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アメリカ合衆国の著作家 ウィキペディアから
エリザベス・ジャネット・グレイ・ヴァイニング(Elizabeth Janet Gray Vining、1902年10月6日 - 1999年11月27日)は、アメリカ合衆国の司書・作家。日本では、ヴァイニング夫人の名で知られている。
Elizabeth Janet Gray Vining エリザベス・ジャネット・グレイ・ヴァイニング | |
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皇太子明仁親王とヴァイニング夫人(1949年) | |
生誕 |
1902年10月6日 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州フィラデルフィア |
死没 |
1999年11月27日(97歳没) アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ケネットスクエア |
出身校 |
ジャーマンタウン・フレンズ・スクール(AB) ブリンマー大学 ドレクセル大学(MS) ウィルミントン大学 |
職業 | 司書、作家 |
著名な実績 | 皇室の家庭教師 |
影響を与えたもの |
皇太子明仁親王 義宮正仁親王 孝宮和子内親王 順宮厚子内親王 清宮貴子内親王 |
配偶者 | モーガン・フィッシャー・ヴァイニング |
受賞 | ニューベリー賞(1943年) |
栄誉 |
勲三等宝冠章 名誉文学博士(ウィルミントン大学) |
ジャーマンタウンフレンズ学校と後のブリンマーカレッジ(1923年のクラス)の卒業生となる。1925年にドレクセル大学で図書館学の学位を取得し、1926年には、ノースカロライナ大学チャペルヒル校で司書となった。
1929年にモーガン・フィッシャー・ヴァイニング(同じ大学のアソシエイト・ディレクター)と結婚するが、結婚前の名前で著作活動を続けた。1933年にニューヨークで自動車事故に巻き込まれ、夫は死亡し、自身も重傷を負った。療養中の1934年、クエーカー教の正式会員となる。
終戦後の1945年には著作活動を停止し、アメリカ・フレンズ奉仕団広報部に勤務。1946年10月15日、GHQによって皇太子明仁親王の家庭教師に選ばれ来日[1]し、少年時代の皇太子と義宮正仁親王(現:常陸宮正仁親王)をはじめ、その姉弟らに英語教育などを施すなどした。また、学習院大学や津田塾大学においても講義などを行なった。明仁親王にアメリカ人の家庭教師をつけたいと望んだのは、父で第124代天皇・裕仁(現:昭和天皇)だった。裕仁は、平和理念としてのキリスト教に関心を示し、1946年3月に日本を訪れたアメリカの教育使節団の団長、ジョージ・ストッダート博士に会った際に、裕仁自ら明仁親王のための家庭教師を斡旋してくれるように依頼した。その条件は、「狂信的ではない女性のキリスト教徒であり、日本ずれしていない人」というものだった。
年俸は3000ドル、住宅と自動車と召使があてられる待遇で[2]、契約期間は1年だった。以降、ヴァイニングは学習院中等科で毎週3時間の英語の授業を、また毎週1時間東宮仮御所で明仁親王に英語の個人教授を行うが、皇室や学習院で人望を集めたことから、任期が延長され、その期間は4年に及んだ[3]。
1950年に勲三等宝冠章を受章。また、この年、翌1951年の歌会始(御題「朝空」)に向け詠進を行った[4]。
同年12月3日、姉とともにデンマーク船に乗り、横浜港から離日した。離日に先立ち12月1日には、船内に明仁親王、後任の家庭教師エスター・ビドル・ローズを招待し、お別れパーティーを開催。多数の報道陣が詰めかけたため、30分程度の歓談となった[5]。
帰国後は、皇室と自らの関わりを執筆した書籍を出版するなどした。児童文学の分野では、『旅の子アダム』("Adam of the Road")で「1943年度ニューベリー賞」を受賞。
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