悠仁親王
日本の皇族、親王 (2006-) ウィキペディアから
悠仁親王(ひさひとしんのう、2006年〈平成18年〉9月6日 - )は、日本の皇族。身位は親王。敬称は殿下[2]。お印は高野槇(こうやまき)。
称号:親王 | |
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敬称 |
悠仁親王殿下 His Imperial Highness Prince Hisahito |
画像外部リンク | |
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悠仁親王近影 | |
2023年(令和5年)9月6日 | |
2024年(令和6年)9月6日 | |
2025年(令和7年)3月3日 |
第126代天皇・今上天皇(徳仁)の甥。上皇(第125代天皇・明仁)の皇孫。
今上天皇の弟宮である皇嗣の秋篠宮文仁親王と同妃紀子の第1男子(1男2女のうちの第3子)。皇位継承順位は父・文仁親王に次ぐ第2位。
小室眞子、佳子内親王は姉にあたる。今上天皇第一皇女子である愛子内親王は従姉。
住居は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内にある秋篠宮邸。秋篠宮邸の改修工事に伴い、2022年(令和4年)3月まで「御仮寓所(ごかぐうしょ)」に仮住まいしていた[3]。
人物

父・秋篠宮文仁親王以来、40年9か月ぶりの皇族男子として誕生した。
2025年4月29日現在、皇室において59歳未満で唯一の皇位継承資格者。最年少の皇族(皇室構成員)である。
2024年9月6日に悠仁親王が成人したことにより未成年の皇族は不在となった。現皇室典範の施行以来、未成年の皇族が不在となるのは初めてである。
来歴
要約
視点
誕生をめぐって
2006年(平成18年)2月7日の朝、文仁親王妃紀子が秋篠宮・宮邸にて超音波検査をしたところ、胎児の心拍が確認され、妊娠6週目であると宮内庁長官・羽毛田信吾により発表された[4][5][6]。17日後の、2月24日に「秋篠宮妃殿下が妊娠3か月である」と、宮内庁が公式発表した。妊娠悪阻(つわり)などの症状があったが、2度目の検査では順調な経過が確認されたと、愛育病院[注釈 2] の院長・中林正雄によって発表された[7][8]。また、秋篠宮同妃夫妻の意向により性別の事前検査は行われなかった[9]。
2006年(平成18年)8月16日の午後、文仁親王妃紀子が陣痛のため、夫の秋篠宮が付き添って東京都港区南麻布の愛育病院に入院した[10][11]。また、同日、主治医である中林院長らが会見を開き、早産の恐れなどがあるため帝王切開の処置を取ることを発表した(皇室史上初めての帝王切開による出産)[12][13]。また、皇室において、天皇一族の出産で皇居内産殿、宮内庁病院ではない場所が使用されるのは史上初めてであった[14]。2006年(平成18年)9月6日 午前8時27分に誕生した[13]。出生時の身長は48.8cm、体重は2558g[15]。秋篠宮家においては佳子内親王以来12年ぶりの子女の誕生であり、皇室においては愛子内親王の誕生以来5年ぶり、父・文仁親王以来で実に40年9か月ぶりの皇族男子(親王及び王[注釈 3])であった。それまでは、黒田清子(清子内親王)から愛子内親王まで9人連続で女子の誕生であった。誕生時の皇位継承順位は第3位であった。
誕生当日には、賜剣の儀が行われ、祖父である第125代天皇明仁から守り刀(天田昭次作)が贈られた[16]。9月12日、命名の儀が行われ「悠仁」(ひさひと)と名付けられた。
「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでいくことを願って」、また過去の皇族との重複を避けつつ音と意味を重視して、父・秋篠宮文仁親王が字を選んだ[17]。家族からは「ゆうゆう」の愛称で呼ばれている[18]。お印は高野槇で、「大きく、まっすぐに育ってほしい」との思いが込められている[17]。
9月15日の愛育病院からの退院時には、宮邸のある赤坂御用地までの沿道には約1800人が集まった。警備は警視庁の機動隊など計1200人態勢で行なわれた[19]。
誕生の前年、2005年(平成17年)には皇族男子の減少により皇位継承問題が表面化していたこともあり、各地で奉祝をもって迎えられた。明治神宮をはじめ、各地の神社・神社庁で、神輿の奉納・提灯行列・奉祝行進など祝賀行事が行われた。また悠仁親王の誕生によって、初代・神武天皇以来の男系男子の継承による皇統断絶の危機が当面は解消されたことで、皇室典範改正案の提出は見送られた[13][20]。
成長
2010年(平成22年)4月(3歳7か月の時)にお茶の水女子大学附属幼稚園に入園した。母である秋篠宮妃紀子が同大学を拠点に研究活動を行っていることから、女性研究者を支援するために同大学が創設した特別入園制度での合格によるものであった[21]。
2011年(平成23年)春にも、着袴の儀が予定されていたが、東日本大震災を受け延期された[22]。同年11月3日、赤坂東邸で、着袴の儀と深曽木の儀に臨んだ[23]。
2012年(平成24年)11月7日、両親とともに奈良県橿原市の神武天皇陵に参拝し、玉串をささげた[24]。悠仁親王が御陵を参拝するのはこれが初めてである。
同年12月14日、2013年(平成25年)4月にお茶の水女子大学附属小学校へ入学することが発表された[25]。現行の皇室典範の下で皇族が学習院初等科以外の小学校に入学するのは初めてである。2013年4月7日、両親の秋篠宮と同妃紀子とともに、小学校の入学式に参加した[26][27]。

2013年(平成25年)3月15日、お茶の水女子大学附属幼稚園卒園につき、両親とともに、武蔵陵墓地(昭和天皇陵)と武蔵野東陵(香淳皇后陵)を参拝した。同年3月25日から2日間、伊勢神宮に参拝した。
同年12月10日、沖縄県糸満市にある沖縄戦跡国定公園に供花、平和の礎を見学した。
2016年(平成28年)8月3日、新潟県津南町の『農と縄文の体験実習館なじょもん』[28] で縄文土器を見学した[29]。10歳の誕生日には、秋篠宮邸の庭で田んぼや野菜を作っていることが発表された[30]。
同年11月20日朝、友人らと山梨県へ山登りに行く途中、相模原市の中央自動車道下り線で、悠仁親王の乗る車両が前方の車両に追突するという事故が発生した。車には母・紀子妃と宮内庁職員ら計6人が同乗していたが怪我はなかった。事故の背景には内廷皇族と宮家皇族との警備体制の違いが挙げられた[31][32][33]。
2017年(平成29年)9月6日の11歳の誕生日には、同年5月の校外学習で東京・両国国技館の大相撲を観戦し、友人とちゃんこを味わったことや、8月下旬に2泊3日で林間学校(長野県の白樺湖周辺)に初めて参加したこと、学校で栽培委員会に所属して花壇の水やりなどを担っていることなどが伝えられた[34]。
2019年(平成31年)4月、お茶の水女子大学附属中学校に入学。同月26日には同中学校の悠仁親王の教室の机の上に果物ナイフが置かれる事件が発生した。犯人とされる男は同月29日に神奈川県平塚市のホテルで逮捕され[35]、2020年(令和2年)2月14日に執行猶予付の懲役刑が言い渡された。男は皇室のあり方に不満を持ち、親王を刺そうと思ったと自供していると報じられている[36]。
2019年(令和元年)5月1日に、伯父・徳仁親王の即位に伴い、父・文仁親王に次ぐ、皇位継承順位第2位となった。
2019年8月16日から8月25日までブータンを父母とともに私的旅行という形で訪問。悠仁親王にとって初の外国訪問である。また、トンボに興味を持っており、積極的に研究している[37]。
2021年(令和3年)、北九州市立文学館主催の「第12回子どもノンフィクション文学賞」に投稿した作文「小笠原諸島を訪ねて」[38]が中学生の部・佳作を受賞し、3月20日の表彰式にはオンラインで参加した[39]。
2022年(令和4年)2月16日、筑波大学附属高等学校に合格した。お茶の水女子大学附属中学校との提携校進学制度において推薦の条件である「秀でた学業成績を十分に満たしている」と判断され、かつ一般受験生とともに5教科の学力検査を受験して、その結果確定したものである。この制度は運用実態に不明な点が少なくないがために「悠仁さまを筑附に入れるための制度ではないのか」と報じたメディアもあったが[40]、2017年から現在まで行われている為、悠仁親王のみを特別待遇にした制度ではないという事が判明している。4月より同校に入学[41]。
2022年2月、宮内庁は前述の作文「小笠原諸島を訪ねて」に関し参考文献の記載が不十分だったと明らかにし、側近が「悠仁さまは指摘に感謝されている」と説明した[42][43]。文学賞を主催する北九州市立文学館は「記載漏れがあったとしても、賞は作品全体を総合して評価したもの。現時点で授与の撤回などは考えていない」とした[44]。
2022年4月8日、宮内庁は悠仁親王が前述の作文「小笠原諸島を訪ねて」に参考文献や注釈などを追記して主催者に送ったことを明らかにした[45]。これを受け同年4月12日、北九州市立文学館は、訂正後の作文をネット上に公開した。
2022年10月1日、単身で三重県伊勢市の伊勢神宮に参拝した。悠仁親王が伊勢神宮を訪問するのは、2013年に両親や姉・佳子内親王と参拝して以来2回目で、一人での単独参拝は今回が初めてである。その後、同市にある神宮美術館を訪問し、伊勢神宮と正倉院のゆかりの文化財などを集めた特別展を鑑賞した[46]。
2024年8月25日、両親に同伴して「国際昆虫学会議」に主催者側の招待を受けて私的に参加した[47]。開会式終了後、両親とともに昆虫に関する研究のポスター展示を見ながら、ドイツの研究者と懇談した際に「この中に日本の種はいくついますか?」と英語で質問。懇談後にも熱心に質問され同研究者は驚くとともに「専門的な質問をしていただき科学的なやりとりができて、うれしかったです」と語っている。
同月26日、悠仁親王が共同研究した皇居内のトンボの生態について、ポスターを掲示する形で発表した[48]。
成年皇族として
2024年9月6日、成年(18歳)。男性皇族が成年を迎えるのは父・文仁親王以来39年ぶりである[49]。悠仁親王は誕生日を前に初めて文書で感想を寄せ、「もう成年なのかと思うと、時が経つのは早いと実感しています。この18年の間、多くの方々が、その時々にさまざまな形で心を寄せてくださいました。深く感謝申し上げます。そして、今まで育ててくれた両親と姉たちにも感謝しています」などとつづった[50]。同日午後、皇居・御所で伯父母の天皇・皇后と従姉の愛子内親王に、仙洞御所で祖父母の上皇・上皇后にそれぞれ挨拶をし、今までの感謝の思いを伝えた[51]。その後、秋篠宮邸で側近から祝いを受けた際、「この先は、自らの務めについて考え、成年皇族としての役割を果たせるよう努力していきたい」と述べた[52]。
同年12月11日、筑波大学生命環境学群生物学類の学校推薦型選抜試験に合格した[53]。
前述の通り、悠仁親王は父・文仁親王以来実に40年以上ぶりに誕生した皇族男子であるが、平成時代(第125代天皇明仁在位中)に誕生した皇族男子は悠仁親王のみで、これ以降2025年4月29日現在まで、皇族男子は1人も出生していない。
2025年2月14日、警視庁鮫洲運転免許試験場にて普通自動車運転免許を取得。都内の自動車教習所に通いながら路上実習にも取り組んだ[54]。
同年3月3日、成年にあたっての記者会見が行われた[55]。同年9月6日の19歳の誕生日に、成年式を挙行予定[56]。
同年3月18日、筑波大学附属高等学校卒業[57]。
学術研究
高校の学業と並行して生物学に関する研究を進め、高校在学2年時に研究成果を学術雑誌に発表している[59]。
2024年8月25日、京都市にて開幕した第27回「国際昆虫学会議」に、開会式に招待を受けたとして初日のみ私的に参加した[60]。
帝王学
定まった帝王学の師はいないが、教育については母親の紀子親王妃が主導し、2018年には作家の半藤一利による近代史(太平洋戦争)についての進講を受けている[61]。
年譜
- 2006年(平成18年)
- 2010年(平成22年)
- 4月9日(3歳)- お茶の水女子大学附属幼稚園 に入園。
- 2011年(平成23年)
- 2013年(平成25年)
- 3月14日(6歳)- お茶の水女子大学附属幼稚園を卒園。
- 4月7日(6歳)- お茶の水女子大学附属小学校に入学。
- 2019年(平成31年)
- 3月15日(12歳)- お茶の水女子大学附属小学校を卒業。
- 4月8日(12歳)- お茶の水女子大学附属中学校に入学。
- 2022年(令和4年)
- 3月17日(15歳)- お茶の水女子大学附属中学校を卒業。
- 4月9日(15歳)- 筑波大学附属高等学校に入学[63]。
- 10月1日(16歳)- 初めて単独で伊勢神宮を参拝[64]。
- 2023年(令和5年)
- 2024年(令和6年)
- 2025年(令和7年)
- 3月18日(18歳) - 筑波大学附属高等学校を卒業[57]。
- 4月5日(18歳) - 筑波大学生命環境学群生物学類に入学[58]。
系譜
悠仁親王の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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悠仁親王の男系(父系)直系祖先
1 神武天皇 | 2 綏靖天皇 | 3 安寧天皇 | 4 懿徳天皇 | 5 孝昭天皇 | 6 孝安天皇 | 7 孝靈天皇 | 8 孝元天皇 | 9 開化天皇 | 10 崇神天皇 |
11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | 15 応神天皇 | 稚野毛二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 |
29 欽明天皇 | 30 敏達天皇 | 押坂彦人 大兄皇子 | 34 舒明天皇 | 38 天智天皇 | 志貴皇子 | 49 光仁天皇 | 50 桓武天皇 | 52 嵯峨天皇 | 54 仁明天皇 |
58 光孝天皇 | 59 宇多天皇 | 60 醍醐天皇 | 62 村上天皇 | 64 円融天皇 | 66 一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | 71 後三条天皇 | 72 白河天皇 | 73 堀河天皇 |
74 鳥羽天皇 | 77 後白河天皇 | 80 高倉天皇 | 82 後鳥羽天皇 | 83 土御門天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 89 後深草天皇 | 92 伏見天皇 | 93 後伏見天皇 | 北1 光厳天皇 |
北3 崇光天皇 | 伏見宮栄仁親王 | 伏見宮貞成親王 | 102 後花園天皇 | 103 後土御門天皇 | 104 後柏原天皇 | 105 後奈良天皇 | 106 正親町天皇 | 誠仁親王 | 107 後陽成天皇 |
108 後水尾天皇 | 112 霊元天皇 | 113 東山天皇 | 閑院宮直仁親王 | 閑院宮典仁親王 | 119 光格天皇 | 120 仁孝天皇 | 121 孝明天皇 | 122 明治天皇 | 123 大正天皇 |
124 昭和天皇 | 125 明仁(上皇) | 秋篠宮文仁親王(皇嗣) | 悠仁親王 |
系図
家系図形式
- 各人の囲み上部の数字は生年と没年、下部の数字は即位年と退位年、「前」は紀元前、「?」は不詳を示す。
- 太字は漢風諡号、生没年に併記されているのは諱、斜体字は別名。
- 赤色の囲みは女性を示す。
- カッコ付きの太数字は天皇の代数[要出典]。
- 記紀による初代天皇(神武天皇)以前の系図については、皇室、皇室の系図一覧を参照。
前711-前585 神武天皇 前660–前585(1) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前632-前549 綏靖天皇 前581–前549(2) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前577-前510 安寧天皇 前549–前510(3) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前553-前476 懿徳天皇 前510–前476(4) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前506-前393 孝昭天皇 前475–前393(5) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前427-前291 孝安天皇 前392–前291(6) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前342-前215 孝靈天皇 前290–前215(7) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前273-前158 孝元天皇 前214–前158(8) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前208-前98 開化天皇 前157–前98(9) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前148-前29 崇神天皇 前97–前29(10) | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前68–紀元後70 垂仁天皇 前29–70(11) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前13–130 景行天皇 71–130(12) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
82?–113? 日本武尊 | 84–191 成務天皇 131–191(13) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
148? –200 仲哀天皇 192–200(14) | 170-269 神功皇后 摂政 201–269 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
200-310 應神天皇 270–310(15) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
257–399 仁徳天皇 313–399(16) | 稚野毛二派皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
336? –405 履中天皇 400–405(17) | 336? –410 反正天皇 406–410(18) | 376? –453 允恭天皇 413–453(19) | 忍坂大中姫 | 意富富杼王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 401-456 安康天皇 454–456(20) | 418-479 雄略天皇 456–479(21) | 乎非王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
440-484 飯豊青皇女 臨朝秉政 484 | 大脚 449-498 仁賢天皇 488–498(24) | 450-487 顯宗天皇 484–487(23) | 444-484 清寧天皇 480–484(22) | 彦主人王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
489-507 武烈天皇 498–507(25) | 手白香皇女 | 450-531 繼體天皇 507–531(26) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
509-571 欽明天皇 540–571(29) | 465-536 安閑天皇 531–536(27) | 高田 467-539 宣化天皇 536–539(28) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
538-585 敏達天皇 572–585(30) | 額田部 554-628 推古天皇 593–628(33) | 540? -587 用明天皇 585–587(31) | 泊瀬部 553? –592 崇峻天皇 587–592(32) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
押坂彦人大兄皇子 | 574-622 厩戸皇子 (聖徳太子) 摂政 593-622 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
茅渟王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
軽 596-654 孝徳天皇 645–654(36) | 宝 594-661 皇極天皇 642–645(35) 齊明天皇 654–661(37) | 田村 593-641 舒明天皇 629–641(34) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛城 626-672 天智天皇 661–672(38) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大友 648-672 弘文天皇 672(39) | 鸕野讚良 645-701 持統天皇 690–697(41) | 大海人 631?-686 天武天皇 672-686(40) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
668?–716 志貴皇子 (春日宮天皇) | 阿閇 661-721 元明天皇 707-715(43) | 662–689 草壁皇子 (岡宮天皇) | 676–735 舎人親王 (崇道尽敬皇帝) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氷高 680-748 元正天皇 715–724(44) | 珂瑠 683-707 文武天皇 697–707(42) | 大炊 733-765 淳仁天皇 758–764(47) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
首 701-756 聖武天皇 724-749(45) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
? -790 高野新笠 | 白壁 709-782 光仁天皇 770–781(49) | 717–775 井上内親王 | 阿倍 718-770 孝謙天皇 749–758(46) 称徳天皇 764–770(48) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山部 737-806 桓武天皇 (柏原帝) 781–806(50) | 750?–785 早良親王 (崇道天皇) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
安殿 774-824 平城天皇 (奈良帝) 806–809(51) | 神野 786-842 嵯峨天皇 809–823(52) | 大伴 786-840 淳和天皇 (西院帝) 823–833(53) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正良 810-850 仁明天皇 (深草帝) 833–850(54) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道康 827-858 文徳天皇 (田邑帝) 850–858(55) | 時康 830-887 光孝天皇 (小松帝) 884–887(58) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟仁 850-880 清和天皇 (水尾帝) 858–876(56) | 定省 867-931 宇多天皇 887–897(59) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞明 869-949 陽成天皇 876–884(57) | 敦仁 885-930 醍醐天皇 897–930(60) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寛明 923-952 朱雀天皇 930–946(61) | 成明 926-967 村上天皇 946–967(62) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
憲平 950-1011 冷泉天皇 967–969(63) | 守平 959-991 圓融天皇 969–984(64) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
師貞 968-1008 花山天皇 984–986(65) | 居貞 976-1017 三條天皇 1011–1016(67) | 懐仁 980-1011 一條天皇 986–1011(66) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1013-1094 禎子内親王 | 敦良 1009-1045 後朱雀天皇 1036–1045(69) | 敦成 1008-1036 後一條天皇 1016–1036(68) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尊仁 1034-1073 後三條天皇 1068–1073(71) | 親仁 1025-1068 後冷泉天皇 1045–1068(70) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞仁 1053-1129 白河天皇 1073–1087(72) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
善仁 1079-1107 堀河天皇 1087–1107(73) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗仁 1103-1156 鳥羽天皇 1107–1123(74) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顕仁 1119-1164 崇徳天皇 1123–1142(75) | 雅仁 1127-1192 後白河天皇 1155–1158(77) | 体仁 1139-1155 近衞天皇 1142–1155(76) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
憲仁 1161-1181 高倉天皇 1168–1180(80) | 守仁 1143-1165 二條天皇 1158–1165(78) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1179-1223 守貞親王 (後高倉院) | 言仁 1178-1185 安徳天皇 1180–1185(81) | 尊成 1180-1239 後鳥羽天皇 1185–1198(82) | 順仁 1164-1176 六條天皇 1165–1168(79) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
茂仁 1212-1234 後堀河天皇 1221–1232(86) | 為仁 1196-1231 土御門天皇 1198–1210(83) | 守成 1197-1242 順徳天皇 1210–1221(84) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀仁 1231-1242 四條天皇 1232–1242(87) | 邦仁 1220-1272 後嵯峨天皇 1242–1246(88) | 懐成 1218-1234 仲恭天皇 1221(85) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1242-1274 宗尊親王 1252-1266(鎌倉将軍6) | 久仁 1243-1304 後深草天皇 1246–1260(89) | 恒仁 1249-1305 龜山天皇 1260–1274(90) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1264-1326 惟康親王 1266-1289(鎌倉将軍7) | 熈仁 1265-1317 伏見天皇 1287–1298(92) | 1279-1308 久明親王 1289-1308(鎌倉将軍8) | 世仁 1267-1324 後宇多天皇 1274–1287(91) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
胤仁 1288-1336 後伏見天皇 1298–1301(93) | 富仁 1297-1348 花園天皇 1308–1318(95) | 1301-1333 守邦親王 1308-1333(鎌倉将軍9) | 邦治 1285-1308 後二條天皇 1301–1308(94) | 尊治 1288-1339 後醍醐天皇 1318–1339(96) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
量仁 1313-1348 光厳天皇 1332–1334(北朝1) | 豊仁 1322-1380 光明天皇 1336–1348(北朝2) | 義良 1328-1368 後村上天皇 1339-1368(97) | 1308-1335 護良親王 征夷大将軍 1333-1334 | 1326-1338/1344 成良親王 征夷大将軍 1334-1338 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
興仁 1334-1398 崇光天皇 1348–1351(北朝3) | 弥仁 1336-1374 後光嚴天皇 1352–1371(北朝4) | 寛成 1343-1394 長慶天皇 1368–1383(98) | 熙成 1350?-1424 後龜山天皇 1383-1392(99) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1351-1416 伏見宮栄仁親王 | 緒仁 1339-1393 後圓融天皇 1371–1382(北朝5) | 参照: 南朝、北朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1372-1456 伏見宮貞成親王 (後崇光院) | 幹仁 1377-1433 後小松天皇 1382-1392(北朝6) 1392–1412(100) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦仁 1419-1471 後花園天皇 1428–1464(102) | 躬仁 1401-1428 称光天皇 1412–1428(101) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成仁 1442-1500 後土御門天皇 1464–1500(103) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
勝仁 1464-1526 後柏原天皇 1500–1526(104) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
知仁 1497-1557 後奈良天皇 1526–1557(105) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
方仁 1517-1593 正親町天皇 1557–1586(106) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1552-1586 誠仁親王 (陽光院) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和仁 1572-1617 後陽成天皇 1586–1611(107) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政仁 1596-1680 後水尾天皇 1611–1629(108) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
興子 1624-1696 明正天皇 1629-1643(109) | 紹仁 1633-1654 後光明天皇 1643–1654(110) | 良仁 1638-1685 後西天皇 1655–1663(111) | 識仁 1654-1732 靈元天皇 1663–1687(112) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
朝仁 1675-1710 東山天皇 1687–1709(113) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1704-1753 閑院宮直仁親王 | 慶仁 1702-1737 中御門天皇 1709–1735(114) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭仁 1720-1750 櫻町天皇 1735–1747(115) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1733-1794 閑院宮典仁親王 (慶光天皇) | 遐仁 1741-1762 桃園天皇 1747–1762(116) | 智子 1740-1813 後櫻町天皇 1762–1771(117) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
英仁 1758-1779 後桃園天皇 1771–1779(118) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1780-1843 勧修寺婧子 | 師仁 1771-1840 光格天皇 1780–1817(119) | 1779-1846 欣子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
恵仁 1800-1846 仁孝天皇 1817–1846(120) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
統仁 1831-1867 孝明天皇 1846–1867(121) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
睦仁 1852-1912 明治天皇 1867–1912(122) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
嘉仁 1879-1926 大正天皇 1912–1926(123) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
裕仁 1901-1989 昭和天皇 摂政 1921-1926 1926–1989(124) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明仁 1933- 上皇明仁 1989–2019 (125) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳仁 1960- 今上天皇 2019- (126) | 1965- 皇嗣 秋篠宮文仁親王 | 1969- 黒田清子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2001- 愛子内親王 | 1991- 小室眞子 | 1994- 佳子内親王 | 2006- 悠仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家族・親族
悠仁親王 | 父: 文仁親王(秋篠宮) |
祖父: 上皇明仁 |
曾祖父: 昭和天皇 |
曾祖母: 香淳皇后 | |||
祖母: 上皇后美智子 |
曾祖父: 正田英三郎 | ||
曾祖母: 正田富美子 | |||
母: 紀子 |
祖父: 川嶋辰彦 |
曾祖父: 川嶋孝彦 | |
曾祖母: 川嶋紀子 | |||
祖母: 川嶋和代 |
曾祖父: 杉本嘉助 | ||
曾祖母: 杉本栄子 |
系図
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
著名な親族としては、叔母に実業家の栗原菜緒、義兄にニューヨーク州弁護士で法務博士の小室圭がいる。
皇位継承順位
令和元年5月1日時点では、父・文仁親王(59)に次いで第2位。天皇徳仁に皇男子(皇太子)が誕生するか、悠仁親王自身または文仁親王が即位前に薨去、あるいは皇室会議で皇位継承順位を入れ替えられない限り第128代天皇となる。平成生まれでは唯一であり、最年少の皇位継承資格者である。
称号・宮号の有無や敬称の表記など

一宮家(秋篠宮家)の生まれであり、また当主ではないため、天皇の皇子や皇女に与えられる御称号は持たず「秋篠宮」という宮号も冠さない。
逸話
誕生時には、21か国の元首から天皇明仁・皇后美智子へ、31か国の元首から天皇明仁へ、それぞれ皇孫誕生の祝電が寄せられた[69]。悠仁親王が誕生したことで、2006年(平成18年)の今年の漢字に「命」が選ばれた。また2位には「悠」がランクインした[70]。
祝賀
祖父母の天皇明仁・皇后美智子が初めて見舞いに訪れた際には、白いベビーシューズを母子に贈った。この靴は、悠仁親王1歳の誕生日の記念写真でソファ脇の机に飾られているのを見ることができる[71]。
トルコのトプカプ宮殿博物館からは国宝「金のゆりかご」が貸し出され、2007年(平成19年)8月から9月まで東京都美術館で開催された「トプカプ宮殿至宝展」で特別展示された。これは門外不出の国宝で、トプカプ宮殿博物館館長の厚意により実現したもの。
お印が高野槇と決まった後、高野槇を市の木とする岐阜県中津川市の中津川観光協会が高野槇の写真入のパンフレット用紙袋を製作した。また高野槇の名の由来である高野山への交通手段である南海電気鉄道では、誕生記念として難波駅で高野槇1000本を乗客に無料配布した。
記帳所
悠仁親王は皇室では41年ぶりの男子誕生だったが、宮内庁はあくまで一宮家の生まれであるとして誕生を祝うための記帳所を設けなかった。しかし地方自治体や寺社などでは独自に記帳所を設けたところもあった。
国内外メディアの報道
悠仁親王の誕生は世界各国のメディアで報道された。王室を持つイギリスでは日本の皇位継承問題に関心があったこともあり、BBCニュースはトップニュースで報道[72]。アメリカのCNNでは速報で東京特派員が「It's a boy!」と伝えた。またアメリカのニューヨーク・タイムズ紙電子版やTIME誌[73]、中国の新華社通信、韓国の聯合ニュースや朝鮮日報紙[74] なども速報記事や特集記事を出した。また日本国内でも各メディアが報じたが、独立局である三重テレビでは10:59のスポットCM枠で特設ニュース枠が設けられ報じられた。
研究業績
- 2023「赤坂御用地のトンボ相―多様な環境と人の手による維持管理」『国立科学博物館研究報告A類(動物学)』49(4), 129-53
脚注
関連項目
外部リンク
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