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日本の製紙会社 ウィキペディアから
日本製紙株式会社(にっぽんせいし[2]、英文社名:英語: Nippon Paper Industries Co., Ltd.)は、日本第2位(世界8位)の製紙業会社で、日本製紙グループの中核会社である。三井グループと芙蓉グループに属する[4]。
本社が入居する御茶ノ水ソラシティ | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
機関設計 | 監査役会設置会社[1] |
市場情報 | |
略称 |
NPI 日本紙 |
本社所在地 |
日本 〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台四丁目6番地 (御茶ノ水ソラシティ内) |
本店所在地 |
〒114-0002 東京都北区王子一丁目4番1号[2] |
設立 | 1949年(昭和24年)8月1日 |
業種 | パルプ・紙 |
法人番号 | 8011501009422 |
事業内容 | 洋紙・板紙・パルプ・紙製品・化成品などの製造・販売 |
代表者 |
代表取締役社長兼社長執行役員 野沢徹 代表取締役副社長兼副社長執行役員 山崎和文 |
資本金 | 1048億7300万円 |
発行済株式総数 | 1億1625万4892株 |
売上高 |
連結:1兆1526億45百万円 (2023年3月期) |
経常利益 |
連結:△245億30百万円 (2023年3月期) |
純利益 |
連結:△504億06百万円 (2023年3月期) |
純資産 |
連結:4152億00百万円 (2023年3月末現在) |
総資産 |
連結:1兆6665億42百万円 (2023年3月末現在) |
従業員数 |
連結:15,557人 単体:4,938人 (2024年3月末現在) |
決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | EY新日本有限責任監査法人[3] |
主要株主 |
いちごトラスト・ピーティーイー・リミテッド 10.13% 日本カストディ銀行株式会社(信託口) 5.35% 日本マスタートラスト信託銀行株式会社(信託口) 6.14% 株式会社みずほ銀行 3.75% 日本製紙従業員持株会 2.62% |
主要子会社 | 日本紙通商 |
関係する人物 |
渋沢栄一(王子製紙創業者) 宮島清次郎(国策パルプ工業初代社長) 水野成夫(国策パルプ工業社長) 南喜一(国策パルプ工業会長) 難波経一(山陽パルプ会長) 齊藤知一郎(大昭和製紙創業者) 齊藤了英(大昭和製紙第2代社長) |
外部リンク |
www |
前身となる企業は十條製紙、東北振興パルプ(1968年(昭和43年)合併)、山陽国策パルプ(1993年(平成5年)合併)、大昭和製紙(2003年(平成15年)合併)の4社で、会社設立年度は存続会社・十條製紙の設立年度である1949年(昭和24年)としている。十條製紙と山陽国策パルプの合併で社名を日本製紙とした。
もともと、十條製紙は1949年(昭和24年)に過度経済力集中排除法によって旧王子製紙が3社に分割された内の1社である(他2社は苫小牧製紙、本州製紙)。1968年(昭和43年)に3社の再合併が発表されたものの実現には至らず、1996年(平成8年)新王子製紙(苫小牧製紙から改称した王子製紙と神崎製紙が合併)と本州製紙が合併、王子製紙が発足し、十條製紙だけが異なる道を歩むことになった。なお、3社分割時に十條製紙が旧王子製紙の創業地である王子工場(1943年閉鎖)跡も引き継いだため、日本製紙の登記上の本店所在地は現在も東京都北区王子一丁目である。
2001年(平成13年)に、持株会社日本ユニパックホールディングの下で日本製紙と大昭和製紙との経営統合が実施され、両社の洋紙営業部門はこの時に「日本紙共販」として合併した。2003年(平成15年)に日本製紙と大昭和製紙が正式に合併し「新生」日本製紙が誕生。またこのとき両社の板紙部門が整理・統合され、新たに日本大昭和板紙が発足した。2004年(平成16年)10月1日に持株会社の社名も株式会社日本製紙グループ本社に統一された。
洋紙事業の主力製品は、新聞用紙、印刷出版用紙、情報用紙、産業用紙の4種類。特に新聞用紙は、日本国内シェアの37%を占める。なお、印刷出版用紙は上質紙・塗工紙・微塗工紙など、情報用紙はノーカーボン紙・複写機用紙・感熱紙・インクジェット用紙など、産業用紙は紙コップ・壁紙など各種紙加工品の原紙やクラフト紙を指す。
2012年(平成24年)10月1日に、グループの板紙部門である日本大昭和板紙、紙パック部門である日本紙パック、化成品部門である日本製紙ケミカルの3社を吸収合併。さらに2013年(平成25年)4月1日に持株会社であった日本製紙グループ本社を吸収合併し、中核会社となった。
前身の十條製紙が三井財閥傘下の初代王子製紙の流れを汲み、同じく前身の山陽国策パルプが旧富士銀行をメインバンクとしていたことから三井グループと芙蓉グループに属しており[4]、三井系の二木会[4]・三井業際研究所[5]・綱町三井倶楽部[6]・月曜会・三井文庫[7] に加盟する一方芙蓉グループの社長会・芙蓉会[4] にも加盟している。ただし、三井広報委員会と芙蓉懇談会には加盟していない。
2009年、日本製紙はオーストラリアを本拠地とする世界有数の紙専門商社PaperlinX(PPX)社の子会社であるオーストラリアンペーパー(AP)社の全株式を取得する株式売買契約をPPX社と締結、同年6月に株式取得を完了しAP社は日本製紙グループの一員となった[8]。その主力工場がメアリーベール(Mary-vale)工場であり、ヴィクトリア州に立地する[9]。
AP社はオーストラリア最大の印刷用紙メーカーとして50年以上の歴史を持ち、主力のブランドであるコピー用紙「Reflex!」は、オーストラリアにおいて約60%のシェアを有していた。メアリーベール工場が使用するチップは100%オーストラリア産で、材としてはユーカリとラジアータパインがメインとなっていた[9]。
2019年10月には豪州・北米を中心に世界規模で事業展開するオローラ(Orora)社から、オーストラリア、ニュージーランド事業の板紙パッケージ部門を譲り受けることについて合意し、2020年4月30日に事業譲受けが完了。当該事業にAP社事業を組み込み、オパール(Opal)社として新たに事業をスタートさせた。成長する豪州・NZ市場での事業拡大、オセアニア事業の効率化、アジア・オセアニア地域でのパッケージ事業拡大を目的としたものであった[10][11]。
まさにその時期に発生したオーストラリア森林火災 (2019年-2020年)により、ヴィクトリア州の天然林と野生生物が壊滅的な影響を受けるという事態が生じた。この火災によりヴィクトリア州の森林の31%が焼失し、湿地林の4分の1、および低地林の3分の1以上が影響を受け、200種近い希少種または絶滅危惧種の動物が生息地の半分以上を火災で失ったとされる[12][13]。
AP社はOpal社に統合される以前より、ヴィクトリア州有林を管理する州の林業セクターVicForests(VF)社からヴィクトリア州産木材チップの原料を調達していた。
森林火災をきっかけとして、VF社は2021年より環境保護団体との間で希少動物保護の取組に関する裁判を行っていたが[12]、2022年11月11日に豪州ヴィクトリア州裁判所よりVF社に対して伐採差止命令が下され、Opal社はグラフィック用紙の主原材料となる漂白パルプの原料として用いていたヴィクトリア州産ユーカリ材をVF社から調達することが不可能な状況になった。この事態を受けて2023年2月14日、日本製紙は豪州でのグラフィック用紙事業からの撤退を決定[14]。
この撤退により、2024年3月期第1四半期において人員合理化[15]による特別退職金を含む事業撤退関連損失として約49億円の特別損失を計上するとともに、2024年3月期においてOpal社のメアリーベール工場M2抄紙機の恒久停機に伴う固定資産の減損損失として約12億円の計上を見込んでいる[16]。
基幹工場
その他工場
板紙事業本部
紙パック事業本部
ケミカル事業本部
モータリゼーション以前の大規模工場には、製品や原料などを輸送するために、周囲の鉄道駅から線路(専用線あるいは専用鉄道)が引き込まれることが多かった。日本製紙の前身である、十條製紙や山陽国策パルプ、大昭和製紙も例外ではなく、ほぼすべての工場に鉄道が引き込まれていた。
輸送方式の変更(トラック輸送への転換など)によって1970年代後半から1990年代前半にかけて多くが廃止・撤去されたが、2008年(平成20年)3月現在でも5工場で使用されている。以下は現存する工場の一覧で、括弧内は路線が接続する路線名および駅名である。
かつて専用線・専用鉄道が使用されていた工場は以下の通り。
2007年(平成19年)秋、プロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地、宮城球場の命名権募集に応募。他2社との競合の末、同年12月に命名権取得が決定。球場名を「日本製紙クリネックススタジアム宮城」(略称:Kスタ宮城、Kはクリネックスの頭文字)に改称することになった。契約期間は2008年(平成20年)1月1日から3年間で、契約金は年間2億5000万円。
しかし、命名権契約開始直後の1月16日に同社で製造した再生紙年賀はがきの古紙配合率偽装が発覚。命名権契約解消こそ免れたものの、ペナルティとして社名を削除されることになり、2月15日付で「クリネックススタジアム宮城」に再改称された。
契約満了2か月前の2010年(平成22年)11月1日、命名権契約を3年更新することを発表。前述のペナルティで削除されていた社名も加わることになり、2011年(平成23年)1月1日付で「日本製紙クリネックススタジアム宮城」に改称された。契約金は年間2億円に減額。
2度目の契約期間満了を目前に控えた2013年(平成25年)10月、翌年以降の契約更新を見送る旨を宮城県側に申し入れ、宮城県側もそれを了承。同年末を以って「日本製紙クリネックススタジアム宮城」の呼称は終了となった。
石巻工場に十條製紙硬式野球部を継承した硬式野球部(日本製紙石巻硬式野球部)が存在する。2010年(平成22年)には都市対抗野球大会に出場した(第81回大会)。
また山陽国策パルプ時代には、旭川に硬式野球部が存在し、合併後も日本製紙旭川として活動していたが、2000年(平成12年)に石巻と統合された。
富士市の本社に硬式野球部が設置されていた。都市対抗野球大会に36回出場し、3度の全国制覇を果たした(1953年(昭和28年)の第24回大会、1970年(昭和45年)の第41回大会、1980年(昭和55年)の第51回大会)。
白老町の工場にも、これとは別に硬式野球部が設置されていた(大昭和製紙北海道)。都市対抗大会には18度出場し、1974年(昭和49年)の第45回大会で優勝している。
1948年(昭和23年)に創部された大昭和製紙陸上競技部は、小掛照二(三段跳)、室伏重信(ハンマー投)、鈴木章介(十種競技)、井上恭一郎(棒高跳)、福光久代(走高跳)ら、オリンピック代表に数々の選手を送り出し、また川崎清貴(円盤投)や小野富美子(女子短距離走)ら、日本陸上競技選手権大会優勝者を輩出した。
大昭和製紙陸上競技部は所属した選手が各種目で併せて20の日本記録を更新するなど、実業団の名門チームとしてその名を知られていた。しかし本社の経営上の都合もあって男子チームが1984年(昭和59年)に、女子チームが1993年(平成5年)にそれぞれ休部となってしまっている。
2019年までアイスホッケーのアジアリーグ所属チーム「日本製紙クレインズ(現・ひがし北海道クレインズ)」を運営し、同社釧路工場を拠点としていた。
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