ホルガー・オジェック

ドイツのサッカー選手、監督 ウィキペディアから

ホルガー・オジェック

ホルガー・オジェックHolger Osieck1948年8月31日 - )は、ドイツホンベルクドイツ語版出身の元サッカー選手サッカー指導者FIFA(国際サッカー連盟)の技術委員を経て、浦和レッズの監督を2度(1995年-1996年、2007年-2008年)務めた。

概要 ホルガー・オジェック, 名前 ...
ホルガー・オジェック
名前
ラテン文字 Holger Osieck
基本情報
国籍 ドイツ
生年月日 (1948-08-31) 1948年8月31日(76歳)
出身地 ホンベルクドイツ語版
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1965-1970 アイントラハト・ゲルゼンキルヒェン
1970-1972 SSVハーゲン
1972-1976 1.FCミュールハイム 55 (11)
1976-1977 1.FCボホルト
1977 バンクーバー・ホワイトキャップス 21 (2)
1978 SCロートヴァイス・オーバーハウゼン
通算 76 (13)
監督歴
1991-1992 VfLボーフム
1993-1994 フェネルバフチェ
1995-1996 浦和レッズ
1996-1998 コジャエリスポル
1998-2003 カナダ代表
2007-2008 浦和レッズ
2010-2013 オーストラリア代表
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
閉じる

経歴

現役時代はブンデスリーガの下部リーグや北米サッカーリーグバンクーバー・ホワイトキャップスでプレーした。

現役引退後は1987年から西ドイツ代表のアシスタントコーチを務め、1990年イタリアW杯制覇に貢献した。

その後、ドイツのVfLボーフムトルコフェネルバフチェの監督を経て、1995年から浦和レッズの監督に就任。堅守速攻に加えポゼッションサッカーを取り入れ、それまで2年連続最下位だったチームをギド・ブッフバルトを中心にした守備陣とウーベ・バイン福田正博を中心とした速攻で建て直し、一躍優勝争いに加わらせた。なお、2003年に行われた福田正博の引退試合では、レッズ歴代選抜チームの指揮を執っている。

1996年限りでレッズの監督を退任すると、その後はトルコのコジャエリスポルの監督に就任し、トルコカップ優勝。翌年、カナダ代表監督を務め2000 CONCACAFゴールドカップで優勝し翌年のFIFAコンフェデレーションズカップ2001で日本への凱旋を果たした。2004年からは国際サッカー連盟(FIFA)の技術スタッフの責任者を務めていた。ドイツワールドカップでは戦術を分析するFIFAテクニカルスタディーグループのヘッドを務めた。

2007年から前年限りで退任したギド・ブッフバルトの後を受け再び浦和の監督に就任。同年はAFCチャンピオンズリーグ制覇にチームを導く。翌2008年3月16日、Jリーグ開幕後無得点による2連敗という成績面の不振、また選手とのコミュニケーション不足を問題視され、同クラブより監督を解任された[1]。開幕から2試合目での解任はJ1史上最短、J2を含めても足達勇輔(元横浜FC)の1試合目に次ぐ記録であった。

2010年8月11日、退任したピム・ファーベークの後任としてオーストラリア代表監督に就任。初のタイトル戦となったAFCアジアカップ2011はオーストラリア代表を準優勝に導いた。

2013年9月のブラジル、翌10月のフランスとの両親善試合でともに0-6と大敗。このため10月11日のフランス戦後に解任された[2]

クラブ歴

指導歴


監督成績

さらに見る 年度, 所属リーグ ...
年度所属リーグ試合数勝点勝利引分敗戦順位チーム
1995 J・サントリー264815113位 浦和レッズ
J・ニコス264214128位
1996J305919116位
2007J13470201042位
2008J120002-
閉じる

タイトル

監督時代

フェネルバフチェ
  • TSYDカップ: 1994-95
コジャエリスポル
浦和レッズ
カナダ代表

脚注

外部リンク

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.