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日本の皇族、皇嗣 (1965-) ウィキペディアから
秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう、1965年〈昭和40年〉11月30日 - )は、日本の皇族。秋篠宮家当主。御称号は礼宮(あやのみや)、お印は栂(ツガ)。身位は親王。敬称は殿下[3]。勲等は大勲位。皇室会議議員。
現在、皇位継承順位第1位の皇嗣[注釈 1](2019年〈令和元年〉5月1日 - )である。
第126代・今上天皇(徳仁)の弟宮。皇位継承順位第2位の皇族である悠仁親王の父宮。
上皇(第125代・平成の天皇)上皇(明仁)と上皇后美智子の第2皇男子(2男1女のうち第2子)。
佳子内親王の父でもある。
1965年(昭和40年)11月30日午前0時22分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第二子(次男)として宮内庁病院で誕生。幼少時の御称号は礼宮(あやのみや)。「論語」より「博く文を学び、これを約するに礼をもってすれば、またもって畔(そむ)かざるべし」が由来。
幼少時はやんちゃなイメージとして知られていた。テニス等のスポーツに熱心に取り組む一方、地理などにも関心を持っていた。
妹・黒田清子の夫である黒田慶樹とは少年時代からの学友。
1984年(昭和59年)、学習院大学法学部政治学科に入学。翌年には自然文化研究会を結成し、積極的にサークル活動を行うとともに、東京農業大学育種学研究所を前身とする財団法人進化生物学研究所で家禽類研究に従事。一学年下の川嶋紀子と知り合いサークル活動を通じ交際を深め、1986年(昭和61年)6月26日に自ら求婚していた。同年から財団法人山階鳥類研究所総裁。学生時代から「口髭」を伸ばしはじめ、それが今でもトレードマークになっているが、伸ばし始めた当初は宮内庁から顰蹙を買っていたことが侍従の日記に残されている[4]。
1988年(昭和63年)、学習院大学法学部政治学科を卒業。同年より社団法人日本動物園水族館協会総裁を務めるとともに、2年間、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ大学院動物学科に留学し魚類に関する分類学を学ぶ。留学中の指導教授のトーマス・ケンプ博士は殿下について「とても優秀な学生で、研究テーマへの熱意は本物だった」と述懐している[5]。 1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇が崩御、父が第125代天皇に即位したことに伴い、兄・皇太子徳仁親王に次いで、皇位継承順位第2位となる。同年から1年間オックスフォード大学大学博物館及びロンドン自然史博物館に在籍。
同年(平成元年)8月26日、川嶋紀子との結婚内定が報道される。9月12日、文仁親王と川嶋紀子の婚姻に関する皇室会議が開催された。全員一致で2人の婚姻が可決され、婚約が内定。午後から記者会見が行われた。昭和天皇の喪中における婚約内定会見となったが、1951年(昭和26年)7月の順宮厚子内親王(現池田厚子)の婚約発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後という前例があり宮内庁が問題ないと判断した[6]。また、11月に行われる即位礼の日程を鑑み早期に行われることが望ましいとされたため、このタイミングでの発表となった。平成改元後初の皇室での慶事であり、若々しい2人の結婚は国民から盛大に祝福された。関連書籍やアニメが作られ、「紀子さまブーム」[7]とも言われる一大現象となった。
皇族全員の昭和天皇の喪が明けた翌1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、前年9月12日の皇室会議で承認された2人の婚約が正式決定した。皇室において昭和天皇崩御後初の慶事となり、納采後の皇居には、皇族や三権の長らが祝賀訪問、お祝い記帳も行われた[8]。
成婚以来、同妃紀子とともに地道に公務を果たす。特にインドネシア・タイなどの東南アジア諸国を公私ともによく訪問し、チャクリー王朝とも交流が深い。
1991年(平成3年)10月23日、第1子で長女の眞子内親王が誕生。"眞"の文字は秋篠宮の"ひらめき"によって選ばれた。1992年(平成4年)に財団法人日本テニス協会名誉総裁に就任。1994年(平成6年)12月29日には、第2子で次女の佳子内親王が誕生。1997年財団法人世界自然保護基金ジャパン総裁就任。2000年より日蘭協会名誉総裁、2004年より特定非営利活動法人全日本愛瓢会名誉総裁、2005年よりサイアム・ソサエティー名誉副総裁。
宮中祭祀・各種公務に取り組む他に、魚類や家禽類の研究も行っている。総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻を構成する国立遺伝学研究所・五條堀孝教授の指導の下、1996年(平成8年)9月30日、家禽のニワトリの起源を遺伝子に基づき解析した研究により、総合研究大学院大学から論文博士(理学)の学位を授与された[9][10]。
通称「さんまの会」では友人知人を自邸に招いており、この集まりが妹・清子内親王と長年の友人である黒田慶樹の交際を深めるきっかけを作った。その後、2005年(平成17年)の彼らの結婚について非常に喜んだ。
兄・皇太子徳仁親王および義姉・同妃雅子には、2001年(平成13年)12月に第一皇女の愛子内親王が誕生。しかし、この後皇太子および同妃には長らく懐妊の兆候が無かったため、第125代天皇明仁の皇孫の世代に男子が皆無という状況は解消されず、皇位は男系男子による継承が絶える危機に直面していた。2003年(平成15年)12月には湯浅利夫宮内庁長官が、「皇室の繁栄を考えると、(秋篠宮および同妃に)第三子を強く希望する」と発言した[注釈 2]。2006年(平成18年)の歌会始では、同妃紀子ともに前年9月24日のコウノトリ放鳥に関する歌を詠んだが、コウノトリは赤ん坊をもたらすシンボルである事から、第三子を望む気持ちがあったと考えられている[12]。
2004年(平成16年)からは皇室典範に関する有識者会議により女性・女系天皇容認の議論が進む中、2006年(平成18年)2月7日、同妃紀子の懐妊がスクープされる。当日は公務のため千葉県我孫子市におり、報告を直接受ける前の報道となった。2月25日に、宮内庁から懐妊が正式発表された。
同年9月6日、皇室史上初の帝王切開により第3子で長男の悠仁親王が誕生。皇室においては文仁親王自身の誕生以来、実に41年ぶりの男系男子誕生である。
また、2001年(平成13年)から東京農業大学で学生指導を開始。2006年(平成18年)からは非常勤講師を務め、2008年(平成20年)より同妃紀子の弟が講師を務める東京農業大学農学部バイオセラピー学科客員教授に就任。2年後の2010年(平成22年)3月まで務めた。2007年からは東京大学総合研究博物館特招研究員。
2009年8月21日から28日にかけて秋篠宮同妃はベアトリックス女王及びオランダ政府の招待により、オランダを公式訪問した。 夫妻の訪問は日蘭通商400周年の機会を捉えたものであり、滞在中、日蘭通商400周年記念式典へ出席の他、バルケネンデ首相表敬、地方訪問、(アムステルダム、バルネフェルト、アッペルドールン)等の日程を精力的にこなした。 日蘭両国は、2008年の「外交関係開設150周年」に続き、2009年は「日蘭通商400周年」と2年にわたって周年を祝しており、各地で周年行事が開催されていた。秋篠宮同妃のオランダ訪問は種々の周年行事のハイライトとなった。日蘭協会の名誉総裁である秋篠宮がオランダを訪問し、ハーグで開催された記念式典に出席し、オランダ王室府から厚遇されたことは、日蘭両国の友好関係を再確認し、一層増進することとなった[13]。
2011年(平成23年)11月15日、天皇明仁が入院中で皇太子徳仁親王が長野県訪問中のため皇位継承順位に基づき文仁親王が天皇の名代として初めて天皇の公務を務め、皇居・宮殿で秋の勲章受章者らと接見して天皇の「お言葉」を代読し、皇居・御所で南アフリカ共和国のマックス・シスル国民議会議長と懇談した[14]。
また、文仁親王は有栖川宮職仁親王から始まる有栖川流書道の伝承者でもある。2007年(平成19年)9月16日から2015年(平成27年)9月15日まで皇室会議の予備議員を、2015年(平成27年)9月16日から現在まで皇室会議の議員を務めている[15]。ただし、2017年(平成29年)12月1日の天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行期日を定める為の皇室会議では、議題の利害関係者であったため出席を辞退し、予備議員の常陸宮正仁親王が代わった。
2018年(平成30年)の53歳の誕生日を迎えての記者会見で、兄の徳仁親王の大嘗祭(だいじょうさい)について、国費ではなく、内廷の私的活動費「内廷会計(内廷費)」でまかなうべきであり「身の丈にあった儀式」とすることが「本来の姿」との認識を示した。
2019年(令和元年)5月1日、兄の徳仁親王親王が第126代天皇に即位したことに伴い、皇嗣となった。
1926年(昭和元年)12月25日の昭和天皇の践祚から1933年(昭和8年)12月23日の継宮明仁親王(当時)が誕生するまでの間に、秩父宮雍仁親王(昭和天皇の長弟)が皇位継承順位第1位であったが、それ以来86年ぶりで、現行の皇室典範の下では初めて、皇子以外の皇族が皇嗣となった。
2019年(令和元年)10月22日に行われた即位礼正殿の儀では、皇太子と同等の装束(黄丹袍)で参列した。
新型コロナウイルス感染症が蔓延する中、2020年(令和2年)5月に、自身が総裁を務める済生会病院に対して秋篠宮一家と皇嗣職職員が作ったガウン500着を寄付した[16]。
2020年(令和2年)11月8日、皇位継承順位1位の皇嗣となったことを天皇が内外に宣明する国事行為たる儀式「立皇嗣の礼」が皇居・宮殿で行われた[17]。天皇の宣明に対し、秋篠宮は「皇嗣としての責務に深く思いを致し、務めを果たしてまいりたく存じます」と決意を述べた[17]。 2022年(令和4年)4月21日、秋篠宮夫妻は立皇嗣の関連行事を締めくくる伊勢神宮参拝を行った。
皇嗣となったことで警備上の都合により、住居の秋篠宮邸が改修されることとなり、工事の間、一家は御用地内に新設された「御仮寓所」に移り住んでいる。
2022年7月、宮内庁御用掛に元警視総監の吉田尚正が着任した。着任にあたっては山積する皇嗣家の諸問題に対処するために他の社外取締役などを全て辞して、専任で就任している[18]。
2022年11月、宮内庁は改修した宮邸を報道陣に公開した。建物は鉄筋コンクリート造りの地下1階、地上2階建てで、全体の延べ面積はおよそ2972平方メートルである。改修にあたっては、国民への負担を配慮した秋篠宮・同妃の希望で建物は1972年(昭和47年)の竣工時のものをなるべく残す方針で行われ、大食堂のシャンデリアや、黒い大理石の棚などは当時のものをそのまま再利用している[19]。
2023年5月6日、イギリス・英連邦王国国王チャールズ3世と王妃カミラの戴冠式に妻・文仁親王妃紀子との同伴で参列した。ウェストミンスター寺院における式典で用意された座席は各国の皇太子夫妻が集まるブロックの一番前で異例の厚遇での列席であった[20]。秋篠宮夫妻は現地時間の5月6日午後2時20分頃、戴冠式から宿泊先のホテルに戻った。秋篠宮文仁親王は報道陣の問いかけに「とても荘厳でよろこびに満ちた良いお式だと思いました」、同妃紀子も「すばらしいお式でした」とそれぞれ感想を述べた。戴冠式に先立ち、夫妻は5日午後にバッキンガム宮殿で行われた国王主催のレセプションに出席した。その場で、国王に直接の祝意と天皇徳仁・皇后雅子からの祝意を伝達した。会場ではほかに、ウィリアム皇太子ら英王室メンバーをはじめ、欧州、アジア、中東、アフリカなど、レセプションに出席した国の王族とも言葉を交わした。また、5日朝には、在英ブルガリア大使館を訪問し、同国のシメオン2世元国王(シメオン・サクスコブルクゴツキ)夫妻とご面会。秋篠宮文仁親王・同妃紀子は2009年に同国を訪問した際、元国王夫妻と面会しており、約40分間にわたり懇談するなどして旧交を温めた。秋篠宮夫妻は戴冠式の後、現地時間の6日午後に英国から政府専用機で出発し、日本時間の7日午後に帰国した[21][22]。その2日後の5月9日に、宮内庁皇嗣職は「秋篠宮皇嗣同妃両殿下のご印象(英国ご訪問を終えて)[23]」を公表した。
秋篠宮文仁親王
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父: 第125代:明仁 |
祖父: 第124代:昭和天皇 |
曽祖父: 第123代:大正天皇 |
曽祖母: 貞明皇后 | |||
祖母: 香淳皇后 |
曽祖父: 邦彦王(久邇宮) | ||
曽祖母: 俔子 | |||
母: 美智子(上皇后) |
祖父: 正田英三郎 |
曽祖父: 正田貞一郎 | |
曽祖母: 正田きぬ | |||
祖母: 正田富美子 |
曽祖父: 副島綱雄 | ||
曽祖母: 副島アヤ |
1 神武天皇 | 2 綏靖天皇 | 3 安寧天皇 | 4 懿徳天皇 | 5 孝昭天皇 | 6 孝安天皇 | 7 孝靈天皇 | 8 孝元天皇 | 9 開化天皇 | 10 崇神天皇 |
11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | 15 応神天皇 | 稚野毛二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 |
29 欽明天皇 | 30 敏達天皇 | 押坂彦人 大兄皇子 | 34 舒明天皇 | 38 天智天皇 | 志貴皇子 | 49 光仁天皇 | 50 桓武天皇 | 52 嵯峨天皇 | 54 仁明天皇 |
58 光孝天皇 | 59 宇多天皇 | 60 醍醐天皇 | 62 村上天皇 | 64 円融天皇 | 66 一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | 71 後三条天皇 | 72 白河天皇 | 73 堀河天皇 |
74 鳥羽天皇 | 77 後白河天皇 | 80 高倉天皇 | 82 後鳥羽天皇 | 83 土御門天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 89 後深草天皇 | 92 伏見天皇 | 93 後伏見天皇 | 北1 光厳天皇 |
北3 崇光天皇 | 栄仁親王(伏見宮) | 貞成親王(伏見宮) | 102 後花園天皇 | 103 後土御門天皇 | 104 後柏原天皇 | 105 後奈良天皇 | 106 正親町天皇 | 誠仁親王 | 107 後陽成天皇 |
108 後水尾天皇 | 112 霊元天皇 | 113 東山天皇 | 直仁親王(閑院宮) | 典仁親王(閑院宮) | 119 光格天皇 | 120 仁孝天皇 | 121 孝明天皇 | 122 明治天皇 | 123 大正天皇 |
124 昭和天皇 | 125 明仁 | 秋篠宮文仁親王 |
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2019年(令和元年)5月1日現在の皇位継承順位は第1位(皇嗣・推定相続人)。
父・第125代天皇明仁の退位にあたり、2019年5月1日に皇位継承順位1位の兄である皇太子徳仁親王(同年4月30日まで)が皇位を継承したため、文仁親王は新たに皇嗣(皇位継承順位1位)となった。政府方針による呼称は皇嗣殿下(こうしでんか)[24]となり、宮内庁による正式呼称は秋篠宮皇嗣殿下[25][26]となった。皇室典範特例法第5条の規定により、皇嗣となった2019年(令和元年)5月1日以降、皇太子と同等の待遇とされている(国外への対外的な呼称は皇太子と同等のthe Crown Prince[27])。
なお、文仁親王が即位するまでに、兄天皇・徳仁に皇子(皇太子)が誕生するか、自身が薨去(死去)するか、皇室会議で皇位継承順位を入れ替えられない限り、第127代天皇となる。
政府は、(皇太子による立太子の礼に代わって)文仁親王が皇嗣になることを国の内外に宣明する立皇嗣の礼を、憲法で定める国事行為として行うことを決めた。立皇嗣の礼の時期などについて、内閣官房や儀式の事務を担う宮内庁などで検討した結果、2019年(令和元年)10月22日の即位礼正殿の儀からおよそ半年後の2020年(令和2年)4月、皇居宮殿正殿の松の間などで行う方向となり、調整が進められていた。しかし新型コロナウイルスの影響で延期となり、2020年11月8日に実施された。[28]
立皇嗣の礼以降、公式行事などでは新たに作られた皇嗣旗を使用している。
著名な親族としては、義妹に元外務省臨時職員で下着縫製販売業者の栗原菜緒、女婿にフォーダム大学ロースクールを卒業したとされニューヨーク州で弁護士となった小室圭がいる。
両親と同じくテニスを趣味の一つとしており、その腕前は学生時代に関東でダブルストップ10に入る程であった[82]。1992年から2015年まで日本テニス協会の名誉総裁を務めており[83][84]、全日本テニス選手権において表彰式や試合観戦、テニス国別対抗戦のデビスカップ・フェドカップの組み合わせ抽選会において名誉総裁として参加する他[85][86]、ジャパン・オープン・テニス選手権、東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント等の日本で開かれる国際テニス大会へはほぼ毎年観戦に訪れていることで知られている[87][88][89][90][91]。なお、日本テニス協会名誉総裁は2015年10月に長女の眞子内親王に譲られた[92]。
学習院大学在学時、一年下級の川嶋紀子(当時)と知り合い、サークル活動等を通じて交際を深めていた。
皇太子・明仁親王(当時)と同妃美智子(当時)は、既に紀子のことは知っていたが、礼宮は同年の12月に葉山で静養中の両親に紀子を会わせた。皇太子および同妃は、学習院大学馬術部の親睦会で紀子の父・川嶋辰彦と何度も顔を合わせていることもあり、紀子と皇太子および同妃の出会いは、とてもスムーズなものであったという[93]。
それから間もなく明仁親王は「2人のことを前向きに検討してほしい」と当時の東宮職に指示をし[94]、職員たちも2人の交際を承知した[95]。一方でゴシップ記事として報道されるのを防ぐため、サークルにおいても離れて写真に写ったり、記者が近くにいる時は友人が割って入ったりしていたという。
1989年(平成元年)8月26日、川嶋紀子との婚約内定が報道される。昭和天皇の喪中(大喪)であること、兄・徳仁親王がまだ独身であること、文仁親王自身が留学中の身であることから時期尚早との批判もあったが、両親や兄からの反対はなく、宮内庁は、挙式や結納に当たる「納采の儀」など晴れの儀式は、喪中はふさわしくないものの、皇室会議の開催は喪中でも差し支えないと判断している。
そもそも、皇室の服喪は三期に分けられ、第一期・第二期各50日の合計100日間を過ぎれば、その後の第三期は「心喪」という服喪形式がとられる[96]。心喪とは、この期間中、天皇はじめ各皇族は公の行事には出席するが、神事のみ遠慮するという形式の服喪である[97]。また、原則として結婚等の祝賀行事も行われないが、特別な理由があれば認められる[96]。
また、1947年(昭和22年)に廃止された皇室服喪令をその後も踏襲していると考えれば、皇族の服喪期間は続柄によって期間が異なり、祖父である昭和天皇に対する礼宮の服喪期間は150日であることから、きちんと喪が明けた後に婚約発表が行われていることになる。ちなみに、過去において1例だけ服喪期間中の婚約発表があり、祖母である貞明皇后に対して同じ150日の服喪期間があった順宮厚子内親王と池田隆政の婚約が内定した旨を、1951年(昭和26年)5月17日の貞明皇后崩御からわずか2か月足らずの同年7月11日に、昭和天皇が自らの裁可で田島宮内庁長官に命じて公式に発表させている。昭和天皇崩御から8か月後に皇室会議の決定として発表された礼宮の場合など、この事例に比べれば何の問題もないといった見解を宮内庁関係者は示している[98]。
兄弟の結婚の順番が逆になることについても、天皇・皇后が子の意思を尊重する考えのため、宮内庁幹部も「一般家庭でもあることで、大きな問題ではない」と述べ[99]、元東宮侍従の浜尾実も「高円宮は兄の桂宮よりも先に結婚しています。これも前例があり、全く問題外です」とインタビューで語っている。また、徳仁親王も1989年(平成元年)9月21日の会見で、「2人の間が不安定になっているのはよくないので、2人の結婚は私も強く勧めたところです」と述べた。
皇室会議では、海部首相が開会を宣言。藤森宮内庁長官が「大学のサークル、自然文化研究会や礼宮主宰のテニスクラブでの活動を通じて親交を深め、1985年(昭和60年)暮れには当時皇太子の天皇から『2人の交際を前向きに検討してほしい』とのご指示もあった」と交際の経緯や川嶋紀子の経歴、家族の略歴などを説明した。
1年間と服喪期間が最長である第125代天皇明仁(当時)などの喪が明け、皇族全員が服喪期間を終えた1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約した。皇室会議での可決を指して「婚約成立」であるとしている媒体も多く、「秋篠宮は昭和天皇の喪中に婚約会見を開いた」と言う者も存在するが誤りであり、納采の儀が正式な婚約成立である[100]。宮内庁は公式HPにおいて、納采の儀=ご婚約と記載している(例:文仁親王同妃両殿下のご略歴)。また、皇位継承順位の変更や皇族の婚姻等を合議するための皇室会議を開催する権限は内閣総理大臣にあり、2人の婚姻は、田村元衆議院議長、小野明参議院副議長、矢口洪一最高裁判所長官、伊藤正己最高裁判所判事、藤森昭一宮内庁長官、福田一衆議院議員、三笠宮、常陸宮の全員が満場一致で可決している。皇室会議での可決を受けた後の会見を誤って「婚約会見」だとしている媒体もあるが、宮内庁は納采の儀が行われて初めて整う事としており[101]、皇室会議での承認のみでは正式な婚約であるとは認めていない。また、この皇室会議と婚約の違いについて天皇は、「礼宮の納采の儀は喪明けでなくてはならないが、皇室会議は喪中でもいいのではないでしょうか」という話を側近に語ったといわれる[102]。
長女の眞子内親王と国際基督教大学の同級生だった小室圭が2012年8月に交際を開始し[104]、2013年12月に小室圭は眞子内親王に「将来結婚しましょう」とプロポーズして、眞子内親王はプロポーズをその場で受けた[105]。2017年9月3日、両者の婚約内定が発表された。秋篠宮夫妻は「小室圭さんと娘は、約5年の歳月をかけて、双方の気持ちを確認しながら結婚に向けての話を進めてきた。内定までの5年は私たちの時よりも長い期間になり、二人の意思を確認するのには十分な時間であったことと思う。私たちはその二人の意思を喜んで尊重した。」という感想を公表した[106]。
2017年11月30日、52歳の誕生日を迎えた際の記者会見で小室圭について「非常に真面目な人だというのが第一印象」「娘のことや娘の立場もよく理解してくれていると思う」などと述べた[103]。
しかし、婚約内定後、『週刊女性』などで「小室圭の母親と元婚約者との間に金銭問題が生じている」などのトラブルが発覚した[104]。2018年2月、納采の儀を始めとする結婚関係儀式等の延期が宮内庁から発表された[107]。小室母子は釈明の為に秋篠宮邸を訪れ、金銭トラブルについて圭の母は「借金ではなく贈与」と説明した[104]。その後も協議が重ねられたが、圭の母や圭の主張は変わらず、方策が見えてこなかった[108]。
小室圭とその母に対し、秋篠宮夫妻は、正式な婚約となる「納采の儀」を行うことが現状では困難であるとの考えを伝えている[109]。小室家側にあるとされる金銭トラブルを解決することが必要と判断したとみられる[109]。
2018年11月30日、53歳の誕生日を迎えた際の記者会見で記者たちからの質問に答え、眞子内親王の結婚問題について、今でも結婚したいのであれば「問題をクリア」にし「多くの人が納得し喜んでくれる状況」にするため、(小室家側は)「それ相応の対応をするべきだ」「そういう状況にならなければ、私たちは婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません」と話した[110][111][112][113]。また、古くからの友人に発言の真意を問われ「結婚に反対と受け取ってもらってかまわない」と断言したという[114]。
2020年11月30日、55歳の誕生日を迎えた際の記者会見で眞子内親王と小室圭との結婚について「多くの人が納得し喜んでくれている状況ではないと思っている」が、「婚姻は両性の合意のみに基づく」という日本国憲法第24条に触れ「結婚することを認める」と明言した[115][116]。また会見の最後には「結婚と婚約は違いますから」と述べた[115](皇族に憲法24条は適用されないという学説を唱える木村草太は、眞子内親王には皇位継承権はないため婚姻の自由は認められると述べている[117])。
2021年10月26日、本来であれば女性皇族が結婚する際に行う儀式などが行われない形となった眞子内親王の結婚を受けて秋篠宮夫妻は「皇室としては類例を見ない結婚となった。ご迷惑をおかけした方々に誠に申し訳ない気持ちでいます。二人には幸せな家庭を築いていってくれることを願います」と文書でコメントを公表した[116]。
小室圭について、ジャーナリストの江森敬治が「相手の男性の家庭状況など事前に調べたりされましたか?」と質問すると秋篠宮は「個人情報がいろいろとうるさい時代なので、家庭状況などを調査すること自体に問題があります」と述べ、職業は当初より「パラリーガルのままでよい」との考えをもち、結婚の暁には夫婦がつつましくも自立した生活をすることだけを望んでいたとされる[118]。
(秋篠宮の御希望とは別に小室圭の進学や就職に際しての、客観的に確認できる側近や交友関係者による関与の事実については「小室圭#来歴」を参照のこと)。
2021年11月30日、56歳の誕生日を迎えた際の記者会見で、秋篠宮は長女の眞子と小室圭の結婚について「秋篠宮家以外の皇室にも影響が出た」などと述べた[119]。眞子の体調に影響を与えたとされる週刊誌報道やインターネット上の書き込みについては「誹謗中傷、つまり深く人を傷つけるようなことばというのは、雑誌であれネットであれ許容できるものではない。一定の基準を設けて、それを超えたときには反論を出すとか、そういう基準作りをしていく必要があると思う」と述べた[119]。
※鳥類・家禽関係の著書。
※魚類
※このほか雑誌ANIMALにも推薦文を寄せている。
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