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日本の第125代天皇、上皇 (1933-) ウィキペディアから
明仁(あきひと、1933年〈昭和8年〉12月23日 - )は、日本の第125代天皇(在位: 1989年〈昭和64年〉1月7日 - 2019年〈平成31年〉4月30日)[注釈 2]、上皇(在位: 2019年〈令和元年〉5月1日 - )。御称号は繼宮[5]/継宮[6](つぐのみや)、お印は
明仁 | |
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即位礼 |
即位礼正殿の儀 1990年(平成2年)11月12日 於 皇居 宮殿 |
大嘗祭 |
大嘗宮の儀 1990年(平成2年) 11月22日・23日 於 皇居 東御苑大嘗宮 |
元号 | |
内閣総理大臣 | |
先代 | 昭和天皇 |
次代 | 徳仁 |
誕生 |
1933年(昭和8年)12月23日 午前6時39分(90歳) 東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区千代田) 宮城内産殿 |
諱 |
1933年(昭和8年)12月29日命名 |
称号 |
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印 |
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元服 | 1952年(昭和27年)11月10日 |
父親 | 昭和天皇 |
母親 | 香淳皇后 |
皇后 |
美智子(旧姓名:正田 美智子) 1959年(昭和34年)4月10日 結婚 (→皇太子妃) (→皇后) (→上皇后) |
子女 | |
皇嗣 | 皇太子徳仁親王 |
皇居 |
皇居 御所 東京都千代田区千代田1-1 |
栄典 |
一覧参照
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学歴 | |
研究 | 魚類学 |
親署 | |
日本の憲政史上初めて譲位し、上皇となった。天皇の譲位による皇位継承は光格天皇以来202年ぶりのことである。 |
長男は第126代天皇徳仁。次男に秋篠宮文仁親王(皇嗣)、長女に黒田清子(清子内親王)がいる。
1989年1月7日の父・昭和天皇の崩御に伴い日本国憲法および現皇室典範下で初めて皇位を継承。翌8日に元号法と政令に基づき「平成」へ改元が行われた[9]。2019年4月30日、皇室典範特例法に基づき憲政史上初めて退位した[注釈 4][10][11]。
1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)宮城(現・皇居)内の産殿にて、昭和天皇・香淳皇后の第5子かつ第1皇男子として誕生[12]。
姉に東久邇成子(照宮成子内親王)、久宮祐子内親王、鷹司和子(孝宮和子内親王)、池田厚子(順宮厚子内親王)、弟に常陸宮正仁親王(義宮正仁親王)、妹に島津貴子(清宮貴子内親王)がいる。
1952年(昭和27年)に皇室典範に基づき18歳で成年[13]。1959年(昭和34年)に正田美智子と成婚し、浩宮徳仁親王(第1子/長男、第126代天皇)、礼宮文仁親王(第2子/次男、現:秋篠宮当主、皇嗣)、紀宮清子内親王(第3子/長女、結婚により皇籍離脱。現:黒田清子)の二男一女の3人の子女をもうける。
1989年(昭和64年)1月7日に実父である昭和天皇の崩御[14] に伴い皇位継承し、第125代天皇に即位[15][16]。
天皇在位中は、高齢となっても年間約1000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年/2011年度[17])、20件近くの宮中祭祀や祭儀を執り行うなど精力的に活動し[18]、2015年(平成27年)に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王・同妃雅子(当時)および秋篠宮文仁親王・同妃紀子に引き継いだ [19][20]。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行により、2019年(平成31年)4月30日で退位、5月1日に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し上皇となった。退位(譲位)に伴う皇位継承が行われたのは、光格天皇から仁孝天皇への譲位以来202年ぶりである。歴代天皇で最初に譲位した皇極天皇(斉明天皇として重祚)[注釈 5]より数えて59人目である。
天皇や皇族とともに皇室を構成している[21]。存命中の男性皇室構成員として最年長であり[22]、皇位継承権を有しない唯一の(天皇以外の)男性皇室構成員となった。
魚類学者としても知られ、ハゼの分類を研究対象とする研究者である[23][24]。日本魚類学会に所属し、自ら研究して書いた論文28編(2018年時点)を同学会誌に発表[25]。1992年(平成4年)には『Science』誌に「"Early cultivators of science in Japan"(邦訳例:日本における科学の早期開拓者たち)」という題で寄稿した[26]。また2000年(平成12年)、2008年(平成20年)、2016年(平成28年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている[27][28][29]。
魚類学における業績は各国で評価され、学界において以下に記述する役職に就いている。
この他にも1998年(平成10年)には英国ロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年(平成19年)の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。
また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)には Platygobiopsis akihito と[30]、2005年(平成17年)には Exyrias akihito[31]、2007年(平成19年)にはハゼの新属にアキヒト属(Akihito)と[32]、自身の名を織り込んだ献名がなされた。
2020年には、南日本に生息するオキナワハゼ属の新種を発見した。新種発見は2003年以来17年ぶりであり、退位後初めての研究成果でもある[33]。
皇族および天皇としての国際親善のほかに、魚類研究での外国との交流もあり、皇太子時代に問い合わせに応答した中国の魚類学者に年賀状を毎年送っている[34]。
民族学者である梅棹忠夫は、1971年(昭和46年)8月26日の仲間内の食事会にて「この前、皇太子殿下(=明仁親王)にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣はたいしたもの。立派に東大、京大教授が務まる。学者としては一流だ。」と述べている[35]。
昭和天皇、香淳皇后夫妻は、結婚に際し、主体的な意思で一夫一妻制を推進した。しかし、4人連続で皇女(内親王)が誕生し、天皇に側室を求める意見や、皇弟秩父宮雍仁親王を推す動き等、皇位継承を巡る様々な動向があった。
1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現・皇居)明治宮殿内の産殿にて誕生[12]。昭和天皇、香淳皇后の第5子にして初の皇子(第一皇男子、親王)であった。
御七夜の12月29日午前9時、浴湯の儀(及び鳴弦の儀)が執り行われた[37]。読書役は市村瓚次郎(同控:辻善之助)、鳴弦役は有馬良橘海軍大将と大給近孝子爵(同控:松浦靖子爵、細川立興子爵)が務めた[38]。同日午前11時、命名の儀が執り行われ[37]、称号「継宮」(つぐのみや)、「明仁」(あきひと)と命名された[39]。
父である昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅『大教宣布』より「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宜明治教以宣揚惟神之大道也…(「極〈皇位〉」を立て「統〈皇統〉」を垂れ、列皇〈歴代天皇〉は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神〈かんながら〉」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名されたものである。
お印の「榮(えい)」は文字であり、「草花が盛んに茂る様子」を意味する[7]。
待望の皇位継承者誕生とあり、国内の沸き立ち方は並々ならぬものがあった。民間では、北原白秋作詞、中山晋平作曲で奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』が作られた。
誕生した際、昭和8年皇室令第11号が制定され、東宮に関する事務は、当面皇后宮職に置くとされた[12]。
1936年(昭和11年)3月29日、将来の天皇になるべくして皇太子明仁親王は満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって養育される。当初は週に一度の日曜日には宮中に参内して両親と面会する機会もあったが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった[40]。
1940年(昭和15年)に学習院初等科に入学。学習院就学時代は山梨勝之進院長の下で教育を受け、内舎人 信国鉄蔵を師として剣道を練成。同級生に藤島泰輔や安西邦夫がいた。
1941年(昭和16年)12月8日、自身の学習院初等科2年次在学時に、日米開戦。学習院初等科5年次の1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により、5月より約40名の学友らとともに沼津御用邸に疎開。サイパン陥落により本土上陸の懸念から、7月9日に沼津を出て栃木県日光市の日光田母澤御用邸に移動した(弟の義宮は山内御用邸へ、学友は金谷ホテルへ入った)。本来なら皇太子は御用邸附属邸に滞在となるが、すでに内親王達が疎開していたので、本邸の皇后御座所などを使用した。1945年(昭和20年)に入り、東京で撃墜したB-29の乗員が御用邸近くの古河電工を爆撃目標とする地図を持っていたという知らせが届いたうえ、7月12日に近隣の宇都宮市も空襲にあったため、7月20日にさらに奥地となる奥日光湯元温泉の南間ホテルに再疎開。湯元での滞在は隠密裏となるので食糧難のため学友とともに魚釣りや野草摘み、イナゴ捕獲などにも励んだ。8月15日、他の疎開児らとは別室にてラジオでの父帝による玉音放送を聴き、終戦を迎えた。8月17日には終戦を受け入れない参謀中佐2名が湯元まで訪れ、「皇太子を即位させて本土決戦を行う」と皇太子の身柄を要求されたが、近衛師団長より皇太子を守ると密命を受けて、疎開に同行していた少佐が「負けたら、皇太子は天皇に弓を引いた逆賊の長となり天皇に即位できなくなる」と諭した。東京空襲で東宮仮御所が焼失していたこともあり、しばらく湯元での滞在を続け11月7日に帰京した[41]。
終戦翌年の1946年(昭和21年)4月より、学習院大学英文科教授のイギリス人であるレジナルド・ブライスを、英語の家庭教師として迎える。また、同年10月から1950年(昭和25年)12月まで、父・昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な女性の児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける[42]。ちなみに、ヴァイニングから与えられた英語名は「ジミー」だった[43]。1949年(昭和22年)6月27日には、ヴァイニングとともにGHQの設置された第一生命館を訪問して連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと面会した。このときマッカーサーは「殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった」と好印象を持ったといわれる[44]。また、西洋で流行していたボードゲームのリバーシ(現在のオセロ)を嗜み、昭和天皇とたびたび対戦して知恵を磨いた[45]。
1950年(昭和25年)、学習院高等科2年の際に馬術部の主将となる[46]。
1951年(昭和26年)10月、学習院高等科の修学旅行に参加。学友とは前半別行程で、20日夜に青森行きの夜行準急列車で出発。青森県内を回った後の26日、岩手県平泉で修学旅行に合流、29日に帰京した[47]。
1952年(昭和27年)11月10日、皇居仮宮殿表北ノ間で立太子の礼と皇太子明仁親王の成年式が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。
1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、人生初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ合衆国、カナダを歴訪。同年6月2日、エリザベス2世英国女王(1952年2月6日に父のジョージ6世国王の崩御により即位)の戴冠式へ父・昭和天皇の名代として各国王族らと共に参列。当時の地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。しかしこの外遊の結果(皇太子という身分とはいえ特別待遇されることはなく)、学習院大学の単位が不足して進級できずやむを得ず中途退学したものの、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学業を継続する[48]。
欧米訪問からの帰国直後の同年12月に、結核の感染を診断される。この時、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした[49][50]。
1955年(昭和30年)以降から活発になった皇太子妃候補には4人の名が挙がった(伯爵家林富美子、田安徳川家女、大久保一翁曽孫・大久保忠恒妹、北白川肇子)。4候補との話が無くなったあと、正田美智子が妃候補に挙がった。
1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れていた長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢会テニスコートでのテニストーナメントで日清製粉グループ会長(当時)であった正田英三郎の長女、正田美智子と出会い、テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に『女ともだち』と題した彼女の写真を出品した。しかし、「皇太子が積極的に正田美智子との結婚を考えている」ということが分かると、皇室内外からの反対もあった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「『東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん』と母・香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃と共に昭和天皇に訴えた」という内容の記述がある。
1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日に皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の皇族、華族以外からの皇太子妃(将来の皇后)であり、また成婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が起る。成婚のパレードは盛大に行われ、多数の国民から祝福を受けた。2人の成婚の様子を生中継放送で視聴するために、当時高価であったテレビも一般家庭に普及し始めた。また婚礼を祝して『祝典行進曲』が作曲された。同年7月15日に、皇太子妃美智子の第一子懐妊が発表された。
1960年(昭和35年)2月23日に第1子、第一男子浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと)が誕生。3月には妹、清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。
同年8月6日、広島平和記念式典に参列する。皇族として初の参加だった[51]。
同年9月22日から同年10月7日にかけて、妃美智子を伴って夫妻で日米修好100周年記念のためアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。
1965年(昭和40年)11月30日、第2子、第二男子礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと)が誕生。1969年(昭和44年)4月18日、第3子、第一女子紀宮清子内親王(のりのみや さやこ)が誕生。
沖縄県の祖国復帰(沖縄返還)が実現してから、3年後の1975年(昭和50年)の沖縄国際海洋博覧会に際して、父・昭和天皇が大正期の皇太子時代に行啓した沖縄県へ、立太子後、初めて訪問した。海洋博覧会の写真を収めた書籍『海 その望ましい未来』や、記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に親覧した皇太子および同妃の姿が収録されている[注釈 6]。
この訪問中には複数の事件があった。同年7月17日、皇太子妃美智子を伴い夫妻でひめゆりの塔に献花のため訪問したところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられた(ひめゆりの塔事件)。なお、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)も発生した[52]。皇太子および同妃に怪我はなく、つつがなく日程を終了した。
皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ。」と県民の心情を思う談話を発表している。また当時より、沖縄に関心をよせて 琉歌を研究し、琉歌8首を発表している[53]。
1976年(昭和51年)1月18日の海洋博閉会式にも、揃って出席した。
1987年(昭和62年)にも、沖縄海邦国体の前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として、史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪問し、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇のことばを代読した。当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う。」と談話を発表した。
1989年(昭和64年)1月7日、父・昭和天皇の崩御を受け、直ちに歴代3位の年長となる55歳で第125代天皇に即位[注釈 7](現行の皇室典範により、「践祚〈せんそ〉」と「即位〈そくい〉」が統合されたため、従前の「践祚」に相当)。同日、皇位継承の儀式(剣璽等承継の儀)を執り行い[54]、翌8日、元号法に基づき「平成」に改元された。9日に執り行われた即位後朝見の儀では「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」との「おことば」を発した[55][54]。
諒闇が明けた1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所(京都府京都市上京区)から皇居(東京都千代田区)へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行われ、同年11月12日に中心儀式である即位礼正殿の儀が執り行われた[54]。祖父の大正天皇及び父の昭和天皇とも即位の礼を京都御所で挙行しており(即位礼紫宸殿の儀)、関東(東京都)の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼「祝賀御列の儀」としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が埋め尽くし新しい天皇と皇后の即位を祝福した。同年11月22日・23日、皇居内で大嘗祭が執り行われた。
1992年(平成4年)10月、中華人民共和国政府の招待で同国を訪問する(天皇訪中)[56]。日中関係史からみても、歴代の天皇のうち中国大陸を訪問したのは初の出来事であり[57]、生前の昭和天皇が希望していながら果たせなかったことでもあり[58]、当時の中国の外務大臣に相当する外交部長だった銭其琛は当時を回顧して「天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあった」と明かしている[59]。
1998年(平成10年)2月7日に長野オリンピックスタジアムで行われた1998年長野オリンピックの開会式に皇后美智子同伴で臨席し、開催国の国家元首として「ここに、長野における第18回オリンピック冬季競技大会の開会を宣言します。」と開会宣言をした。天皇による近代オリンピック開会式での開会宣言は、1964年東京オリンピック・1972年札幌オリンピックでの父・昭和天皇に続いて3回目となった。
1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に「御即位十年をお祝いする国民祭典」が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
1993年(平成5年)には、父の昭和天皇が実現できなかった沖縄県行幸を自身の在位中で果たした。この折には皇后美智子(当時)とともに、予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑への訪問を行った。2003年(平成15年)までに、47都道府県の日本全国の巡幸を達成した。
2009年(平成21年)11月12日、政府主催の「御在位二十年記念式典」・民間主催の「御即位二十年をお祝いする国民祭典」が執り行われた。
2009年(平成21年)12月15日、習近平中華人民共和国副主席(後の中国最高指導者)と会見。この会見の申請が、慣例の1か月前を切って行われたことから騒動となり、羽毛田信吾・宮内庁長官が記者会見で政府・民主党政権・鳩山由紀夫内閣を批判する発言を行った(天皇特例会見)。
2011年(平成23年)3月16日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の発生とそれに伴う被害に鑑み、国民および被災者に対し異例のビデオメッセージを放送した[60]。
2016年(平成28年)7月13日、NHKや『毎日新聞』が、天皇の位を生前に皇太子(次期皇位継承者)に譲る「生前退位(譲位)」の意向を、宮内庁関係者に示したと一斉に報道[61][62][63]。諸報道によれば、天皇として「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考えており、「数年内の譲位を望んでいる」とされ[62][63]、「天皇自身が広く内外に『お気持ち』を表わす方向で、調整が進められている」とされた[62][63]。しかし、宮内庁の山本信一郎次長(当時、現・宮内庁長官)は、報道を受け、各社の取材に対して「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた。」と報道内容を否定した[64]。8月8日、約11分間のビデオを通じて、自ら個人の「お気持ち」を『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』として表明。自身が即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきたと案じていることへの国民の理解を求めた[65][66]。
2017年(平成29年)12月1日開催の皇室会議において、天皇退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定した。同8日、政府は同日付での退位を閣議決定した(第4次安倍内閣)[67][68]。
2019年(平成31年)2月24日、政府主催の「天皇陛下御在位三十年記念式典」が、皇后美智子との成婚60周年を迎えた同年4月10日には「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催された。
在位中の2019年(平成31年)4月1日、元号法に基づき新元号「令和」が公表され、元号を改める政令に署名し、公布した[69]。なお、新元号が政府より事前発表されるにあたり、この影響で日本の情報システム業界では新規案件で元号を使用した機能の受注については、新規元号発表までは見合わせるか、西暦のみか、2018年(平成30年)までとするかで動きが分かれた。カレンダー業界は印刷発行と販売に多大なる影響が出ることを危惧していた[70][71]。
退位の日である2019年(平成31年)4月30日の午後5時から、国事行為として退位礼正殿の儀が皇居宮殿正殿松の間で行われ、これが天皇としての最後の公務となった。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定により、明仁はこの日をもって退位し、翌5月1日午前0時に上皇となり、自身の第1皇男子である皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。同時に元号法の規定により、「平成」から「令和」に改元された。これにより2019年は、「平成31年(1月1日 - 4月30日)」と「令和元年(5月1日 - 12月31日)」という2つの元号が存在することとなった。
2017年(平成29年)6月9日の国会参議院本会議での議決により『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』が成立し、7日後の16日に公布された。2019年(平成31年)4月30日に同法が完全に施行され、翌日の令和元年5月1日午前0時を以って天皇の地位と職務は全て皇太子徳仁親王へと引き継がれた。明仁は、1868年(慶応4年/明治元年)の一世一元の制制定後、かつ憲政史上初めて譲位した天皇となった[注釈 8]。
天皇退位特例法施行にともない、宮内庁には上皇と上皇后の家政機関として「上皇職」が設置された。
上皇は公的な場に姿を見せることはなく、上皇后の美智子とともに私的な日本各地への訪問や芸術鑑賞などで日々を過ごす。 その中でも週一回は、皇居内の生物学研究所へ通い、魚類の研究を続けている[72]。
86歳となった同年12月23日は、前年まで天皇誕生日(祝日)であったが、退位後は平日となり、翌年2020年(令和2年)より第126代天皇・徳仁の誕生日である2月23日が新たな天皇誕生日となった。
2020年(令和2年)1月2日、上皇后美智子、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、皇居での新年一般参賀に参加。退位後に初めて公の場で姿を見せた。
宮内庁は同年1月30日、上皇が29日午後6時半ごろ、私的外出ののち吹上仙洞御所に戻って約1時間後に倒れたと発表した。意識はしばらくして戻り、翌30日に宮内庁病院で頭部MRI検査と専門医による診察を受けたが、症状の原因となる所見は見られず、当面は経過観察を続けるとした。また同庁によると、上皇が倒れた際に上皇后が非常ブザーで侍医を呼んだ。上皇はいびきのような息づかいだったが、侍医の診察開始から間もなく意識を回復したという。夕食を取らずにそのまま就寝した。30日朝は通常通り朝食をとったという。2019年(令和元年)7月には脳貧血のため立っていられず、かがみ込む症状があった。宮内庁は、上皇の最近の体調に問題はなかったとし、仙洞仮御所(旧:高輪皇族邸)への引越準備に加え、ハゼ科魚類の研究や上皇后との日課の散策、読書などをして静かに過ごしているという[73]。
同年3月31日に、上皇后と共に仮住居である仙洞仮御所(高輪皇族邸)に引っ越す。
2021年(令和3年)9月2日、在位中に崩御した父・昭和天皇(宝算87)の生涯日数3万2031日と並び、明確な記録が残る歴代天皇の中で最長寿となる[74]。
2022年(令和4年)4月26日、妻の上皇后美智子とともに静養先の葉山御用邸を出発し、赤坂の仙洞御所(旧赤坂御所)に引っ越した[75]。
上皇の喪儀及び陵墓の格式については、皇室典範特例法第3条において、天皇と同様としている。従って、崩御に当たっては大喪の礼が挙行され、武蔵陵墓地の大正天皇多摩陵西側に明仁の陵墓が造営される。
成婚前にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上されたプリンス自動車(現:日産自動車)のプリンス・セダン(後年、日産自動車に返還され現存)以降、 天皇に即位後に乗り換えたホンダ・インテグラまで、通算9台のプリンス車を用いた。その中にはプリンスの試作1900ccエンジンを先行搭載した初代スカイラインや、高級車「グランド・グロリア」の後席スペースを100mm延長した特注車も含まれていた。なおこのグロリアのストレッチ仕様車は、標準車のスペースでは「私はよいのですが美智子が…」という皇太子妃への気配りにより特別生産された[113]。
国名 | 勲章名 |
---|---|
アフガニスタン王国 | 最高位太陽勲章 |
オーストリア | オーストリア共和国功績勲章大星章 (Groß-Stern)[137] |
バーレーン | アール・ハリーファ勲章頸飾 |
ベルギー | レオポルド勲章大綬章 (Grand Cordon/Grootlint) |
ボツワナ | 大統領勲章 |
ブラジル | 南十字星国家勲章大頸飾 |
カンボジア | カンボジア王室勲章大十字章 |
カメルーン | 武勇勲章大綬章 |
チリ | 功労勲章大頸飾 |
コロンビア | ボヤカ勲章大頸飾 |
コートジボワール | コートジボワール国家勲章大綬章 |
チェコ | 白獅子勲章1級章頸飾 |
デンマーク | エレファント勲章 (1953年8月8日)[138] |
エジプト | ナイル勲章大頸飾 |
エストニア | テッラ・マリアナ十字勲章頸飾[139] |
エチオピア帝国 | ソロモン勲章大頸飾 |
フィンランド | フィンランド白薔薇勲章大十字章(頸飾あり) |
フランス | レジオンドヌール勲章大十字章 (Grand-Croix) |
ガンビア | ガンビア共和国勲章大司令官章 (Grand Commander) |
ドイツ | ドイツ連邦共和国功労勲章特等大十字章 (Sonderstufe des Großkreuzes) |
ギリシャ | 贖主勲章大十字章 |
ハンガリー | ハンガリー共和国国旗勲章, Grand Cross with Chain |
アイスランド | ファルコン勲章大十字星章付き頸飾 |
インドネシア | インドネシアの星勲章、勲一等 |
アイルランド | ダブリン市の自由 (ダブリン市長から贈られる) |
イタリア | イタリア共和国功労勲章頸飾付き大十字章 (Cavaliere di Gran Croce Decorato di Gran Cordone) |
ヨルダン | アル=フセイン・ビン・アリ勲章頸飾 |
カザフスタン | 金鷲勲章 |
ケニア | ケニア黄金心臓勲章 |
クウェート | ムバーラク大王勲章頸飾 |
ラトビア | 三星勲章, Commander Grand Cross with Chain[140] |
リベリア | アフリカの星勲章 Knight Grand Band リベリア開拓者勲章大綬章 |
リトアニア | ヴィータウタス大公勲章黄金頚飾[141] |
ルクセンブルク | ナッサウ家黄金獅子勲章騎士章 |
マラウイ | 獅子勲章大司令官章 (Grand Commander) |
マレーシア | 王冠勲章 |
マリ | マリ国家勲章大綬章 |
メキシコ | アステカ鷲勲章大綬章 |
モロッコ | ムハンマド勲章大頸飾 |
ネパール王国 | ラヤーニー勲章、勲爵士 (1960年4月19日)[142] ビレンドラ・シャハ国王戴冠記念メダル (1975年2月24日)[143] |
オランダ | オランダ獅子勲章大十字章[144] |
ナイジェリア | 連邦共和国勲章, 大騎士 |
ノルウェー | 聖オーラヴ勲章頸飾付き大十字章 (Storkors)[145] |
オマーン | オマーン勲章最高等級 |
パキスタン | パキスタン勲章、勲一等 |
パナマ | マヌエル・アマドール・ゲレーロ勲章, Gold Collar |
ペルー | ペルーの太陽勲章, Grand Cross in Brilliants |
フィリピン | 名誉軍団勲章, Chief Commander[146] シカツナ勲章グランド・カラー[147] ラカンデュラ勲章, Grand Collar |
ポーランド | 白鷲勲章 |
ポルトガル | 剣のサンティアゴ軍事勲章大頸飾(1993年12月2日) エンリケ航海王子勲章大綬章(1998年5月12日)[148] |
カタール | 独立勲章頸飾 |
サウジアラビア | Badr Chain |
セネガル | セネガル獅子勲章, Collar |
南アフリカ | 喜望峰勲章黄金大十字章(1995年7月4日)[149] |
スペイン | 金羊毛勲章騎士章[150] カルロス3世勲章大十字章 (Gran Cruz) カルロス3世勲章頸飾 (Collar) |
スウェーデン | セラフィム勲章, Knight with Collar[151] |
タイ | ラーチャミトラーポーン勲章 大チャクリー勲章 プーミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ9世)即位60周年記念メダル |
ウクライナ | ヤロスラフ賢公勲章1級 |
アラブ首長国連邦 | 首長国連邦勲章 |
イギリス | ガーター勲章外国人騎士章(騎士団員番号985、1998年)[152] ロイヤル・ヴィクトリア勲章名誉ナイト・グランド・クロス章(1953年) 女王エリザベス2世戴冠式メダル(1953年6月2日) |
ユーゴスラビア* | ユーゴスラブ星勲章 |
ザイール* | 豹勲章, Grand Cordon |
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
妻の上皇后美智子との間に、2男1女の3子がいる。
諱 | 誕生時の身位 | 生年月日 | 御称号 | 続柄 | 現在[注釈 15] | |
---|---|---|---|---|---|---|
親王 | 昭和35年(1960年) 2月23日(64歳) |
第1皇男子(第1子) | 第126代天皇 小和田雅子と結婚。后妃:皇后雅子 子女:1女(1人)。 | |||
親王 | 昭和40年(1965年) 11月30日(58歳) |
第2皇男子(第2子) | 秋篠宮文仁親王 秋篠宮家(あきしののみや)当主かつ皇嗣(皇位継承順位第1位) 川嶋紀子と結婚。后妃:(皇嗣妃)文仁親王妃紀子 子女:1男2女(3人)。 | |||
内親王 | 昭和44年(1969年) 4月18日(55歳) |
第1皇女子(第3子) | 黒田慶樹と結婚。 黒田家に降嫁し皇籍離脱[153] 以後、黒田清子(姓読み:くろだ)。 子女:無し。 |
1男3女の孫がいる。
諱 | 誕生時の身位 | 生年月日 | 御称号 | 続柄 | 現在[注釈 15] | |
---|---|---|---|---|---|---|
内親王 | 平成13年(2001年) 12月1日(22歳) |
今上天皇第1皇女子(第1子) | ||||
内親王 | 平成3年(1991年) 10月23日(33歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第1女子(第1子) | 小室圭と結婚。 小室家に降嫁し皇籍離脱[153]以後、小室眞子(姓読み:こむろ)。 子女:無し。 | |||
内親王 | 平成6年(1994年) 12月29日(29歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第2女子(第2子) | ||||
親王 | 平成18年(2006年) 9月6日(18歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第1男子(第3子) | 皇位継承順位第2位 |
※順序は兄弟姉妹間長子を優先。
年 | 出国月日 | 帰国月日 | 訪問地 | 同行者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1953 | 3月30日 | 10月12日 | イギリス アメリカ合衆国(立寄り) カナダ(立寄り) フランス(立寄り) スペイン(立寄り) モナコ(立寄り) スイス(立寄り) (立寄りした国は合計13国カ国) | 英女王戴冠式参列、天皇名代 | |
1960 | 9月22日 | 10月 | 7日アメリカ合衆国 | 皇太子妃 | 日米修好100年記念 |
11月12日 | 12月 | 9日 イラン エチオピア帝国 インド ネパール王国 タイ(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1962 | 1月22日 | 2月10日 | パキスタン インドネシア | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
11月 | 5日11月10日 | フィリピン | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1964 | 5月10日 | 5月17日 | メキシコ アメリカ合衆国(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
12月14日 | 12月21日 | タイ | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1967 | 5月 9日 | 5月31日 | ペルー アルゼンチン ブラジル | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1970 | 2月19日 | 2月28日 | マレーシア(天皇名代) シンガポール | 皇太子妃 | 国際親善 |
1971 | 6月 3日 | 6月12日 | アフガニスタン王国 イラン(立寄り) タイ(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1973 | 5月 6日 | 5月23日 | オーストラリア ニュージーランド | 皇太子妃 | 国際親善 |
10月11日 | 10月22日 | スペイン アメリカ合衆国(立寄り) ベルギー(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 | |
1975 | 2月20日 | 2月28日 | ネパール王国 バングラデシュ(立寄り) インド(立寄り) | 皇太子妃 | ネパール国王戴冠式参列 |
1976 | 6月 8日 | 6月25日 | ヨルダン ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(名代) イギリス タイ(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1978 | 6月12日 | 6月27日 | ブラジル パラグアイ アメリカ合衆国(立寄り) | 皇太子妃 | ブラジル移住70周年記念式典参列 |
1979 | 10月 | 5日10月14日 | ルーマニア ブルガリア(名代) オランダ(立寄り) ベルギー(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1981 | 2月27日 | 3月 7日 | サウジアラビア スリランカ タイ(立寄り) シンガポール(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
7月26日 | 8月 2日 | イギリス ベルギー(立寄り) | 皇太子妃 | 英皇太子結婚参列 差遣 | |
1983 | 3月10日 | 3月25日 | ザンビア タンザニア ケニア(名代) ルクセンブルク(立寄り) ベルギー(立寄り) タイ(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1984 | 2月25日 | 3月 8日 | ザイール セネガル(名代) ベルギー(立寄り) イギリス(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1985 | 2月23日 | 3月 9日 | スペイン アイルランド(名代) ポーランド(立寄り) イギリス(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
6月 1日 | 6月15日 | スウェーデン デンマーク ノルウェー(名代) フィンランド | 皇太子妃 | 国際親善 | |
1987 | 10月 | 3日10月10日 | アメリカ合衆国 | 皇太子妃 | 国際親善 |
年 | 出国 | 帰国 | 訪問地 | 同行 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1991年 (平成3) | 9月26日 | 10月 | 6日 タイ マレーシア インドネシア | 皇后 | 国際親善 各国からの招待 |
1992年 (平成4) | 10月23日 | 10月28日 | 中国 | 皇后 | 国際親善 中国からの招待 |
1993年 (平成5) | 8月 6日 | 8月 9日 | ベルギー | 皇后 | 国王ボードゥアン1世の国葬参列 |
9月 3日 | 9月19日 | イタリア ベルギー ドイツ バチカン(立寄り) | 皇后 | 国際親善 各国からの招待 | |
1994年 (平成6) | 6月10日 | 6月26日 | アメリカ合衆国 | 皇后 | 国際親善 アメリカからの招待 |
10月 | 2日10月14日 | フランス スペイン ドイツ(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 | |
1997年 (平成9) | 5月30日 | 6月13日 | ブラジル アルゼンチン ルクセンブルク(立寄り) アメリカ合衆国(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
1998年 (平成10) | 5月23日 | 6月 5日 | イギリス デンマーク ポーランド(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2000年 (平成12) | 5月20日 | 6月 1日 | オランダ スウェーデン スイス(立寄り) フィンランド(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2002年 (平成14) | 7月 6日 | 7月20日 | ポーランド ハンガリー チェコ(立寄り) オーストリア(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2005年 (平成17) | 5月 7日 | 5月14日 | ノルウェー アイルランド(立寄り) | 皇后 | 国際親善 ノルウェーからの招待 |
6月27日 | 6月28日 | サイパン島 | 皇后 | 平和祈念 戦没者慰霊 | |
2006年 (平成18) | 6月 8日 | 6月15日 | シンガポール タイ マレーシア(立寄り) | 皇后 | 国際親善 シンガポールからの招待 タイ国王即位60年記念式典臨席 |
2007年 (平成19) | 5月21日 | 5月30日 | スウェーデン エストニア ラトビア リトアニア イギリス | 皇后 | 国際親善 各国からの招待[155] |
2009年 (平成21) | 7月 3日 | 7月17日 | カナダ ハワイ | 皇后 | 国際親善 カナダからの招待 ハワイ州皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事[156] |
2012年 (平成24) |
5月16日 | 5月20日 | イギリス | 皇后 | 女王エリザベス2世即位60周年の記念午餐会招待[157] |
2013年 (平成25) | 11月30日 | 12月 | 6日インド | 皇后 | 国際親善 インド政府からの招待[158] |
2015年 (平成27) | 4月 8日 | 4月 9日 | パラオ | 皇后 | 戦没者慰霊 平和祈念 パラオ国の招請[159] |
2016年 (平成28) | 1月27日 | 1月30日 | フィリピン | 皇后 | 国際親善 フィリピン政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念[160] |
2017年 (平成29) | 2月28日 | 3月 6日 | ベトナム タイ(立寄り) | 皇后 | 国際親善 ベトナム政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 タイ国前国王プミポン・アドゥンヤデートの弔問[161] |
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