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答志島(とうしじま)は、志摩諸島の一島で三重県鳥羽市に属する離島[1]。東西約6キロメートル、南北約1.5キロメートル。面積約7平方キロメートルで、鳥羽湾および三重県内では最大。鳥羽市の無形民俗文化財に指定されている寝屋子制度が残る。
答志島、浮島、飛島などと志摩半島の陸岸との間には桃取水道がある[2]。桃取水道の最狭部は答志島と本土側に位置する日向島との間にある[2]。また、答志島と菅島の間には菅島水道があり、水道の両側には多くの険礁が散在する[2]。
古くは『万葉集』にて、持統天皇の伊勢行幸にあたって都に残った柿本人麻呂により、
とよまれた地である。平城京跡から発見された和銅5年(712年)木簡にも『志摩国志摩郡手節里』[3]、養老7年(723年)木簡に『志摩国答志郡和具』[4]の文字がみえる。『和名抄』でも、答志郷・和具郷との名もみられる。
答志島には志摩国の国衙、または答志郡の郡衙があったとされ、その関連遺跡と推定されるおばたけ遺跡が和具集落に所在する[5]。
鳥羽港の佐田浜桟橋(鳥羽マリンターミナル)から、鳥羽市営定期船で北東部の答志集落まで約30分、和具まで25分。桃取まで約15分。
運賃は2019年10月現在、それぞれ答志・和具が550円と桃取まで450円。
中世の九鬼水軍の本拠地。信長、秀吉に仕えて志摩地方一円に名をはせた九鬼嘉隆終焉の地。
関ヶ原の戦いで家名存続のために嘉隆が大坂の豊臣方に、子の守隆は家康の東軍について戦い、敗れる。この地で自刃した嘉隆の遺言により、自ら築城した鳥羽城を望む岬の頂きに首塚、その麓に胴塚が残されている。