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シャルケ04
ドイツのサッカークラブ ウィキペディアから
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シャルケ04(FC Schalke 04, ドイツ語: [ʔɛf t͡seː ˈʃalkə nʊl fiːɐ̯], Fußballclub Gelsenkirchen-Schalke 04 e. V. フースバルクルプ・ゲルゼンキルヒェン=シャルケ・ヌルフィア・エー・ファウ)は、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州ゲルゼンキルヒェンを本拠地とする総合スポーツクラブ。その他、陸上競技、ハンドボール、卓球などクラブチームおよび専属選手の保有や運営、育成にも携わる。かつてはバスケットボールチームも活動していたが、2020年に活動を終了している。
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ドイチャーマイスター7回[3]、国内カップ戦であるDFBポカールで5度の優勝、1997年にはUEFAカップで優勝を果たしている[4]。
世界最大の会計事務所であるデロイトが公表した2022年度版の『デロイト・フットボール・マネー・リーグ』によると、2019-20シーズンのクラブ収入は2億2280万ユーロであり、世界16位、ドイツでは3位である[5]。
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歴史
要約
視点
創立期
1904年、ヴェストファーレンとシャルケ(ゲルゼンキルヒェン市の市区の一つで、旧市街の北に隣接する)の2つの地域名を合わせた「ウェストファリア・シャルケ」(Westfalia Schalke) というクラブ名で創設された[6]。創設に関わったのはシャルケ地域で働く若い炭鉱労働者や工場労働者たちで、当時のクラブカラーは赤と黄色だった[6]。1924年に「FCシャルケ04」と改称し、クラブカラーも現在まで続く青と白に変更された[6]。1920年代のサッカー界ではキック・アンド・ラッシュ戦術が流行していたが、イングランド育ちのハンスとフレッドのバルマン兄弟がスコットランドスタイルをチームに持ち込み、「シャルケのコマ回し」と評されたパスサッカーを展開した[6][7]。
1930年には、当時法律でプロとしての活動が禁止されていたにもかかわらず選手に勝利給を支払っていたことが公になり、責任者のヴィリー・ニーアーがライン川に身を投げ命を絶った[8][9]。協会はチーム登録の抹消や罰金処分など厳しい処分を課したが、サポーターの怒りを恐れた協会はすぐさま処分を撤回した[8]。ニーアーの葬儀でサポーターは団結を訴え、直後の公式戦では3万4000人収容のスタジアムに7万人を超える観客が詰め掛けた[8]。
黄金時代
1930年代から40年代にかけてドイチェ・フースバルマイスターシャフトで6度優勝し黄金時代を迎えた[8]。エルンスト・クッツォーラとフリッツ・シュツェパンの活躍によりシャルケは国内最強の地位にあったが、第二次世界大戦後のエネルギー転換によりゲルゼンキルヒェンの石炭鉱業は衰退し、クラブにも影響することとなった[6][8][10]。
ブンデスリーガ発足
1958年の優勝からクラブの勢いは下降気味だったが、1963年のブンデスリーガ発足メンバーに名を連ねた[8]。1971年に一大スキャンダルとなったブンデスリーガの八百長事件では、処分された52人のうち13人がシャルケの選手だった[11]。中心選手だったスタン・リブダ、ロルフ・リュスマン、クラウス・フィッシャーらは賄賂を受け取り敗退行為に手を染め永久追放処分となった[8]。その後期間は軽減されたものの、タイトル争いをするほどだったチームは有力選手を出場停止により失いチーム力を落とし、「FC八百長」と揶揄されるほどだった[8][12]。その後フロントの迷走により財政的にも問題を抱え、クラブは2部降格の苦境に陥った[8]。
初のUEFAカップ制覇とDFBポカール連覇
1993年にルディー・アッサウアーがGMに就任しクラブ改革を実行していくと、4年後には欧州タイトルであるUEFAカップを制した[8]。アッサウアーは欧州の2部的地位にあるリーグに目を向け、補強資金の枠に縛られないチーム強化を目指し、ベテランを重用しチームの継続性を維持した[12]。1998-99、1999-2000シーズンは主力選手の怪我が相次ぎ下位に低迷し、クラブ首脳陣からフーブ・ステフェンスの監督解任を求められたが、アッサウアーは耳を傾けずUEFAカップでタイトルをもたらした監督を信じた[12]。
2000-01シーズンはリーグ発足後初の大混戦で、前半戦の王者になったシャルケは首位FCバイエルン・ミュンヘンと競り、最終節で優勝可能性を残した2位につけていた[10]。迎えた最終節はSpVggウンターハヒンクに2点を先行される苦しい展開ながら、前半終了間際に同点に追いつくと後半に巻き返し5-3で勝利した[13][14]。優勝にはバイエルンの敗戦が必須条件だったが、試合終了後のスタジアムの電光掲示板に表示された「ハンブルク 1-0 バイエルン」という表記に優勝を確信したサポーターは喜びを爆発させた[14]。しかしこれは時間差の情報で、土壇場でバイエルンが同点ゴールを決めてあと一歩のところで優勝を逃すこととなった[14]。
フェルティンス・アレーナ完成以降
2001年に新たなスタジアム、フェルティンス・アレーナが完成した[15]。2004-05シーズンはバイエルンとの首位攻防戦を制し25節で首位に浮上したものの、その後の9試合で5敗と大失速でタイトル獲得はならなかった[16]。続く2005-06シーズンはラルフ・ラングニック監督が首脳陣との確執でシーズン途中で交代となり、引き分け試合が重なったこともあって優勝争いに絡むことはできなかったものの、後任のミルコ・スロムカ監督は2006-07、2007-08シーズンで結果を残した[16]。特に2006-07シーズンは残り2試合で首位に立ち優勝に期待が寄せられたが、ペーター・レーヴェンクランズの負傷とリンコンの出場停止により勢いが続かず、またしても目前で優勝を逃すことになった[16]。
2009-10シーズンにフェリックス・マガトが監督に就任すると、軍隊と形容されるトレーニングでベテラン選手が活性化し、前シーズンの8位から大幅に順位を上げ2位と結果を残した[16]。
2010-11シーズンは内田篤人など11名の新戦力が加わり最適解を見つけるのに手間取り、マガトが3月に解任されリーグは14位に沈んだものの、DFBポカール優勝、DFLスーパーカップ優勝、チャンピオンズリーグでは躍進しクラブで初となるベスト4進出を果たした[16]。その後の3シーズンで3年連続でチャンピオンズリーグ出場権獲得と安定した成績を残したが、監督の途中交代が続き継続性を欠いたチームは優勝争いに加わることはなかった[16]。
2014-15シーズンは1.FSVマインツ05からチュポ・モティングを獲得し、冬の移籍市場ではマンチェスター・シティからマティヤ・ナスタシッチを獲得した。チャンピオンズリーグではベスト16でレアル・マドリードと対戦し、アウェーのセカンドレグは勝利したものの2戦合計4-5で敗れた。この頃からマックス・マイヤー、レオン・ゴレツカ、レロイ・サネといった若手のドイツ人プレーヤーがチームを引っ張るようになった。
2015-16シーズンの夏の移籍市場では、ボアテングの契約を解除し、ユリアン・ドラクスラーをVfLヴォルフスブルクに放出した一方、フランコ・ディ・サントやヨハネス・ガイス、ピエール・エミール・ホイビュルクなどを獲得。冬の移籍市場ではユネス・ベルアンダを獲得した。UEFAヨーロッパリーグではベスト32でFCシャフタール・ドネツクに2戦合計0-3で敗れた。
2016-17シーズンは監督にマルクス・ヴァインツィールが就任。夏の移籍市場で主力であったサネをマンチェスター・シティFCに放出したが、ブリール・エンボロ(FCバーゼル)、イェウヘン・コノプリャーンカ、コケ(セビージャFC)、ナウド(VfLヴォルフスブルク)などを獲得。冬の移籍市場ではギド・ブルクシュタラー(1.FCニュルンベルク)を獲得した。しかしリーグ序盤で5連敗に始まり最下位に沈むなど最悪のスタートを記録し、3バック起用などで一時はV時回復を見せるも、ブンデスリーガは10位に終わり、ヨーロッパリーグを逃した。ヨーロッパリーグはベスト8でアヤックスに敗れて敗退した。
2017-18シーズン、32歳のドミニコ・テデスコが監督に就任した。夏の新戦力として、アイントラハト・フランクフルトからバスティアン・オツィプカを、FCナントからアミーヌ・アリを獲得した。また、テデスコはマックス・マイヤーを司令塔ポジションにコンバートさせ、見事成功させた。リーグ戦においてはシーズン通算18勝9分け7敗という結果を残し、中でも、11月に行われた第13節ボルシア・ドルトムント戦では、4点差のビハインドを跳ね返しドロー決着とした。これらの出来事により、クラブはリーグ順位2位で4シーズンぶりのチャンピオンズリーグ出場権を手にした。
2019-20シーズンは監督にデイヴィッド・ワグナーが就任。2019年12月時点で3位に立ち、前半戦を8勝3敗6分けの5位で終えるなど、上々の滑り出しを見せていたが、多くの負傷者の存在や対戦相手からの分析が進んだ後半戦以降は、2020年1月17日のボルシア・メンヒェングラートバッハを2-0で下したのを最後に勝ち星から遠ざかり、6月7日の1.FCウニオン・ベルリン戦を1-1のドローで終え、1993-94シーズン以来となる27年ぶりのリーグ戦連続未勝利数がクラブ史上ワーストとなる12試合にまで伸び、未勝利記録を樹立した。その後も最終節のSCフライブルク戦も0-4と大敗し、順位こそ前半戦での大きな貯金のおかげで前シーズンから2つ上がった12位で終えたが、後半戦だけの成績に限れば1勝10敗6分け(7得点37失点)の成績だった。加えて、かねてより懸念されていたチームの財政事情が、新型コロナウイルス感染症の影響によりさらに悪化したため、クラブはシーズン終了後にノルトライン=ヴェストファーレン州から4000万ユーロ(約45億円)の借り入れを発表した[17][18][19]。
降格と低迷期
2020-21シーズンは開幕節でバイエルンに0-8で敗れると、第2節のヴェルダー・ブレーメンにも1-3で敗れ、同日ワグナー監督を解任。その後も監督を交代させるなど、不安定なシーズンに終始した。2020年11月4日に行われたDFBポカール2020-2021 1回戦の1.FCシュヴァインフルト05戦で4-1と快勝し、同年2月5日に行われたDFBポカール2019-2020 3回戦のヘルタ・ベルリン戦 (3-2) 以来となる公式戦での勝利となった。しかし、リーグ戦初勝利は2021年1月に入ってからで、2勝目も4月に入ってからという、歴史的大低迷に喘いだ。同月21日のアルミニア・ビーレフェルト戦で0-1で敗北し、最下位決定での2部降格となった[20]。
2021-22シーズンは第4節までにわずか1勝とスタートダッシュに失敗したが、新加入の板倉滉らの活躍により前半戦は上々の出来であった。しかし第25節でハンザ・ロストックに3-4で敗れ、ディミトリオス・グラモジス監督を解任。暫定監督としてマイク・ビュスケンスが指揮を執った。ビュスケンス監督のもとチームは復調。第31節のヴェルダー・ブレーメン戦を1-4で落とすも第33節のFCザンクトパウリ戦で2点差からの逆転勝利を収め、1年での1部復帰を決めた。第34節の1.FCニュルンベルク戦も2-1で勝利し2部優勝を飾った。
復帰1年目となった2022-23シーズンは、開幕5試合未勝利の後、第6節VfLボーフム戦で初勝利を挙げた。その後は7連敗を喫し、一時は最下位に沈んでいたものの、第18節1.FCケルン戦から8試合無敗と立て直しに成功。だが、序盤戦で失った勝ち点は多く、17位でシーズンを終了し1年で2部に戻ることとなった[21]。
1年で2部に戻ってきた2023-24シーズンも苦しい戦いが続き、2部でも下位に沈み、3部へ降格した場合はプロクラブとして消滅する可能性も報じられるほどであった[22]。最終的に10位という成績でシーズンを終えた。
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タイトル
国内タイトル
- ドイチャーマイスター:7回
- 2. ブンデスリーガ:3回
- 1981-82, 1990-91, 2021-22
- チャマーポカール/DFBポカール:5回
- 1936-37, 1971-72, 2000-01, 2001-02, 2010-11
- DFBリーガポカール:1回
- 2005
- DFLスーパーカップ:1回
- 2011
- 西部ドイツサッカー選手権:4回
- 1929, 1930, 1932, 1933
- ガウリーガ・ヴェストファーレン:11回
- 1934, 1935, 1936, 1937, 1938, 1939, 1940, 1941, 1942, 1943, 1944
- オーバーリーガ・ヴェスト (1947–63)(西部ドイツリーグ):2回
- 1951, 1958
- ヴェストファーレンポカール (ヴェストファーレンカップ):2回
- 1943, 1944
国際タイトル
- UEFAカップ:1回
- 1996-97
- UEFAインタートトカップ:2回
- 2003, 2004
- コッパ・デッレ・アルピ:1回
- 1968
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過去の成績
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記録
- 2019年3月13日現在
欧州での記録
欧州の成績
1950-2000
2001-2010
2010-
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現所属メンバー
要約
視点
モーア
# 29
# 29
シャレンベルク
# 6
# 6
カミンスキー
# 35
# 35
シセ
# 22
# 22
ミュラー
# 32
# 32
- 2023年2月1日現在[25]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
ローン移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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愛称
1930年代から50年代にかけてリーグで7度優勝したことから、「王者の青」を意味する "Königsblau"(ケーニヒスブラウ)という愛称が定着した[26]。また、14 - 15歳の若い炭鉱夫たちが地元のパブに集ってクラブを創設したことから、「若い炭鉱夫たち」を意味する "Die Knappen"(ディ・クナッペン)という愛称も用いられる[26]。シーズン開幕前には、炭鉱跡地を訪れセレモニーを行うのが伝統となっている[6]。
スタジアム
→「フェルティンス・アレーナ」も参照

1973年から使用していた陸上競技場のパルクシュタディオンの老朽化により、2001年に完成したフェルティンス・アレーナをホームスタジアムとして使用している[26]。ドイツで初の屋根付きスタジアムであり、天然芝育成のため札幌ドームのようにピッチが可動式になっている[26][27]。
サポーターはドイツの中でも特に熱狂的であり、2013-14シーズンから2017-18シーズンまでの5シーズンで平均観客動員数は6万人を超え欧州でもトップクラスの数字を記録した[26][28]。
ライバル
→「ルールダービー」も参照
本拠地同士が20 kmしか離れていないボルシア・ドルトムントとの対戦はルールダービー、レヴィア・ダービーと呼ばれ、ドイツでも特に盛り上がる対戦である[29]。初対戦は1925年で、1947年5月18日にシャルケが当時格下だったドルトムントに敗れたことから因縁が始まった[29][30]。サポーターの抗争はスタジアム内外問わず激しく、相手を威嚇するため近くの動物園からライオンを連れてきたという逸話も存在する[30]。
育成組織
「クナッペンシュミーデ」(Knappenschmiede, 「炭鉱夫の鍛冶屋」の意)と呼ばれるシャルケの育成組織はドイツでも評価が高く、2014年のワールドカップで優勝したドイツ代表にはマヌエル・ノイアー、ベネディクト・ヘーヴェデス、メスト・エジル、ユリアン・ドラクスラーら4人の下部組織出身者が選出されていた[31]。また、2014-15シーズンでは、レロイ・サネ、ジョエル・マティプ、ラルフ・フェールマンら育成出身選手はクラブの半数弱を占めていた[31]。
2016年にクリスティアン・ハイデルがスポーツディレクターに就任すると育成組織への関心が下がり、ハイデルの後任のヨッヘン・シュナイダーは「若いタレントがドルトムントやボルシアMG、RBライプツィヒを選ぶようになった」と凋落を認めている[32]。
歴代監督
ウド・ラテック 1992-1993
フーブ・ステフェンス 1997-2002
マルク・ヴィルモッツ 2003
ユップ・ハインケス 2003-2004
ラルフ・ラングニック 2004.9-2005.12
ミルコ・スロムカ 2006.1-2008.4
ミヒャエル・ビュスケンス 2008.4-2008.6
フレット・ルッテン 2008.7-2009.3
ミヒャエル・ビュスケンス 2009.4-2009.6
フェリックス・マガト 2009.7-2011.3
ラルフ・ラングニック 2011.3-2011.9
フーブ・ステフェンス 2011.9-2012.12
イェンス・ケラー 2012.12-2014.10
ロベルト・ディ・マッテオ 2014.10-2015.6
アンドレ・ブライテンライター 2015.7-2016.5
マルクス・ヴァインツィール 2016.6-2017.6
ドミニコ・テデスコ 2017.6-2019.3
フーブ・ステフェンス 2019.3-2019.6
デイヴィッド・ワグナー 2019.7-2020.9
マヌエル・バウム 2020.9-2020.12
フーブ・ステフェンス 2020.12
クリスティアン・グロース 2020.12-2021.2
ディミトリオス・グラモジス 2021.3-2022.3
マイク・ビュスケンス 2022.3-2022-6
フランク・クラマー 2022.6-2022.10
トーマス・ライス 2022.10-2023-9
マティアス・クロイツァー 2023.9-2023.10
カレル・ヘラールツ 2023.10-2024-9
ヤーコプ・フィンペル 2024.9-2024.10
ケース・ファン・ウォンデレン 2024.10-
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歴代所属選手
→詳細は「シャルケ04の選手一覧」を参照
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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