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光GENJI

日本の男性アイドルグループ (1987-1995) ウィキペディアから

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光GENJI(ひかるゲンジ)は、1987年8月19日から1995年9月3日にかけて活動していた、日本の7人組男性アイドルグループ。通称「最後のスーパーアイドル」[1]

概要 別名, 出身地 ...

ジャニーズ事務所初のローラースケートパフォーマンスで一世を風靡した。末期にメンバー2人が脱退してから解散までの約1年間は光GENJI SUPER 5(ひかるゲンジスーパーファイブ)として活動した[2][3][4]

キャッチフレーズは「超新星からのメッセージ」[5]

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特徴

颯爽としたローラースケートパフォーマンスやアクロバットがコンセプトであり、光り輝くような元気全開のフレッシュさ・新鮮さを前面に打ち出していた[5][6][7]。『STAR LIGHT』や『パラダイス銀河』など、光・星・銀河・宇宙などファンタジーをテーマにした曲が顕著であった[8]

メンバー

光GENJIが結成された1987年の時点で10代後半だった2人が「光」(ひかる)、10代前半だった5人が「GENJI」(ゲンジ)となった。 以下のメンバーのうち、解散後も最後までジャニーズ事務所(現:SMILE-UP.)に所属し、2024年4月以降他のSMILE-UP.所属者とともにSTARTO ENTERTAINMENTに移籍しているのは内海光司と佐藤敦啓(現:佐藤アツヒロ)の2人のみである[9][10]。大沢樹生と佐藤寛之は1994年8月の脱退時に退所。諸星和己は1995年9月の解散時に退所。山本淳一と赤坂晃はグループ解散後もジャニーズ事務所に所属していたが、山本は2002年2月に退所。赤坂は2007年10月に覚醒剤所持の事件を起こし逮捕[注 1]、ジャニーズ事務所を懲戒解雇された。

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来歴

要約
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結成〜初出演

1987年3月25日に光GENJIの前身である「初代GENJI」が結成され、田代秀高・諸星和己・佐藤寛之・佐藤敦啓がメンバーとなる。

1987年4月5日、「GENJI」が『全国歌謡選抜 サブロー・シローの歌え!ヤング大放送』(TBS系)のレギュラーになり、初のオリジナルソング「今、君と歌いたい」をオープニングで毎回披露。その後、田代秀高が脱退、山本淳一が加わり、更にその後、赤坂晃が参加して5名になる。

1987年6月25日に「GENJI」と、内海光司、大沢樹生から成る「光」が合体し、「光GENJI」が結成された[19]

デビュー〜1980年代

1987年8月19日にチャゲ&飛鳥(現:CHAGE and ASKA)が楽曲提供した「STAR LIGHT」でレコードデビュー[20]。キャッチフレーズは「超新星からのメッセージ。」[5]ローラースケートを履いて踊り、バック転などもこなすアクロバティックなパフォーマンスがうけ、デビューしてすぐに人気が上昇[3]。爆発的なブームを生み、「最後のスーパーアイドル」と呼ばれ、その人気は経済誌などでも社会現象として取り上げられる[3]。同年、テレビ東京系『あぶない少年』でドラマ初主演を務める[1]

1988年12月31日、「パラダイス銀河」で第30回日本レコード大賞を受賞。また、同年のオリコン年間シングル売上第1位~3位を光GENJIが独占し、1978年のピンク・レディー以来の快挙を達成した(ベスト10内には4曲ランクイン)。オリコン年間アルバム売上も第1位と第9位を獲得。

1990年代

1992年、 JOC日本オリンピック委員会広報アドバイザーに任命され、バルセロナオリンピックの応援ソングとして「リラの咲くころバルセロナへ」をリリース。

1993年に『勇気100%』をリリースし、アニメ『忍たま乱太郎』の主題歌に起用され、同曲は後にYa-Ya-yahHey! Say! JUMPNYCSexy Zoneなどのジャニーズグループにカバーされるようになる。

1994年1月、バルセロナ夏季五輪に引き続き、リレハンメルオリンピックの応援ソングとして「BRAVO!Nippon〜雪と氷のファンタジー〜」をリリース。同年8月、大阪城ホールでのライブを最後に大沢樹生・佐藤寛之が脱退し(同時にジャニーズ事務所も退所)、「光GENJI SUPER 5」にグループ名を変更する[21]

解散

1995年6月、夏のコンサートツアーを最後に活動を終了する事が発表される。同年9月1日、かつてレギュラー出演していた『ミュージックステーション』(詳細後述)に出演、これが光GENJI SUPER 5として最後のTV出演となる[注 2]。スタジオにファン数百人を入れ、歴代のシングルメドレーを披露し、最後に「Graduation」を熱唱。曲の終わりに、メンバー全員がローラースケートを脱いで、ステージ中央に置いた。

1995年9月3日、名古屋市総合体育館・レインボーホール(現:日本ガイシホール)でのライブを最後に、「メンバー全員卒業」(正確には解散)した[1][22]

解散後

  • 解散後、諸星和己はジャニーズ事務所を退所。内海光司、山本淳一、赤坂晃、佐藤アツヒロの4人がその後もジャニーズ事務所に留まっていたが、2002年2月28日に山本淳一がジャニーズ事務所を退所。2007年10月29日に赤坂晃が覚醒剤所持の事件によりジャニーズ事務所を懲戒解雇。以降、最後までジャニーズ事務所に所属し、2024年4月以降他のジャニーズ事務所(この時点でSMILE-UP.に改名)所属者とともにSTARTO ENTERTAINMENTに移籍しているのは内海光司、佐藤アツヒロのみとなっている。
  • 2015年9月30日放送の『ナカイの窓』「伝説のグループSP」に佐藤アツヒロが出演。司会の中居正広から「歴代上、一番すごかった」「ハンパじゃねぇな」、またヒロミからは「俺が見た中では一番すごかった」と紹介された。
  • 2016年11月27日、同日放送のクイズ☆スター名鑑内で放送されたローラースケート対決企画に諸星和己、大沢樹生、山本淳一、佐藤寛之の4人が揃って出演。
  • 2017年にデビュー30周年を記念した再結成を計画(年内限定ツアー)し、メンバー7人の会合を行う。その席にはかつて多くの楽曲を提供してきたASKAも呼ばれ新曲制作を依頼されていたが、所属事務所間の問題から頓挫し白紙となったことを、ASKAが2019年にブログで公表している[23]
  • 2020年12月、内海光司、佐藤アツヒロが2人で大阪、東京において計8公演のクリスマスイベントを行う。2021年12月にも大阪でイベントを開催した。
  • 2020年12月25日、佐藤寛之がYouTube「SATOH HIROYUKI OFFICIAL YouTube CHANNEL" ひろチャン "」を開設した。
  • 2021年6月9日放送の『有吉の壁』に内海光司と佐藤アツヒロが出演。解散以来、初めて2人でテレビ番組で歌唱した。
  • 2022年3月30日からBS松竹東急にて内海光司と佐藤アツヒロによる旅バラエティ番組『こんなところでキャンパーズ!』が放送開始。2023年10月から再放送も開始する。
  • 2022年2月28日、山本淳一がYouTube「やまじゅんチャンネル」を開設した。
  • 2022年8月19日、光GENJIデビュー35周年を記念して、かねてより2人で活動していた内海光司と佐藤アツヒロが、正式に「U&S」を結成した。これを受けて、「U&S UpdateS LOVE TOUR 2022-2023」が開催され、計6都市でイベントが行われた。また、同イベントにおいて、新曲『UpdateS』が初披露される。
  • 2023年3月22日、内海光司と佐藤アツヒロが『日テレ系音楽の祭典 Premium Music 2023』にて、ジャニーズJr.のHiHi Jetsと、光GENJIの名曲『ガラスの十代』でローラースケートコラボレーションを披露。
  • 2023年5月29日、佐藤寛之&山本淳一によるユニット「ふたつの風」が結成された。
  • 2023年6月28日、『テレ東音楽祭2023夏』において、内海光司と佐藤アツヒロからなるU&Sと、平家派HiHi Jetsのコラボが実現し、光GENJI時代の名曲『ガラスの十代』『STAR LIGHT』『剣の舞』を披露した。
  • 2023年8月18日、光GENJI35周年イヤーを締めくくる『内海光司と佐藤アツヒロのオールナイトニッポンGOLD』の放送において、U&Sの楽曲『UpdateS』の配信リリースが発表された。
  • 2023年8月25日、ふたつの風が12月5日にrock fieldレーベルよりデビューシングル『君と物語』のリリースを発表。
  • 君と物語はオリコン週間ランキングにて11位にランクイン[24]
  • 2023年9月16日、ふたつの風が2024年1月に東京、名古屋、大阪でツアーを初開催することが発表された。ツアータイトルは「どこかで君と物語(仮)」[25]
  • 2023年9月28日、大沢樹生がYouTube「すずらん組×大沢樹生」を開設した。
  • 2023年10月1日、U&Sが10月5日にデジタルデビューシングル『UpdateS』の配信リリースを発表。[26]
  • UpdateSはBillboard Japan download ランキング にて38位にランクイン[27]
  • 2025年1月5日より、佐藤アツヒロが光GENJIメンバーを訪れるドキュメンタリー番組『7 S.T.A.R.S. 〜7つの答え〜 佐藤アツヒロが繋ぐ光GENJIの現在』がWOWOWにて全7回にわたり放送された[28][29]
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概要

要約
視点

記録

  • 雑誌『明星(現:Myojo)』の歴史上最高の売上部数を記録したのは、光GENJIの絶頂期に当たる頃だった。その後、1990年代に入り光GENJIの人気がピークを過ぎてからは売上部数が落ち込み、1994年頃にSMAPが人気を獲得するまでの間『明星』は苦難の時代だった[30]
  • ラジオ番組においても来るはがきの枚数が記録的であり、ニッポン放送で放送されていた番組『GENJI GENKI爆発』では毎週10万枚超のはがきを集めた[31]。また、フジサンケイグループが企画製作した非売品ビデオ『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』[32]の10万本プレゼントには約250万通のはがきが集まった[注 3][33]

ミュージックステーションへの出演

1988年2月から1992年10月まで、テレビ朝日の音楽番組『ミュージックステーション』にレギュラー出演[注 4]していた。総出演数は234回であり、これは同番組のアーティスト別の出演回数記録としては圧倒的な出演数であり、いまだに破られていない。なお、2位はTOKIO(143回)、3位は(140回)でそれ以降も V6SMAPKinKi Kids……とジャニーズが上位を独占しており、これに続くのは、7位のAKB48(104回)、8位の浜崎あゆみ(89回)、9位のaiko(84回)である。

『ミュージックステーション』は『夜のヒットスタジオ』・『ザ・ベストテン』・『歌のトップテン』など他局の音楽番組に比べ後発であり、開始当初は視聴率が悪く非常に苦労していた。そうした中、その頃の音楽番組の1つ『ザ・ベストテン』が成功した理由の一つにキャンディーズの解散を毎週放送で取り上げたことがあった点を受け、『ミュージックステーション』では光GENJIを毎週出そうということになり、レギュラーになった[34]

労働基準法

デビュー当初、赤坂晃佐藤敦啓労働基準法(第61条)により、原則夜8時〜翌朝5時はテレビ・ラジオの生出演ができないとされていたため、当初は「歌の部分のみ7人で事前収録する」「メンバー5人が歌っている生映像と出演できない2人の写ったVTRを交互に流す」「当時年上でバックダンサーの中居正広木村拓哉が代わりに入る」等の工夫を凝らしていた。しかし、実際には当時出演していた『ザ・ベストテン』や『歌のトップテン』などの生放送番組にメンバー全員で出演したときも何度かあり、夜8時以降に出演したり出演しなかったりという状況が続いていた[注 5]

この状況に関して、当時14歳の佐藤が深夜の歌番組に出演した疑いで、労働基準監督署が1988年6月にジャニーズ事務所へ調査に入った際、「報酬面」「税法上の取り扱い」「事業所所得として課税されている」などの実態を確認して考察した結果[35]、メンバーは「労働者とは認められない」(=労働基準法は適用されない)という判断を下した[35]

さらに光GENJIの出演に関する諮問があって、国会や関係機関で議論が行われ、芸能人において一定の条件(他人によって代替できない、“人気”等当人の個性が重要な要素となっている、契約形態が雇用契約でない、など)を満たした者は「表現者」とみなし、労働基準法を適用しない(端的には「『不人気な者』は労働者とみなす」)という結論になり、1988年(昭和63年)7月30日に通達(いわゆる「芸能タレント通達」「光GENJI通達」昭和63年7月30日、基収355号)が出され[4]、それ以降は夜9時以降であっても、メンバー全員で出演することが多くなった。

解散した理由について

卒業について、諸星は後年「(最後の方は)仲が悪かった」「みんな疲れていた」と語っているほか[22]、2015年11月に出演した番組で当時の状況について山本が「当時のアイドルは『20代後半になったら、それぞれの道に行く』みたいなスタイルがあり、年長者のメンバーが独立に進みたがっていた[注 6]」という内情を明かしている[21]

また後年、光GENJIが短命に終わった理由として、下記のような理由がビジネスコンサルタントの専門家からは挙げられており、後のジャニーズ事務所のマーケティング戦略においての課題とされたことが指摘されている[2]

  • 社会現象になるほど歌が爆発的に売れすぎて仕事に奔走することになり、トークや演技などの実力を磨く暇がなくなってしまったこと。
  • 歌番組中心だったためメンバー間で仕事を割り振ることができず、メンバー全員が常に一緒でフル稼働する必要があり、充分に休むことができなかったこと。
  • 常に一緒に仕事をしている上に、休息する暇がなくなったことで精神的なストレスが溜まり、メンバー間の仲に悪影響を与えたこと。
  • 歌番組中心に出演したため、メンバー個々で活動できず、バラエティー番組やドラマなどで活躍できなかったこと。
  • ザ・ベストテン』(1989年終了)、『歌のトップテン』(1990年終了)、『夜のヒットスタジオ』(1990年終了)といった歌番組がなくなり、『ミュージックステーション』(1986年開始)、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(1994年開始)などの音楽バラエティーが主流となったこと。
  • 正統派のアイドルだけで構成され、ボケ役・ツッコミ役・イジラレ役・仕切り役などの個性を持ったメンバー、いわゆる「異色のアイドル」がいなかったこと。

この他にも、ジャニーズの先輩である元フォーリーブス北公次が刊行した著書『光GENJIへ』による影響も大きいとされている[36]

その反省を活かし、SMAPはアイドルでありながら、お笑い芸人さながらにコントを行ったりするなど個性を前面に出すグループとなり、2016年まで存続した。他にも、TOKIOは「力仕事をこなしながら活動するグループ」、V6は、「年少組と年長組の個性をそれぞれ出すグループ」といったように、ジャニーズアイドルも個性を出すグループが続くようになった。

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ディスコグラフィ

要約
視点

光GENJI

シングル

☆オリジナルアルバム収録(★HEART'N HEARTS内ベスト)、■アルバム未収録、○●オリジナルアルバムに別バージョンで収録、△▲光GENJI関連名義のベストアルバムに収録(●▲「荒野のメガロポリス」「PLEASE」は特殊な構成のため、各曲の項目を参照)

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オリジナル・アルバム

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ベスト・アルバム

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企画アルバム

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ビデオ

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光GENJI SUPER 5

シングル

△ベストアルバムに収録、■アルバム未収録

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アルバム

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ビデオ

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SAY・S

シングル

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ベスト・アルバム

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ビデオ

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AKIRA & KOHJI

シングル

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内海光司 & 山本淳一

映像作品

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参加作品

※=忍たま関連の作品にのみ収録。光GENJI関連の作品には未収録

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その他のアルバム

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未CD化楽曲

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タイアップ

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主な出演作品

バラエティ番組

テレビドラマ

連続ドラマ
単発ドラマ

映画

ラジオ

CM

NHK紅白歌合戦出場歴

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受賞歴

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関連項目

脚注

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