田村元
日本の政治家 ウィキペディアから
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田村 元(たむら はじめ[1][2][3]、1924年〈大正13年〉5月9日[2] - 2014年〈平成26年〉11月1日[4])は、日本の政治家。
田村 元 たむら はじめ | |
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生年月日 | 1924年5月9日 |
出生地 | 日本 三重県松阪市 |
没年月日 | 2014年11月1日(90歳没) |
死没地 | 日本 東京都渋谷区 |
出身校 | 慶應義塾大学法学部卒業 |
所属政党 |
(自由党→) 自由民主党(大野派→水田派→田中派→小渕派) |
称号 |
従二位 勲一等旭日桐花大綬章 松阪市名誉市民 法学士(慶応義塾大学・1950年) |
配偶者 | あり |
子女 | 3人(3女) |
親族 |
田村秢(父) 田村憲司(弟) 田村憲久(甥) 田村真子(大姪) 盛山正仁(娘婿) |
宗教 | 神道 |
第66代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1989年6月2日 - 1990年1月24日 |
天皇 | 上皇(明仁) |
第46-47代 通商産業大臣 | |
内閣 |
第3次中曽根内閣 竹下内閣 |
在任期間 | 1986年7月22日 - 1988年12月27日 |
第48代 運輸大臣 | |
内閣 | 福田赳夫内閣 |
在任期間 | 1976年12月24日 - 1977年11月28日 |
第33代 労働大臣 | |
内閣 | 第1次田中角栄内閣 |
在任期間 | 1972年7月7日 - 1972年12月22日 |
選挙区 | 三重県第2区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 | 1955年2月28日 - 1996年9月27日 |
その他の職歴 | |
自由民主党最高顧問 (総裁:海部俊樹、宮澤喜一、河野洋平) (1990年 - 1994年) | |
第26代 自由民主党国会対策委員長 (総裁:鈴木善幸) (1981年 - 1982年) |
衆議院議長(第66代)、通商産業大臣(第46・47代)、運輸大臣(第48代)、労働大臣(第33代)、衆議院議員(当選14回)、自由民主党国会対策委員長(第26代)などを歴任[3]。
三重県松阪市に生まれる。父親の田村秢は、弁護士出身で三重県会議員を経て、1942年(昭和17年)の翼賛選挙で衆議院議員に当選した[5][6]。
旧制三重県立宇治山田中学校を経て、1950年(昭和25年)に慶應義塾大学法学部卒業[7]。中外炉工業[7]、三重交通勤務と中学校の代用教員を経て、参議院議員の前田穣の秘書となる[8]。1953年、衆議院三重2区(当時)から立候補するが落選。1955年(昭和30年)の衆議院議員総選挙に再度立候補し、当時最年少の30歳で当選した(当選同期に愛知揆一・椎名悦三郎・唐沢俊樹・高村坂彦・渡海元三郎・丹羽兵助など)。
当初は大野伴睦派に所属し、自由党と日本民主党の保守合同の際には裏方として活動し、自由民主党が結党されると青年部長に就任。1960年(昭和35年)に建設政務次官[7]、1962年(昭和37年)に労働政務次官を務めた[7]。
1964年(昭和39年)6月に大野が死去。その後派閥は村上勇派と船田中派に分裂し、田村は村上派に所属する。1972年(昭和47年)の佐藤栄作引退を受けての自由民主党総裁選挙では村上派を引き継いだ水田派をまとめ、田中角栄を支持し、同年7月、第1次田中角栄内閣で労働大臣として初入閣した。労相在任中に田中首相と労働界首脳の間の接着剤として会議を設けたり、週休二日制や定年の延長などの問題に取り組んだ。
1975年6月、同じ水田派の江﨑真澄と共に田中派に入る[9]。
1976年7月27日、ロッキード事件で田中が逮捕される。このとき田村は「しまった!」との声を上げたと言われている[要出典]。同年12月、福田赳夫内閣において運輸大臣に就任[7]。
1977年に新東京国際空港(現・成田国際空港)年内開港を打ち出した福田赳夫の意向を受け、地元との調整などに尽力した(→成田空港問題)。目途がついた11月28日に、成田空港の開港日を1978年3月30日とする運輸省告示を出した後、その日行われた内閣改造で福永健司と運輸大臣を交代する(年内開港は様々な事情により実現できなかったが、年度内開港には漕ぎつけられた。しかし、開港予定日の4日前に成田空港管制塔占拠事件が発生してしまい、実際の開港日は1978年5月20日となった)[10]。
当初、二階堂進の側近を任じるも、次第に距離を置くようになり、派内で「田村グループ」を形成する。1982年に退陣表明した鈴木善幸首相の後継総裁選びでは鈴木、福田、二階堂による会談が行き詰まる中、無関係な国会対策委員長の田村が「中曽根総理・福田総裁」案を提示したが、これを拒否した中曽根が予備選で勝利。後に田村は「福田総裁なんてとんでもない、と思った角さん(田中角栄)が中曽根さんに『絶対に受けるな』と言って、中曽根さんが蹴ったというのが内幕だ」と明かしている[11]。
田中が脳梗塞で倒れたあと、奥田敬和と共に中間派をまとめ竹下派に合流した[12]。第3次中曽根内閣で通商産業大臣に就任[7]。続く竹下内閣でも再任した[7]。竹下内閣総辞職後、総理の要請を受けるが断り、1989年(平成元年)6月2日、予算案強行採決を巡る国会混乱の引責で原健三郎衆議院議長、多賀谷真稔副議長が辞任したことで、後任の衆議院議長に選出される。消費税導入に伴う衆議院の解散による第39回衆議院議員総選挙後、議長職は櫻内義雄に回り、自民党最高顧問となる。1994年(平成6年)、死刑廃止を推進する議員連盟の初代会長に就任する。1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙には「自分は旧三重2区の人々に支持されてきたのであり、次の選挙で(今までの支持者を半分に)分けることは出来ない」と小選挙区制になることを嫌って[要出典]出馬せず、政界を引退。甥の田村憲久が地盤を継承した。連続当選14回(中選挙区制でのトップ当選連続13回は三木武夫と並び最高記録)。2004年(平成16年)に松阪市の名誉市民に選ばれる。議員引退後は元国会議員で構成される前議員会の会長に選ばれ、長きに渡り会長を務めていた[要出典]。
2014年(平成26年)11月1日、老衰のため、渋谷区内の病院で死去[13][14]。90歳没。没後に従二位に叙され[15]、衆議院より弔詞が捧呈された[16]。
当落 | 選挙 | 施行日 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 得票順位 /候補者数 | 比例区 | 比例順位 /候補者数 | |
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落 | 第26回衆議院議員総選挙 | 1953年4月19日 | 三重県第2区 | 無所属 | 22,630 | 8.6 | 7/9 | - | - | |
当 | 第27回衆議院議員総選挙 | 1955年2月27日 | 三重県第2区 | 自由党 | 36,818 | 13.3 | 3/10 | - | - | |
当 | 第28回衆議院議員総選挙 | 1958年5月22日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 65,758 | 22.6 | 1/10 | - | - | |
当 | 第29回衆議院議員総選挙 | 1960年11月20日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 87,461 | 32.1 | 1/7 | - | - | |
当 | 第30回衆議院議員総選挙 | 1963年11月21日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 75,340 | 25.6 | 1/9 | - | - | |
当 | 第31回衆議院議員総選挙 | 1967年1月29日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 75,308 | 24.5 | 1/9 | - | - | |
当 | 第32回衆議院議員総選挙 | 1969年12月27日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 83,953 | 26.6 | 1/6 | - | - | |
当 | 第33回衆議院議員総選挙 | 1972年12月10日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 112,343 | 37.6 | 1/5 | - | - | |
当 | 第34回衆議院議員総選挙 | 1976年12月5日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 91,022 | 30.0 | 1/5 | - | - | |
当 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月7日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 105,850 | 34.7 | 1/5 | - | - | |
当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年6月22日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 102,876 | 32.2 | 1/5 | - | - | |
当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 79,584 | 25.2 | 1/7 | - | - | |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年7月6日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 104,966 | 32.6 | 1/5 | - | - | |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年2月18日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 81,446 | 23.8 | 1/6 | - | - | |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年7月18日 | 三重県第2区 | 自由民主党 | 91,200 | 27.7 | 1/5 | - | - | |
当選回数14回 (衆議院議員14) |
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