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日本の騎手 (1969-) ウィキペディアから
武 豊 (たけ ゆたか、1969年(昭和44年)3月15日[1] - )は、日本中央競馬会(JRA)の騎手。栗東トレーニングセンター所属で現在はフリー。日本騎手クラブ会長(2010年~)。父は元騎手・元調教師の武邦彦で、弟に元騎手で現調教師の武幸四郎がいる。
デビューの年に新人最多勝記録(当時)を更新し2年目の菊花賞でGIを制覇。3年目で全国リーディングを獲得。その後も活躍を続けJRA全国リーディングジョッキーは18回獲得(歴代最多)し[4]、騎手大賞は9回獲得(歴代最多)[4]。通算GI勝利数は地方、海外含めて100勝以上を記録(歴代最多)[5]。その他にも通算4000勝を超えるJRA歴代最多勝記録[4]、および歴代最多騎乗数記録[6]、東京優駿最多の6勝を挙げるなど数々のJRA記録を更新、保持し「日本競馬界のレジェンド」と称されているほどの[7]日本を代表する騎手である[8]。
祖先は薩摩国出身の武家であり、薩摩藩士の園田家から武家へ養子に入った曽祖父の彦七は函館大経の門下生となる[9]。祖父芳彦は馬主協会元会長[9]。父邦彦は元騎手・元調教師であり、弟幸四郎もJRA所属の元騎手(1997年3月~2017年2月)・現調教師(2017年3月~)である[10]。妻は元タレントの佐野量子[11]。小中学校時代の同級生に調教師の池江泰寿がいる[12]。
1969年、父邦彦、母洋子夫妻の三男として京都府に生まれた[13]。翌1970年、武一家は現在の栗東市栗東トレーニングセンターに転居した[注 1][13]。住まいのそばに厩舎があるため、厩舎にいる馬にニンジンを与えてから出かけるのが武の日課になっていた[注 2][15]。物心つく前から身近な環境で馬と暮らしていたこと、また騎手だった父の姿を見ていたことが影響し、武は物心ついたころには「騎手になりたい」という思いが芽生えていたという[15]。1975年、栗東町立金勝小学校に入学[13]。このころから競馬が大好きで、同級生の池江泰寿と学校で競馬の話ばかりしていた[16]。小学校2年生の時にはすでに東京優駿(日本ダービー)が特別な競走であることを理解しており[13]、将来騎手となって日本ダービーを勝つことを夢見るようになっていた[17]。1979年小学校5年生の時、栗東乗馬苑の少年団の一員となり、本格的に乗馬を習い始めた[13]。当時指導員だった竹之下満義は武の騎乗について次のように回顧している。「すごくバランスが良くて馬上での据わりが普通の子と全く違った。とにかく動きが柔らかく、他の人が敬遠するような癖のある馬に乗っても全然バウンドしないしコースを綺麗に回ってくる。馬も彼が乗ると嫌がらないんです。馬が暴れても鞭を使わずになだめて御していました。将来絶対トップジョッキーになると思いました」[13]。1981年春、卒業文集に「将来の夢は騎手」と記し、金勝小学校を卒業[13]。そして栗東中学校に入学し、中学生になっても相変わらず乗馬苑に通い、乗馬を続けていた[13]。1984年春、騎手課程第3期生としてJRA競馬学校に入学[13]。同期には蛯名正義、塩村克己、芹沢純一などがいる[18]。当時教官だった荻野忠二、真家眞らは武の馬乗りの技術は入学当初から高かったと話している[注 3][15]。空き時間になると、撮影された自分や他生徒の騎乗映像をよく再生して研究していたという[13]。またアメリカの競馬雑誌、ブラッドホースの写真を食い入るように見ていたり、クリス・マッキャロンやゲイリー・スティーヴンスといったアメリカの一流騎手が叩き合う映像を、ワクワクしながら何度もリピートしたりと[15]、アメリカの競馬に憧れを抱くようになっていた[19]。2年生の10月、騎手デビュー後に所属する栗東・武田作十郎厩舎の実習生となり、3年生の9月まで実習を行った[15]。武は実技はもちろん馬学などの成績もよく、学年トップで競馬学校を卒業した[13]。
1987年(昭和62年)2月17日、競馬学校を卒業[2]。 栗東の武田作十郎厩舎所属となり念願の騎手デビューを果たす[20]。武田作十郎厩舎に所属したことにより、武は河内洋の弟弟子となった[21]。3月1日阪神4レースにアグネスディクターで初騎乗[20][1]。同3月7日、阪神3レースでダイナビショップに騎乗し初勝利[1]。9月12日、ケイアモールで42勝目を挙げ、小屋敷昭が持っていた関西新人最多勝記録を更新した[21]。10月11日、京都大賞典でトウカイローマンに騎乗し、重賞初制覇を果たす[21]。11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新した[21]。最終的には69勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した[21]。
1988年(昭和63年)菊花賞でスーパークリークに騎乗[1]。最後の直線入口で、以前自身が騎乗経験のあるカツトクシンに前を塞がれていたが、カツトクシンが外に膨れる癖を知っていた武は慌てず、内が開くまで動かずに待機[22]。思惑通り開けた内を通り、最後は2着に5馬身突き放して勝利[23]。GI競走初勝利を飾り、19歳8か月でJRA史上最年少クラシック制覇を達成した[注 4][22]。そしてこの冷静で頭脳的な騎乗を周囲から絶賛され[23]、「天才」として脚光を浴びるようになった[25]。さらに武はこの年113勝を挙げ、史上最年少で関西リーディングを獲得[26]。競馬サークルの内外に強烈なインパクトを与えた[22]。
1989年(昭和64年、平成元年)シャダイカグラ、イナリワン、スーパークリークでGIを4勝、年間133勝を挙げ、デビュー3年目にして初のJRA全国リーディングジョッキーを獲得[11]。 武の活躍はスポーツ紙や競馬雑誌以外の紙媒体やテレビでも度々取り上げられるようになり、『武豊』という名前と顔が日本中に知られるようになった[27]。武はデビュー当時、競馬関係者や競馬ファンから「タケクニさんの息子」と認識されていたが、このころには父である邦彦が競馬ファンから「タケパパ」と呼ばれるようになり、認識度の上ではすでに父を逆転していた[27]。折しも日本はバブル景気による空前の好景気であり、その波に乗って日本中央競馬会がCI戦略を含む一連のキャンペーンを成功させたことなどにより、日本に第二次競馬ブームが巻き起こり[28]、同時期に頭角を現した武はこの競馬ブームの主役となった[29]。
1990年(平成2年)武と共に競馬ブームの主役となっていたオグリキャップとコンビを組み、安田記念、有馬記念を制した[30][11]。とりわけすでに「燃え尽きた怪物」と言われていたオグリキャップを、引退レースで復活勝利に導いた有馬記念は「奇跡のラストラン」として語り継がれるレースとなった[31]。武とオグリキャップの活躍により、日本中央競馬会の売上げは爆発的に伸び、競馬ブームの盛り上がりはピークに達した[32]。武は平成三強と呼ばれたスーパークリーク、イナリワン、オグリキャップの全てに騎乗した唯一の騎手となった[32]。
武は競馬関係以外のメディアから脚光を浴びるようになると、時間の許す限り各方面のメディアの取材に積極的に応じていった[25]。その理由について武は、「競馬サークルが世間一般から偏見の目[注 5]で見られているのを子供の時から感じていたんです。競馬サークル外に自分が積極的に出ることで、こうした偏見を無くしたいと思ったんです」と語っている[25]。武はこうした競馬界そのものを変革したいという意思を持って競馬サークルの外へ積極的に飛び出していき、若い女性を中心とした競馬を知らなかった層の目を引き付け、競馬に付きまとっていた暗い賭博のイメージを明るいスポーツのイメージに変革させることに貢献し、競馬界の主役的役割を担うようになっていった[25]。
武は競馬界における自分の立場、自分の使命について、「競馬の世界では自分が発信力のある立場であることは感じている。例え自分が気が進まなくても、『武豊』が競馬界のためにやらなければならないと思うからこそやることもある。『武豊』というキャラクター的な存在を感じている部分はある」と、自分が発信力のある立場であることを自覚しつつ、自分とは別に『武豊』というキャラクターの存在を意識して行動することを心掛けているという[12]。
武が競馬界の顔として競馬サークルの外で仕事をこなし続ける一方[33]、本業の記録においても史上初・史上最年少・史上最速の名がついた数々の金字塔を打ち立てていき[1]、1989年から2008年までの20年間で合計18回リーディングジョッキーを獲得[11]。2007年にはJRA通算2944勝に到達。岡部幸雄が保持していたJRA最多勝記録を更新し[11]、名実ともに日本競馬界の第一人者となった[4]。(主な達成記録については#騎乗成績や#記録を参照のこと)
競馬の祭典と呼称され、全てのホースマンの夢舞台といわれる東京優駿(日本ダービー)[34][注 6]。 武はその日本ダービーについて、「子供のころ、騎手になりたいと思って将来の自分を思い描いた時、浮かんでくるのは日本ダービーを勝つ姿であった」と述べており、子供のころからダービージョッキーに憧れを抱いていた[35]。そんな武の初めての日本ダービー騎乗はデビュー2年目の1988年(昭和63年)、コスモアンバーに騎乗し16着[36]。武本人曰く、「何もできずに終わった」日本ダービー初騎乗であった[36]。以後、1989年にタニノジュリアス(10着)、1990年にハクタイセイ(5着)、1991年にシンホリスキー(19着)、1993年にナリタタイシン(3着)、1994年にフジノマッケンオー(4着)、1995年にオースミベスト(8着)、1996年にダンスインザダーク(2着)、1997年にランニングゲイル(5着)[36]。計9回の挑戦を繰り返すも勝利することはできなかった[36]。武はすでに日本ダービー以外の八大競走をすべて勝利しており[37]、日本ダービーのみ勝利を逃し続けるうちにいつしか競馬サークルでは、「武豊は日本ダービーだけは勝てない」というジンクスが囁かれるようになっていた[38]。武自身は感情に流されずコントロールするのもプロフェッショナルとして必要な素養であると考えていたため[36]、マスコミの取材で日本ダービーへの思いについて聞かれた時には、「日本ダービーは特別なレースじゃない」、「他のGIと価値は一緒」、「いつか獲れると思うから焦っていない」、というように努めて冷静に受け答えしていた[39]。しかしこれらは表向きのコメントであり、本心では次のように思っていたと語っている[39]。
「自分の今まで積み重ねた勝利全てと引き換えにしてもいいと思うほど、ダービージョッキーの称号が欲しくて欲しくてたまらなかった」[36]
そして1998年、第65回日本ダービーでスペシャルウィークに騎乗し優勝。10度目の挑戦でついに悲願を達成した[38][注 7]。武は事前に、「勝った時はガッツポーズはやめよう。あくまでもクールに決めよう」と考えていたが[40]、実際の勝利時は体中から湧き上がってくる喜びを抑えきれず[40]、武自身が後にビデオで見た時に恥ずかしくなるほど夢中で何度もガッツポーズを繰り返していた[36]。17万人の観衆によって埋め尽くされた東京競馬場では「ユタカ」コールが沸き起こり、武はこの瞬間を「それまでの人生で、最大、最高の瞬間」と振り返っている[36]。
翌年の1999年もアドマイヤベガで勝利し、史上初の日本ダービー連覇を達成(当時のダービー最多勝利タイ記録・11人目となる2勝ジョッキー[41]でもあった)[42]。そして2002年のタニノギムレットで三度勝利し、史上初めて日本ダービーを3勝した騎手となった[43]。その後も2005年にディープインパクトで4度目の勝利[1]。2013年にはそのディープインパクトの子であるキズナで勝利し、日本ダービー最多勝利記録を「5」に更新した[1]。なお競走馬の親子2代日本ダービー制覇は数組あるが、その中で同一騎手が親子それぞれの馬に騎乗して日本ダービーを優勝したのは武のみである[44]。また2022年にはドウデュースで勝利を収め,日本ダービー最多勝利記録を「6」に更新した。
武は日本ダービー制覇への思いについて以下のように語っている。
積み重ねてきた経験と何度も噛みしめた苦い思い、そして、何よりも、自分の手で掴み取ろうとする強固な意志があってはじめて、辿り着ける最高の場所です。 — 武豊、勝負師の極意 p.183より引用
武は、1993年より2009年までの17年連続で日本ダービーの連続騎乗を記録しているが、これは1961年より1979年まで19年連続して皐月賞に騎乗していた加賀武見の同一クラシック最多連続騎乗記録に及ばなかったものの、同一クラシック最多連続出場記録としては、2023年時点でも第2位の記録である。
武は海外でも早くから活躍し、日本人騎手による史上初の海外G1制覇、日本人として前人未到の海外通算100勝など様々な記録を達成している[45]。
武の海外初騎乗はデビュー3年目の1989年の夏、イナリワンのオーナーがアメリカに馬を持っており、その馬の騎乗を依頼されたことがきっかけである[45]。同年9月2日、アーリントンパーク競馬場でグランマジーに騎乗し勝利。海外デビュー3戦目で海外初勝利を挙げた[19]。以降は年末年始や夏はほぼ毎年海外へ渡航し、アメリカ、フランス、オーストラリア、ドイツ、イギリス、UAE、香港、韓国、サウジアラビアの9か国で勝利を挙げている[46][47]。
1991年8月、サラトガ競馬場で行われる芝2600mのG3セネカハンデキャップでエルセニョールの手綱を取ることになり[48]、3年目のアメリカ参戦で初めて重賞競走に騎乗することが決定した[48]。しかし当時はまだ日本の競馬が世界水準の評価を得ていなかった時代であり、アメリカの競馬専門紙には「22歳の日本人がトリッキーなサラトガを乗りこなせると思っているのか」などと[48]、競馬後進国の若輩者に対する批判的な記事が多く掲載され、「もしユタカ・タケが勝ったら私は裸踊りをする」と書いたハンデキャッパーすらいた[48]。さらに管理調教師であるウィリアムズ・ライトですら、メディアに対して武のことを「ビギナー」と侮辱的な言葉を発した[48]。そして武自身もサラトガ競馬場の芝コースは騎乗経験が無く[48]、さらにライトは、武にエルセニョールの調教に乗る機会を与えなかったため、ぶっつけ本番で挑むこととなった[49]。そんなマイナス材料が多く揃った中、迎えた本番ではライトが「パーフェクト」と言うほどの理想的な騎乗でエルセニョールを勝利に導き、日本人騎手による海外重賞初制覇を達成した[48]。武は勝利後、現地の騎手達に馬上から祝福の握手を求められ、一生の思い出になったという[50]。
1992年9月、セクレタリアトステークスでワールドクラススプラッシュに騎乗し、海外G1初騎乗を果たす[51]。
1994年、この年は例年にもまして各国を飛び回り、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞、ブリーダーズカップ・マイルなど世界のビッグレースに騎乗[52]。同年9月4日にはスキーパラダイスに騎乗してムーラン・ド・ロンシャン賞を制し、JRAの日本人騎手として史上初の海外G1制覇を達成した[1]。
2000年6月、武はアメリカに長期滞在し、騎乗拠点をアメリカ西海岸に移すことを表明した[53][注 8]。アメリカ西海岸を選択した理由について、「世界を代表するトップジョッキーが集うアメリカ西海岸の競馬で自分の腕を試してみたかった」と語っている[55]。同月のハリウッドパーク開催から本格参戦し、夏のデルマー開催では人気薄の馬で勝利を重ね、当地のメディアに「穴ジョッキー」と紹介されるようになり、存在感を示した[56]。しかし、11月のハリウッドパーク開催では騎乗数が激減[56]。1日1鞍を確保するのがやっとであり、騎乗馬を確保するために厩舎を挨拶回りする毎日であった[55]。結局このアメリカ長期滞在は最後まで満足な結果を得ることなく終了した[55]。しかし武はアメリカ長期滞在を決断したことについて、「ほんの1ミリも後悔していません。悔しさとか、もどかしさとか、勝てない、乗れないというジレンマも含めてすべてがいい経験です」と前向きにとらえている[55]。
2001年1月、フランスの調教師ジョン・ハモンド (競馬)から「主戦騎手としてフランスに来ないか?」と正式なオファーを受け、これを承諾[57]。フランスに長期滞在し、騎乗拠点をフランスに移すことを発表した[57]。同年3月のロンシャン開催から本格参戦し、4月15日にはG3のグロット賞を勝ち、同年初のフランス重賞初制覇を達成した[58]。10月7日の凱旋門賞ウィークエンドではアベイ・ド・ロンシャン賞にインペリアルビューティーで勝利し、同年初のフランスG1制覇を達成。同じ日の凱旋門賞ではサガシティに騎乗し、3着に入る健闘を見せた[59]。武は「2001年のフランス滞在で最も印象に残ったレースは?」と質問されたら迷うことなくこの凱旋門賞と答えるという[60]。フランス長期滞在中、落馬骨折による1か月半のブランクがあったが、最終的にはフランスでG1勝ちを含む35勝を挙げ、武本人曰く「まずまずの成績」を残した[61]。翌2002年も長期滞在を継続し、フランスで重賞4勝を挙げている[46]。
2003年には地方競馬の交流GI全レースで騎乗し中央・地方における全GIレースに出場。東京大賞典(連覇)を含む交流GI・3勝を挙げる。
2004年12月、香港ハッピーバレー競馬場で勝利し、海外通算100勝を達成した[11]。
武は自身の様々な海外での騎乗経験を踏まえ、若い騎手達の海外への積極的な挑戦に期待を寄せ、次のようなメッセージを送っている。「海外で騎乗するチャンスがあるなら日本で経験を積んでからなんて考えずにどんどん挑戦した方がいい。長く日本を留守にして騎乗馬がいなくなることを恐れていたら何もできない。チャレンジする騎手が登場するのを楽しみに待っています」[45]。
2010年3月27日、阪神競馬場で行われた毎日杯でザタイキに騎乗[62]。最後の1ハロンに差しかかった時、ザタイキが故障発症(左中手骨開放骨折=予後不良)し転倒[62]。武は頭からコースに叩きつけられるように落馬した[62]。この落馬事故により、武は左鎖骨遠位端骨折、腰椎横突起骨折、右前腕裂創の重傷を負い、全治半年と診断された[62]。特に左鎖骨遠位端骨折の症状が重く、鎖骨を骨折したというより肩関節が破壊されたような負傷であった[62]。3月30日、左肩にプレートを入れる手術を受け、4月2日には退院してすぐに歩けるようにはなった[62]。しかし左肩は全く動かすことができず、しばらくは患部をプレートで固定して治癒するのを待つしかなかった[62]。武は当初、5月に復帰する計画を立てていたが、5月1日の時点でまだ左肩の可動域が極度に小さく、ジャケットを羽織るのにも他人の手を借りねばならない状態であり、さらには医師からリハビリの許可も出ていなかった[62][63]。ゴールデンウィーク明けにようやくリハビリの許可が下り、日本ダービー前の復帰を目指し、左肩の可動域を広げるためのリハビリを続けたがすぐには症状は好転せず、5月16日、ヴィクトワールピサでの日本ダービーの騎乗を断念した。これにより、同一クラシック最多騎乗記録更新まであと3回と迫っていたものの、17年連続でストップし[注 9]、その記録の更新も叶わなくなったが、当面はリハビリに専念することを発表した[62]。武は馬に乗れないと何もすることがなく「俺は競馬で乗ることしかできない人間なんだな」と改めて痛感させられたという[62]。6月中旬、左肩のプレートを除去する手術を受け、リハビリのピッチが上がった[62]。7月に入ると左肩の可動域が広がり、回復の兆しを見せた[62]。7月22日、栗東トレセンで約4か月ぶりに馬に騎乗[62]。小学校5年生の時に乗馬を始めてからこれほど長い間馬に乗らなかったのは初めてだったという[62]。8月1日、小倉競馬場で127日ぶりに実戦復帰した[62]。復帰後初めてパドックに姿を現すと、復帰を待ち望んでいたファンから拍手と歓声が沸き起こった[62]。しかし後に武は、「あの時はまだ左肩の状況が悪く、誤魔化しながら乗っていたところがあったかもしれません」と、怪我を抱えたまま無理して復帰したことを告白している[12]。その影響からか、復帰後は思うように勝てない日々が続き[64]、2010年は年間69勝[11]。2011年はデビュー以来最低の年間64勝[11]。2012年はその前年をさらに下回り、年間56勝に終わった[11]。武はこの時期の成績低迷について、「年間200勝していたのが数年後に年間50勝になるのは正直きつかった。『武豊』でも結果が出ないとこういう状況になる。シビアな世界だからしょうがないんですが、2011年、2012年あたりは競馬が楽しくなかった気がします」と当時の苦しかった心境を回顧している[12]。しかしその苦境の真っ只中にいながらも、「『武豊』の真価が今問われているんだぞ」と自分を叱咤激励し続けていたという[12][65]。
2013年3月、キズナで毎日杯を勝利[66]。武はこの勝利により、3年前の同レースで落馬した時から抱いていた嫌なイメージを払拭し、吹っ切れたという[66]。同馬は次の京都新聞杯も勝利し、日本ダービーの有力候補となった[66]。そして迎えた5月26日の第80回日本ダービーでは、1番人気に応えてキズナをダービー馬に導き、武自身の持つ日本ダービー最多勝記録を「5」に更新した[66]。14万人近いファンの「ユタカコール」につつまれて勝利騎手インタビューでスタンド前に立った武に対し、多くのファンから「お帰り」の声がかけられた[66]。武はその声に「僕は帰ってきました!」と力強く応えた[66]。この言葉は事前に用意していた言葉ではなく、ファンの「お帰り」の声が胸に響いて自ずから出た言葉だったという[66]。武は苦境の中で掴んだこの5度目の日本ダービー勝利について、「キズナで日本ダービーを勝てたことは僕のジョッキー生活において分岐点となっています。それぐらい大きい勝利でした」と後に語っている[66][67]。武はこの年、GI2勝、重賞11勝、年間勝利数97勝と前年から大幅に成績を向上させ、低迷期を脱した[68][69]。2015年、年間106勝を挙げて6年ぶりに年間100勝を達成[11]。2016年と2017年はキタサンブラックとコンビを組んで計GI6勝を挙げ、同馬を2年連続年度代表馬に導くなど大舞台で存在感を示した[70][71]。2018年9月29日、阪神競馬場で行われた芦屋川特別でメイショウカズヒメに騎乗して勝利し、JRA通算21235回目の騎乗で前人未踏のJRA通算4000勝を達成した[4]。次なる目標を問われた武は、「明日のレースです。早く4001勝をしたいです」と笑顔で答えた[72]。
2019年3月15日、50歳の誕生日を迎え、50代に突入[73]。10月20日、ワールドプレミアで菊花賞を勝利し、50歳7カ月6日での史上最年長菊花賞制覇を達成[74]。史上最年少と史上最年長で菊花賞を勝利した騎手となった[74]。また、この勝利で、昭和・平成・令和の3元号に跨いでGI競走を優勝した史上初の騎手となる[注 10]。11月23日、4年ぶり通算22度目となる年間100勝を達成、50代では増沢末夫、岡部幸雄に次ぐ史上3人目の記録となった[75]。11月30日、JRA年間勝利数を104とし、岡部幸雄が保持していた50代騎手の年間最多勝記録を更新[76]。最終的に年間111勝まで記録を伸ばし、騎手リーディング3位に入る活躍を見せた[77][68]。2020年11月15日、2年連続・通算23度目となるJRA年間100勝を達成[78]。12月12日、JRA年間勝利数を112とし、前年に自身が記録した50代での年間最多勝記録を更新[79]。最終的には直近10年で最多の勝ち数となる115勝まで記録を伸ばした[80]。
2022年5月29日、第89回東京優駿をドウデュースで制し自身の所有していた日本ダービー最多記録を「6」に更新した。同レースでドウデュースの走破タイムは2:21.9のダービーレコードでの勝利になる。 今回の勝利をもって20代、30代、40代、50代の4代に渡って日本ダービーを勝利した事になる。53歳2か月15日での日本ダービー勝利はそれまでの増沢末夫の48歳7か月6日を塗り替えて史上最年長記録である[81]。
2023年2月4日、小倉1Rの3歳未勝利戦をスマートアイで制し前人未到のJRA通算4400勝を達成。この日は福永祐一の現役騎手として最後の小倉競馬場での騎乗日であった。
同年4月2日(54歳0ヶ月19日)にはジャックドールで大阪杯を制覇。これにより岡部の持っていた最年長GI勝利記録(53歳11ヶ月28日)を更新した[82]。
同年10月29日、東京競馬第5競走騎乗後の装鞍所で腹帯を外そうとした際に騎乗馬に蹴られて右脚を負傷し、以降の騎乗をキャンセルした。これにより第168回天皇賞(秋)はドウデュースに騎乗予定であったが乗り替わりとなった[83]。同年12月16日に復帰する[84]と、翌週12月24日、ドウデュースで第68回有馬記念に騎乗し1着となった。これにより池添謙一に並ぶ有馬記念最多タイの4勝目であり、同時に20代、30代、40代、50代の有馬記念制覇者となる。
※なおこの年表には騎乗成績以外の事柄も記述していく。
年度 | 1着 | 2着 | 3着 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 | 複勝率 | 表彰歴 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987年 | 69 | 63 | 57 | 554 | .125 | .238 | .341 | JRA賞 (最多勝利新人騎手) 中央競馬関西放送記者クラブ賞 |
1988年 | 113 | 92 | 68 | 669 | .169 | .306 | .408 | 史上最年少関西リーディングジョッキー |
1989年 | 133 | 114 | 80 | 726 | .183 | .340 | .450 | JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝) |
1990年 | 116 | 118 | 75 | 723 | .160 | .324 | .427 | JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[185] ゆうもあ大賞[186] |
1991年 | 96 | 91 | 94 | 642 | .150 | .291 | .438 | 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[185] |
1992年 | 130 | 79 | 55 | 606 | .215 | .345 | .436 | JRA賞 (最多勝利騎手) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[185] |
1993年 | 137 | 137 | 84 | 699 | .196 | .392 | .512 | JRA賞(最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手) フェアプレー賞 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝) |
1994年 | 134 | 92 | 74 | 582 | .230 | .388 | .515 | JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[185] |
1995年 | 134 | 104 | 75 | 693 | .193 | .343 | .452 | JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[185] |
1996年 | 159 | 98 | 94 | 755 | .211 | .340 | .465 | JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[120] |
1997年 | 168 | 100 | 88 | 722 | .233 | .371 | .493 | JRA賞(最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞) フェアプレー賞 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝) |
1998年 | 169 | 105 | 83 | 749 | .226 | .366 | .477 | JRA賞(最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[185] |
1999年 | 178 | 142 | 96 | 809 | .220 | .396 | .514 | JRA賞(最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞) フェアプレー賞 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[185] |
2000年 | 130 | 70 | 76 | 552 | .236 | .362 | .500 | JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[185] |
2001年 | 65 | 47 | 54 | 355 | .183 | .315 | .468 | JRA賞 (最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手) フェアプレー賞 |
2002年 | 133 | 66 | 57 | 457 | .291 | .435 | .560 | JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞) フェアプレー賞 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[185] |
2003年 | 204 | 128 | 90 | 866 | .236 | .383 | .487 | JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝) |
2004年 | 211 | 128 | 101 | 912 | .232 | .372 | .482 | JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝) |
2005年 | 212 | 128 | 112 | 855 | .248 | .398 | .529 | JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝) Sports Graphic「Number」(文芸春秋社刊)年間MVP |
2006年 | 178 | 118 | 111 | 790 | .225 | .375 | .515 | JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝) |
2007年 | 156 | 109 | 78 | 713 | .219 | .372 | .481 | JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手・特別賞) 関西スポーツ賞 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[137] |
2008年 | 143 | 89 | 65 | 653 | .219 | .355 | .455 | JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手)[137] 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[137] |
2009年 | 140 | 106 | 91 | 768 | .182 | .320 | .439 | JRA賞 (最多賞金獲得騎手)[137] 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[137] |
2010年 | 69 | 47 | 39 | 413 | .167 | .281 | .375 | フェアプレー賞[137] |
2011年 | 64 | 70 | 66 | 635 | .101 | .211 | .315 | 優秀騎手賞(賞金獲得部門) |
2012年 | 56 | 61 | 44 | 591 | .095 | .198 | .272 | フェアプレー賞[137] |
2013年 | 97 | 62 | 58 | 649 | .149 | .245 | .334 | JRA賞 (特別賞)[187] フェアプレー賞[188] 関西競馬記者クラブ賞[189] |
2014年 | 86 | 87 | 64 | 672 | .128 | .257 | .353 | |
2015年 | 106 | 89 | 65 | 763 | .139 | .256 | .341 | |
2016年 | 74 | 89 | 77 | 667 | .111 | .244 | .360 | |
2017年 | 82 | 86 | 63 | 605 | .136 | .278 | .382 | ロンジンIFHA国際功労賞[190] |
2018年 | 76 | 65 | 75 | 554 | .137 | .255 | .390 | JRA賞 (特別賞)[187] |
2019年 | 111 | 89 | 68 | 659 | .168 | .303 | .407 | 優秀騎手賞[191] |
2020年 | 115 | 103 | 60 | 667 | .172 | .327 | .417 | 優秀騎手賞 |
2021年 | 75 | 62 | 66 | 521 | .144 | .263 | .390 | |
2022年 | 73 | 81 | 67 | 600 | .120 | .257 | .368 | フェアプレー賞 |
2023年 | 74 | 61 | 46 | 505 | .147 | .267 | .358 | フェアプレー賞 |
中央 | 4466 | 3376 | 2716 | 24351 | .183 | .322 | .434 |
出典:武豊オフィシャルサイト、競馬予想のウマニティ、弐段逆噴射
(斜字は地方GI・JpnI、太字は海外GI、*印はJpnIを指す。)