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日本の法律 ウィキペディアから
原子力基本法(げんしりょくきほんほう、昭和30年12月19日法律第186号)は、原子力の研究、開発及び利用の促進に関して定めた日本の法律。
この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。 |
科学技術や原子力問題には、前からひじょうに関心を持っていました。一つは、私の家内(引用者注:妻の中曽根蔦子)の親父の小林儀一郎が地質学者でしたから、日本でのウラニウム(引用者注:ウラン)の埋蔵の可能性や、アメリカ、ドイツでの原爆製造のことや、核分裂理論などいろいろ聞かされていた。あの頃は「マッチ箱爆弾」と呼んでいましたね。
広島に原爆が投下された四十五年八月六日は、偶然、高松にいたのですが、西の空にものすごい大きな入道雲のようなものがもくもくと上がるのが見えました。高松とは一五〇キロ前後離れているんですよ。それでも大きな白雲がはっきりと見えました。それ以来、原子力というのが気になっていたんです。
(引用者注:1953年に)ハーバード大学に行った時もゼミナール終了後、原子力施設を見に行ったし、ニューヨークでは財界人からもいろいろ話を聞きました。ちょうどアイゼンハワー(引用者注:アメリカ大統領)が「アトム・フォー・ピース」といい出して、アメリカに原子力産業会議ができて、軍用から民間の平和利用に移行するときでした。それで、これはたいへんだ、日本も早くやらないと大変なことになるぞ、とサンフランシスコに戻って、バークレーのローレンス研究所にいた理化学研究所の嵯峨根遼吉博士に領事公邸にきてもらって二時間くらい話を聞きました。嵯峨根さんはひじょうにいい助言をしてくれました。
一つは、「国家としての長期的展望に立った国策を確立しなさい。それには法律をつくって、予算を付けるというしっかりしたものにしないと、ろくな学者が集まってこない」と。それから、一流の学者を集めるにはどうしたらいいかとか、そういう話を聞いて帰ってきました。
当時、(引用者注:日本)学術会議では、原子力平和利用の研究をやろうという動議を伏見康治さんや茅誠司さんが二回くらい出していましたが、いつも否決されていました。共産党系の民主主義科学者協会(民科)が牛耳っていました。それで、こうなったら政治の力で打破する以外にない、これはもう緊急非常事態としてやらざるを得ない、そう思いましたよ。研究開始が一年遅れたら、それは将来十年、二十年の遅れになる。ここ一、二年の緊急体制整備が日本の将来に致命的に大切になると予見しました。そしてその打開はあんな民科の連中なんかに引きずり回されるような学会では不可能だと。
そこで、いろいろ勉強して、川崎秀二、椎熊三郎、桜内義雄、稲葉修、斎藤憲三君らの支持を得て、二億三五〇〇万円の予算を組みました。当時、予算は自由党が組んでいましたが、改進党の賛成がないと成立しないわけですよ。それで、予算審議がはじまって三月の成立直前に、突如、修正案を出したわけです。(中略)政府も、経済企画庁を中心に石川一郎さんを会長に原子力平和利用懇談会をつくって、予算をどう消化するかという議論をはじめたんです[1]。
第5次吉田内閣では、予算は自由党が組んでいたが、少数与党だったので、改進党の賛成が不可欠だった。1954年3月2日に、中曽根が中心となり、原子力研究の調査費として、ウラン235にちなんだ2億3500万円の予算を計上した。同時期には第五福竜丸事件が発生した。予算案が提出されると、新聞、ラジオは「原爆をつくるんだろう」「無知な予算だ」「学術会議に黙ってやった」などと非難ごうごうだった[2]。それでも、中曽根は新聞への寄稿や座談会を通じて、原子力開発の必要性を説いた[3]。
1955年8月8~20日に、中曽根はジュネーブで原子力平和利用国際会議に参加した。これについて、中曽根は次のように回想した。
政府も経済企画庁の中に原子力担当課を設置して、翌五五年八月にジュネーブで国際連合の第一回原子力平和利用国際会議が開かれたときにも代表団を送ることができました。駒形作次博士をトップに代表団を組んで、私や前田正男(引用者注:自由党)、志村茂治(引用者注:左派社会党)、松前重義(引用者注:右派社会党)さんが顧問になっていっしょに行きました。外国での原子力事情が進んでいるのを知って、これはたいへんだなあと思いました。議長をしたインドのバーバラ博士は「トリウムを使って研究をはじめている」といっていましたね。
それから、フランス、イギリス、アメリカ、カナダの施設を四人で見て回り、日本の原子力立法をどういうふうにしようと相談しながら帰ってきたが、これはひじょうにいい勉強になりました。というのは、視察の先々でも「こんな真面目な、いい調査団はない」といわれましたよ。というのは、昼間は施設を見て回り、夜はみんなステテコ姿でベッドの上に座って、どういう法律をつくろうかと議論し、ノートなんかとっていたわけですから。まず燃料をどう規制するか、それから炉をどう規制するか、アイソトープは、国際協定は、そして、基本法をどういうふうにつくるか、原子力委員会をどうするか、(引用者注:国家行政組織法の)三条委員会か八条委員会にするのかどうかなど具体的問題を毎晩議論しました。また、その原動力となる科学技術庁を設置しようと思って、その法案も協議していた[4]。
中曽根は8月20日に、「我等四党代表は原子力開発に関しては全く超党派的に協力する旨の約束をなし各党に実現することを誓約せり」と、高碕達之助・経済企画庁長官に書簡を送った。中曽根は、8月下旬から欧米諸国を視察し、9月15日に帰国した。帰国後は、衆参合同の超党派委員会である原子力合同委員会の委員長に就任した。12月19日に原子力基本法を議員立法で成立させた。中曽根は「ミスター・アトム」の異名で呼ばれた[5]。
原子力基本法と同時並行して、原子力委員会設置法、核原料物質開発促進法、原子力研究所法、原子燃料公社法、放射線障害防止法、科学技術庁設置法なども制定された。中曽根いわく、「役人はいっさい使わなかった。衆議院の専門委員と衆議院の法制局の参事を使って純粋の議員立法を目指しました」「たいへんでしたよ。八本前後の法案を一挙に国会に提出したわけですから」。原子力基本法の制定では、平和利用の定義が問題となり、「たとえば原子力が普遍化して輸送船にも一般的に使われるようになった場合は軍事用の潜水艦にも使っていいという解釈を残しておいた」。中曽根は、原子力関連法制の後援者として、三木武吉と岩淵辰雄の名前を挙げた[6]。
日本学術会議は、1954年春の第17回総会で、原子力問題処理の原則として、「(1)すべての事柄を公開で行うこと、(2)日本の自主性を失わないようにすること、(3)民主的に取り扱い、かつ民主的に運営すること」を決定した。これらは、「自主、民主、公開の三原則」と総称され、この勧告が、原子力基本法に取り入れられた[7]。もっとも、中曽根の回想では、この原則は社会党が主張していたとしている。「平和利用はもちろんだが、民主とか自主というのはどういう意味だ、公開はどの程度か、産業秘密もある」などと議論したようだ[8]。
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