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日本の実業家 ウィキペディアから
金子 真人(かねこ まこと、1945年3月15日 - )は、日本の実業家、馬主。株式会社図研の代表取締役会長、ハワイの会員制ゴルフ場「キングカメハメハ・ゴルフ・クラブ」のオーナーなどを務める。
機械メーカー勤務を経て、1976年に電子機器設計・製造関連ソフトウェア開発を主とする図形処理技術研究所(後の図研)を創業。一介のベンチャー企業から1994年には東証一部上場を果たし、CAD/CAMシステムを手がける企業として国内最大手[1]の存在に成長させた。
競走馬の馬主としては、中央競馬で2005年に1984年のシンボリルドルフ以来となる無敗の三冠馬となり、最終的にGI7勝を挙げて殿堂入りしたディープインパクトなど数々の活躍馬を所有。個人馬主としては初の記録である旧八大競走完全制覇、日本のみならず世界初の白毛馬によるGI競走制覇を達成している。
1968年に早稲田大学教育学部数学科を卒業後[2]、設計製図機械を製造する武藤工業に入社[3]。当初は希望と異なる営業部に配属されたが、入社初年度から全国支店のセールスコンペでベスト10に入るなど優秀な営業成績を挙げる[3]。しかし単調な営業の仕事に嫌気が差し、間もなく辞表を提出したが、専務直々に慰留されてコンピュータ開発部門への転属が叶った[3]。当時の武藤工業の製図機械はアナログによるものだったが、コンピュータによる自動製図機械の開発にも乗り出しており、金子も技術者としてこれに携わり、造船・地図作成用の自動製図機の商品化に成功した[3]。
その後、金子は販売した製図機の技術指導のため全国の取引先を回っていたが、機械(ハードウェア)をより効率的に運用できるソフトウェアを求める取引先に対し、会社は「ソフトウェアはサービス」であるとして、そうした要求を軽視しており、金子はその姿勢に疑問を抱き始める。そうした最中の1975年、晴海で行われたビジネス展示会を訪れた金子は、アメリカ合衆国の企業が出展した集積回路製図用のCAD/CAMシステムの精巧さに驚愕する。金子は自社でもシステム開発に乗り出すよう訴えたが容れられず、独立してソフトウェア開発の会社を興すという考えに至った[3]。そして1976年11月、志を同じくした社内の部下4人と共に武藤工業を退社[3][2]。同年12月17日、神奈川県横浜市に「図形処理技術研究所」を創業した[3][2]。この社名はハードウェアとしてのコンピュータではなく、処理技術、つまりソフトウェアを開発する企業であるという明確な意図が込められていた[3]。
ソフトウェアは成長の端緒についたばかりの新興産業であり、その先行きは極めて不透明であったことから、引き抜いた社員については家庭を守る責任のない独身者を選んだという[3]。当初の社屋は神奈川県横浜市磯子区に見出した塗装店の2階にあった[3]。金子は社員らと中古の印刷機で刷ったホチキス留めの事業説明書を携えて会社回りを続けたが、CAD/CAMシステムについての社会的認知は乏しく、最初の半年ほどは全く相手にされなかった[4]。武藤工業で築いた人脈も「武藤工業の金子真人」ではなくなったことで役に立たなかったという[4]。
400にも上る会社から断られ続けた末、電子回路の焼き付け原版を製造する中堅企業・進映社よりはじめての発注を取り付け、半年後に納入。この「CR-1000」は日本国内で製造された最初のCAD/CAMシステムであった[4]。そして進映社を通じて、図形処理技術研究所の名はエレクトロニクス系企業の間で徐々に広まっていった[4]。それでも当時は多くの企業にとって「聞いたこともない会社」であり、両者の接触は、企業が信用調査を依頼した興信所からの面接要求という地点からの出発であった[4]。金子は松下電器産業、ソニーといったエレクトロニクス先進企業の技術者に接触して「CR-1000」についての意見を求め、汲み取ったアドバイスを基に、1978年6月に改良版「CR-2000」を発売。このシステムはケンウッドをはじめ、意見を求めた松下、ソニーにも採用されたことで大きな注目を集め、図形処理技術研究所の経営基盤確立に大いに貢献、10年以上に渡り主力商品であり続けた[4]。
1980年頃からは「CR-2000」を擁してアメリカ進出を図り、製品開発に使用していたプロッターを生産するカルコンプ日本支社長の勝部迅也を営業本部長として迎え入れる。そして勝部を通じてヒューレット・パッカード (HP) との業務提携を取り付け、アメリカでの販路を開拓した[5]。1983年にはより積極的な販路拡大に取り組むため、現地法人「ズケン・アメリカ」を設立。1985年には日本でも商号を「図研」に改めた[3]。1988年には、アメリカで広く普及していたオペレーティングシステム (OS)・UNIXを用い、移植性の高いプログラミング言語・C言語で開発した「CR-3000」でIBMとのOEM契約(相手方ブランドによるソフトウェア販売)を勝ち取った[5]。
その後も図研は順調に成長を続け、1991年10月、株式公開し東証二部上場を果たす。このとき金子は約400人の社員に50株ずつを無償で贈与した[6]。さらに1994年9月には東証一部上場企業となった[7]。
2004年、ハワイのマウイ島にあるゴルフ場を1250万ドルで購入し、4000万ドルをかけて改装し、愛馬の名前を冠した「キングカメハメハ・ゴルフ・クラブ」をオープン(開業は2006年)[8]。
2020年4月1日、図研の社長を退任し、代表取締役会長に就任。
金子は競走馬の馬主としても著名である[9]。1990年代の半ばに知人から馬を持つことを勧められ[10]、ノーザンファームの吉田勝己を紹介されたのがきっかけとなった。金子は吉田の意欲と現代感覚に「パートナーとして信じられる」と感じ、また牧場の広大な風景にも感銘を受け、馬主として競馬界に参入した[11]。勝負服色は図研のコーポレートカラーを用いた「黒、青袖、黄鋸歯形」[11]。馬主名義は2005年秋ごろより個人名から「金子真人ホールディングス(株)」としている。
牡馬のディープインパクト、牝馬のアパパネと牡牝の中央競馬三冠馬を一頭ずつ所有しただけでも、個人の馬主としては日本の競馬史上他に例を見ないが、加えて「競馬の祭典」たる東京優駿(日本ダービー)をディープインパクトに加え、キングカメハメハ、マカヒキ、ワグネリアンで4回優勝。その他GI・JpnIに優勝したものに限ってもブラックホーク、トゥザヴィクトリー、クロフネ、ユートピア、カネヒキリ、ピンクカメオ、ラブリーデイ、ソダシ、アカイトリノムスメといった馬を所有。2015年にはサンデーレーシングに次ぐ史上2例目、個人馬主としては初の記録である旧八大競走とジャパンカップの完全制覇を達成している[12]。また、自ら所有した馬の子も積極的に所有しており、上記の活躍馬のうちアパパネ、マカヒキ、ワグネリアン、ラブリーデイ、ソダシ、アカイトリノムスメは父母ともに自らの所有馬である[注 1]。
馬は自ら選んで決めるといい、「おまえに馬が分かるかと決めつけられればそれまでだけど、私も競馬にはまって、だんだんと深みにはまった。わからないことをわかろうとしたいというのが深みで、そうでなければつまらない」と述べている[11]。自身の馬選びは「目」から始まるといい、「目のいい馬は案外見つけづらいんです。ところが、目(目つき)の悪い馬はよくわかる。そういう馬はどんなに血統や馬体が良くても手を出しません。馬を見るときに気を付けているところをしいて挙げるなら「"目"」ですね」と述べている[13]。
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