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日本の120代天皇。光格天皇の四男 ウィキペディアから
仁孝天皇(にんこうてんのう、1800年3月16日〈寛政12年2月21日〉 - 1846年2月21日〈弘化3年1月26日〉)は、日本の第120代天皇(在位: 1817年10月31日〈文化14年9月21日〉- 1846年2月21日〈弘化3年1月26日〉)。諱は恵仁(あやひと)。幼称は寛宮(ゆたのみや)。
仁孝天皇 | |
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仁孝天皇像(泉涌寺蔵) | |
即位礼 | 1817年10月31日(文化14年9月21日) |
大嘗祭 | 1818年12月18日(文政元年11月21日) |
元号 |
文化 文政 天保 弘化 |
時代 | 江戸時代 |
征夷大将軍 |
徳川家斉 徳川家慶 |
先代 | 光格天皇 |
次代 | 孝明天皇 |
誕生 |
1800年3月16日(寛政12年2月21日) 京都 |
崩御 | 1846年2月21日(弘化3年1月26日) |
陵所 | 後月輪陵 |
漢風諡号 | 仁孝天皇 |
諱 | 恵仁 |
称号 | 寛宮 |
父親 | 光格天皇 |
母親 | 勧修寺婧子 |
女御 |
鷹司繋子 鷹司祺子 |
子女 |
安仁親王 慈悲心院宮 摩尼珠院宮 鎔宮 統仁親王(孝明天皇) 節仁親王(第10代桂宮) 恭宮 成宮 淑子内親王(第11代桂宮) 三宮 総宮 経宮 胤宮 親子内親王(皇女和宮) 常寂光院宮 久邇宮朝彦親王(猶子) 北白川宮能久親王(猶子) |
皇居 | 京都御所 |
親署 |
光格天皇の第4皇子。実母は勧修寺大納言経逸の女、勧修寺婧子(東京極院)。正妃は鷹司繋子(新皇嘉門院)、繋子没後はその妹祺子(新朔平門院)。
文化6年(1809年)3月24日、父・光格天皇の中宮である欣子内親王の養子として立太子された。
文化14年(1817年)に即位し、父の意を受けて、朝儀復興に尽力した。皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に幕府との折衝を命じた。幕府の了承を得てその構想が現実のものとなった矢先、崩御した。宝算47であった。
崩御の翌年にあたる弘化4年(1847年)、天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所として学習所が設立され、孝明天皇から下賜された勅額により「学習院」(京都学習院)と名乗るようになった。明治10年(1877年)、明治天皇の命によって設立された皇族・華族教育機関の学習院(現・学校法人学習院および学習院大学)の前身である。
114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仁孝天皇以後は皇太子(仁孝天皇の直系子孫)によって皇位が継承され、現在の皇室まで皇統が続いている。仁孝天皇から見て徳仁は昆孫にあたる。
15人の子をもうけたが、そのうち12人が3歳までに亡くなった[1]。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
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