東松山市
埼玉県の市 ウィキペディアから
埼玉県の市 ウィキペディアから
東松山市(ひがしまつやまし)は、埼玉県の西部に位置する市。1954年(昭和29年)市制施行。
ひがしまつやまし 東松山市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 埼玉県 | ||||
市町村コード | 11212-7 | ||||
法人番号 | 4000020112127 | ||||
面積 |
65.35km2 | ||||
総人口 |
92,759人 [編集] (推計人口、2024年12月1日) | ||||
人口密度 | 1,419人/km2 | ||||
隣接自治体 | 坂戸市、熊谷市、比企郡滑川町、吉見町、鳩山町、川島町、嵐山町 | ||||
市の木 | マツ | ||||
市の花 | ボタン | ||||
市の歌 | 「東松山市歌」 | ||||
東松山市役所 | |||||
市長 | 森田光一 | ||||
所在地 |
〒355-8601 埼玉県東松山市松葉町一丁目1番58号 北緯36度02分32秒 東経139度24分00秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
埼玉県の地理的中部に位置し県内の地域区分では西部地域(または川越比企地域)に属する。
多くの街道が集まる交通の要衝として、古くは鎌倉時代から松山城(現在の行政区域は比企郡吉見町に存在するが、市境から100m弱しか離れていない)の城下町、その後は松山陣屋の陣屋町として発展した比企地域の中心都市である。
池袋へ東武東上線・TJライナーで44分(通常の快速急行・急行列車では50分程度)という環境から東京のベッドタウンとなっている一方、周辺市町からの通勤、通学流入も大きく、昼夜間人口比率が102.6 %(令和2年国勢調査)と県内市部で最も高い中核都市となっている。
国際ウォーキング大会でアジア最大規模の「日本スリーデーマーチ」が開催される。
やきとり[注 1]の街と知られ、北海道室蘭市・愛媛県今治市と並び、日本三大焼き鳥の街と言われている。
気候は太平洋式気候に属する。夏は暑い街として有名な熊谷や鳩山と隣接しており、熊谷や鳩山・その他県内の地域と同様、秩父方面からの西風フェーンと南からの温かく湿った、かつ関東南部のヒートアイランドの影響を受けた風が入るため昼は非常に暑くなる。 一方冬は内陸に位置するため朝晩は非常に冷える。また、冬型の気圧配置になると秩父颪が吹くため、風の経路となる都幾川や越辺川沿いの低地帯では風が強くなる。また、市北部の一部では赤城おろしも吹くが、比企丘陵によって風が遮られるため市のほとんどは影響を受けない。また、南岸低気圧により積雪が年に2,3回程度あり、平年の降雪量は16 cm,最深積雪は9 cmとなっている(年によって差が大きい。いずれも熊谷気象台のデータ)
人口は1990年初頭にピークに達し、2010年まで市人口におけるウェイトが高い団塊世代世帯の子供の独立などで微減状態になっていたが、最近は高坂地区やあずま町地区の宅地開発等があり微増傾向にある。また、高坂駅西口のエリアは近くに大学が多いため、20歳前後の人口が多い。
東松山市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 東松山市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 東松山市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
東松山市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
2018年4月1日現在、92,025人。
埼玉県のほぼ中央に位置しているため、埼玉のへそ宣言をしている。
当市内を北緯36度線が通っている。関越自動車道の練馬起点36.4 km地点(西本宿地内)にはその旨が書かれた標識が設置されており、アメリカ合衆国のラスベガスや、イランの首都テヘランと同緯度であることが表記されている。
市内中央部から西部にかけて東松山台地、南部には高坂台地が広がり、両台地上には東武東上線の駅があることもあり市街地や住宅地が多いほか、北部は比企丘陵、南西部は岩殿丘陵の東端部に当たりその立地を活かした住宅団地が多いようである。また、岩殿丘陵の一部である坂東山地区では工業団地としての誘致が進んでいる。都幾川・越辺川・市野川流域周辺は低地となっており田園風景が広がっている。
当市は歴史的に台地上に市街地が広がって発展してきた街で、台地にある東松山駅や高坂駅周辺は水害とはほとんど無縁だが、高度成長期以降は東京のベッドタウン化進行で、郊外の低地での宅地化が進み、市野川沿いの低地にある住宅地区では水害が起きていたため、浸水対策として1996年に市野川雨水ポンプ場が完成し、水害は激減した。また、2019年に都幾川沿いの低地にある住宅地区で大規模な水害が起きたため、今後は国の事業として貯水容量約300万トンという大規模な(仮称)都幾川遊水地の整備[1]、県の事業として九十九川の排水機場整備と調整池整備[2]が行われる予定である。
市内の標高は135m~13mである。 最も高い場所は岩殿丘陵の物見山三角点が135m、比企丘陵の市内区域では川越カントリークラブ内に84.6mの三角点がある。逆に都幾川・越辺川・市野川周辺部の標高は低く、それは下流である南東方向に行くほど顕著になり川島町境界の梅ノ木古凍貯水池西側に13mの標高点がある。東松山駅や高坂駅は台地にあるため30m台となっている。
現在の市の中心部にあたる地域は市制施行前まで松山町と呼ばれ、元を辿れば1333年に上杉氏麾下の上田友直によって築城されたとされる松山城の城下町として発展した街である。城下町時代は松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。このあたり松山新宿と呼ばれていた一方、街道筋にあたる本町から材木町のあたりは松山本郷と呼ばれていた。また、現在の本町1丁目交差点は札の辻と呼ばれ高札場が設けられていた。室町時代から戦国時代にかけて扇谷上杉氏が松山城一帯を支配するが、上杉朝定が川越夜戦で敗死すると、松山一帯は北条氏の領土となった。
徳川家康が関東入国すると、松山城には松平家広が入城し松山藩を立藩した。近代的な城郭都市に発展する可能性も潜めていたが、家広の跡を継いだ松平忠頼が浜松城に移封となると松山城は廃城となった。廃城後、この地域は最終的に川越藩の藩領となり、城に近い松山新宿は次第に廃れ、現在の市街地に当たる松山本郷が町の中心になっていったとされる。
江戸時代には、江戸幕府によって五街道と脇往還といった主要道路の整備が進められ、当市域でも、八王子から日光に至る日光脇往還道の宿場として松山宿と高坂宿が八王子千人同心によって整備され、また江戸から上州に至る川越児玉往還(川越道)の宿場として高坂宿が江戸幕府・川越藩合同によって整備された。
幕末になると、川越藩・川越城主である松平直克が前橋城に居城を移転し前橋藩となると、飛び地となった比企郡・高麗郡・入間郡・埼玉郡周辺のおよそ6万石の統治を行うために、1867年に松山陣屋が設置され、武家やその関係者、家族らの移住によって人口が2倍近くに増え、現在の埼玉県域でも有数の人口を持つ町奉行が管轄する町となった。しかし、幕末という事もあってわずか5年足らずで廃藩置県を迎える事になった。
明治時代になると、入間県、熊谷県を経て埼玉県域となり、市域では主に「士族授産」事業として旧松山陣屋士族が中心となって松山製糸工場(後の日本シルク)など工場や銀行などの企業が起こされていった。
交通機関では、1903年には松山町を経由する東上鉄道(現:東武東上本線)が計画され、1923年に武州松山駅まで開通。市域には高坂駅・武州松山駅(現:東松山駅)の2つの駅が設置されるなど、交通網も整えられていった。
第二次世界大戦中には、唐子地区(今の東松山工業団地)に陸軍松山飛行場が建設され[9]、また隣接する吉見町の吉見百穴近辺では中島飛行機(現・富士重工業)の地下工場が建設され、市域に工事関係者が多く集まるなど軍事色が濃い町ともなった(なお、松山飛行場は完成前に終戦となったため利用されたり戦闘機が飛び立つことは無かった)。
1954年7月1日、埼玉県下12番目(現在の市の数は40市)、県内の東上線沿線では川越市に次いで2番目の市として市制施行を行い、東松山市となった。
高度成長期になると東京のベッドタウンとして交通の便がよい東松山駅や高坂駅周辺を中心に人口が増加した。高坂ニュータウンや東松山マイタウンに代表されるような住宅団地が次々と造成された。
1975年8月8日には、関越自動車道川越IC-東松山IC間が開通し、交通・物流の拠点地点化が進む。
1889年4月1日に行われた明治の大合併により、当市域では以下の枠組みで合併となった。
※ 平村は現在の比企郡ときがわ町西平にあった同名の比企郡平村と区別するためにそれぞれ東平村・西平村となり、本宿村は現在の川越市東本宿にあった同名の比企郡本宿村と区別するためにそれぞれ西本宿村・東本宿村となったものである。
1954年7月1日に比企郡松山町・大岡村・唐子村・高坂村・野本村が合併し、東松山市となる。
平成の大合併ブームの中、当初は比企広域市町村圏組合構成全10市町村での合併を構想。2003年に、比企郡川島町・比企郡鳩山町を除く8市町村で任意の合併協議会が設けられたが、協議が難航し解散。その後、隣接する比企郡吉見町と法定合併協議会を設置するも、新市名をはじめとする様々な分野で条件が折り合わず、東松山市議会による離脱決議を受けて解散し、協議は終了する。
2006年、秩父郡東秩父村との飛び地合併について一部報道機関により報じられたこともあったが、当市を当事者とする市町村合併に関する協議は、公的な形では行われていない。
2021年4月1日現在、職員数は812名(特別職・再任職員含む)[11]。
行政職組織(議会、市民病院事務部等を含む)11部・45課、医療職組織2部・16科。
以下の区画整理事業は、地域住民の反対や事業が長期に渡ることなどから凍結・休止された。
候補者名 | 当落 | 年齢 | 党派名 | 新旧別 | 得票数 |
---|---|---|---|---|---|
松坂喜浩 | 当 | 58 | 無所属 | 現 | 無投票 |
横川雅也 | 当 | 39 | 自由民主党 | 現 | 無投票 |
当市では、明治維新直後から旧松山陣屋士族によって松山製糸工場(現:日本シルク)に代表されるような企業が盛んに起こされた。重工業の進出は1940年(昭和15年)にヂーゼル機器(現:ボッシュ)が当市に同社初の工場を設置したことに始まる。現在においてもボッシュ東松山工場は同社の日本国内における中心的な工場で、この工場の誕生によって自動車機器(現:ボッシュに統合)などのボッシュ関連会社が市内に多く設置され、当市の経済に大きく関わることになった。
高度成長期以降、1975年に関越自動車道東松山インターチェンジが開通し、新郷地区に東松山工業団地が造成されるなど、交通アクセスを生かした工場の進出が進んだ。当市は埼玉県のほぼ真ん中で県内各地に向かう幹線道路が集まる場所であり、また広域アクセスにおいても関越自動車道に加え、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)に近いことから、近年では物流拠点として開設する企業が目立っており、2014年に完成した葛袋産業団地(坂東山)の分譲が好評だったことから、さらに今後5年間で石橋、松山、宮鼻、大谷地区に工業団地を新設すると発表した[13]。
古くから比企地方の中心都市として商業が栄えた土地で、スーパーマーケット「マミーマート」は当地で創業した八百清が発祥である。また、比企郡小川町で発祥した「ファッションセンターしまむら」のチェーン1号店や、「日本マクドナルド」の社員フランチャイズ1号店があった。このように市内からチェーン展開が始まった企業も多く、東松山商圏を形成している。また、市外への買い物先は川越市や東京都内(池袋)といった東武東上線によって結ばれている都市が主にあげられる。
東松山駅東口から市役所周辺にかけての地区は商業施設や商店街が密集しており当市の中心地区となっているエリアである。商店街もぼたん通り商店街・まるひろ通り商店街・材木町商店街・一番街商店街と数多く存在している。近年では買い物環境の変化により、かつては市内で一番賑やかだった材木町周辺の商店街は衰退しつつあり、より東松山駅に近いエリアに集約される傾向がある。
高坂駅西口周辺においては周辺大学に通学する学生人口が多いことから単身者向けの店舗が多い傾向にある。これは学生は自動車を所有してない割合が高い事から郊外店の影響を受けにくい傾向にあり、これが高坂駅西口周辺が学生街としての独特の商圏を形成する結果となっている。
市内では国道407号東松山バイパス沿い周辺にロードサイド型店舗が集積している。特に小松原町〜新宿町にかけての区間、及び、あずま町周辺などに集中する。現在その代表的存在ともいえるのは2010年にオープンした『ピオニウォーク東松山』で、120店以上の店舗で構成される埼玉県中部地域最大規模のリージョナル型(広域型)ショッピングモールとして、市内外から人が集まる場所となっている。
1960年頃に市内には「松山映画劇場」(松映)と「松山銀映劇場」(銀映)の2つの映画館があり[注 3]、松映は近接では唯一の新作映画が上映されており、1990年頃建て替えられ「東松山シネママリオン」と改称、東武東上線沿線では池袋・川越と並んで従来型映画館が残る街であったが、単館映画館だったこともありシネコンブームの波に押され2004年頃に閉館した。一方の銀映は芝居小屋だった松林座が発祥で、晩年は映画館となりB級映画や型落ち作品が主に上映されていたが1961年に火事で焼失し閉館した。 現在の最寄り映画館は車・交通機関共に若葉駅そばのワカバウォークにあるユナイテッドシネマわかば(鶴ヶ島市)である。 その他近隣では距離順にこうのすシネマ(鴻巣市)、熊谷市のシネティアラ21(熊谷駅直結)とイオンシネマ熊谷などがある。
かつては旧協和銀行、旧埼玉銀行、旧さくら銀行(太陽神戸銀行時代から存在)、旧西武信用組合、旧小川信用金庫もあった。旧協和銀行は旧埼玉銀行との合併に伴いあさひ銀行となった後、窓口業務は旧あさひ銀行東松山支店(現・埼玉りそな銀行東松山支店)と、旧あさひ銀行東松山駅前支店と2行あったが、東松山支店に統合された後、東松山駅前支店の建物は残り埼玉りそな銀行のATMコーナーとして利用されていたが、東松山駅構内にATMが設置されたため現在はATMは撤去され建物だけが残されている。
また旧さくら銀行東松山支店は1998年に旧あさひ銀行に事業譲渡して閉店後、跡地は公園となっている。
旧西武信用組合は神明町に支店があったが、経営破綻により解散した1999年に業務を旧あさひ銀行東松山支店が継承し、支店施設は売却された。
埼玉縣信用金庫東松山支店は以前東松山駅西口にあったが、旧小川信用金庫から営業譲渡を受けた後、小川信用金庫東松山支店の建物であった場所(丸広百貨店東松山店前)に移転している。
上記のうち高坂地区の大字島田、野本地区の大字江綱は、区域が極めて狭く定住人口も無いため、現在ではもっぱら土地登記上等の地名として用いられている。それぞれ隣接する比企郡吉見町、坂戸市にある同名の地区の一部を編入したために生じた区域である。
東松山市内の市立中学校・小学校における普通教室へのエアコンは2013年(平成25年)度に全校に設置された。
市内には2つの図書館、1つの図書室がある。以前は移動図書館(まつかぜ号)もあったが、2007年(平成19年)8月31日をもって廃止になっている。
比企広域市町村圏域内公共図書館の相互利用協定により、比企郡(嵐山町・滑川町・小川町・ときがわ町・川島町・吉見町・鳩山町)・秩父郡東秩父村に居住・通学通勤している者なら利用可能である。
2005年(平成17年)8月2日から、坂戸市立図書館との相互利用が開始された。2007年(平成19年)には、熊谷市立図書館との相互利用も開始された。
郵便番号は市内全域が「355-00xx」(東松山郵便局が集配を担当)である。
市外局番は市内全域が「0493」。同一市外局番の地域との通話は市内通話料金で利用可能(東松山MA)。 市内局番は21~39だが、近年では市内局番の番号不足により59,81も使用している。収容局は東松山第二局、高坂局(都幾川以南)、冑山局(市ノ川以北)。
市内には大小の数多くの公園があり、人口1人あたりの公園面積は16.80 m2と、埼玉県全体の平均である5.54 m2を大幅に上回る、埼玉県内でも公園が多い市である。なお、国営武蔵丘陵森林公園は当市にあると案内されることがあるが、市域と隣接する部分はあるものの公園内に市域は含まれていない。
東松山市内には東武東上本線の東松山駅と高坂駅があり、池袋駅からは約50分程(TJライナー利用で45分)である。東京駅からは東京メトロ丸ノ内線を通して池袋経由でアクセス出来る。東上線は途中の和光市駅より東京メトロ副都心線(新宿三丁目駅、渋谷駅、元町・中華街駅方面)、朝夜時間帯は東京メトロ有楽町線(飯田橋駅、有楽町駅、新木場駅方面)からの直通電車が運行されている。
東松山市内の路線バスは、川越観光バスを中心に東武グループ3社により運行されており、全て東松山駅か高坂駅を発着地としている。東松山駅と高坂駅をバスのみで直接結ぶ路線は現在なく、鉄道を使わずに行き来する場合は東松山市内循環バス「市民健康増進センター」と鳩山町営路線バス「神戸神社前」を乗り継ぐ必要がある。鉄道駅間を結ぶ系統としては、東松山駅からは鴻巣駅・川越駅・熊谷駅の各駅を結ぶ系統が、高坂駅からは越生駅を結ぶ系統がある。
また、路線バス以外で別途東京電機大学、大東文化大学行きのそれぞれスクールバスや、周辺5ゴルフ場への送迎バスが発着している。
「東松山市内循環バス」が運行されている。公共交通空白地域である大岡地区と唐子地区へ向かう2路線がある。
路線バスとタクシーの中間的な利用方法の公共交通機関で、路線バスのように乗る場所・降りる場所(乗降スポット)が決められており途中下車や寄り道はできない。コミュニティバスとの乗り継ぎの場合はバス運賃が無料となる。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.