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北島三郎

日本の歌手 (1936-) ウィキペディアから

北島三郎
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北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年昭和11年〉10月4日 - )は、日本の演歌歌手俳優ミュージシャン馬主東京都八王子市在住。

概要 北島 三郎, 基本情報 ...

函館の女』にはじまる「女」シリーズ、『兄弟仁義』などの「任侠」シリーズといったヒット曲があり、サブちゃんの愛称で知られる。日本を代表する演歌歌手の一人。

原 譲二(はら じょうじ)のペンネームで作詞・作曲活動を行っており、自身の楽曲の制作以外にも舞台のシナリオ・演出や、北島ファミリーはじめ他の演歌歌手への楽曲提供など、マルチな活動を行っている。

作曲家・船村徹門下出身で、門下生で作る「船村徹同門会」(会長・鳥羽一郎)では名誉相談役を務める[1]

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来歴

要約
視点

デビューまで

北海道上磯郡知内村(現・知内町)出身。5男2女を持つ7人兄弟姉妹の長男として誕生する。北海道函館西高等学校に進学した。高校時代、海で溺れた小学生を救助したという逸話がある[注釈 1]。高校在学中、函館で開催された『NHKのど自慢』(NHK総合ラジオ第1)に出場。鐘は2つであったが、司会の宮田輝から「良い声して学生さんですか?お上手でしたのにねえ……」と声をかけられたことで「歌手の道あるかもしれない」と思うようになった[2][3]

1954年、17歳で高校を中退後、東京の親族を頼って18歳で上京。当初は東京声専音楽学校に入学した。しかし歌謡曲志向であったため、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指す。下宿先の大家の娘であった雅子(後の北島音楽事務所社長→副会長)と結婚し、1959年11月30日に挙式した。式に出席したのは両家合わせて21人だけであった。北島は定収がなく、妻の両親から結婚を反対されたという。

1960年、流しの収入は3曲100円だったが、ある日羽振りの良い客が1000円を出してくれた。礼を言い1曲歌うと翌日に新橋の喫茶店に呼び出された。その相手は北島の評判を聞きつけた日本コロムビアの芸能部長で、作曲家・船村徹を紹介された。北島は当時を振り返って「こういうちょっとした出会いなんだけど、僅かな出会いが人生で物凄い出会いになってくる」と語っている[2]。これを機に船村門下となり、レッスンの日々を送る。

1961年、レッスン前に船村から「今日から他の歌はいいからこの歌を歌え、この歌を勉強しろ」と譜面を渡される。これが後に最初のヒット曲となった『なみだ船』だった。同年にレコーディングも行われ、その場で船村から紹介されたのが新栄プロダクションの社長・西川幸男であった[4]。また、同年にギター漫才『ゲルピンちん太ぽん太』のぽん太として漫才コンビでのステージも経験している。これは師匠の船村が北島にステージ度胸を付けさせるために興行師に頼み込んで得た仕事で、東北地方の1か月興行の前座芸人として機会を与えられた。しかし、3日ほどで「使い物にならない」と帰され、ギャラは一切貰えなかった[注釈 2]ロカビリー全盛の当時、正統派の演歌・歌謡曲の新人は需要が少なく、船村は「あんなに(売り込みに)苦労した弟子は他には居なかった」と述べている[5]

デビュー

1962年、新栄プロの先輩歌手・村田英雄の「王将」のヒット記念パーティーで歌手としての初舞台を踏む。この年の3月には"呼びやすさ・親しみやすさ先行"で「北海道(北の島)生まれの三郎」という由来のもとに北島三郎と命名、デビューが決定する。ただ、当時の芸能界で「既婚の新人歌手」はあり得なかったため、プロフィール上は独身とした。

同年6月5日、日本コロムビアから「ブンガチャ節」でデビューするも不発に終わる。同曲は渋谷等で流しが歌っていた春歌の歌詞を変えたもので、発売から1週間で放送禁止となった[6]。北島自身は「テレビに3回出たら、放送禁止になっちゃった。」と語っている[2]。8月20日に急遽発売となったセカンド・シングル「なみだ船」がミリオンセラー[7]となる。

1963年の秋、日本クラウンの設立と同時に同社へ移籍。年末の紅白歌合戦(NHK総合・ラジオ第1、#NHK紅白歌合戦出場歴参照)に初出場。長男誕生を週刊誌にスクープされ、妻子の存在を公表する[8]

人気確立

1965年、4月に「兄弟仁義」と「帰ろかな」、11月に「函館の女」と、この年リリースしたうちの3曲がヒットし、演歌歌手としての人気を確立。映画『兄弟仁義』に出演。同作は大ヒットしてシリーズ化される。

1972年10月9日、デビューから10年間所属した新栄プロダクションから独立し、北島音楽事務所を設立。

1978年、「与作」でファン層の拡大に成功。1980年代以降、『腹が丈夫』であることをシャレにして名づけたペンネーム・原譲二[9]を用いて作詞や作曲、演出を手がけることが増える。

1985年8月、飛行機に特設ステージを設け、機内コンサートを開催。飛行機内での本格的コンサートは世界初であった。

1986年12月、広域指定暴力団稲川会の新年会に出席していたことが静岡県警の捜査で明らかになり、決定していた第37回NHK紅白歌合戦への出場を辞退する[10][11]。初出場から勇退までの半世紀で、不出場となったのはこの年のみ。

演歌の大御所として

1989年4月21日、新元号「平成」にちなんだ楽曲「平成音頭」を発表。約16万枚を売り上げた[12]

1997年7月、北海道寿都郡寿都町のイメージソング「風のロマン/弁慶岬」を発売、9月には演歌初のCDエクストラとなる「出逢い」を発売する。

1998年、NHKおじゃる丸』主題歌「詠人(うたびと)」を歌うなど、新しいジャンルに挑戦。

2003年11月29日、八王子観光大使に委嘱。

2006年10月4日、古希と『芸道45周年』を祝うパーティーの席上、一番弟子の山本譲二を2007年に「暖簾分け」の形で独立させること、音楽事務所の社長を妻・雅子から長男・龍に交代させることを発表し。北島は「今後も山本を支援し続ける事に変わりは無い」と明言した[13]。同月15日に発売した「あの日時代」でオリコン演歌・歌謡チャート1位の最高齢記録を更新[14]

2009年、デジタル放送推進協会の「日本全国"地デジで元気!"」のキャンペーンソングとして「地デジで元気!音頭」を作曲・歌唱[15]。翌2010年、「地デジ化応援隊」のメンバーに選ばれた[16]

2010年3月4日、放送文化の向上に功績のあった人物を表彰する「第61回日本放送協会 放送文化賞」受賞が決定[17][18]。結婚50周年を迎えた1月、シングル『夫婦一生』でオリコンチャート10位を獲得、10万枚を売上げた。2010年10月には同曲が日本レコード協会ゴールドディスク認定を受け、日本におけるゴールドディスクの最年長記録を更新した[19]

2011年2月22日、第32回松尾芸能賞・大賞を受賞[20]3月29日、授賞式が行われた[21]。同年、“芸道50周年”を記念する「北島三郎 特別公演」が東京(日生劇場)・福岡(博多座)・名古屋(御園座)・大阪(新歌舞伎座)の4大劇場で上演された。75歳にして清水次郎長森の石松の2役に挑んだ[19]

2013年、第64回NHK紅白歌合戦で史上初の50回出場を達成し、この回限りでの勇退を宣言[22]。渋谷の日本クラウン本社で異例の記者会見が行われた[23]。当日のステージは、史上初めて、紅白両軍の正規のトリの後にステージを設けられ、史上最多の13回目のトリで『まつり』を披露、半世紀の紅白出演を締めた[24]

2014年7月20日、実弟で北島音楽事務所常務取締役だった大野拓克が肝臓がんのため67歳で死去。この2か月前から体調を崩して入院加療を続けており、臨終の際には北島も立ち会った。24日の通夜、25日の告別式では施主を務めた[25]

同年9月23日、明治座で行われた『北島三郎最終公演』夜の部で、通算公演回数4500回を達成。明治座での歌手の座長公演としては国内最多となる[26]。最終公演の演出担当には7月に死去した弟・大野拓克も名を連ねていた[27]

2015年1月の福岡・博多座公演をもって、座長公演からも退いた。通算公演数は4578回に達した[28][29]。11月には第69回北海道新聞文化賞を受賞[30]

2016年春の叙勲で旭日小綬章を受章[31]

同年9月、頸椎症脊髄症のため、コンサートの延期を発表[32]。8月下旬に自宅の風呂場で転倒して持病の頸椎の痛みを悪化させ、9月12日に手術を受けていたことを明らかにした[33]

2019年5月15日、新元号「令和」にちなんだ楽曲「令和音頭」を発表。

2022年1月1日、ほぼ全楽曲のサブスクリプションによる配信を解禁。同年3月11日から3月13日に博多座、4月17日から4月19日に新歌舞伎座、5月13日から5月15日に御園座、12月6日から12月8日に明治座で「ファイナルコンサート」と銘打った劇場公演を行った。

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人物

要約
視点
  • 自宅は東京都八王子市暁町八王子本線料金所を見下ろせる場所にある。総数36部屋の大豪邸に家族・内弟子とともに住んでいる(“三郎”からの語呂合わせで、36部屋作られた)。総敷地面積1500坪、総工費20億円の豪邸である。
  • 演歌の振興や後進の育成にも貢献しており、山本譲二小金沢昇司ら、北島音楽事務所所属、または北島を慕う演歌歌手によって北島ファミリーが形成されている。ファミリーからは親父若しくは先生と呼ばれている(北島の愛弟子であり、後に娘婿となった北山たけし先生と呼ぶ)。
  • 加山雄三とは親友である。
  • 安藤昇とは、渋谷で流しの仕事をしていた当時、「安藤組」として愚連隊を仕切っていた安藤に声をかけてもらってからの付き合いで、安藤が芸能界入りしてからも交友が続いていた[34]
  • 体質的に酒が飲めず、奈良漬けを食べただけで酔ってしまうほどの下戸。若い頃から大の甘党である。高校時代は白飯に黒砂糖をかけただけの弁当が好きであった。また、コーヒーには大量の砂糖を入れて飲み、舞台の前には「飲まないと調子良く歌えない」と言うほど、炭酸を抜いた三ツ矢サイダーを愛飲している。ある日、北山が舞台前に三ツ矢サイダーをどうしても入手できず、別メーカーのサイダーを差し出したところ、違いを見抜いた北島から怒号が飛んだというエピソードがある。サイダーの炭酸を抜くのも弟子の仕事の一つである[35][36]
  • 佛所護念会教団の会員としても知られている。
  • カーマニアとしての顔もあり、過去にはフォード・ファルコン、フォード・マスタングキャデラックなど、アメリカ車を中心に乗用車を購入している。自身がお気に入りはクレネ英語版のカスタムカーで、北島が旅行先のラスベガスで展示を見て惚れ込んだもので、本人いわく『世界で一台しかない』自慢の愛車である。北島がクレネを運転している際にはよく周囲から「これは何というクルマですか?」と尋ねられると語っている[37]
  • 口癖は「アメリカにジャズあり、フランスにシャンソンあり、日本に演歌あり」。歌謡曲志向であるが、流しの仕事をしていたこともあり、海外のジャズ・スタンダードやカントリーも歌うことができる。
  • 男性アイドルグループのSMAPのことを「大好き」だと述べている[38]
  • NHK紅白歌合戦』に対して、男女対抗戦を撤廃するべきとの考えをもち、NHKにその旨を伝えたこともある[39]。理由として「男女混成グループの出場増加」「2010年代に入ってからの紅白が紅白両軍で出場者数が異なる事が多い事」をあげている[40]
  • 2013年の『第64回NHK紅白歌合戦』のステージ上でAKB48からの卒業を発表した大島優子について「あれにしても、昔なら(私事を紅白で発表することは)考えられなかった。可笑しいといえば可笑しい。でも、それも時代という事なんだ」と語っている[41]
  • 50回に及ぶ紅白出場歴で、1番許せなかった共演歌手は2006年の『第57回NHK紅白歌合戦』でのDJ OZMAである[42]。「(紅白で)踊りを踊らされたりさ。あれから俺、段々(紅白が)嫌いになってきた」と述べている[43]
  • 2020年7月22日放送の『水曜日のダウンタウン』「古今東西 日本人知名度ランキング」[注釈 3]では第9位(92.5%)にランクインした。これは演歌歌手としてだけでなく、男性歌手としてもトップである。
  • 門弟への教育は厳しく、小金沢は「何発殴られたか分からない。」と語った。山本譲二も「先に飯を食おうとしたら味噌汁をぶっかけられたことがある。」と語っている。一方で歌は「他人に教えられたものは本物ではない」として、指導しなかったという。
  • 血液型はO型。

馬主として

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第76回菊花賞表彰式にて(2015年10月25日、京都競馬場

デビュー当時に所属した新栄プロダクションの創業者で、馬主兼オーナーブリーダー西川幸男や、事務所先輩で馬主でもあった春日八郎に勧められ、馬主活動を始める[44]

日本の競馬界では、1963年以来[45]、「キタサン」の冠号で多くの競走馬を所有(登録上の名義は「有限会社大野商事」)。

現在の中央競馬における勝負服のデザイン(黒・茶三本輪)は、OBである函館西高校ラグビー部のジャージを模したものである[注釈 4]

かつては日本中央競馬会(JRA)のマナー啓発のPRに起用され、2009年5月には東京競馬場で行われた第76回東京優駿の発走前に場内で国歌を独唱した[46]

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キタサンブラック

2015年10月25日の第76回菊花賞キタサンブラックが優勝し、北島に初めてGI競走勝利の栄誉をもたらしたことを受けて「まつり」の替え歌を歌唱した[47]。2016年5月1日の第153回天皇賞・春(京都競馬場)や第36回ジャパンカップでキタサンブラックが勝利した際も、東京競馬場で「まつり」を披露している[48]

2017年12月24日の有馬記念で引退レースとなるキタサンブラックが優勝。全レース終了後引退セレモニーにおいて愛馬を讃える新曲「ありがとう キタサンブラック」が北島本人の歌唱にて初披露された。

地方競馬でも楠賞全日本アラブ優駿を制したトライバルセンプー東京盃勝ち馬のキタサンミカヅキ等を所有。川崎競馬場には北島が寄贈した馬の実物大模型[49]「キタサンカワサキ」が展示されている。

2023年12月、アニメ『ウマ娘 プリティーダービー』シーズン3最終回に先立つYouTube配信に、キタサンブラックのオーナーとしての立場でビデオメッセージを寄せた[50]

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家族

  • 次男の大野誠は、ロックバンド1st BLOODのボーカル“MAKOTO”として、1988年にデビュー。シングル「American Dream」は北島の「年輪」とオリコンシングルチャートに同時チャートインし、オリコン史上初の「親子同時チャートイン」を記録した[51]。当時すでに“MAKOTO”の芸名で活躍していた北野誠がいたが、北島側が北野に“MAKOTO”名義を譲るよう申し入れたため、北野は改名した。『1st BLOOD』は2枚のアルバムを発売後、解散。誠はその後大地 土子(だいち とこ)のペンネームで、北島の曲の作詞・作曲を手がけた。同時に北島音楽出版の役員も務めていた[52][53]
  • 三女は女優・歌手[54]水町レイコである。
  • 愛弟子の一人で北島ファミリーの一員である北山たけしと次女が結婚したため、北山は義息子となった。
  • 演歌歌手の松前ひろ子は従妹にあたる。同じく演歌歌手の三山ひろしは松前の娘婿(松前の次女の夫)[55]

北島ファミリー

  • 山本譲二(2007年元日付で北島音楽事務所から独立したが、暖簾分けの形であり北島ファミリーの一員であり続けている。)
  • 原田悠里
  • 小金沢昇司(2014年節分明けをもって北島音楽事務所から独立することが発表された。「暖簾分け」の形での独立である。)
  • 和田青児(2012年元日付で北島音楽事務所から独立。「暖簾分け」の形で、ファミリーの一角である。)
  • 山口ひろみ
  • 北山たけし(北島の娘婿、大江と「北島兄弟」としても活動)
  • 大江裕(北山と「北島兄弟」としても活動。平成最後のNHK紅白歌合戦に北島とともに特別企画で出演。)パニック障害で歌える状態で無かった時、一人で歌える様になるまで一年間付き人としてカバン持ちをさせてたり、北島と一緒なら歌えたので一緒に歌う等復帰まで支えた。作曲家に師事するか先輩に弟子入りして付き人をしたりして歌や礼儀を学ぶ仕来たりのある演歌界では異例の弟子入りなしでデビューした大江はこの間に初めて付き人を経験した。
  • 長井みつる(28年にわたり北島の付き人を務め、2012年8月22日に北島の詞曲による『影』でデビューした。)
また、かつて北島音楽事務所には大橋純子もんたよしのり松原のぶえやや・里見☆しのぶ・岸本ゆきえチャダらが在籍していた。
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ディスコグラフィー

要約
視点

シングル

さらに見る 発売日, 型番 ...

アルバム

  • サブちゃんの十八番・北島三郎大いに歌う(LW-5019)
  • 函館の女ー北島三郎ヒット集ー(LW-5130)
  • 明治・大正演歌集(LW-5158)
  • 仁義 義理と人情を唄う(GW-6002)(1969年)
  • サブちゃんの心の旅路(GW-6020)
  • サブちゃんの人生劇場〜北島三郎 古賀メロディーを唄う〜(GW-7013)
  • 北島三郎 BEST12(GW-6026)
  • 北島三郎 スペシャルBOX (GW-5130)
  • 北島三郎 芸道45周年記念 北島三郎 大いに唄う(GW-2703)
  • 北島三郎 芸道35周年記念 北島三郎 大いに唄う(GW-7031)

ライブ・アルバム

  • オン・ステージ 梅田コマ劇場実況録音(GWS-83)
  • 風雪ながれ旅 梅田コマ劇場ライブ'80(GGA-5)

楽曲提供曲

作詞・作曲

  • 北山たけし
    • 男の出船
    • 片道切符
    • 勇気の一歩(作詞は数丘夕彦と共作)
  • 瀬川瑛子
    • 愛の川
    • ふるさと景色
  • 憲三郎&ジョージ山本
  • 原田悠里
    • おんな坂
    • 明日(あす)を信じて
    • 女がひとり
  • みち乃く兄弟
    • みちのく渡り鳥
  • 和田青児
    • 演歌海道(作詞はいとう彩と共作)
    • リンゴのふる里へ
    • 別れの海峡
  • 大江裕
    • 真実この道はるかなり
    • ふる里は いま…
    • 今しばし
    • 男の出発(たび)
    • そして明日に(作詞は沢村友美也と共作)
    • 御免なすって [58]
  • 長井みつる
    • 心のふるさと

作曲

  • 北山たけし
    • 筑後川
    • 剣山(つるぎさん)
  • 小金沢昇司
    • 義経伝説
    • まごころの花よ
  • 瀬川瑛子
    • 恋間川
    • 命歌
    • あなたが命
  • 原田悠里
    • ビロードの夢
  • みち乃く兄弟
    • ふるさとに逢いたい
    • みちのく桜
    • ふるさとの風はやさしかった
  • 山口ひろみ
    • ひだまり坂
    • 春は二度来る、三度来る
    • その名はこゆき
    • どうするこの恋
  • 山本譲二
    • えくぼ
    • 長州の男
    • 生きる
  • 島津亜矢
    • 北海峡
    • 大器晩成
    • 温故知新
  • 和田青児
    • 夢一路
    • 望郷歌
    • 人生列車
    • 青春は終わらない
    • 甲州街道の渡り鳥
    • さいはての宿
    • 上野発
    • おやじさん
  • 里見☆しのぶ
    • めぐり逢い函館
    • おんなの桟橋
  • 大江裕
    • のろま大将
    • なんか一丁やったろかい
    • 夕焼け大将
    • 北風大将
    • 青春の翼
  • 底ぬけプレジデンツ(浜田雅功大竹一樹宮迫博之
    • これが恋だと分からずに
    • 男の生き様
  • 鳥羽一郎
    • 飛騨の龍

作詞・補作詞

  • 山本譲二
    • 夢街道(補作詞)
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歌碑・記念館

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『港春秋』の歌碑

出演

要約
視点

NHK紅白歌合戦出場歴

1963年に第14回NHK紅白歌合戦に初出場して以来、連続出場を続けていたが、第37回(1986年)は暴力団との交際が明らかになったため直前に降板、連続出場回数は23回で止まる。翌年2年ぶりに復帰し、連続出場を続ける。当初は芸道50周年にあわせて第62回(2011年、48度目)限りで紅白を勇退する予定であったが、同回の紅白は東日本大震災関連の演出などが優先されたため公表はせずに続投[61]第64回(2013年)で史上初の出場50回を達成したのを機に、勇退した。通算トリ回数13回は美空ひばり・五木ひろしに並び歴代1位。通算大トリ回数11回はひばりに並び歴代1位。またトリ前も13回担当しており、トリと合計26回は史上最多。出場年齢は勇退時で77歳となり、藤山一郎の78歳に次ぐ記録となった(その後、美輪明宏が2015年に80歳で正規出場を達成)。その後、第69回(2018年)に特別枠で復帰。

通算50回の正規出場は第71回2020年)で並んだ五木と共に歴代1位で、特別企画を含めると単独1位。

さらに見る 年度, 放送回 ...
注意点
  • 備考のトリ等の次にあるカッコはトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。

レギュラー番組

時代劇

  • 長谷川伸シリーズ 第13話「旅の馬鹿安」(1972年、NET
  • 暴れん坊将軍 I - XIIシリーズ(テレビ朝日) - 江戸町火消し『め組』頭・辰五郎(1978年 - 2002年)
    • VIIIシリーズから江戸町火消肝煎・辰五郎、IXシリーズから江戸町火消総元締・辰五郎として準レギュラーになる。暴れん坊将軍の全てのオープニング(IXシリーズ、XI・XIIシリーズ)・エンディング(Iシリーズ - VIIIシリーズ、Xシリーズ、800回スペシャル、春のスペシャル)も歌っていた。IXシリーズ、Iシリーズ - VIIIシリーズ、Xシリーズ、800回スペシャルの歌詞の作詞、作曲は原譲二(北島三郎)である。
  • 忠臣蔵 風の巻・雲の巻(1991年12月13日、フジテレビ) - 天野屋利兵衛

テレビドラマ

映画

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日本侠客伝シリーズ 第3作『日本侠客伝 関東篇』予告編映像(1965年)での北島
  • やくざの歌(1963年) - 北見三郎
  • 東海遊侠伝(1964年)- 渋谷の三郎
  • 日本侠客伝 関東篇(1965年) - サブ
  • 兄弟仁義(1966年) - 貴島勝次
  • 続兄弟仁義(1966年) - 桜井清次
  • 兄弟仁義 関東三兄弟(1966年) - 辰巳銀次
  • 兄弟仁義 関東命知らず(1967年) - 坂東竜次
  • 兄弟仁義 逆縁の盃(1968年) - 小島松男
  • 博徒列伝(1968年) - 小桜孝平
  • さくら盃 義兄弟(1969年)- 清吉
  • さくら盃 仁義(1969年)- 小松辰次
  • 盛り場仁義 (1970年)
  • 関東兄弟仁義 仁俠(1971年) - 矢倉清吉
  • 着流し百人(1972年) - 勘次
  • 昭和残俠伝 破れ傘(1972年) - 東京銀二郎
  • 愉快な極道(1976年) - 吉岡明
  • 修羅の群れ(1984年) - 出水辰雄
  • 浅草・筑波の喜久次郎〜浅草六区を創った筑波人〜(2016年) - 根岸浜吉

ドキュメンタリー

  • 遥かなり!演歌道を行く〜北島三郎 紅白50回の軌跡〜(2013年12月30日、NHK総合)[63][64]
  • 北島三郎 78歳の挑戦 〜最終公演の軌跡〜 (2015年3月26日、NHK総合)
  • キタサンブラック 日本一への道 〜サブちゃんと男たちの物語〜 (2017年12月30日、NHK総合・京都局制作)

舞台公演

  • 1968年 次郎長水滸伝
    • 出演者=中村竹弥 花柳小菊
    • 唄いまくる 北島三郎ショウ
  • 1971年 花の兄弟仁義
    • 出演者=由利徹 宮園純子
    • ヒットパレード 北島三郎10年の歩み
  • 1972年 北海の親子星
    • 出演者=近衛十四郎 由利徹
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
  • 1973年 あらくれ一代
    • 出演者=葉山良二 由利徹
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
  • 1974年 関東十人斬り
    • 出演者=伊藤雄之助 渥美マリ
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
  • 1975年 東京番外地
    • 出演者=伊藤雄之助 水島道太郎
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
  • 1976年 暴れ石松
    • 出演者=小川知子 水島道太郎
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
  • 1977年 上州鴉
    • 出演者=水島道太郎 内田朝雄
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
  • 1978年 母恋星
    • 出演者=三益愛子 水嶋道太郎
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
  • 1979年 花の喧嘩纏
    • 出演者=高田恭子 水嶋道太郎
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
  • 1980年 北海のはぐれ鳥
    • 出演者=宮園純子 葉山良二
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
  • 1999年 あばれ無法松
    • ヒットパレード 北島三郎大いに唄う
全4,578回の内訳[65]
  • 東京 - 1,984回
    • 新宿コマ劇場 1790回(39公演[66]
    • 青山劇場 34回
    • ゆうぽうとホール 39回
    • 日生劇場 6回(東日本大震災発生後3月14日以降は中止となった)[67]
    • 明治座 115回(2014年9月23日、4,500回を達成)
  • 名古屋 - 277回
    • 御園座 277回
  • 大阪 - 1,762回
    • 梅田コマ劇場 1610回
    • 新歌舞伎座 152回
  • 福岡 - 555回
    • 博多座 555回

テレビCM

パチンコ・パチスロ

パチンコ
パチスロ
  • お見事! サブちゃん/め組のサブちゃん(2004年、オリンピア)
  • 続・お見事! サブちゃん/ノーマルだよ! サブちゃん(2010年、オリンピア)

声の出演

マスメディア

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著書

  • ひとりの二人』海竜社、1984年7月16日。

脚注

関連項目

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外部リンク

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