杯=駒場・決勝T1含む
2007 埼玉1 埼玉6 ACL=埼玉・決勝T3を含む
2008 埼玉2 駒場1 埼玉2 ACL=埼玉・決勝T2のみ (前回優勝につき準々決勝からシード)
2009 埼玉3 駒場1 不参加 Jリーグ杯=埼玉・決勝T1含む
2010 埼玉2 駒場1
2011 埼玉3 Jリーグ杯=完全トーナメント制[注 41]
2012
2013 埼玉2 埼玉3 Jリーグ杯=埼玉・決勝T2のみ (ACL出場につき準々決勝からシード)
2014 埼玉4 不参加 Jリーグ杯=埼玉・決勝T1含む
2015 埼玉1 埼玉3
2016 埼玉3 Jリーグ杯=埼玉・決勝T3のみ (ACL出場につき準々決勝からシード)
2017 埼玉1 埼玉7 Jリーグ杯=埼玉・決勝T1のみ (ACL出場につき準々決勝からシード)
2018 埼玉4 不参加 Jリーグ杯=埼玉・PO1含む
2019 埼玉1 埼玉7 Jリーグ杯=埼玉・PS1のみ (ACL出場につき準々決勝からシード) ACL=埼玉・決勝T4含む
2020 不参加 Jリーグ杯=当初のGSは埼玉3の予定だったが、 新型コロナウィルスによる日程変更で1試合のみとなった
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最多観客動員試合
J1
ホーム
62,241人(2006年第34節・G大阪戦、埼玉スタジアム2002)※J1リーグ戦観客動員史上2位
9,822人(1994年1st第22節・横浜M戦、駒場競技場 - 改修前)
22,150人(1995年2nd第8節・磐田戦、駒場スタジアム - 改修後)
10,354人(1995年1st第26節・横浜F戦、大宮公園サッカー場)
56,652人(1995年1st第13節・V川崎戦、国立競技場)
アウェイ
61,246人(2008年第1節・横浜FM戦、日産スタジアム)
参考(リーグ戦以外の最高)
J2
ホーム
20,207人(2000年第44節・鳥栖戦、駒場スタジアム)
アウェイ
最少観客動員試合
J1
ホーム
5,611人(1996年第21節・福岡戦、札幌厚別公園競技場)
7,854人(1994年1st第4節・広島戦、駒場競技場 - 改修前)
13,329人(1999年2nd第2節・柏戦、駒場スタジアム - 改修後)
9,168人(1995年1st第22節・広島戦、大宮公園サッカー場)
28,054人(2002年1st第9節・札幌戦、国立霞ヶ丘競技場)
19,977人(2014年第29節・甲府戦、埼玉スタジアム2002)
※2014年の無観客試合を除く
アウェイ
3,610人(1997年2nd第1節・市原戦、市原臨海競技場)
J2
ホーム
13,408人(2000年第26節・新潟戦、駒場スタジアム)
アウェイ
ユニフォームスポンサー
さらに見る 掲出箇所, スポンサー名 ...
掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
胸
ポラス POLUS 2013年 - 2019年 2021年 - リーグ戦、カップ戦に掲載 2020年は背中
三菱重工業 MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES 2017年 2019年 2022年 - ACLに掲載
鎖骨
堀川産業 EneCle 2019年 - 両側に掲出
背中上部
三菱重工業 MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES 2017年 - 2019年 2021年 - 2020年は胸
背中下部
凸版印刷 TOPPAN 2022年 - [72]
袖
三菱自動車工業 MITSUBISHI MOTORS 2017年 - 創設 - 2004年は胸 2006年はパンツ 2005年、2007年 - 2016年は背中上部 2013年、2015年 - 2016年はACL用の胸
パンツ前面
ディー・エイチ・エル・ジャパン DHL 2009年 - 2007年 - 2008年は国際試合用の胸
パンツ背面
T&S NEXT PROTEIN 2021年 - [73]
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ユニフォームサプライヤーの遍歴
1992年:プーマ
1993年 - 1996年:リーグ戦はミズノ (93年、94年のリーグ戦モデル(2nd・FP用)の組み合わせは、シャツ=水色、パンツ=黒、ストッキング=水色)、カップ戦はプーマ
1997年:リーグ戦はアンブロ 、カップ戦はプーマ
1998年 - 2003年:プーマ
2004年 - 現在:ナイキ
歴代ユニフォームスポンサー表記
国際大会(ACLなど)の試合時は規定により胸広告のみ掲出。
2007年および2008年はリーグ戦、カップ戦は「ƧAVAS」・ACLは「DHL」、2013年・2015年 - 2016年はリーグ戦、カップ戦は「POLUS」・ACLは「MITSUBISHI MOTORS」、2017年・2019年・2022年はリーグ戦、カップ戦は「POLUS」・ACLは「MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES」。
2003年に別々であった育成と編成を統合。以降、アカデミーの充実に力を注ぐことになる。
2016年、矢島慎也 がアカデミー出身選手として初めてオリンピック 日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。
2018年、原口元気 がアカデミー出身選手として初めてFIFAワールドカップ 日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。
2024年現在、アカデミー出身選手として以下の選手が各国A代表 に選出されている。
ジュニアユース
ジュニアユース世代でも指折りの強豪チームである。
タイトル
ジュニア
2013年よりジュニアが新設され活動を開始している。
4種(小学生年代)で実績を残している埼玉県下の小学生を対象にセレクションを実施している。
セレクション応募者数はトップチームの人気とあいまって全国でも有数である。
タイトル
レディア(Redia) (1992年3月31日誕生)
浦和市(当時)生まれ。この日行われたクラブ発足記者会見で発表され、同年6月10日に命名された。伊勢丹浦和店 前の歩道には、選手の足型とともにレディアの足型が埋め込まれている他、北浦和駅周辺にはレディアの像がある。
フレンディア(Friendia) (1997年1月26日にレディアと結婚)
シャーレくん(Schalekun) (2006年12月2日誕生)
ディアラちゃん(Diarachan) (2006年12月2日誕生)
エンブレム はクラブ発足時から2001年1月までは縦長の菱形にサッカーボールの上半分と"MITSUBISHI URAWA FC"というロゴが書かれたものであったが、2001年2月から現行のものに変更された。現行のエンブレムには埼玉県のサッカーの発祥の地である埼玉県師範学校 (現在の埼玉大学 教育学部 の前身校の一つ)の校舎「鳳翔閣 」や埼玉県の県花であるサクラソウ が描かれている。
初代ロゴ は、クラブ創立から2代目ロゴ発表まで使用された[84] [85] [注 42] 。
2018年 2月1日 、クラブ設立25周年を機に、クラブの価値観や行動規範を具現化した2代目ロゴが発表された[84] [85] 。デザインは日本デザインセンター が手掛けた[87] 。デザインはエンブレムとの親和性を考えたシンプルなものとし、一文字ずつのエッジに配した、フラッグを想起させる三角形のフォルムには、浦和レッズの熱く前向きな姿勢と「人・街・サッカー」の意味を込め、未来に向かって加速する姿を表現している[87] 。
ファースト・インプレッション - Jリーグ 開幕当初、佐藤仁司広報グループ・チーフマネジャーを中心とした数名のスタッフが、市販されていない著作権 なしのフリーユースのサウンド・ライブラリーを試聴し、7曲目辺りで流れたこの曲に皆の関心が集まったことから選ばれた。
We are Diamonds - レッズのオフィシャルソング。原曲はロッド・スチュワート の「セイリング 」。埼玉スタジアムでのホームゲームでバックスタンドのアッパースタンドの最上部にその歌詞が掲げられている。ホーム・アウェイにかかわらず勝利後に歌われるので、サポーターの間では通称「勝利の歌」として親しまれているが、必ずしも歌われるわけではなく、カップ戦第1戦がホームの場合や連敗中などの理由で自粛する事がある。この曲を契機として、2009年にはスチュワートと加藤順大 との対談が行われている[88] 。元々はサポーターだけが歌っていたが、2012年から槙野智章 の発案により、ホームゲームに限って選手とともに歌うようになった[89] 。
GO! REDS GO! - 「We are Diamonds」のカップリング曲 。スタジアムで選手紹介時にかかっていたが、リニューアルに伴い2012年シーズンで終了[90] 。
KEEP ON RISING! - レッズのオフィシャルサポーターズソング。2007年10月からJR浦和駅 の京浜東北線 南行(東京・横浜方面)ホームで、発車メロディーに採用されている。また、同じく埼玉スタジアムでレッズ戦がある場合に限り埼玉高速鉄道 浦和美園駅 でも発車メロディーに採用されている。
2013年、引退する山田暢久 に向けてサポーターが描いたビジュアルサポート(人文字)
1993年 のJリーグ開幕当初から熱狂的なサポーターを獲得していることで知られている[91] 。初期の応援を担った「クレイジー・コールズ 」のリーダー はロックを基調にした応援スタイルと、チームに対するサポーターの思想や哲学を広めて今に続くサポーターの応援の原型を作り上げ[91] [92] 、1997年 から2014年 にかけて活動していた「URAWA BOYS 」や「URAWA BOYS」を中心とした連合体「クルバ・エスト 」にも受け継がれた[92] 。また、「日本一のサポーター」と形容されることもあるが[91] [93] [94] [95] [96] [97] [98] 、経済産業省 関東経済産業局は「Jリーグ開幕当初はチームが弱く、『俺たちが支えよう』という気持ちの醸成が一助となった[97] 」、2006年 12月4日付けの『読売新聞 』は「応援の原型を作り上げたサポーターがメディアに取り上げられ、盛り上がり次々に若者が集まった」ことを理由の一つとしている[91] 。
また海外からも熱狂的なサポーターとして知られており、フランス誌『So Foot』は世界のサポーター10選を紹介し、その中に日本の浦和レッズが世界9位に選出された。この企画で紹介されたチームの中でアジアから選ばれたのは浦和のみで、ヨーロッパが7チーム、南米とアフリカからそれぞれ1チームとなっている[99] 。
レッズのサポーターは熱狂的であるが、それが故にトラブルを引き起こすサポーターも一部 [ 要出典 ] 存在しており、2000年以降、サポーター起因によるクラブへの懲罰事案は11件発生している[100] 。
2013年 の清水 戦(アウェイ)では試合前に相手チーム選手が乗ったバスに対して爆竹や発煙筒を投げつけた後、入場を制止した警備員に対し暴行を加えた容疑で4人が逮捕された[101] 。
2014年 3月8日の鳥栖 戦(ホーム)で起きた浦和レッズ差別横断幕事件 によりクラブは史上初の無観客試合開催という重い制裁を受けた。この事件をきっかけとして、レッズレディース を含むすべての直系育成チーム[102] の試合における横断幕(ビッグフラッグ、ゲートフラッグ、人文字 、プラカード も含む)、大旗の使用をアウェイ・ホーム開催を含め一切禁止する自主規制が一時期実施され[103] 、「URAWA BOYS」を含むサポータークラブ連合体『クルバ・エスト』を構成する11組のサポーターズクラブが解散した。また、「URAWA BOYS」は2018年 より活動を再開している。
2014年フランス『ラ・グリンタ』の「2013-14シーズンのコレオグラフィー・トップ10」で世界7位に選ばれた[104] 。
2017年 、スルガ銀行チャンピオンシップ2017 でシャペコエンセ (ブラジル )と対戦した際、同クラブの復興を願いトップチームやレディースチームのホームゲーム会場等で、義援金募金活動(募金合計:4,246,634円)を行った。さらに浦和レッズサポーターは募金活動への参加に加え、「サッカーを愛する仲間として、何か力になりたい」という思いから試合終了直後、ポルトガル語で「世界の舞台でもう一度会おう、友よ!」と書かれた横断幕と共に、緑色のビジュアルシートでゴール裏のスタンドを埋めた。その際に使用したビジュアルシートを、企画主旨に賛同したDHLジャパン の輸送支援を受けシャペコエンセへ贈呈した[105] 。また、AFCチャンピオンズリーグ2017 で浦和が優勝した際、公式Twitter で祝福のメッセージが送られた[106] 。同年、アメリカ『フォックス・スポーツ』による「最も筋金入りのファンを持つ5クラブ」に、CAリーベル・プレート (アルゼンチン)、ガラタサライSK (トルコ )、リヴァプールFC (イングランド)、FCバルセロナ (スペイン)と並び選出された[104] 。
2022年 には5月21日の鹿島 戦(ホーム)でサポーターが試合前および試合中に「Jリーグ新型コロナウイルス対策ガイドライン」に違反する秩序を乱す行為(声出しによる応援など)を行った事、また同年7月22日のG大阪 戦(アウェイ)でも同様の行為が行われ、過去にも同様の行為を繰り返されたことを重視し、クラブに対し過去最高額となる罰金2,000万円と譴責処分が科せられた[107] [108] 。
2023年 8月2日の天皇杯4回戦・名古屋 戦(アウェイ)で浦和サポーター70人以上がスタジアムで暴徒化し、相手サポーターへの威嚇行為や警備員などへの暴行、横断幕などへの破壊行為を行い、愛知県警察 が出動する暴動が発生した。当該サポーターに関しては日本サッカー協会 (JFA)が同月31日に国内各カテゴリの試合について17人を無期限の入場禁止、1人を5試合の入場禁止とする処分を行ったが、クラブに関しては同年9月19日のJFA規律委員会で、2024年の天皇杯参加資格の剥奪と譴責処分が科された[109] 。このように不祥事が依然として続いている事から、クラブ・サポーターの自浄作用のなさについて各方面から問題提起されている[100] 。今回の天皇杯での暴動行為を受け、浦和レッズでは10月26日、日本サッカー協会やJリーグなどに定めのない、「永久入場禁止処分」や「損害賠償請求権」などの行使を含む、クラブ独自の処分基準を設け、大会規定の許す限りはクラブ主体で処分をすることを発表した[110] 。
再発防止策の検討を進めてきた第三者委員会は「浦和サポーターは「荒っぽいことをしても許される」という浦和内部の“当たり前”が社会の規範からズレている」と浦和レッズとサポーターで暗黙の了解としていた事に加えて、Jリーグの他のクラブにおいても異常な罵詈雑言やサポーター内の過剰な私設ルールを"熱い応援"として"よし"としているJリーグサポーター全体の問題を文章にして明確に指摘した。そして、これまでの処分規定を刑事告訴や損害賠償請求などの法的措置を求めた[111] 。
テレビ
ラジオ
新聞 ・雑誌
埼玉新聞 (地方紙 )
浦和レッズマガジン (フロムワン 発行、朝日新聞出版 発売)浦和レッズ専門雑誌
浦和フットボール通信 (フリーペーパー )浦和レッズ・浦和の街の情報を集めた季刊誌
マッチデープログラム 1992年のJリーグカップ 以降、全てのホームゲームにおいて発行されている(その他、カップ戦の決勝戦の際にも発行され、シーズン開幕前には増刊号が発行される)。定価は税込み300円(2005年、2006年は200円であった)。2004年までは地元の埼玉新聞が編集を行っていたが、2005年から浦和レッズが直接携わり、編集は埼玉新聞に勤務していた清尾淳 が一貫して担当し続けている。略して「MDP」という呼び方は、特に浦和レッズのマッチデープログラムを呼ぶのに使われる。
朝日新聞タブロイド紙レッズトゥモロー 2007年からパートナーの朝日新聞が埼玉県内限定でホームゲーム前日に発行する4ページタブロイド紙を始めた。浦和レッズが編集しており、浦和レッズに関する情報が掲載されている。1回当たりの発行部数は60万部で、年間約25回発行される。サッカー専門の紙媒体としては、日本で最大部数となっている。
Little Diamonds ユース、ジュニアユースの活動を紹介するリポートで毎月1回発行。レッドボルテージ および大原 のクラブハウスのサポーターズカフェで閲覧できるほか、クラブの公式サイトからPDF で閲覧できる(2010年 4月4日 配布のNo.48が最終号となった)。
インターネット
浦和レッズ・オフィシャル・ウェブサイト 浦和レッズが発信する公式ホームページ。通常のニュースや情報のほか、動画による配信もある。
浦和レッズモバイル 浦和レッズが運営する有料の携帯サイト。
レッズプレス 外部メディアが運営する有料の非公式携帯サイト。
浦和区内のレッズの旗
旧浦和市 域(浦和地区 )には、2023年時点で約60万人が居住し、桜区 、浦和区 、南区 、緑区 に分かれている。サッカーが盛んな地域という他、県立浦和高校 や浦和画家 などに象徴される文教都市 や、高級住宅街 としても知られている。
緑区の埼玉スタジアムを筆頭に、各区に浦和レッズに関連した施設が所在する。桜区にはレッズランド 、埼玉大学が所在している。浦和区には浦和駒場スタジアムや大原サッカー場 、レッドボルテージ などの施設があり、伊勢丹浦和店 ルイ・ヴィトン 前には主要選手の手形や足形のレリーフ が毎年設置されている(伊勢丹浦和店#浦和レッズレリーフ を参照)。また浦和駅 1番線の発車メロディとしてオフィシャルサポーターソング『Keep On Rising』が使われている。そして南区には漫画・アニメ『赤き血のイレブン 』の舞台のモデルである浦和南高校 が所在する。サッカーの街浦和としてさいたま市役所 や埼玉県庁 などにおいてもポスターや旗の掲示を行っている。
埼玉スタジアムには浦和駅からの直行バスが運行されており、浦和駒場スタジアムがホームスタジアムだった頃と変わらず、週末には浦和駅周辺でもサポーターをみることができる。
また、各区とも駅周辺や商店街などを中心に浦和レッズの赤い幟や旗が掲げられており、中央区 (本町通りや北与野駅 )や岩槻区 、越谷市 (主要スポンサーのポラス 本社が所在)などの旧浦和市域以外でも旗や幟をみることができる。
浦和レッズの決算は、つぎのとおり。
損益
さらに見る 年度, 収入 ...
年度 収入 広告料 入場料 配分 その他 費用 事業費 人件費 管理費 利益 純利益
2005 5,805 1,660 1,949 549 1,647 5,448 4,986 2,342 462 357 167
2006 7,078 2,288 2,531 688 1,571 6,855 5,934 2,499 921 223 156
2007 7,964 2,384 3,008 835 1,737 7,744 6,958 2,841 786 220 62
2008 7,091 2,374 2,866 350 1,501 7,057 6,149 2,406 908 34 24
2009 6,432 2,735 2,461 336 900 6,358 5,595 2,464 763 74 6
2010 5,625 2,256 2,249 279 841 5,898 5,217 2,282 681 -273 -260
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年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 販売 利益 純利益
2011 5,382 1,821 1,918 268 21 1,353 5,290 1,866 615 364 67 55 2,302 92 61
2012 5,353 2,121 1,988 267 18 959 5,202 1,910 449 412 101 65 2,265 150 151
2013 5,786 2,319 2,132 258 15 1,062 5,633 2,016 497 434 102 62 2,522 153 92
2014 5,854 2,380 1,982 263 16 1,213 5,642 2,054 488 404 107 84 2,505 212 118
2015 6,088 2,549 2,174 270 16 1,079 5,961 2,099 539 420 105 73 2,725 127 51
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さらに見る 年度, 収益 ...
年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 物販 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 物販 販売 利益 純利益
2016 6,606 2,593 2,375 319 14 778 527 6,426 2,381 594 450 113 71 502 2,315 180 173
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資産
2017年1月に第三者割当増資 が実施され、資本金が増加した[112] 。
さらに見る 年度, 総資産 ...
年度 総資産 総負債 純資産 資本金
2005 2,421 2,093 327 160
2006 2,240 1,757 482 160
2007 2,262 1,717 544 160
2008 2,116 1,548 568 160
2009 1,890 1,316 574 160
2010 1,450 1,135 315 160
2011 1,297 921 376 160
2012 1,129 602 527 160
2013 1,279 659 620 160
2014 1,309 571 738 160
2015 1,549 760 789 160
2016 2,015 828 1,187 273
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注釈
2008年12月1日時点の資本比率は以下の通り[5] 。
「Jクラブは、直接たると間接たるとを問わず、他のJクラブまたは当該他のJクラブの重大な影響下にある法人の経営を支配しうるだけの株式(公益社団法人 または特定非営利活動法人 にあっては社員たる地位)を保有している者に対し、自クラブまたは自クラブの重大な影響下にあると判断される法人の経営を支配できるだけの株式(公益社団法人または特定非営利活動法人にあっては社員たる地位)を保有させてはならない。」というもの[6] 。
株主に加わったのは以下の15社[11] 。括弧内は割り当て株式数。
前身の三菱時代には4度日本サッカーリーグ で優勝しており、トップリーグ制覇は24年ぶり5度目であった。
2位の鹿島は残り5節は全勝した(勝点15を稼いだ)のに対し、ACL準決勝終了後からの残り5節で僅か勝点3しか稼げなかった
当時優勝チームはシードとして準々決勝から登場することになっていた。
東日本大震災の影響で当初予定されていたグループリーグは行なわれず完全トーナメント制となった。
日本国籍取得後の2007年に登録名を「セルヒオ・エスクデロ」から「エスクデロ・セルヒオ」に、さらに浦和退団後の2014年に「エスクデロ競飛王 」に変更。
当日のセレモニーではそれぞれのチームで記憶に残る活躍をした選手(レッズからはポンテ 、アントラーズからはアルシンド )と、Jリーグ開幕日(1993年5月15日)生まれの尾崎千瑛 がスピーチを行なった。なお、試合結果は3-1でレッズの勝利となった。
降格したチームの中でスコアレスドローも含めた無失点試合は、大宮は5試合、新潟は7試合、甲府に至っては10試合である。
過去にタイトルを獲得した時の監督は、2003年のヤマザキナビスコカップがオランダ人のオフト。2005年の天皇杯、2006年のJリーグと天皇杯がブッフバルト。2007年のAFCチャンピオンズリーグがオジェック(いずれもドイツ人)、2016年のJリーグYBCルヴァンカップはペトロヴィッチ(オーストリア人)、2017年のAFCチャンピオンズリーグは堀である。
これは下位4クラブ(15位横浜FC、16位清水の-22、17位仙台の-25、18位湘南の-19)に次いで低い。
1994年第2ステージと1995年代1ステージは駒場のスタンド増築工事のため、暫定として大宮を本拠地とする
この年、正式に埼玉スタジアムも本拠地登録され、駒場・埼玉併用に
登録上は駒場と本拠地並列も、リーグ戦は埼玉のみに統合(カップ戦は駒場も使用)
登録上は駒場と本拠並列も、カップ戦(天皇杯除く)を含め、Jリーグ公式戦全試合を埼玉のみに会場を一本化
観客動員数は無観客試合 となった第3節・清水戦は除いてある
当初は予選リーグ+決勝トーナメントを予定していたが、東日本大震災 による開催日程変更によりリーグ戦中止となった。
レッズと同じく、三菱グループ 内のサッカー部を前身とする(或いは現在も同グループ内のサッカー部として活動する)クラブ