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フランスのサッカー選手 ウィキペディアから
ティモテー・クリスティアン・コロジエチャク(Timothée Christian Kolodziejczak、1991年10月1日 - )は、フランスのサッカー選手。ブンデスリーガ・シャルケ04所属。ポジションはDF。
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サンテティエンヌでのコロジエチャク(2020年) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ティモテー・クリスティアン・コロジエチャク Timothée Christian Kolodziejczak | |||||
愛称 | コロ | |||||
ラテン文字 | Timothée Kolodziejczak | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | フランス | |||||
生年月日 | 1991年10月1日(33歳) | |||||
出身地 | アラス | |||||
身長 | 185cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | シャルケ04 | |||||
ポジション | DF(CB/LB) | |||||
背番号 | 15 | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
1999 | USSMル=アン=ゴエル | |||||
1999-2000 | アヴィヨン | |||||
2000-2009 | ランス | |||||
2008-2009 | → リヨン (loan) | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2009-2012 | リヨン | 12 | (0) | |||
2010-2012 | リヨン B | 23 | (4) | |||
2012-2014 | ニース | 71 | (2) | |||
2014-2017 | セビージャ | 52 | (1) | |||
2017 | ボルシアMG | 1 | (0) | |||
2017-2020 | ティグレス | 6 | (0) | |||
2018-2019 | → サンテティエンヌ (loan) | 36 | (3) | |||
2019-2020 | → サンテティエンヌ (loan) | 15 | (0) | |||
2020-2022 | サンテティエンヌ | 54 | (2) | |||
2022- | シャルケ | 1 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
2007 | フランス U-16 | 1 | (0) | |||
2007-2008 | フランス U-17 | 15 | (1) | |||
2008-2009 | フランス U-18 | 6 | (0) | |||
2009-2010 | フランス U-19 | 14 | (2) | |||
2010-2012 | フランス U-20 | 18 | (4) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2023年6月21日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ユースの各年代でフランス代表として活躍した選手で、U-19代表ではUEFA U-19欧州選手権2010を制覇している。名前の発音が難しいため、一般的にはコロ(Kolo)と呼ばれる事も多い[1]。
7歳の時に地元のUSサン=モーリス・ル=アン・ゴエルでサッカーを始めた。1999年7月にはCSアヴィヨンに移籍し1年を過ごした。2000年6月にはRCランスの下部組織に入団[1]。ユース年代の代表でもチームメイトとなったガエル・カクタと共に過ごした。普段はリエヴァン近郊にあるサントル・ドゥ・プレフォルマスィオーン・ドゥ・フットボールでカクタらと過ごし、週末はランスで過ごす生活であった。彼のトレーナーの一人はかつてのポーランド代表選手、ヨアヒム・マルクスであった[3]。
クラブの下部組織を卒業後、マンチェスター・ユナイテッドFCを始めとする他のヨーロッパのクラブからもスカウトされる中で、ランスは彼を繋ぎとめるために5年のプロ契約を提示した[5]。しかし彼はランスからのオファーを上手くやっていく自信の無さから断った[1]。交渉の末、2008年8月21日にリーグ・アンを7回制した強豪であるオリンピック・リヨンに買い取りオプションつきの1年のレンタル契約、300万ユーロで移籍[6]。
リヨンではトップチームで背番号12番を与えられた。しかし加入が遅かったためにプレシーズンでの合流を逃し、フランスアマチュア選手権に所属するリザーブチームへと送られた。2008年9月13日のASサンテティエンヌのリザーブチーム戦でリザーブチーム初出場。彼はスターティングメンバーとして出場しイエローカードも貰ったものの、フル出場し2-1の勝利に貢献した[7]。2か月後の11月23日には左サイドバックの控えとしてトップチームからリーグ戦で招集がかかった。このパリ・サンジェルマンFC戦でアントニー・レヴェイエールが11分に大怪我を負って交代となり彼はリーグ・アン初出場となった。試合では後半に彼はイエローカードを提示され、リヨンも1-0で敗北した[8]。翌シーズンには4年契約で完全移籍、移籍金は250万ユーロであった[9][10]。
リーグ・アン2009-2010では出場機会は限られた。UEFAチャンピオンズリーグ初出場となったのはこのシーズンで2009年9月29日のデブレツェニVSC戦で左サイドバックのアリ・シソコとの交代での出場であった[11]。4日後のリーグ戦、古巣のランス戦でも途中出場し2-0の勝利となった[12]。11月21日のグルノーブル・フット38戦で初めてスターティングメンバーに名を連ね76分までプレイ、1-1の引分にこの試合は終った[13]。
2012年夏に同じくリーグ・アンのOGCニースに4年契約で移籍。
2014年8月27日には3年契約でプリメーラ・ディビシオンのセビージャFCに300万ユーロで移籍[14]。9月18日のUEFAヨーロッパリーグ、フェイエノールト戦で初出場[15]。リーガ・エスパニョーラ初出場はその6日後、レアル・ソシエダとのホームゲームでこの試合は1-0の勝利となった[16]。10月2日のヨーロッパリーグ、HNKリエカ戦ではレッドカードを提示され一発退場、アンドレイ・クラマリッチにPKを決められ、結果2-2の同点となった[17]。
初得点は10月29日コパ・デル・レイのCEサバデル戦であった[18]。UEFAヨーロッパリーグ 2014-15では合計9試合に出場、決勝戦にも出場した[19]。
2017年1月4日にブンデスリーガのボルシア・メンヒェングラートバッハに移籍した[20]。
2018年8月1日にリーグ・アンのASサンテティエンヌに1シーズンのレンタル移籍(買取オプション付き)が発表された[22]。
代表としてはU-16代表を皮切りに各年代で招集されてきた。初出場は2007年5月30日のドイツU-16代表戦で、フェリックス・クロースに得点を決められ1-0での敗北であった[23]。U-17代表ではスイスU-17代表戦で初出場して以降レギュラーとなった[24]。UEFA U-17欧州選手権2008の予選では負けなしの強さを見せ、準決勝のトルコU-17代表相手にアンダー代表初得点を決めた。彼のこの69分に決めた得点によってPK戦となりこれを4-3で制して勝利した[25]。決勝戦ではスペインU-17代表相手に4-0とされ、完封された[26][27]。
U-18代表ではウクライナU-18代表戦で初出場[28]。合計6試合に出場した。U-19代表ではフランシス・スメレツキ監督から招集され、オランダU-19代表戦で初出場したものの4-2で敗れた。その後も出場を重ねて2010年6月7日には2010 U-19欧州選手権の18人のメンバー入りを果たした。決勝戦までの5試合全てに出場し優勝に貢献した[29]。この優勝によって、2011 FIFA U-20ワールドカップに出場となり、それに伴って彼もU-20代表に昇格した。U-20代表での初出場は2010年10月7日のポルトガルU-20代表との親善試合であり、3-3の引分であった[30]。2010-11シーズンはU-20代表といて4試合に出場し、2011年6月10日はU-20ワールドカップの21人のメンバーに選ばれた。7月30日のコロンビアU-20代表戦で同杯初出場となったものの4-1で敗れた[31]。
彼は父親がポーランド人であるため、ポーランド代表としても出場する権利を有している[32]。15歳の時にはすでにポーランドサッカー協会が同国のアンダー代表に彼を招集しようと接触している。しかし、ポーランド国籍は有しておらず公式試合には出場できないため、その後はフランス代表を選ぶかポーランド代表を選ぶか数年考える事とした[3]。
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